井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

また国連の嫌がらせ

2018-11-20 | 日記

国連がまた嫌がらせをして来た。

共同通信によると、《国連の強制的失踪委員会は19日、日本に対する審査の最終見解を公表した。旧日本軍の従軍慰安婦問題について、元慰安婦らへの補償は十分とは言えず「最終的かつ不可逆的に解決した」との日本政府の立場に遺憾の意を示した。最終見解に法的拘束力はない。》

だそうで、無知なことこの上なくしかし無知ゆえに許されるものではないことは杉田論文と同じことで罪もないものを血祭りに上げる悪質さ。

ジュネーブ国際機関日本政府代表部の担当者は「最終見解は誤解や偏見に基づく一方的なもので極めて遺憾だ」抗議をしたそうだが、抗議など「その気で反日をして来る」連中に、何の力もない。
分担金を支払うことを辞めるぐらいの気概を見せよ。

「強制的失踪委員会」という訳がどの程度正確なのか知れぬが、北朝鮮に依る拉致についてはなぜ触れぬ。

国連の最終見解などに何の強制力もなく、ただの嫌がらせに過ぎない。背後には某国と某国がいる。

日本は多大なる分担金を支払わせられながら、大した額を分担しているわけでもない国にやられ放題。アメリカに倣って分担金をストップ、国連が態度を正しくするまで凍結せよ。

国連は戦後73年、いまだに日本を敗戦国として「敵国条項」扱いしていることを日本人は、惨めに思い知ったほうがいい。

屈辱をうけながら何の分担金か。
理不尽な難癖をつけて来る某国と某国の連中の反日の巣窟である側面を、国連は持つ。

 

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本郷和人教授が語る日本伝統としてのLGBT

2018-11-19 | 日記

最新号の「週刊新潮」に本郷和人、東大教授が年少者向けに著した「やばい日本史」が
取り上げられていて、面白かった。

年少者向けなので、書けなかった部分を本郷教授は「新潮」で語っていらっしゃる。
老いさらばえた清少納言が、押し入って来た政敵に向かい「あたしは、女だよ、殺さないで!」
と叫んで、着物の裾をめくりあげ秘所をさらしたなどというくだり、笑った。
枕草子で「ブサイクな男女が昼間っからいちゃいちゃしてるのは気持ち悪い」などと
書き散らし、身分の低いものを罵倒した納言が晩年は落ちぶれ果て、陰部を
見せなければ男か女か判らないほど着物も粗末で容姿も凋落、という
ことで因果応報。眼の前で兄が殺されたとなれば、納言としては
必死に、「見てみて、ちんちんついてないし」と裾をめくったのだろうが、
哀れではあろう。

本郷教授はまた「歴史を知らないと、おかしな歴史観を信じて恥ずかしい主張をする
ことになる」とLGBT問題における杉田水脈氏を言外に軽く一蹴。

「LGBTは日本の伝統的な家庭観・男女観を壊すと言って毛嫌いしている
人たちがいますが、日本の伝統では男と男の恋愛は普通のことだったんです」

として、武田信玄、藤原頼長らの武将たちの例を引き、彼らは妻子もいて
側室まで持っていたことに触れて子の有る無しで「非生産的」と決めつけた
杉田論文を笑い、
武士道においては「魂のつながり」として男女の恋愛より崇高であった、と述べられている。

当時は、ごく当たり前のことでBGという区分けなど存在もせず、
それゆえ頼長に到っては、男との情交をあっけらかんと
日記に書き記していて、ここまで書くかと現代の目で見れば
呆れるほど。有力武将の日記ゆえに、いずれ人目に触れるかもしれぬのに、
悪びれてもいず、無邪気な書きっぷりである。

武将のみならず、庶民の間でもそうであったのは陰間茶屋の隆盛で
明らかであるが、フィクションで言えば一例が西鶴の「好色一代男」であり、
世之介が相手にした女が、3,742人、男が725人。
と、記されていて物語の書き手としてのセンサーが、当時の実情を数値化した
ものではあろう。

東大にいらした上野千鶴子教授の研究室を訪れた時、浮世絵の
コレクションを見せて頂いたが、男女が7,男男が3ぐらいの
割合で、まぁ現実にもこの比率だったかなと思ったことを
覚えている。現代でもそれはさして変わってないように思う。
あの時代のように、当たり前のこととしての容認度が薄いので
表に出にくいだけのことで。

明らかなタブー視は、敗戦後に流入して来たアメリカンピューリタニズムに
よる。GHQ押し付け史観の一環ではあった。
戦前は、まだ日本は同性間のそれへの禁忌はなく、西郷どんの
男性僧侶との心中未遂事件などが有名である。
史料を紐解けば平安時代にまで遡る。

宗教的教育、その時代時代で移ろう「常識」の先入観で
タブーとなっているが、それらは世に連れ時に連れ変動するもので
絶対的価値観ではない。世界の歴史も同じことで、ギリシャの
兵士たちやプラトンを例に引くまでもなかろう。

LBG拒絶は個人的自由だが、それをとりわけ政治家が表立って表明するのは、
よくない。批判するなというのではない、批判する前に学びなさい、
でないとみっともないことになるのだよ、と杉田氏には
忠告しておきたい。この問題に関して敵も味方も、左翼も
保守も関係ないのだ。ただ、一連の騒動は教養の欠如がもたらした
茶番劇なのだ。賛美も過度の擁護も無用だが、
事実を事実として見ていない者が、論文は笑止でおこがましい。
その論文を政争の具に変換しての一連の騒ぎも、ま
た。

