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makoto's daily handmades

日々暮らすだけの生き方
写真の二次使用は許可しませんので悪しからず

冷たい雨

2025-04-03 07:07:05 | 日記

花冷えな雨が続いています。

自宅のから見える範囲にソメイヨシノがあるのですが、3日間雨でもあまり咲き進んでいない様子。

実家の果樹の花も進んでいないだろう、と思える様子にホッとしています。

 

ただ、私の足の古傷はシクシクと傷むのがちょっとイヤですけれどね。

もう10年も前の手術跡なのですが、なかなかどうしていまだに痛いです。

いわゆる天気痛というものなのですが、当初よりはマシ、我慢ができる範囲なので放置しています。

天気痛は脳の感覚のエラーなので、痛い、痺れるなどの感覚はあっても、実際の炎症とは違うンです。

だから他人に理解されないのはもちろん、医師でも心ない言葉をかけることさえあります。

医師だって人間だもの。

 

こういう日は頭の中には良くない感情が浮かんでは消えるを繰り返しやすくなります。

とくに「足を骨折していなければ⋯」というどうにもならないことばかり。

足を骨折したことで、父の長年の苦労(半月板の骨折と後遺症)を少しは理解できたことは唯一の良かったことです。

あとは全部仄暗い感情になってしまうことばかり。

 

今日からは晴れ間があるみたいですから、ちょっと気持ちを入れ替えられるといいな、と思っています。


三つ子の魂

2025-04-03 06:35:14 | 人々

昨日から何度も兄から連絡が入ってきています。

1度は相続に関することで詳細は割愛しますが、さすがに呆れて「私は相続には何一つ興味がありません」と言うに至りました。

 

何度も連絡が来た理由は、天気予報のせい。

これからのシーズンは、降雨状況で農作業が中断します。

その合間に農薬散布もあります。

私が手伝うのは、花摘み、摘蕾、人工授粉です。

花摘み、摘蕾は霧雨くらいなら作業できます。

兄はその合間に開葯作業で、人工授粉用の花粉づくりをしています。

 

人工授粉は花が乾燥して、授粉後3時間以内に降雨があったらやり直し。

農薬散布も3時間以内に降雨があったらやり直し。

農薬散布は花が濡れますから、散布後4時間くらいは人工授粉ができません。

花は雄しべの葯が赤紫色のうちに人工授粉しないと結実しないので、開花からだいたい3日以内、花そうには花が10個くらいつくので、順次開花するとはいえ1〜10日間で人工授粉を5回くらい時間を置いて行います。

この合間にも開葯作業で温度と湿度と時間管理をして、翌年分も賄える分の花粉採取作業をしています。

 

要は、果樹農家は消費者の知らない所で、ガクブルものの精神消耗を背負っている、ということです。

 

兄は性格的にこの精神消耗を解消する術を持っていません。

なんとかなるさ、なんとかするさ、の主義の私とは全然違うンですよねぇ。

三つ子の魂とはよく言ったものです。

 

物事の過程も大切ですが、目の前にあることはサッと決断しなければならないのです。

天気天候を左右できる能力がないのなら、サッと決断するしかありません。

兄には「今日は急遽手伝いに来てくれでもいいし、花の具合優先でいいよ」と伝えています。

 

労働者としては、そんな働き方あるかよっ!と思うのですが、兄に対してはそう伝えるしかありません。

そこも三つ子の魂が発動しています。

 

菜種梅雨同様、兄の心は曇り空。

雨が降るのか降らないのか、風が吹いて花が乾燥するのかしないのか。

ぐずついた天気同様、兄の迷いがそのまま私への連絡に現れています。

 

溜息。


ご先祖さまを探る その6 一旦精査

2025-04-02 07:06:31 | 日記

※ご先祖さまに興味がない方にはぜ~んぜん面白くない話なので、ご興味がない方は読み飛ばしてください。

 

