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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸🌿 室町時代の越中鋳物師に対する処置を指示する京都の『東寺百合文書』に残る書状 ⇒ 室町幕府二代将軍足利義詮の祈願寺「妙興寺」(※愛知県一宮市)に納められた高岡鋳物会社製作の『梵鍾』!!

2021-04-15 | 富山県高岡市













■『東寺百合文書』は、加賀藩の第5代藩主『前田綱紀』が百個の桐箱を文書の保存容器として東寺に寄附した事に由来し、その後はこの箱に納められて伝えられてきたことから、「東寺百合文書」と呼ばれるようになった。この文書の中には、足利幕府の尾張守護の『斯波義将から二宮信濃入道に宛てた越中砺波郡、射水郡の鋳物師に対する処置を指示する文書』が遺されたいる。鋳物師は通行や移動の自由等を保証されて、幕府からの庇護を受けた。高岡市では、鋳物師を保護、育成したのは加賀藩前田家のお陰だと伝えるが、何と、越中鋳物師は室町時代から越中に栄えた産業で在った事がこの文書から推察できる。

■尾張国(愛知県一宮市)に、室町幕府二代将軍足利義詮から六代足利義教に庇護され、女子を拐ってこの寺の本堂に立て籠った悪党を素手で捕らえて『無刀取り』をあみ出した剣聖『上泉伊勢守信綱』が修行したとして有名な臨済宗別格本山『妙興寺』(※「妙興報恩禅寺」)が在る。この寺には、元、『鎌倉建長寺の本尊』と言われる仏像や『足利義教肖像』(※越中吉岡庄を相国寺庄園として寄進した三代将軍足利義満の五男)等、数々の宝物を所有して、敷地内には『一宮市博物館』も在る。ここであみ出された『無刀取り』は「活人剣」として「柳生宗矩」に伝えられ、『柳生流無刀取り』として引き継がれた。
この寺院の鐘楼や勅使門、三門等は多くが文化財指定を受ける古刹で在る。又、昔は『妙興寺蕎麦』をあみ出した寺としても有名で、それまでは『蕎麦がき』として蕎麦粉にお湯を入れてかき混ぜて団子状にして食べていたのを、長い麺の形にして振るまい、有名に成ったと云う。
この足利家と密接なこの寺院の梵鍾も当然の様に文化財になっているが、この梵鍾が古い為に代替の鐘を製作される事に成った。
この時に、この寺の最高位の『老師』や執事に当たる『知客寮 シカリョウ』からは、当然の如くに高岡銅器の採用が持ち出されて、その有名さに驚いたものだった。梵鍾では安芸国(広島県)の銅器も有名の様だが、尾張国と越中国の繋がりの深さに驚かされた。
考えてみれば、室町時代は、尾張守護の斯波氏が越中に出張っており、上記の「東寺百合文書」に見られる『二宮信濃入道』も尾張斯波氏の家老格で在ったと言うから、中世には『尾張、美濃、信州、飛騨、越中、越前、加賀』は一体の経済圏で在った。(※「二宮円阿軍忠状」)

近年は、鉄道網で高山線の本数も減ったり、新幹線も小浜ルートが検討され、富山県と愛知県のコミュウター航空の路線も廃止され、一時期、愛知県の世界的な企業のトヨタの副社長が三名も富山県から出ていながら、トヨタ直営工場が未だに一ヵ所も富山県には進出していないと言う情けない状況に在る。これ等は、富山県の経済界の情報音痴と、歴史感の偏向に在る。富山県人は高い山に囲まれて、情報も遮られているのか?
歴史を学び、世界的視野を持たないと明日の富山県は無くなる。政界、財界は僅かな目先の利益に惑わされず、大きな視野で物事を判断すべきだ。因みに金沢市は「世界都市金沢」を標榜している。

📚📘【高岡市立野の東大寺庄園】「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」と「利波臣志留志・石黒氏」⇒「越中五位庄」の古代!!

