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◇オカベさん

小さなビルの立て込んだ東京の空は、太陽と空のご機嫌にかかわらず不格好に四角く切り取られている。
トモがこの事務所で働き始めて2ヶ月ほど。
仕事や出入りの業者さんにも馴染み、デスクまわりの景色が自分のものになりつつあった。

事務所の窓の外には、そこを生活空間にしているらしい部屋が正面に迫っている。
のぞきの趣味が全くなくても、小窓の奥の部屋の中の様子がちらりと目に入ることがある。
おそらくワンルームの部屋の住人は男性。
40歳前後だろうか。
洗濯バサミがたくさんついた物干にぶら下がっているのは、決まって数枚のトランクスかTシャツ。
トモが事務所で仕事をしている時間に家で過ごしているところをみると、どうやら深夜に仕事をしているのだろう。
深夜警備員とか、タクシーの運転とか。
特に職業を想像させる風もなく、顔立ちがはっきり見えるほどの近さではなかった。
がらりと窓を空けて掃除をしたり、窓の外に無造作に干された洗濯物を取り込んだりすれば、ついつい目線が動く。
こんな一瞥は罪にはならないと思いながら、トモは本能的に視線を向けていることを感づかれないようにしていた。
トモは勝手に、彼を「オカベさん」と名付けている。
壁の向こう側だから「オカベさん」。
オカベさんからもこちらは見えるはずだけれど、かえって意識しているのか、こちらに視線を向ける気配もなく、淡々と自分だけの生活に集中しているように思えた。
もちろんコンピューターの画面と伝票に集中すれば、オカベさんのことなどにかまってる暇はないのだけれど。

そんなオカベさんちから、洗濯物が姿を消し、窓が開くこともなくなった。
長旅に出たのか、引っ越したのか。
伝票整理をしながらコンピューターの画面と睨めっこしているうち、トモの視界からも心の隅からも、オカベさんはいなくなってしまった。

格段に日が長くなり、梅雨入りも間近かかと思わせる夕方。
会社帰りに映画館にでも行ってみようと、いつもは人込みを避けるように足速に通り過ぎるターミナル駅で途中下車する。
学生時代に夢中になった俳優が出ているラブコメディがまだかかっているはず。
水曜日は女性客割引のレディースデイなので、この手の映画は意外と混むかもしれない、などと考えながら足を速めた。
すると、こちらに向かってくる人々の波の中に、視線のぴたりと合う面差しが浮かび上がった。
スポットライトにあたったようにトモの目に飛び込んできたのは、オカベさんだった。
トモが小さく「あっ」と声を出しそうになると同時に、オカベさんの表情も動いたようだった。
声を掛けるほどの面識はもちろん無い。
勝手に事務所からオカベさんを見ていたことも何となく気恥ずかしかったし、仮に声を掛けたら「オカベさん」と呼んでしまいそうなことも可笑しかった。
何事もなかったようにお互いは人込みに流され、トモは目的の映画館にたどりついた。
開演前の薄暗い映画館のソファに腰を埋め、ポップコーンをかじりながらコーラで乾いた喉を潤す。
どこかで知らない生活を送り続けているオカベさんに、一番近づいたのは、ついさっきすれ違ったときというわけか。
ぼんやりと、そんなことを思い起こしているうちに予告編が終了し、軽快なオープニングと共にスクリーンが躍り始めた。
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