さて、その1〜5まででは、過去帳、位牌、墓石簿の3つから読み解くことはできたのですが、墓石の現物をみてこれまた謎に思うことがでてきました。

そこで振り出しに戻って、一旦精査することにしました。

まず、私がやりたいことの整理から。

1、始祖さま(初代)〜12代(私の兄)までの当主の俗名の確定

2、今判明(判読)する戒名が、誰なのか(俗名不明可)、当主との関係性の類推をする

3、家系図を作る

4、現存墓石が誰を祀ったものか確定する

以上4点です。

 

たったこの4点でも意外な事実がすでに判明しています。

9代目にあたる私の曽祖父は、私が成人してから亡くなったのですが、ずっと長男だったと思っていたのに、実は次男だったようです。

曽祖父の弟は、自身が成人後に改名したのですが、それまでは三郎という名前でした。

だからずっと曽祖父と三郎さんの間には次男が存在するのだと私は思っていました。

でもその人は誰なのかの、三郎さん家とは親戚付き合いがあるけど、次男家とは付き合いがないなぁ、と思っていたのです。

 

なんてことはない、次男は曽祖父自身だったンだ、と初めて知りました。

いや、実家の誰かは知っていることかもしれないですが。

曽祖父の兄は?と思ったら、生まれてすぐに亡くなっていることが判明。

位牌はないのですが、過去帳と墓石簿と墓石でその存在を知ることができました。

墓石簿には私の祖父が手書きで加筆修正していること、性別が男と祖父の筆跡で書かれていたので、少なくとも祖父は知っていたことのようです。

曽祖父(9代)の兄弟は、戒名等で確認できるのは4人、親戚付き合いと言い伝えから4人、合計8人兄弟だったと思われます。

昭和の始めには曽祖父、三郎さん、妹、弟(分家)がありました。

弟(分家)は昭和11年に断絶、妹一家も平成半ばで断絶しました。

命を繋ぐとはかくも難しいものか、と思う一方、私は子なしですから将来は断絶することが決定しています。

 

閑話休題。

墓石簿は、本当に墓石簿なのか?という疑問が出てきました。

墓石簿は青焼に印刷されていたのですが、実際の墓石には何人かまとめて刻字されているものがあります。

墓石簿にはそのことが記されていませんし、整理するための枝番もありません。

ですが、実際の墓石と比較すると、同じ墓石に刻字されている戒名(俗名)が墓石簿では必ず連続で刻字されていました。

とくに4代前妻、5代傍系(道号)、6代行方不明者の3人が刻字されている1つの墓石も、この3人の繋がりは過去帳を解読しないと関係性が浮かび上がりません。

ゆえに連続して記載するのは、墓石を読んで墓石簿作らない限り判明しないのです。

ゆえに墓石簿は、墓石簿で間違いないだろう、と結論づけました。

 

ただ墓石簿の目的が2パターン考えられます。

1、菩提寺の帰属問題が昭和40〜50年頃に起きていましたこと

2、昭和47年8月に実家の墓地の改葬が竣工していること

もう当時を知る人が生きていないのではっきりとしたことが不明になっています。

母の記憶では、昭和38年に亡くなった9代の妻(母の祖母)は、菩提寺の住職さまは以前の系統の住職さまだったそうです。

どういう経緯か不明ですが、菩提寺の乗っ取り事件が勃発して現在の住職さまになったそうです。

たぶん、同じ檀家の家に訪ね回れば少しは判明するかもしれませんが、兄や母はそれをしてほしくない、と思っています。

帰属問題のなかで、ご先祖さまについて祖父が調べようとしたのかもしれない、という気分になったのかもしれないという説です。

もう1つは単に墓地移転に伴う墓地の確認という説では、そうなると移転する墓石の数を数えるのではなく、戒名の数を数える一覧表となっていること。

でも戒名が空欄や「不明」の文字もあるので、戒名数(ご先祖さまや縁者の数)を数えるという構成にはなっていません。

いずれにしても、墓石簿に記載はあっても墓石が現存していないパターンが発生しています。

母の記憶では墓石を廃棄したことはないので、墓地のどこかに埋設したのではないか、と推測しています。

いまさら墓地の敷地を発掘するわけにもいきませんから、それが墓地のどの辺りに埋設したかは不明です。

 