2021-04-15 | 富山県高岡市


■「東大寺庄園杵名蛭庄」※越中国礪波郡
⇒「杵名蛭庄地参拾柒町柒段玖拾捌歩. 見開参拾柒町柒段玖拾捌歩. 神分壱段. 荒壱拾弐町伍段弐伯陸拾陸歩. 全佃弐拾伍町壱伯玖拾弐歩 」
(杵名蛭庄37町7段94歩、未開地37町7段94歩、神田1段、荒地12町5段266歩、佃25町192歩)

⇒総合計75町4段252歩で、内37町7段94歩は東大寺庄園だったが未だ未開地で在った。 又、神社に奉納される田は一段歩、荒地は12町5段266歩、「佃」と呼ばれる荘官・地頭の直営田は25町192歩で在った。 この「佃」とされるのは「杵名蛭庄図」に記載される「石黒上里」・「石黒中里」等と記載される住民が住んでいた部分と見られる。荒地は敷地内の沼地等を指すか?
🔽「佃」;佃(ツクダ)は、中世日本の荘園公領制において、荘園領主や荘官・地頭らによる直営田をいう。年貢や公事の賦課が免除され、収穫物をすべて領主が収取した。正作・用作・手作・門田とも。本家・領家など上級領主による直営田を佃とし、荘官・地頭など下級領主によるものを正作・用作として区分することもあるが、中世当時は必ずしも明確に区分されていたわけではなかった。(ウイキペディア参照)

■「平安遺文」古文書編東南院文書 に、東大寺文書として、「大和国十市庄 越中国礪波郡杵名蛭庄長 船木弟虫 給付状」が有り、『杵名蛭庄の庄官は船木弟虫』で在った事が記される。
『船木氏』は伊勢を拠点としたらしい。
[神八井耳命(カムヤイミミノミコト)]神武天皇の次男を祖とする。
「日本書紀」には意富(多 オオ)氏の祖。
⇒ [多(意富、大生 オオ)氏]の同族
《古事記》: 意富臣、小子部連、坂井部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊予国造、科野国造、陸奥の石城国造、常道(ヒタチ)の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣ら19氏。














🔽「延喜式神名帳」には「射水郡 速川神社」が記載されており、「速川」(ソフ川⇒祖父川 と変化)の下流の高岡市早川地内には現在も【延喜式内社速川神社】が鎮座する。「東大寺庄園図杵名蛭庄園図」には「利波郡」と成っているが、恐らくはこの庄園から流れ出る「杵名蛭川」(※後の千保川)や「速川(祖父川)」がその下流地域で度々氾濫した為に「速川神社」が祭られたものと見られる。










■「東大寺越中杵名蛭村墾田地」について、平成29年、「国立歴史民俗博物館」は「庄園データーベース」の記載に「富山県高岡市立野」を推定位置として加えた!!







「小矢部川流域図」(※富山県立図書館蔵)











■「延喜式神名帳」とは、延長5年(927年)制定の『 延喜式』の巻九・十に記載される当時の「官社」とされていた全国の神社の一覧である。

「延喜式神名帳」記載の「越中砺波郡 七社」(※国幣小社は国司から幣帛を受ける国幣社)
・高瀬神社 タカセノ 国幣小社
(富山県南砺市高瀬 越中国一宮)
・長岡神社 ナカヲカノ 国幣小社
・林神社 ハヤシノ 国幣小社
・荊波神社 ウハラノ ヤフナミ 国幣小社
・比売神社 ヒメノ 国幣小社
・雄神神社 ヲカミノ 国幣小社
・浅井神社 アサヰノ 国幣小社
(富山県高岡市福岡町赤丸)
(※越中にはこの他に、射水郡十三社、婦負郡七社、新川郡七社が在る。)
(※「延喜式」皇典講究所、全国神職会 校訂 国立国会図書館近代デジタルライブラリー)

▼「延喜式神名帳 巻十」(利波郡・射水郡)




■「能越道高岡インター」を出るとすぐに高岡市和田地区が在る。江戸時代の記録では、「和田、是迄礪波郡なり、是より射水郡なり。」と記載され、和田迄が礪波郡であった。ここは往古、庄園「福田荘」(現在は「和田」という。)と呼ばれた。この地域の神社の「延喜式内社荊波神社」については「高岡市史」は「式内社を称するのはいささか疑わしい」と根拠も説明も無く否定している。地元では「延喜式内社荊波神社(ウバラジンジャ)」として信仰している神社について「高岡市史」は「十禪師社という比叡山山王七社の一つの神社」と主張しているが、地元の和田地区では、「延喜式内社荊波神社」は「天台宗妙法院領」になってから神仏混淆の「十禪師大明神」になったとし、現在は「延喜式内社荊波神社」と唱えている。