無知がもたらしたカラ騒ぎが落ち着いた今、ふと書く気になった。

 

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松茸

2018-11-18 | 

松茸を衝動的にネット通販で申し込んでしまった。
国産であることを確かめてからである。

松茸ご飯も土瓶蒸しも作る気はないので、
焼いてひたすら食することにする。
食べ切れなければ、冷蔵か冷凍。

贅沢をしたいというよりも、季節の旬が欲しいので
春先になれば、デトックスのためにタラの芽やフキノトウを
口に入れ、ほろ苦さに満足する。春迎えの小さな儀式
みたなものだ。

松茸は香りと食感のみに注意が行き、栄養価を考えたことが
ないので調べてみたら、ナイアシンその他や食物繊維を
含んでいるそうな。

自然に生い立つものに無駄はなかろう。毒きのこの
存在がその論法から抜け落ちるが。

しかし、松茸の栄養素はしじゅう口にするものでもないので
さして関係のないことかもしれない。

このところ、韓国絡みのニュースがひしめいているのだが、
書く気になれない。あちらの次から次に繰り出す言い分があほらし過ぎて、
軽い虚脱状態。

旭日旗、原爆、東北大震災侮蔑に、慰安婦合意のひっくり返し・・・・
徴用工ネタに飽きられたら、そろそろ大震災における
朝鮮人大虐殺とやらをまた蒸し返すのかもしれない。

明治神宮の火災、付け火かどうかまだ判らないらしいが、
人けのない倉庫ならそれが当然疑われる。

犯人が特定されたわけではないが、誰の頭にも
ある犯人像がよぎったのではないか、それが
当たっていようと外れていようと、そう思われても
仕方のない状況ではある。

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「七人の侍」

2018-11-17 | 映画

海外で日本映画のトップに上げられる「七人の侍」を観た。

唸った。何という完成度。シナリオ、役者、音楽、演出は言わずもがな。
完璧。

折々に息抜きの笑いを散りばめているのだが、しかし余りの緊密度と面白さに、息苦しくなるほどで私は数回映像を止めて、休憩したぐらいだ。

1954年(昭和29年)の製作で、私もさすがにオンタイムでは観ていないが、それでも相当若い時期に観て、しかし息苦しくなることもなく脳裏に残ったのは雨中の壮絶な戦いのシーンのみ。幼かったのだ。物語の緊迫度に加え、プロとしての分析でも見るのでその計算の巧緻に行き届いた様も、見事過ぎて欠点という一種のツッコミどころという余裕がないことも呼吸困難に陥った理由である。

幼い頃見落としていたのは若い武士と百姓の娘との情交のくだり。女がいつも添え物で、男の影にしかいないのが黒澤映画の特徴であるが、今回は違った。思春期を迎え異性への関心と性欲を体にみなぎらせた村娘が若い武士に迫るくだり、珍しく女のアップを使い息を飲んだ。

黒澤は偉大なアルチザンであるが、アーチストではないという三島由紀夫の批評(けなしているのではない)に与する私だが、娯楽も突き詰めればアートではないか、というのが作品を観ての感想だった。
そして何より、品格。下品を描いても、ゲスに堕ちぬのが品格であるが、黒澤映画に共通するのはその品性である。昨今の日本映画に決定的に欠落している所。

映像の物書きとして最盛期にあった頃、わりにしばしば問いかけられたのは「監督はやらないのか」であり、「朝起きが苦手だし、私には集団の統率力がない」とそのつど答えて来たのだが、思えば朝起きも統率もその気になって腹を据えれば出来ぬことでもなかろう。

私に決定的に欠けているのは画面を作り上げる「絵心」なのだ、と「七人の侍」という大傑作を前に改めて思い知ったことだ。絵コンテの一つも描けず監督は務まらない。

これからしばらく、ほぼその全てを観ている黒澤映画をもう一度見直して観ようと思う。
ただ、初期中期が黒澤映画のピークに達していて晩年に到るほど輝きが失せていた、という感想は変わらない気がする。技術は円熟して来るはずなのに、創り手としての生命力の衰えであり、こわいことだ。漫画家も命の衰えを迎えると絵が下手になると編集者に聞いて、唸ったことがある。単に手先のことではないのである。

それはおそらく文の書き手も同じこと。三島由紀夫もまた晩年に近い作品には、かつての漲るようであった輝きが褪せて来たと思う。

こんな天才と自らを並べる愚はしないが、しかし半端な物書きにも切実な問題ではあり、さればこそ「君の名で僕を呼んで」という見事なシナリオを書き上げた作家が90歳を超えていることが、心の支えなのだ。いつまで書き抜けるやら、ただ営々と言葉を磨き感性をみずみずしく保つ努力を続けるしかない。

最後に、「平和」と唱えつつ村人が9条を持ったとしたら野盗と化した野武士の狼藉が防げたのか、止んだのか、という余計な政治的一言を付け加えておく。

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光の翅

2018-11-16 | 日記

テレビをつけっぱなしで寝ていて、ふと目が覚めたら
羽生結弦選手のシングル光景を流していた。
途中からだったが、言葉を失った。
人は、完璧に近づいたものを目の当たりにすると
絶句するらしい。
宇宙の風に乗って舞う透き通った蝶のようだと思った。
光の鱗粉を振りこぼしながら、蝶は舞った。

昔、ヨガの先生から訊いた「体でお経を読む」という
言葉を思い出した。
人間の身体も突き詰めれば、神の領域に
一歩踏み入るのかとそう思った。

 

嫌なニュースが続く中、大谷翔平選手の活躍も
嬉しく誇らしい。

 

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