maidoの”やたけた”(ブログ版)

ジジイの身辺雑記。今日も生きてまっせ!

国についての妄言-4 「意地」と「あっさり」(再録)

2021-06-12 18:38:45 | 支離滅裂-妄言虚説

奈良時代までの古代日本については、学術的に掘り下げたのや、歴史小説風(historical novel、fantasy?)の素晴らしいサイトが無数にあります。
今更私如きど素人が中途半端に生半可な事を書くのは気が引けますねぇ。
と言いながら、話の都合上、臆面も無く書くんですなぁ・・・。

六世紀初頭頃までのヤマト(日本)の姿は、国といっても有力な豪族が各地に勢力を張り、それらの豪族連合の承認のもとに天皇が据えられていたようです。
その豪族連合のヤマトも日本の一部をやっと支配下においていた、というのが奈良時代以前の日本であったと思います。
天皇などという呼び方は記紀が編纂された八世紀頃になってから出てきたようで、それまでは王や大王などの呼び方もあったようですが、はて実際どうだったのかは不明です。

それらの王や大王にしても、字面からの印象とは異なり、所謂専制君主では無かったようです。
中には専制君主たらんとしたらしい雄略(オオハツセノワカタケ)のような王もいたらしいのですが、ほとんどの場合軍事力はイクサノオミ(戦の臣)達が握っていて、天皇一本にまとめられて居らず、どちらかと言えば祭祀者としての色合いが強かったような印象を受けます。

国としての意識が高まった六世紀まで韓半島での拠点を有していたらしいヤマト(日本)は、七世紀の百済救援派遣軍の大敗、それに続く百済滅亡という衝撃を受けます。
百済王族、遺民を主として、依然として大陸からの流入は続いていたものの、拠点を失った日本は海で隔てられているのを頼りに、独自の国としての道をとり始めたようです。
韓半島の倭の上にツングース系が被さった古代韓半島南部の国々は、北方系の新しい統治者の文化と、陸続きで圧倒的な落差と圧力で流入する唐の中国文化に抗し得ず、倭の習俗はごくかすかな名残をとどめるに到ったのだと思います。

その点、一衣帯水とはいえ、大陸と海で地理的に切り離されていた事が防壁となって、絶妙のフイルターの役目を果たしたんではないでしょうか。
現代の東南アジアとも数多くの共通点を残す日本の斑模様の文化が育ったのは、海が大きな要素であると思いますねぇ。

千数百年前までは共通の、というよりも同一の文化基盤を持っていたであろう韓国では、現代の両国の違いをどう見てるんでしょう?
最近目に付いた物を幾つか引用してみます。

韓国人と日本人の社会心理的特性を、「意地」と「あっさり」に区分した文明批判家がいる。
韓国人は慇懃と根気が意地として発動し、簡単には敗北を認めないのに対して、日本人は割腹で立ち向かっていても、一度屈服すればそれで終りということだ。
日本が韓国の独立運動をそのように悪辣に弾圧したのも、韓国人の意地に対する反感かも知れないという解釈もある。
逆説的には、もし日本がインドを統治したなら、ガンジーの「無抵抗主義」は決して容赦されなかったはずだという話もある。
呉明哲(オ・ミョンチョル、東亜日報論説委員)

「意地が強い」「意志が強い」と並べると判るように、現代日本では「意地」と言う言葉は「意志」と違ってあんまり良い意味では使われませんねぇ。
「意地が悪い」とは言いますが「意地が良い」というふうには普通使わないですなぁ。
その癖「お前には意地が無いのか!」などと非難されることはありますがね。

第二次大戦後日本に進駐した米陸軍の第一陣は、ゲリラ攻撃を懸念して実弾を込めた武器を手にしていました。
沿道でニコニコ笑って即製のアメリカ国旗を振る日本人に、言いようの無い気味悪さを感じ、本当に抵抗の意思が無く、進駐を歓迎しているとわかるのにかなりの時日を要したといわれています。
特攻攻撃や斬り込み攻撃の激しさとのあまり落差に、果たしてこれが同じ大和民族なのか、この変わり身の早さは一体どう言う理由(ワケ)か、と頭を抱えたのも無理はありませんね。

基底とする文化が全く異なる欧米が日本(人)を理解しかねるのは、ある意味納得できなくもありません。
しかし、韓国でも同じように見ているようですねぇ。
この「アッサリ」が理解できないと「面従腹背」とみえるんでしょうなぁ。
狡い、信用できない、反省をしていない、などの批判もこのあたりから来ているんでしょうか?