■最澄は797年,十禪師の一人として內供奉に任命されている。宮中で天皇の安穏を祈る事を職務とし天皇の病気平癒を祈り正月の御斎会で読師を勤めた。原則として地位は終身で、後に空海の甥の円珍も就任している。

■「荊波神社」は延喜式諸本で「宇波良」と有り、カナは「ウハラノヤフナミ」となっている。「荊波」と書いて「ウバラ」と呼ぶのは何故か? カナの通りに考えれば、「ウバラの里に在ったヤブナミ神社」となる。
⇒日吉山王七社権現の一つの「十禅師」とは、「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を権現とし、国常立尊(クニノトコタチノミコト)から数えて第10の神であり、「地蔵菩薩」の垂迹神(スイジャクシン)とされている。両部神道で「垂迹」とは、本地垂迹説(本地仏・垂迹神)に基づき人々の救済のために仮に神の姿をして現れた仏・菩薩とされ、本地仏も神の本来の姿の仏・菩薩をいう。比叡山の山王七社の一つ。
「延喜式内社荊波神社」について県内では争論が在るのは事実だが、「高岡市史」はその根拠も示さない。「延喜式内社荊波神社」については富山県福光町岩木、砺波市にも有り、この神社は石黒氏の祖の「越中利波臣の先祖」の「日子刺肩別命」を祭神にしている。浄土真宗大谷派金色山慶誓寺の近くには「荊波神社」が鎮座し、昔は山伏「石黒山寛勝寺」が別当を勤め、この神社後方の山中には福光町指定史跡の「志留志塚」(利波臣志留志の墓)が在り、宝歴二年から大正八年迄の167年間、石黒氏が石動山修験道の山伏として別当を勤めた神社である。1653年(承応二年)「越中国式内等旧記」に「岩木富士神社 同郷(石黒郷)岩木村鎮座、称富士権現 旧社地」と有り、当初は「富士権現」(※富士山本宮浅間大社の事で本地仏は大日如来)と呼ばれたこの神社は、「1759年(宝歴九年)神社改書上帳」にはじめて寛勝寺と共に「荊波神社」として記されたと云う。加賀藩士森田柿園はその著作「越中志徴の岩木富士社」の項で、「荊波はヤブナミと呼び地元にウバ桜と云う巨木が在り、この桜から誤って荊波神社(ウバラジンジャ)と言った事著明也」と記載してこの縁起に疑問を示し、本来「ヤブナミ」と呼ぶのが正しいと云う。大正時代に寛勝寺が無くなり、宮司が城端町北野の利波氏が宮司となり、宮内省諸陵寮が「記塚経塚」(志留志塚)を調査して「利波臣志留志」の塚と認定されると、一躍、この神社に「延喜式内社荊波神社」としての認定運動が起ったと云う。この神社も当初は「富士権現」と呼ばれたが、大正になって一躍、「延喜式内社」とされた神社で有り、この神社にも明確な資料は無い様だ。しかし、福光町岩木の「荊波神社」の祭神が一時期、「富士権現」とされた事については、氏神としていた石黒氏が一向一揆に破れて福光町を追われた為に一向一揆の勢力により「日子刺肩別命」が排除されていたのではないかとする意見も有り、興味深い。しかし、利波臣志留志が荊波神社の祭神とは何にも記載されていない。(※「砺波散村地域研究所研究紀要第18号 」尾田武雄氏論考、「越中志徴」 参照)
安栄四年(1775年)三月の高山彦九郎の「乙未 イッピ の春旅」に拠れば、倶利伽羅山から越中側に降りた際に「松長よりこなたに巴と山吹が塚とて二ツ有。天池より下がる。となみ山、関の清水、ぐみの木林、卯の花山、山吹塚、塚の東に蓮沼あり。ー町の右に八幡の社あり。」と記載されている。ここで注目するのは「ぐみの木」の林が砺波山に在った事だ。「ぐみの木」は富山県内の各所に野性のものが自生しているが、この木には沢山の「荊 トゲ」が生えており、赤い小さな食用の実を付け、群生して一面が緑色の野原になる。砺波山の山並みは福光に連なり、江戸時代には正にこの山並みに「荊波」が在ったらしいのだ。(※「越中、能登と北陸街道」深井甚三著)