当初思っていたよりもずっと面倒な作業が増えています。

今のところ代々の俗名が判明したので、目的1は達成しています。

目的2はほぼ完成しましたが、現存墓石の解読で少々やり直しが生じています。

まだまだ道のりは長そうです。


ポスクロ小話 その47 2025年3月まとめ

2025-04-01 22:48:43 | 郵趣

ポスクロを始めて3年11か月が経過しました。

私から送って相手に届いたのは、累計448通。

相手から送って私に届いたのは、累計450通。

私から送って未着が4通。

送付枠は17通。

期限切れは以前からのアメリカ1通と中国1通の合計2通。

消滅は中国3通、アメリカ3通、オーストラリア1通、ドイツ2通、カナダ1通、カナダ1通、サウジアラビア1通、インド1通の累計13通。

 

最近、なんだか届かないンだよなぁ、というのが正直な感想です。

3月は実家のお手伝いがそれほど多くなかったのに、やりたいことがあってあまり取り組めなかったンです。

とくにご先祖さま調べはほぼライフワークになりそうで、暇さえあれば調べ物していたので、ポスクロは積極的にはとりくめなかったなぁ、と。

 それはそれで残念な思いもありまして。

とはいえ4月を迎えると、ポスクロを始めて丸4年ですから、マイペースで楽しむ、というペースで取り組んできたおかげなんだよなぁ、とも思うし。

 

そうそう、ポスクロで知り合ったインドネシアのペンパル、Tちゃんにも桜の絵はがきを送ってみました。

桜の美しさが伝わると嬉しいなぁ。

 

来月もマイペースで楽しんでいこうとおもいます。


お手伝い 3月5回目 人工授粉&摘蕾&花摘み&播種

2025-04-01 06:02:47 | 労働

この日は微妙な曇り空。

ちょっと早めに実家へ行き、まずはタケノコ掘り。

前日にたくさん収穫したというのですが、急に低温になったせいか小さめ4本だけの掘り上げました。

タケノコ掘りは、2年前までは兄と父、昨年は兄と母がしていましたが、早朝から体力奪われる作業なので自主的に手伝おうと思いまして。

結果、掘り上げに失敗して1本はまるまるダメにしました(涙)

ただ掘り上げたばかりですから生のまま少々齧ってみました。

パンダはこの味が好きなのかー、と感慨深くなりました(通常は生食は勧めません)。

さて私にとっては今期初の人工授粉から始めました。

昨年同様、ハンディタイプの電動刷毛を使いました。

晩生種は花が8分咲きくらいで、中生種は1分咲きくらい。

晩生種は昨年、一昨年と比較すれば少しまし、という開花状況です。

昨年の晩生種は結実しても販売に至らない果実が殆どで、最盛期の5%ほどしか販売できませんでした。

温暖化、猛暑によって晩生種はすでに南関東では生育が困難になってきていて、大産地千葉県でも同様の被害が報道されていました。

今年はもう少し収穫できればいいな、という状況です。

 

摘蕾は従前どおり。

花摘みは一部の枝を簡易室(かんいむろ)で桶ざしにしました。

当地の言葉で「ザクった状態(木から枝を切り出すこと)」から、桶に水を張ってさして、簡易室に入れておくと蕾が成長します。

昨春には父が花摘み作業をするのに、座ってできるようにと取り入れた方法です。

それがそこそこいい感じだったので、今年も設置しました。

写真では1桶しか撮影していませんが、桶は10個くらい、枝も1桶に10本以上入れました。

これは応急措置に近いので、基本的には脚立を使ったり、土手を登って果樹から直接花摘みをします。

 

そしてこの日は、エダマメの種まき(播種)をしました。

私はマルチシートを敷く手伝いは子どもの頃からやったことがありますが、種まきはほんの数回しかやったことがありません。

エダマメをどのくらいの深さでまくのか知らないンですよねぇ。

母と組んで作業しましたが、母は「適当に」とか「いい塩梅で」という言い方しかできないので、さっぱり分かりません。

母がやる作業を見せてもらって、自分で判断するしかなく、少々溜息。

 

