maidoの”やたけた”(ブログ版)

ジジイの身辺雑記。今日も生きてまっせ!

国についての妄言-6 教育の第一目標(再録)

2021-06-19 08:57:18 | 支離滅裂-妄言虚説

もう一つ、今度は教育です。
我々が当然と思っている事が、実は当然では無いんですねぇ。

他人に迷惑をかけることは、日本人が社会生活で最もタブー視していることのひとつだ。
他人に面倒をかけ、気を使わせ、煩わせることは全てこれに該当する。
幼稚園の時から教育の第一目標は「人に迷惑をかけない子どもにすること」だ。
ある人が雪崩に遭い渓谷で遭難し、辛くも救助された。
この人が最初に言った言葉は「助けてくれて感謝する」ではなく「迷惑をかけて申し訳ない」だった。
死んでも他人に迷惑をかけないという心の底には、他人が迷惑をかけるのも絶対に容認できないという考えがある。
これが日本という共同体を維持する人間関係のルールだ。
自分の感情を自由に噴出でき、人の考えにも自由に干渉できる韓国ではなかなか見られない風景だ。
金泰翼(キム・テイク、韓国朝鮮日報論説委員)

こういうのを読むと逆にビックリしますなぁ。
「人様に迷惑を掛けない」これは大事な事やと思いますがねぇ
教育の第一目標は「人に迷惑をかけない子どもにすること」だ、てそれは躾以前の問題というもんで、当たり前とちゃうんかいな!と思うんです。
まぁ、最近は情け無い事に、当たり前とも言い難いんですがね。
最低限「人様に迷惑を掛けない」人間に育ってくれ、その上で人の役に立ち、人を助けることができれば万々歳、これに越した事は無いと、日本の親は皆んなそう思って子供を育ててきたのと違いますか?
だからこそ、仮に何かで我が子が世間を騒がせたら、親としては育て方に到らんところがあったのを詫びて「ご迷惑をかけて申し訳ない」と世間に謝るんですよ。

ほんなら、一体そちらは何を第一目標に躾るのか?と訊くと、勿論、人様に迷惑を掛けても良いとは思わないが、それよりも大事なのは「孝を尽くし、幼長の序を守る」やそうです。
なるほど、儒教の教えですねぇ・・・。
今でも政府や地方自治体が「孝子」を表彰したと、時々新聞にも載っています。
しかし、最近はその大事な躾が出来て無くて親不孝者が増えたと、嘆いておりました。
いずこも同じですなぁ。

「死んでも他人に迷惑をかけないという心の底には、他人が迷惑をかけるのも絶対に容認できないという考えがある。」う~ん・・・、改めて言われるとそういう所は確かに有るねぇ。
しかしそれがそれほど奇異に感じられるんでしょうかねぇ?

そういえば最近相前後して起きた同じようなテロ事件でも「自己責任」云々という論議は韓国ではほとんど無かったようですなぁ。
両親兄弟が「どんな事をしてでも助けてくれ」と悲鳴、いや絶叫のような談話を出してましたね。
周囲は勿論、マスコミも「もっともだ、その気持は良く判る。政府はもっと頑張って救出の努力をせよ。」という論調でしたね。

ところで「絶対に容認できない」と言っても、親の謝罪をマスコミなどが無理やり引き出すのは賛成できませんねぇ。
そういうのはあくまで自発的にされるべきで、ニュースのネタにする為に攻め立ててコメントを取るのはむごい仕打ちでっせ。
それ以上に、親に非難の手紙を書いたりするのは、言語道断、けしからん馬鹿者だと思います。
しかも匿名でとなると、何をかいわんや、馬鹿の上に卑怯が被さった人でなしですなぁ。