■「荊」は明治時代に発行された漢字辞書によれば、フリガナには「スハエ、オドロ、スハブキ、ハマバエ」と記載され、オドロ(棘)とは[蕀や雑草が生い茂った]、スハブキとは[ツワブキという黄色い花が咲き葉の表面が光っている草花]、ハマバエとは[海岸の生物の死骸等に発生する蠅]、スハエとは広辞苑によると[すわえ【楚・杪】スハエ(古く「すはゑ」とも表記)
①木の枝や幹から細く長くのびた若い小枝。しもと。
【枕草子】に
[名おそろしきもの]
名おそろしきもの。青淵。谷の洞。鰭板(はたいた)。鉄(くろがね)。土塊(つちくれ)。雷(いかづち)は名のみにもあらず、いみじうおそろし。疾風(はやち)。不祥雲。矛星(ほこぼし)。肘笠雨。荒野(あらの)ら。 強盗(がうだう)、またよろづにおそろし。らんそう、おほかたおそろし。かなもち、またよろづにおそろし。生霊(いきすだま)。蛇(くちなわ)いちご。鬼わらび。鬼ところ。荊(むばら)。枳殻(からたち)。炒炭(いりずみ)。牛鬼。碇(いかり)、名よりも見るはおそろし。
②刑罰の具。杖じようやむちの類。笞しもと。
宇津保物語蔵開下「百荊してよく打たばや」]
となっており、近年考えられていた「棘のある植物、蕀」とは少し異なり、雑草、雑木、ツワブキ等の草花等を指していた様だ。又、古代の(記紀ー古事記、続日本紀)によると[荊(シバ) (紀・欽明天皇・岩波大系)]と読んでおり、雑木を指したようだ。

■奈良東大寺正倉院に「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」が在る。この場所は独立行政法人国立文化財機構監修の「日本の美術NO521」に拠ると、「高岡市戸出伊勢領、狼、市野瀬、市野瀬新付近に比定される」としている。(※「東大寺の越中国内の庄園位地推定図」に詳しいー富山歴史館 富山新聞発行 参照)
「越中国三郡墾田野地図」には「伊加留伎村図」の左手に記載されている。図面には、東杵名蛭川、西石黒川と記載され、庄園内には「石黒川」と「速川」が走り、「石黒川」は敷地内で「速川」と分岐している。神護景雲元年の墾田地図では伍拾捌町伍段伍拾陸歩(58町5段56歩)であり、図面の南側境界線の中央部に[廿二條石黒上里]、図面中心部に「石黒中里」、左端には[廿三條荊原上里]と記載されており、この庄園は「石黒の里」を中心に開発され、東側に「荊原里」が在った。この庄園には神社が三ヵ所在った事も記載されている。高岡市内には「早川」という地区が在り、石黒氏の居城の木舟城の近くには「黒石川」が在る。これがそれぞれ「速川」「石黒川」の転化したものなら、この庄園「杵名蛭村」の位置はもう少し小矢部川沿いの立野、高田嶋地区に在った可能性がある。小矢部川が西山の麓を走っていた頃は小矢部川の対岸に在った現在の赤丸村向野新村辺り迄「杵名蛭村」は広がっていたと考えられる。小矢部市保管の古図「越中四郡絵図」と照合するとその位置関係が推定できる。天皇家の庄園「越中吉岡庄」は赤丸村から西五位を含み、後の五位庄の内「東五位」と呼ばれた地域はこの「杵名蛭庄」の地域と重なる事が考えられる。福光町吉江村自治振興会発行の「吉江の昔と今」に、「木舟城城主石黒左近の家臣高田孫兵衛は(高岡市の)高田嶋地区に住まいした。」と記されている。この様にこの地域も石黒氏の所領だったと云う。小矢部川を挟んだ「赤丸村」の対岸に在る「高田嶋」は加賀藩時代は「赤丸村領高田嶋」で五位庄の一部で有り、ここには聖武天皇の祈願社と伝わる「五位庄神社」 が今も鎮座し、赤丸浅井神社の神官が奉仕されている。赤丸村の「浅井城」は石黒氏の居城であったと云う。
(※【五位庄は、加越能三州地理志稿には東福田郷、西能登羽咋郡南庄、糸岡郷、北射水郡の間に展開せる五十六ケ村の地域を称し、以前は吉岡の庄を指称するものにして、後鳥羽院の後院から五位庄と転化したものである。】「宗良親王」越中宮奉讃会編 富山県立図書館蔵書 参照)



