maidoの”やたけた”(ブログ版)

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国についての妄言-10 ところで国て何やろ?-2(再録)

2021-07-13 11:34:30 | 支離滅裂-妄言虚説

単一民族国家であるという幻想、あるいは単一民族国家でありたいという願望は、多様性を認めない偏狭な民族主義の産物ではないんでしょうか。
民族主義が度を越すと、他者に対して理由(ユエ)の無い優越感を抱き、蔑視迫害につながるので恐ろしいですねぇ。
そして又、困ったことに度を越しやすく、制御し難いんですなぁ。
しかし、人々を結束させるにはある種の宗教と並んで、手っ取り早い手法らしく未だに使われているみたいですねぇ。

個人の資質に拠らない、人種や外見的な差異による優越感は、誰しもが安直に擬似的な誇りを持てるので歓迎されやすいんでしょうなぁ。
ところが、その優越感でもって蔑視迫害された側は、理不尽なだけに強い怒りと恨みを抱いてしまうんですよ。

誇りを持つということは決して悪いことではなく、それどころか誰しもが持つ人間の獣性を制御するには絶対に必要だと思います。
ところが「誇りを持って、常に己を高く持する」というのは凡人には中々難しいんですねぇ。
その積りでもチョイチョイ欲望に負けてしまうし、群集の一人となるといとも簡単に消し飛んでしまいがちなんですよ。
今でも時々負けたり、消し飛ばしたりしてますねぇ・・・。

要は自分の価値観、美意識を何処まで確立できるかという問題でしょうなぁ。
たとえ未完成で矛盾が多く、グラグラしていても皆無よりはましやと思います。
ただし、これは素材は人様の物でも、一応は自分なりに消化した物でないとイカンでしょう。
その辺はあまり周囲とかけ離れていない範囲での話ですがね。

自分でウンウン考える手間を惜しんで、出来合いの既製品で間に合わそうとすると、不良品を掴んで、社会生活に問題が起きたり、犯罪者とされる恐れがあります。
そういう例は宗教団体や往年の学生運動に見られましたねぇ。
場合によっては鉄格子の入った病院に収容されるやも知れません。

とはいえ、中には法がどうであれ、信ずることを押し通さねばならない事も有り得るんですなぁ。
その時は腹を括って覚悟を決めて、やらんと仕方ないでしょうねぇ。
もしくは何とかやらずに済む理屈を捏ね上げて、自分を納得させるかでしょうが、いずれにしてもそういう事態に陥らんことを願いますわ。

他者による処罰に対する恐れも獣性を制御しますが、一旦処罰される恐れが無くなると、人間がどれほど残酷になれるかの例は無数にあります。
そんな時の制御機構の一つが人間としての誇りなんでしょうが、偉そうな事を言ってっても果たしてそういう場に立てばと思うと・・・。

話がそれてきたので元に戻しますが、民族としての誇りや優越感は方向を間違うと驕りとなります。
そして、他民族の文化、生活様態を否定し、自分達に同化させようとするんですねぇ。
いかに善意であっても、好まない文化を押し付けたり、無理に同化させようとすれば、反発、敵意を産むことになります。
相手が自身の文化、生活様態に誇を持っていればいるだけ、性急に同化を進めると大きな反発が起き、それを押さえ込もうと力を行使すると、憎悪が生まれてしまうんですねぇ。

台灣、朝鮮半島をはじめとして近隣諸国に、太平洋戦争の一時期に強引な皇民化運動を行なったのは、残念ながら近代日本の大きな失策でしょうなぁ。
帝国主義と覇権主義がせめぎ合っていた時代に、日本が他の民族や文化に対する寛容性をもっていればなぁ。
たとえ同じ敗戦に終わったにしても、連帯感を残せたと思うんですがねぇ。
夢物語でしょうが、もしもそれを契機に例え敗戦後でも、良い意味での大東亜共栄圏が誕生していたら、と思いますなぁ。

こうして見ると現代の世界において、民族で国を括る事はは殆ど意味がないという感じが強くします。
となれば、いよいよ「国というのは何やねん?」というのが判らんようになるんですねぇ。

さて民族だけでもこんがらっがってるのに、それに国家という得体の知れん物がくっつくと、尚更ややこしい事になります。
民族国家というのは「資本主義の発達に伴い、市民階級の経済力が強まって、封建領主や他民族の支配が打破され樹立された、民族として統一された近代国家。」であると小学館国語大辞典には書いてあるんです。

この「民族として統一された」というのに引っ掛るんですねぇ・・・。
世界中で起きている紛争を見れば、現実には「多数派、若しくは有力な民族が他の民族を押さえつけて、あたかも統一されたかのごとく見える」というのが本当の所やないんですかねぇ?
「民族としての統一」に無理があるというのは、本来同一でない民族を外部には同じであると言いながら、国内では平等に扱っていない、もしくは強制的に同化させようとするから揉め事が起きるんですなぁ。

それなら「民族自決主義を採れば良い」というのは簡単ですが、同一民族が数カ国にわたって居住していたり、アフリカのように1000を越す民族・部族が存在していたりすると、中々そうは行きかねます。
支配民族と従属民族が画然と分かれていた旧植民地や、属領などが民族自決を要求して独立しましたが、その多くが国内で新たな民族自決を旗印とする所謂民族解放戦線との紛争を抱えてるんですねぇ。
まったく民族という概念は曲者ですなぁ。

ウィルソンが1918年(大正7)1月に声明した「14カ条」は、総論的には間違い無いものの、各論として現実の紛争に当てはめて解決できるか?というとそう簡単には行きません。
例えば国境を接する数ヶ国に跨って同じ民族が居住している場合など、各国の利害が絡まって「各民族はその政治的運命をみずから決定する権利をもち、他民族による干渉を認めない」という民族自決の原則は到底現実に適用できるものではありません。

民族自決主義の理念は正しくても、肝心の主語である「民族」をどう考えるかで団結、分裂どちらのスローガンにもなるから、事はより面倒ですねぇ。

2004/12/21:初出(旧OCNホームページ)
2021/07/13:再録

国についての妄言-9 ところで国て何やろ?-1(再録) ⇔ 国についての妄言-11 ところで国て何やろ?-3(再録)



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