勿論、日本でも親の気持は同じだと思います。
しかし、ストレートに嘆き悲しみ泣き叫ぶことが出来ないのは「世間を騒がせて、迷惑を掛けた」という気持と、見苦しい態度は見せたくない思いがあるからなんでしょうね。
そして口に出せないその気持を慮って周りの者は同情し涙する、と言うのが日本ですわねぇ。
そういう「言わず語らずの内に」と言うのは全く理解出来ないそうです。
「健気に悲しみをこらえる」等という文章は翻訳不能かもしれませんなぁ。
言わず語らなければ「それは思っていないことと同じで、一体回りの者はどうして心の内を知ることが出来るのか?」というんですよ。

胸をたたき、髪を引き毟って、慟哭号泣して悲しみを表すのが普通で、周囲もそれを期待しているんだそうです。
ついにはそれが形式化して「泣き女」等という職業があった(今もある?)んですね。
悲しみを堪えていると、逆に「情を知らない、一体暖かい血が流れているのか!」と非難を浴びるらしいですねぇ。
葬式での揉め事のなかで「誰々は悲しみ方が足りん、怪しからん!」というのがかなりあるそうです。

あまりの悲しみで放心状態、涙も出ないと言うような事は認められないんですね。
判りやすく態度で表さないと非難の的になって、いかにそれまでつくしていても、下心があったからだろうとか、世間体が有るから。そういう振りをしていただけだったのか、と決め付けられると言うのですからたまりませんなぁ。
金日成(キムイルソン)氏の告別式で、弔問者の悲嘆にくれる程度で忠誠度を測り、泣き方が足りないと「怖~いこと」になるので皆必死になって泣いた、というのもあながち面白おかしくでっち上げた話とも思えないのが恐ろしいですなぁ。

人の考えに自由に干渉する事が良しとされている社会というのも、さてどんな具合なのか?
一杯飲み屋で議論が始まると、客はもとより、店の親父、はては通り掛かりの連中も参加しての大討論会になることがままあるそうです。
そういえば、市場での口喧嘩にしても、それぞれが見物人を味方に引き入れて、大騒ぎになっているのを見掛けましたなぁ。
こうなると、儒教云々というような簡単なことでは説明が付きませんねぇ。

日本人同士でも誤解や揉め事が起きるのに、これほどの違いを持っってしまった国を併合して、異なる文化を押し付けたんでは深刻な軋轢は起きて当然です。
それも儒教の本家本元がモンゴル、ジュルチン(女真)と蛮族視していた民族の支配を受け、気が狂うような煩悶の中で儒教の正統を守ったという意識があります。
まして日本に対しては文化面では常に教える側であったことを誇りにしていた国です。

儒教の幼長で言えば、己は師で「長」、日本は弟子で「幼」だと思っていたのに、「文禄、慶長の役(壬申倭乱)」で逆順の侵略を受けたんですねぇ。
有ろう事か近代になって、十九世紀末の李氏朝鮮が国としては既に破産状態であったにせよ、又もや日本の植民地にされたのでは誇りは木っ端微塵、粉々に砕け散った事でしょう。

最初に戻って、今に到るも「他人に迷惑をかけないことを、最も重要視している」筈の日本に、迷惑どころか災厄を与えられ、それに抗し得なかったという無念さ、腹立たしさは大きいでしょうねぇ。
加えて自力で日本の植民地からの開放を果たせ無かっただけに、砕かれた誇り、踏みにじられた意地を回復できず、モヤモヤした物が残ってしまったんですね。
残念ながら、日本への恨み辛みが何時までも澱(オリ)のように残っているのも頷けますなぁ。

歴史に「もしも」は禁句というけれど、果たして日韓の立場が逆転してたらどうだったんでしょう?

2004/11/15:初出(旧OCNホームページ)
2021/06/19:再録

国についての妄言-5 ⇔ 国についての妄言-7

 

 



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
とても為になりました (けんすけ)
2021-06-19 13:17:47
読者登録させて頂きました
宜しくお願い致します。
返信する
Re:とても為になりました (maido)
2021-06-19 13:32:00
>けんすけ さん
お読みいただいてありがとうございます。
旧HPから順次再録する心算です。
返信する