■この図面には「利波臣志留志」が立ち会った署名が在る。利波臣は石黒氏の祖と云われるが、この時に既にこの庄園図に「石黒の里」「石黒川」の記載が在り、同図に「利波臣志留志」の署名が在った事はどのように考えれば良いのだろうか? 福光町の「石黒庄」が「石黒氏の発祥の地」とされている事との関連性はどうか? 又、新しい歴史の謎が現れた。
(※「石黒荘」は「黒い石」が在った事から「石黒荘」になり、利波臣は石黒氏を名乗ったと云う伝承がある。「速川」は「早川」とも考えられる。)
中世の福光、福野町地域には「石黒庄」と呼ばれる広大な庄園があったという。当初は、後三条天皇の祈願寺の円宗寺領であったが、鎌倉期には[山田郷・弘瀬郷]、[石黒上郷・中郷・下郷]、[吉江郷・太海郷・院林郷・直海郷・大光寺郷]の三荘に分かれていた。石黒庄は利波臣の子孫の石黒光弘等の石黒氏の本貫地とされている。石黒系図の中の「石黒信家」の一族が「石黒下郷」を根本の所領地としていたと云う。元々、武内宿彌の子孫(古事記では同族とされる。)の利波臣は蘇我氏と同族だが、藤原利仁の子孫の加賀の林氏と婚姻して、林氏の名跡を継いで以後、林氏の「藤原氏」を名乗る様になる。十三世紀半ばにはこの石黒庄弘瀬郷に「藤原定朝」と言う地頭が登場する。この一族は元々この地の開発領主だったが、円宗寺家人となり下司職に任じられていたが、木曽義仲の進出の時には所領を安堵され、鎌倉幕府では後家人となり、弘瀬郷の地頭職に任じられていた。その後は、地頭として勢力を拡げ当初は弘瀬郷41町歩強の中に地頭給田一町と一町の「重松名」を得ていたが、十三世紀半ばには十三町歩に迄し、税も二割から三割に引き上げて私腹を肥やす様になる。「領家」と呼ばれた庄園の所有者の京都仁和寺菩提院も藤原定朝の不法を幕府に訴えるが地頭は越中守護名越氏と組んで領家を圧迫したと云う。(※「改定郷土史事典 富山県」広瀬誠著)
しかし、これ等の事から見ると、年代は異なるものの、福光、福野の辺りには[石黒上郷・中郷・下郷]が在り、東大寺庄園杵名蛭庄の中には「石黒上里・中里・下里」が在った事になる。