エダマメの種まきをした畑は、今年限りで手放すので、たいていが夏までに収穫が終わる野菜を作ります。

都市部の相続とはそういうモノで、相続税を支払うためには農地は無くなっていくもの。

3代相続が発生したら、農地は皆無というのが今の相続税法。

私が生まれてから、曽祖父、祖父、父と3代が亡くなりました。

それでも兄は営農できるのですから、前の3代が相続に際してうまく布石を打ってくれていたのだな、と感謝しています。

 

次回も楽しくお手伝いしたいです。


ご先祖さまを探る その5 振り出しに戻る

2025-03-31 22:04:30 | 日記

※ご先祖さまに興味がない方にはぜ~んぜん面白くない話なので、ご興味がない方は読み飛ばしてください。

 

先日、父の百日忌でお墓参りに行った際、古い墓石に見覚えがある戒名が目にとまりました。

 

あれ?始祖さま(初代)の戒名がどこにもないぞ。

それに墓石簿と実際の墓石の数が合わないなぁ。

 

こんなことを考えながら、お墓に手を合わせてきました。

あとから母に尋ねました。

「昭和50年くらいに区画整理で墓地を移転したんだよね?墓石の数がどうにも合わないンだけど、捨てたの?」

母は「たぶん埋めたンだと思う。今回、石屋さんを頼んだ時も『古い石は埋めますか?』って言われたけど断った」と言います。

 

そして兄や母には「古い墓石の順番とか、何代目がどこに並んでいるとか知ってる?」と尋ねたところ、2人とも「知らない」とのこと。

そもそも2人とも古い墓石の戒名を読もうとも思ったことがないそうです。

 

とても残念なのは、祖母が少々認知機能が落ちていることと、元々ご先祖さまのことを「ご先祖さま」という括りで拝んでいるので、自分が何代目の妻か、ということに興味を持っていないみたいです。

いや、祖母は責められません。

一般的に自分が会ったことがある直系までしか興味を持たないのが普通です。

私のようにご先祖さまを遡れるだけ洗いざらい調べてみよう、なんていう考えを持つ人はいても、実行に移すのはそう多くないでしょうから。

 

そこでこの日はお墓参りの後に農作業を手伝うことになっていたので、昼休みに墓石を読みに行ってくるか、と。

 

で。読んできました。

読めるもの、読めないものがあるものの亡くなった順番も入り乱れています。

この墓地に移転してきたときの施主は10代(私の祖父Tじいちゃん)も分かってなかったな、と思わされました。

その後私の父が8年程前に墓地の修繕をしていまして、この時に古い墓石の向きを直したのですが、これまた分かっていなかっただろうな、と思われます。

 

さて戒名を判読できなかった墓石に施主の名前が刻字されていました。

名字が記載されていたので、てっきり7代が施主だと思ったら、4代(7代と同名)でした。

4代は江戸時代に生きた人物なので、名字を刻字してるよー、農民なのに。

公文書だと、〇〇村□□衛門とか□□吉とか書くので、名字は通り名扱いのはずなんだよなぁ。

施主は全ての墓石に刻字されているのではなく、余白がある場合のみという感じでした。

その少し離れたところの墓石に施主に知らない名前がありました。

 

弥七郎って誰?

戒名も墓石の風化で途中までしか読めません。

でもその施主が弥七郎なので、戒名の主の親か甥っ子のはずです。

そうなると世代表との見比べになります。

 

墓石簿から、半分くらいしか読めなくとも、該当する墓石が判明します。

50年前ならこの墓石が判読できた、ということです。

すると3代と同世代の人物の戒名と判明。

ということは、2代亀七が施主?

