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国についての妄言-3 何時から違いだしたんや?(再録)

2021-06-12 09:44:44 | 支離滅裂-妄言虚説

「一衣帯水」というのは、韓半島と北九州のために有るような言葉ですねぇ。

韓半島南部と北九州の間は季節さえ選べば手漕ぎの小舟でも往来できます。
十三世紀の初期の倭寇は干し飯(イイ)と水樽を積んだ、四丁艪や六丁艪の和船で漕ぎ渡って行ったんですね。
実際に戦後でも沿岸用に作られた釣り舟でやってきた例が多くあったそうです。

現代とその時代の海流や気象の違いはわかりませんが、仮に余り変わっていないとすれば夏場のトロ~ッと凪いだ日本海を見ると、思っているよりも簡単に渡れそうな気がしますねぇ。
韓半島南部から北九州への各里程を見ても、巨済島-対馬64Km(約35海里)又は、釜山-上対馬59Km(約31海里)で対馬に渡り海岸沿いに南下して、対馬厳原-壱岐49Km(約26海里)次いで北九州へは、壱岐-糸崎47Km(約25海里)又は、壱岐-呼子24Km(約12海里)で到達します。
これなら手漕ぎでも島から島へ1日行程で充分渡れますねぇ。

欠員埋合わせのインチキ船員をやってた頃に、何度か朝鮮海峡を航海したんですが、残念ながら冬の時化(シケ)の時ばかりでした。
向風と波に阻まれてジグザグにしか走れず、しかも情け無い事に8ノット(時速15Km)がやっとの貨物船だったんです。
それでも、早朝4時頃に関門を抜けると、15時や16時頃には釜山に辿りつけてました。

元々中国の漢代に既に南越から韓半島南部、北九州にいたであろう、黥面、沈没して魚介を漁(スナド)る海洋民であった倭は、手漕ぎの舟で縦横に往来していたんでしょうね。
艪(ロ)が中国から伝わったのは奈良時代とされていますから、推進力は櫂(カイ)だったんでしょうなぁ。
埴輪の舟のように、丸木舟の上に舷(フナバタ)を張りたてて、外洋の浪の打ち込みを防いだ舟で、両舷に並んだ漕ぎ手がエンヤラエンヤラ漕いで行き来していたんでしょう。

以前、その古墳時代の舟を復元して、大阪から釜山へ漕いで行く企画がありました。
埴輪の舟ですから、縮尺模型などとは違い、いわば芸術品。
チョロQを見本に自動車を復元するような物ですねぇ。
出土品の実物も有るには有るんですが、腐り果てた船底部分だけでそれも多分川や湾内の平水用。
学者の指導で瀬戸内の船大工が復元したんです。

まぁ、口は出すけど手は貸さん先生方に、ああでもないこうでもないと指図されて、船大工は「熱が出そうやった」とぼやいてました。
それだけの学識がよってたかって復元した舟が、進水した途端にクルッと転覆して、監修に当たった某その方面専門大学の知り合いが頭を抱えていましたね。
野本先生ならそんな不細工な事はせんかったでしょうなぁ。

「どないしょうか?」いうても作り直すわけにもゆかず「重心を下げたら転覆せぇへんで、バラストを積んだら?」というても「古墳時代のバラストについての資料が無い」てな世迷い事を言うてました。
とにかくなんとしても格好を付けねば、と追い詰められて、やっと船底を彫ってナットの抜き滓の鉄の粒をセメントに混ぜて流し込んで、上から板で蓋をして転覆しないようにしよう、となったんです。
鉄は古墳時代は貴重品・・・、とかセメントを使うなど・・・、と言うてたそうですが「じゃぁ貴方がこの転覆丸に乗って釜山まで行きますか?」という一言で黙ってしもたそうです。

世間には内緒で船底に重りを仕込んで、何とか格好をつけたんですが、漕ぎ手となった大阪の大学のボート部も音を上げるほど水滑りの悪い舟で、関門海峡まで行くのに難儀してました。
現代の学生が体力も根性もアカンタレなのか、それとも何か船体構造に秘密があるんでしょうか?
もっとも復元舟には先のような大きな秘密(実はもう一つ有るんです)があったんですがね。
それにしても、何世紀もの間に何度も、一族や集団丸ごとが渡海して来た事は間違いなく、女子供、牛馬も積んできたでしょうから、かなり安定した大型の舟だったんでしょうね。

基本的には後の大和型帆船も甲羅(コウラ、カワラ)と呼ぶ厚板の船底に舷を立てた構造で、埴輪の舟の発展型と言えなくも無いんですが、埴輪の舟はどう見ても帆走に適した舟には見えません。
無論時代が下れば帆も使ったんでしょうが、布がそれほど発達していない時代なので、笘帆、笹帆(ムシロのような帆)の類であったに違い有りません。
八世紀から九世紀にかけての遣唐使の時代でも帆は笘帆だったようです。