このあたりの感覚の相違はチェス、象棋、将棋のルールに現れてるような気がするんですよ。

時々阪急中津駅で降りて、梅田をショートカットしてJR福島駅から大阪環状線に乗るんですが、関西将棋会館がJR福島駅の直ぐ近くにあります。
まだTVという物を見ていた頃、某国営放送局の朝の連ドラ「二人っ子」によう出てきてました。
将棋はインド辺りが発祥の地、と言われ東西に伝わって、中国(象棋)、西洋(chess)となったそうです。
日本には第二九代欽明天皇(539~581)の頃伝来したそうで、年月と共にチェス、象棋、将棋、それぞれコマの種類、形、細かい動きに差が出来たんですねぇ。
中国象棋についてはここで簡単に紹介して居ります。

チェスでは駒その物の色が、中国象棋でも文字の色が敵味方で分かれています。
日本の将棋の駒は「王」と「玉」が違うだけで、他の駒は全く同じで見分けがつきません。
敵味方の違いは置かれた駒の向きだけ。
もっとも大きな違いは、日本以外の国では、一旦捕虜になったら、二度と戦闘には参加せんのです。
そこで下手同士の勝負では、盤面に駒が数個になってしまい、お互いにどうにもならん、てな場面が出現します。

現実の戦では洋の東西を問わず、個人の武勇と力量を認めたら、例え元は敵でも重用して使った例が仰山有ります。
又、己の武勇を発揮出来るのであれば、陣営を変えることを躊躇せんかったようです。
中国の文天祥や鄭成功のように、あくまで誘いを断った人物は珍しかったからこそ、廟に祀られ語り継がれたんでしょうね。
文天祥が戦った元軍も、鄭成功の相手の清軍も、夫々第一線に立ったのは宋、明の軍を取り込んだ軍勢で、いわば昨日までの味方と戦ったんですね。

元にしても清にしても、中華意識をもった漢民族にとっては塞外の蛮族です。
化外の蛮族に中華の意地を見せて立ち向かった愛国者の代表的なこの二人は、いわゆる中華の真髄である中原(河南省・山東省西部・河北省と山西省の南部・陝西省東部)の出身ではなく、文天祥は古くは南蛮百越等と呼ばれていた江西省(江南)、鄭成功に到っては日本の平戸生まれの日中ハーフです。
傍流の方がより先鋭的であるというのは意外に良くある話ですなぁ。

中華、中華言うて、漢民族がドンだけのもんやねん?などと言い出すと話が縺れるからそれは置いといて。
本家本元の連中が「蛮族相手に名分を問題にしてもしょうがない、それよりも内側から中華に染めてしまおう」といち早く隷属し、いわば正統でない連中が「相手が蛮族なればこそ、名分の何たるか、大義の重さを示さんとイカン」と思い、敵味方に分かれて戦ったんですねぇ。

日本でも戦国時代位までは、どっちかいうとあまり名分を重視せず、己の武勇を発揮でき、それが認められるならば、いとも軽々と陣営を移っていて、それが当たり前やったみたいですなぁ。
一族郎党引き連れて敵軍に移籍、てな事がごく普通に行われて、それを不道徳であるとか武士道に悖(モト)る、等と非難するという感覚はあまり無かったようです。
プロスポーツの競技者の移籍感覚が近いような感じですなぁ。

戦場での勇者となれば、当然敵の何人かを討ち取ってるでしょうし、新たに参加した陣営にその討たれた者の縁者が居る可能性は十二分にあったでしょう。
ところが戦場での正々堂々の戦いによる死は武士の名誉で、相手を恨むとか、仇と付け狙う事はほとんど無く、その代わり正々堂々でない騙し討ちや謀略などで殺された場合は、何としても仇を討って名誉を守る事が善しとされていたんですね。
もっともこれは武将クラスの話で、下っ端はそうは行かんかったでしょうなぁ。

個人の武勇が戦の勝敗を決めた時代から、集団戦の時代になると途端に堅苦しい「忠」が這いずり出てきて、どうもいけませんねぇ。
親分が配下を引き連れての降伏も困るけれど、集団戦の立役者の雑兵がワラワラと降伏したり逃げたんでは収拾がつかん。
そこで、押入れの奥から儒教を取り出して来て、胡散臭い「忠」や「義」てな物が喧しく言われだしたんやないでしょうかねぇ。
三百年以上ネズミや有るまいし「忠、忠」と言うて来たのに、儒教が日本の庶民の骨にまで染み込んでなかったのは、鳥羽伏見の戦いで、畿内から駆集めた雑兵が、大砲のドンという音で、瞬く間に四方八方へ逃げ散った事でも判りますねぇ。

将棋のルールが儒教風に変わらなかったのは、根強い土俗的な倫理観が生き残っていたからだと思うんです。
なるほどそういえば、往生際が悪い、しつっこい、根に持つなどというのを我々は余り好みませんなぁ。

2004/11/11:初出(旧OCNホームページ)
2021/06/12:再録

国についての妄言-3 ⇔ 国についての妄言-5

 



最新の画像もっと見る