2代亀七は過去帳から俗名が確定できず、暫定亀七となっていました。

状況証拠から、2代は弥七郎となります。

甥っ子の場合、4代源七の兄弟となります。

4代源七…前妻と後妻がいるのでこれまた複雑なんですよねぇ。

 

そこで思い立ったのが、そもそも前提にしている内容が間違っているンじゃあないか、ということ。

2代は暫定弥七郎として仕切り直すとともに、もう一度矛盾点がないか、世代を書き出してみないと、家系図も作れないだろう、と。

 

これにより、これまで過去帳、位牌、墓石簿で突き合わせをしてきたデータに、新たに墓石現物が加わることになります。

完成したと思っていたデータ整備も、新たに1塊のデータを加えるので、振り出しに戻ることになります。

くわえて、墓石の風化が進んでいまして、読めないものもあります。

そうなると30年振りに拓本を取ろうか?という気になってきました。

拓本を取るとなると、12代当主の兄に許可を取る必要があるし、そうなれば始祖さま(初代)以前の家(通称G家)の墓石の拓本も取りたいです。

G家は、3兄弟が仲違いをして、3つの家に分割されたという言い伝えがあります。

要はG家解散、を宣言したンだそうです。

それが1670年代くらいらしく、以降G家の墓地は3兄弟の子孫(3軒)で共同管理をしています。

350年程よりも前から存在する墓石ということになります。

少なくとも3兄弟の次男だった私の実家ては、G家の過去帳は存在しません。

長男家は次男家同様、G家の末代とは激しいケンカ別れをしているので、長男といえども過去帳があるのか不明。

三男家は、G家の末代を引き取っているもののあまりにも激しく長男次男から嫌われていたので、G家の末代が生存中に転居を余儀なくされたそうです。

ゆえにG家の過去帳が存在するとは思えないのです。

 

ま。

墓石現物まで調べる必要を感じているので、まずは実家の墓石を調べるとともに、もう一度矛盾点がないか精査する必要を感じ、振り出しに戻ることにします。


お手伝い 3月4回目 摘蕾&花摘み

2025-03-31 06:02:47 | 労働

この日は、実家に到着して仏壇に手をあわせていたら、母が外から呼んでいました。

何事かと慌てて外へ出ると「先にお墓に行ってる」とのこと。

何のことかさっぱり分かりませんが、兄と母が軽トラックの周りで準備していました。

とりあえず私の座席は無さそうなので、私は徒歩で墓地へ。

墓地は車で行くと丘の上に駐車して、徒歩で丘を下るルートしかありません。

ですが徒歩だと丘の下から登るものの近道ができます。

どの方法でも墓地までは同じくらいの時間で到着します。

子どもの頃はもっと横着して、墓地の隣地の階段を3段ほど登って、擁壁をよじ登って墓地へ行くという荒技をやっていたこともありますが(汗)

もう中年のオバチャンの私は、そんなことはもう2度としません。

 

さて墓地に着いてから、この日が父の百日忌と兄から教わりました。

え?百日忌??

あーそーなんだー、四十九日忌の次は一周忌だと思っていました(大汗)

な~んにもお供え物を用意してなかったよー。

ま、私の信心なんてそんなものなので、失念どころか無知なのだからどうしようもありません。

お参りだけさせてもらって、ふと見たら古い墓石に目が止まりました。

あ、見たことある戒名が書いてある…これは後で確認しよう、と。

 

ここから私だけ直接果樹園まで歩いて行きました(兄と母は1度実家に立ち寄ってから果樹園へ)。

前日からタケノコの掘り上げが始まったそうで、すでに自販機にはセットされていました。

兄が掘り上げて、自販機にセットしてから20分くらいで半分くらい売れていました。

実家の農園の春の風物詩です。

昨年はすでに父はタケノコ掘りができなくて、袋詰めと根付け作業しかできなくなっていました。

私がその父の手伝いをやったな、と。

その父の姿を思い出しました。

春の朝の光が父に当たって、少し逆光気味になっているところに、私が「お父さん、おはよー!タケノコ詰めるの?手伝おうか?私、何すればいい?」と声をかけていたなぁ、って。

昨春は、父の認知機能が少し落ちていると診断されていて、そのことに父自身も意気消沈していました。

だからなるべく、明るい元気な声で父に話しかけよう、と心がけていたンだっけ。

ま、父にはムダに明るい娘と思われていたみたいだけれど(困)