風を逃がさず、揚力を発生させる近代の布の帆に較べ、風上への航行性能は船体構造も相まって、著しく劣っていたというよりも、ほとんど不可能だったでしょうね。
帆と櫓櫂を併用していたんでしょうが、所詮春の東風に乗って大陸を目指し、秋の西風を待って帰路につく、風頼りの航海であったろうと思われます。
それが、遣唐(隋)使船の原則一年一往復の航海数と数多い遭難の理由だったと思うんです。
この方面の能書きは何れ気が向いたらという事にします。

先ず共通の文化基盤を持つ倭が双方に分布し、夫々の地域の先住民と交じり合ったとはいえ、基本的な語彙文法などは共通のものがかなり残っていたんではないでしょうか。
中国の浙江、福建、廣東、韓半島の南部全羅南道、慶尚南道沿海、北九州、山陰、北陸に居住した倭同士は現代の日本各地の方言程度の差がある言葉を共有していた、と見るのは行き過ぎでしょうかねぇ。
この倭が日本で作ったのが第一次大和(仮称)じゃないかと思うんです。

やがて韓半島の倭も、日本の倭も北部(扶余、夫余)出自とされる、第二次大和(仮称)とも言うべきツングース系の民族に支配されるようになったようです。
五世紀の倭の五王に関する宋書の記述と、時代や当事者の名前に差異はあるものの、明らかに対応する記紀の記述から、記録に残されていない行き来も有ったに違い無い事を考えると、相変わらず頻繁に往来していたのが窺えます。
勿論その間海難も頻発していたであろう事は間違いありません。
それにも関わらず、日中韓の遺物や文献に表れる濃密な行き来には驚きます。

百済の武寧王に到っては、何と日本生まれなんですねぇ。
記紀の記述は嘘八百だと言われていたのが、武寧王が日本で生まれたことはほぼ確実、と見られるようになったのは、1971年に発掘された武寧王陵から出てきた墓誌によってでした。
そうなると、武寧王の叔父叔母にあたる一族が河内飛鳥に居住した、とも取れる記紀の記述もでたらめと切って捨てられず、その後の異様にも見える百済への肩入れも同族の危機への救援という側面が否定できません。

六六三年の白村江の戦で百済と共に唐、新羅と戦った頃までは、考え方や価値観、言葉でさえも現代の日本と韓国ほどの差が無かったんじゃぁないか、という気がします。
現代でも語順は一緒ですから、当時もそうだったでしょうし、その上共通の語彙がより数多く存在していれば、今より遥かに簡単に意思の疎通が出来たのではないでしょうか?
実際、当時の支配者層は渡ってきた時代の違いはあれ、韓半島からの系統が圧倒的に多かったはずです。
配下の兵士家族も共に渉ってきたでしょうから、当然言葉も共通な部分が移植されたと思うんですがねぇ。

してみると、八世紀あたりが分かれ道だったのかなぁ?という感じがします。
その間断絶していたのではなく、近代に到るまで、新羅、李氏朝鮮とも往来が続いていたのに、片や儒教にどっぷり染められ、それが生活規範となったのに対して、こちらは儒教が伝わっても単なる教養として言わば見事に骨抜きにしてしまうんですねぇ。
結局、ブッダも孔子も皆んな仲良く八百万の神々の仲間に入ってしまったような形です。
言葉を変えると近代アミニズムとでもいうような宗教観で、五月蝿(サバエ)なす神々がいた神代の昔から大して変わっていないとも思えます。

それが生まれるとお宮参りに行き、キリスト教会で結婚し、仏教であの世に旅立つという、他の国々では想像も出来ない、しかし我々大多数の日本人にとっては別段奇異に感じない理由なんでしょう。
ガチガチの宗教者から見れば、宗教を舐めていると見られても仕方ないでしょうねぇ。
信仰心が篤いという事を大事な徳目とする他国の倫理、価値観から見るといかにもチャランポランで、心の拠り所が何処にあるのか判らない得体の知れなさがあるようです。
この何でもかんでも良いとこ取り、と理解不能なゆえに不信感さえ抱かれる度の過ぎたアッサリした気性は海洋民の末裔である倭の濃度のなせる技だと思うんですよ。

文化習俗の面でも日本の方が南方海洋民、照葉樹林文化を色濃く伝えているように思いますねぇ。
これは、先住の蝦夷、熊襲等の人々とプロト・マレーなどの黒潮を渡った人々の文化習俗の残滓ではないんでしょうか。
こっちの方面も又いずれ別立てで。

と取りとめも無く次回へ(さて次回は何時になるやら・・・)

2004/11/09:初出(旧OCNホームページ)
2021/06/12:再録

国についての妄言-2 ⇔ 国についての妄言-4



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