■延喜式内社のフリカナから推定すると、「荊波神社」と「延喜式内社荊波神社」は元々、別のものであり、和田の「荊波神社」は「杵名蛭村」の東側の「荊原里 ウバラノサト」、後の「福田荘」に在った神社で、福光の「荊波神社 ヤブナミジンジャ?」は福光町の石黒荘の「利波臣」の氏神であった可能性が高い。どちらも「石黒」所縁の土地と考えられ、明治以降に廃仏毀釈と国家神道の影響が強くなった為、「延喜式内社」の認定と神社の昇格運動が活発になった背景がある。「延喜式神名帳」の古記註記に「ウハラノヤフナミ」とフリガナが有るものが有り、その為に論議を呼んでいる。この註記に拠ると[「荊波神社」は「荊原」に有る。]となる。この註記に拠れば荊原里(後の福田郷)に在った荊波神社が「延喜式神名帳」記載の神社になる。高岡市の和田地区は暴れ川の庄川と小矢部川に挟まれた下流域にある。「荊」はトゲのある野バラ等の植物を指し、山野には「野バラ・野イチゴ」等が繁茂している。和田地区では、大伴家持の歌が残る「夜夫奈美能佐刀」は福田庄の「延喜式内社荊波神社」が在った地域だとしている。「杵名蛭村墾田地図」を調べるとこの庄園の中は「足原田」(葦が生えている。)、「柴田」(山野に生える小さな雑木や雑草を芝草と云う。)、「野」「未開地」となっており、農作物や、屋根材、雨具の簔等に用いた「葦」と、「燃料にする雑木」・「肥料にする雑草」を生産していた事が判る。何れも当時としては生活上の必須の資材で有り、寺社も専用の畑や山林を所有していたと云う。
【※「足原田(葦原田)」については、和田地区の「荊波神社」(高岡市和田954番地)の祭神が「瓊瓊杵尊ニニギノミコト」で有り、この神は「日本神話で、天照大神の孫で天忍穂耳尊の子。天照大神の命令で「葦原の中つ国」を統治する為に高天原から日向高千穂峰に天降ったとされる。木花開耶姫を妻として彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)=(若狭彦神社祭神)を生んだとされる。「足原」は「稲」を指すとも思われる。「葦原中国」とは日本神話においては天上の「高天原」と地下の「黄泉の国」の間にあるとされる世界ですなわち日本の国土の事であると言う。「瓊瓊杵尊」は富山県では「二上神」とされる「二上射水神社」の祭神でもある。「若狭彦神社祭神」は福井県若狭地方:小浜市所縁の神で有り、石黒氏の祖の利波臣志留志は「角鹿臣 ツヌガノオミ=敦賀」を祖とすると云われる。(古事記では両者は兄弟とされる。)高岡市和田の「荊波神社」、「二上射水神社」には「彦火火出見尊」の父の「瓊瓊杵尊」を祭神としている事から一族の「利波臣」「射水臣」の影響が窺われる。[※若狭彦神社祭神(若狭国一宮)の「彦火火出見尊」は「海幸彦・山幸彦」の物語の「山幸彦」の事。】

(※「角川日本地名大辞典」には【立野村は礪波郡五位庄のうち。特産品は菅笠。立野村の隣接地に高田嶋村、渡り村、樋詰村、下開発村の他に「柴野内島」が有った。】と記載される。菅は沼地・河川に繁茂した「菅」を加工して傘にしたもの。昔は野山の雑草を腐らせて肥料にしたらしく、加賀藩の時代も「小矢部川対岸の石堤、麻生谷、柴野地区から山の柴草を運んでいた」記録がある。ここで云う柴草は山野や河川敷の雑草や山合いに流れていた「谷内川」の周辺の「葦」等も含まれていたと見られる。「葦」は同じ環境に育つ川辺の雑草の「菅」を指したかも知れない。谷内川には「赤丸清水山」から流れ出ていた京都の清水山に因んだ「愛宕の滝」が流れ込んでおり、相当な水量があって観光地ともなっていた。その谷合には観光客、保養客目当ての「谷内の湯」が開かれ、著名な温泉地で在った。従って、谷合には広大な山野草が自生していた沼地も広がっていた様だ。)

(※高岡市博労町の「安養山極楽寺由緒」に「五位庄に二百数十年在った」事が記載されており、「後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が創建され、その時に地元の郷士の柴田、柴、本間氏等がお仕えした」と記載される。「越中宮極楽寺」は「越中吉岡庄」の赤丸城ヶ平山の「極楽谷」に創建されたと伝わり、現在も高岡地方法務局には「極楽谷」の古い絵図が遺されている。赤丸浅井城の周辺地域には古くから「柴田」、「柴」等と名乗る一族が繁栄し、現在も高岡市赤丸村、石堤周辺に柴田という一族が多く、加賀藩の時代には豪農一族がおり、村役を努めていたと云う。)