 

さてこの日の作業は、引き続き摘蕾と、途中から花粉採取用品種の花摘み。

花を摘んで、花を粉砕機で粉々にして、何度もふるいにかけて葯だけ取り出して、開葯器で加熱加湿して粗花粉を作り、さらに溶剤分離で純花粉にします。

 

この日は公道に面した場所で花摘みをしていたので、道行く人々から声をかけられました。

花を摘んでしまうことに驚かれる方、満開は何時ですか?と尋ねられても「満開前に摘むのでここの樹でお花見はできませんよ」と言うともっと驚かれたり。

 

すると私の幼馴染Dくんのご両親が通りかかりました。

くん付けで呼んでますが、Dくんももう50歳を過ぎたオジサンなので、ご両親は80歳を過ぎています。

Dくんのお父さまは今年初めに腰を手術して、歩行のリハビリが必要になっているそうです。

元々耳が少し遠くなっていたせいもあり、なんだか急に老け込んでしまいました。

昨年、亡父が急激に衰えた姿を焦る気持ちで見続けた私には、胸が痛むお姿でした。

人はずっと元気でずっと生き続けるものではない、と分かっていても現実は受け入れがたいものです。

 

この日は午前中だけのお手伝いでした。寒暖差が激しく天候も安定しなくて、園主の兄をヤキモキさせるシーズンです。

兄には「春は花優先でいいから、私の都合は全部花に合わせるから、気にせずいつでも手伝いを頼んでいいよ」と言うのが精一杯です。

さぁ、今年の収穫に向けて始動。

そんな気持ちになりました。

次回も楽しくお手伝いしたいです。


ご先祖さまを探る その4 中興の祖

2025-03-30 06:11:46 | 日記

※ご先祖さまに興味がない方にはな~んにも面白くないシリーズなので、興味がない方は読み飛ばしてください。

 

先日、母に「うちの家系のチューコーノソは5代目だと思う」と話したら、「なんだ?チューコーノソって」とのこと。

歴史に興味なければそんなものだろうな、と思い直しました。

チューコーノソとは、中興の祖。

栄華盛衰の中で、落ち目だった家の経済や世代を立て直した人物のことです。

それは新田開発、治水などはもちろん、世代を繋ぐ子沢山等も含まれます。

 

2代の時代は、元禄関東地震や富士山の宝永噴火という大災害、初代の妻(2代の母親)を早くに亡くし、経済的にも余裕がないのか墓石簿には掲載がありません。

また位牌で戒名はすぐ特定できても、過去帳では最後まで名前の特定が難しかったです。

おそらく2代は自分の親に孫の顔を見せることができなかった唯一の世代ではないか、と思われます。

前世代から次世代へ田畑や命を繋ぐ中継ぎ、この考え方が日本の農家の共通認識だった時代に、かなり苦境に立たされたのが2代です。

 

一方、5代が生きた時代に急激に先祖供養が増えていたので、供養を丁寧にできるほど経済的に上向いてきたのか、と考えていました。

前世代の4代には、前妻と後妻がいるので、それぞれの妻との間に子どもが生まれたとしても、供養している子どもが多すぎないか?と。

それに4代の娘という注釈付きの戒名に院号があります。

ちょっと待って、農村の娘に院号つける?

院号なんて当主だって7代まで付いたことないぞ、と。

それに4代と5代だけなんか他の世代と全然違う漢字を使っていて、とくに5代は目を引く漢字を使っている戒名です。

 

すると過去帳に1人だけ戒名に「道者」とつく人物がいます。6代の伯父と注釈がありました。

伯父ですから、6代から見ると父親の兄です。

年齢差を考慮すると、4代の前妻の子どもが「道者」で、4代の後妻の子どもが5代かも。

道者ははっきりとは分かりませんが、道士だとすれば、僧侶または出家者のことです。

実家の菩提寺では諸事情で修行はできま せんから、おそらくは横浜市北部の某寺か、鎌倉市の某寺のどちらかで修行僧か寺役、寺男でもしていたのではないか、と思われます。

お布施を積めば5代の娘とて院号を付けられた、という立場だったのでは?と。

というか、実家が太ければ「道者」も身を寄せている寺での立場があるでしょうから、せっせと4代と5代がお布施していたのではないか、と想像できます。

なにせこの「道者」、どう考えても70歳くらい生存していたので、4代(父親)、4代の後妻(継母)、5代(弟)、5代の妻(義妹)を見送った以外にも、5代の子ども世代を何人も見送っています。

 

5代は中興の祖ではなく、5代兄がキーパーソンということになります。

 

中興の祖呼ばれるのなら、7代かもしれません。

7代は跡取り娘に婿入りしたのですが、6代の時に火事で家屋が焼け落ちるという事件がありました。

そこから家の経済を立て直し、なおかつ8代を含む4人の男子が成長し、3人は婿養子として他家に入っています。

 

8代は上手に経済を回したものの、結局娘4人を亡くし、無事に成長したのは4人。9代が成長するまで気が気ではない命の綱渡りを感じていたのではないか、と思われます。

 

時代を下った後にしか中興の祖とは分からないものですが、7代を超える中興の祖はまだいません。

次世代以降、中興の祖と言われる傑出した子孫が出現してくれることを願わずにはいられません。

 

ご先祖さまの人柄は想像するしかありませんが、それは創作の分野になりそうです。

私ができるのは、今に残る史料、史実から創作の範囲を超えないように丁寧に史料の辻褄合わせをしていくことです。

それによって浮かび上がる像を確定していこうと思います。


ご先祖さまを探る その3 祖父に惑わされる

2025-03-29 06:42:00 | 日記

※ご先祖さまに興味がない方にはな~んにも面白くないシリーズなので、興味がない方は読み飛ばしてください。

 

さて今回の調べ物には、仏壇の過去帳の記述、仏壇の中の位牌の刻字、50年程前に墓地移転に際して作成された墓石簿の3種を使っています。

過去帳は何度か作り直しているようですが、昭和38年に亡くなった9代の妻の戒名までは同じ筆跡なので、9代(私の曽祖父)が妻が亡くなった後に新調したものと思われます。

位牌は初代〜6代までの位牌を、8代が大正10年に新調しました。これは自身の妻の一周忌にあわせて作り替えたようです。

と言うわけで、原本だが原簿ではない、という状態です。

とくに過去帳は、9代が夕方に仏壇に向かってお経を唱える際に過去帳を手に持って広げていました(9代は私が21歳まで生存していたのでよく覚えています)。

その様子から、8代以前のご先祖さまも手に持って扱っていたことも想定でき、何度となく新調されてきたのではないか、と考えられます。

 

さて最後に墓石簿。

「その1」で紹介した青焼きです。

ちょっと見にくいのですが、祖父の手書き文字で、加筆修正されています。

おそらくは、私のように仏壇の位牌や過去帳と突き合わせていたようなのです。

墓地簿はおそらく、土地区画整理事業の業者さんが作成しています。

そのためか墓石の刻字を読むことを専門にはしていないのではないか、と思われます。

墓石簿作成からすでに50年以上は経過しているので一層判読できない状況が進んでいます。

 

で。

ところどころ、祖父の手書き文字の修正が間違っているンじゃあないか、という疑義が発生しています。

現代と違い、江戸時代までは頻繁に年号が変わるのですがその年号を修正間違いしていないか、と。

また二重線で消したところに「二十三月」と書いてみたり。

 

Tじいちゃん、頼むよー、絶対違うじゃん

 

ま、Tじいちゃんなら「おお、そうか?それならお前が直しておいてくれ」って言うだろうな。

真面目で気のいいおじいさんだったから。

 

まさか祖父の手書き加筆修正に惑わされるだなんて考えもしなかったのです。

祖父の加筆修正は、位牌と過去帳と見比べながら実行したようです。

だがしかし、位牌にも過去帳にもない人物も書き込みがあり、祖父は一体どこからこの戒名を見つけてきたのだろうか?と。

これはこれで謎が深まり、20年前に亡くなった祖父に今更惑わされるとは思ってもみなかったです。


ご先祖さまを探る その2 時代推定

2025-03-28 08:13:55 | 日記

※長文なのと、ご先祖さまに興味がない方にはムダな記事なので、興味の無い方は読み飛ばしてください。

 

私の兄は始祖さま(初代)から12代目。

初代は没年しか分かりませんが、逆算すると1647年頃の生まれと判明。

世代差30年と仮定して30年×12代目=360年。

1647+360=2007年…現在2025年なので、-18年。

平均寿命は江戸時代は50歳ほど、農村部ですから結婚は早めで男性20歳前後、女性17歳前後。

 

ですが私の実家の場合、順当に次世代に命を繋いでいたとは言い難いようです。

比較的綱渡り状態と伺えます。

江戸時代のご先祖さまは、没年月日しか分からないのですが、関係性が分からない子どもや未婚者の戒名を手がかりに、各世代が生きた時代の推定を試みました。

条件1:夫婦間年齢差6歳差以内(後妻は除く)

条件2:当主とその妻は、寿命を5歳刻み、特別な事情を除き50〜75歳とする

条件3:跡取りの出生時の年齢を20〜39歳とする

条件4:当主夫婦以外の戒名は、信士と信女は推定20歳、童子と童女は推定10歳、孩児と孩女は推定5歳未満とする(ただし、童子と童女は便宜上5歳とすることもある)

条件5:その他の戒名は個別に推定する

条件6:当主夫婦と当主夫婦以外の戒名に親子関係(または兄弟関係)に矛盾が生じない年齢差を考慮する

 

以上の条件が成立する時代推定をしてみたら、以下のようになりました。

 

初代:1647年(推定)〜1697年没 推定50歳

初代妻:1652年(推定)〜1702年没 推定50歳

 

2代 1677年(推定)〜1736年没 推定60歳

2代妻 1680年(推定)〜1719年没 推定40歳

 

3代 1707年(推定)〜1771年没 推定65歳

3代妻 1712年(推定)〜1787年没 推定75歳

 

4代 1741年(推定)〜1796年没 推定55歳

4代前妻 1743年(推定)〜1773年没 推定30歳

4代後妻 1749年(推定)〜1799年没

推定50歳

 

5代 1775年(推定)〜1835年没 推定60歳

5代妻 1778年(推定)〜1838年没 推定60歳

 

6代 1804年(推定)〜1879年没 推定75歳

6代妻 1806年(推定)〜1876年没 推定70歳

 

7代 1832年(推定)〜1897年没 推定65歳

7代妻 1838年(推定)〜1922年没 84歳

 

8代以降および当主夫婦以外は割愛。

 

特筆すべきは2代妻が40歳程度で亡くなり後妻がいません。

でも4代には前妻と後妻がいるので前妻は早めに亡くなっています。

ところが5代には兄がいて、どうやっても70歳前後まで生存し、しかも戒名がどう考えても僧侶っぽい。

4代は前妻との男児を出家させて、後妻を娶り後妻の男児を5代とした、とすれば矛盾が無くなります。

 

この仕打ちに現代を生きる私は4代と4代後妻に戦慄しますが、おそらく4代後妻の実家が「跡取りはおらが孫にするなら嫁にやる」という条件付きだったのでしょう。

農村ではそういう条件付きの後妻はそれほど珍しくないので、ま、そんなもんか、と納得するしかありません。

 

また、5代の子ども世代(6代の兄)の1人が欠落者(けつらくしゃ)です。

欠落とは宗門人別改帳(当時の戸籍に相当)から欠け落ちた、という意味です。

この欠落者を供養したのは、もしかしたら前述の4代前妻の男子(僧侶っぽい戒名の人物、5代の兄)かな?と。

この人物はちょっとしたキーパーソンになりそうで、5代の縁者は供養した人数が増えているのです。

 

これまで気づいていなかったご先祖さまの姿が、時代推定をすることで少しずつ浮かび上がってきました。