▼(※石黒氏は木舟城に「貴船神社」を祀ったとされているが、京都の貴船神社の祭神は水神である「淤加美神、または、たかおかみ神タカオカミノカミ」を祀り「たかおかみ」(※文字化けの為ひらがな記載)は「雨の下に龍」を書き、龍神を祀っている。しかし、木舟城の「貴布禰社」の祭神は水神の[罔象女命(みつはのめのみこと)]で有り、「大伴家持の後胤大伴右京持定の勘請なり」と言う由緒を持つ。この神社の神官は福岡町の佐伯神官で有り、大伴氏の一族である。石黒氏の氏神は福光町岩木の荊波神社の祭神の「利波臣志留志」の祖先神「彦刺方別命ヒコサシカタワケノミコト」とも云われている。石黒氏の後の木船城城主佐々成政を追いやり城主となった加賀藩前田家は貴布禰社の祭神を犬に繋いで近くの川に流して何れが助かるか競わせたと云う逸話がある。この城の近くには物流を担った河川が在ったと云う。貴布禰社は石黒氏の祭神と言うより赤丸浅井神社の脇社の石堤浅井神社と同じ祭神を祀っている。
「越中石黒系図」に拠れば「赤丸浅井城」の「石黒光景」は「木船城」の「石黒光弘」の父親で在り、山城の「赤丸浅井城」の出城として築かれたのが、「平城」の「木船城」で在ったと見られ、京都から勧請された赤丸村の「川人山鞍馬寺」の持ち宮として「木船城」に「貴船神社」が祭られた事は容易に推測できる。「赤丸浅井神社」には「大伴氏の祖先神」で「皇室八神の一柱」の「高御産霊神」を祭神として祭り、「貴船神社」の神官は「大伴氏」が勤めていたという伝承にも合致する。「吉岡庄の地頭成佐」が木舟城の周辺の「大瀧(大竹)地区」を開発したと言う伝承から、赤丸と加茂集落の間に在った吉岡谷の吉岡氏が勘請したものであったのかも知れない。)

🔽「蓑のしずく」(福岡町 中川幸作著)に記載される「赤丸浅井城」と「木船城」の位置図と近くを流れていた小矢部川支流の「唐又川」


「貴船神社」の御神体「大彦命」が記載される。


🔽「元々赤丸村」に在った「総持寺」(※高岡市関町)から最近発見された福岡町の「貴船神社」の御神体「大彦命」の石像⇒「天正元年」の記載が在る。天正十三年には「飛越大地震」により「木船城」は前田一族、家臣諸共、土中に埋没して全滅し、生き残った木船城下の住民は高岡城城下に移り「木船町」に住んだ。


🔽「赤丸村柴田彦四郎寄贈の赤丸浅井神社の大鏡」img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/8d/efc60643a8e1efc79301ccabb546edb8.jpg" border="0">


■五位庄立野村周辺には「柴野内島村」、小矢部川対岸には石堤村の隣地に「柴野村」が有り、古代荘園図の呼び名「柴田」の名残りを残している。推定される高岡市立野、高田嶋地区の域内には現在も三ケ所の古い神社が在り、「荊波神社」の在った和田地区の西に位置する立野地区に「福田神社」、上渡りに「八幡宮」、高田嶋地区には「五位庄神社」が在り、この周辺には60町歩位の農地は在ったであろう。(明治4年の立野村には畑2町歩、田62町歩が有ったという。未開地が多い古代にはもっと広範囲の庄園で有ったと思われる。この荘庄園図には但し書きに、「未開田地42町1段234歩(荒地19町6段60歩、定地22町5段174歩)、未開16町3段182歩」と記載される。)高岡市立野の鎮守「福田神社」は元「八幡宮」で八幡神を祭神とし、上渡りの「八幡宮」も現在は天照皇大神を祭神としているが八幡宮を名乗っている。高田嶋地区には「五位庄神社」が有り、「聖武天皇の御宇勅使門部連某卿が社殿を建てられ規模宏大」とする由緒を持ち、祭神は伊勢の「天照皇大神」と境内末社として諏訪神社の祭神「建御名方神」を祭る。この三社は何れも聖武天皇、東大寺との繋がりを持ち、併せて高田島地区は東大寺大仏建立に貢献した利波臣志留志の後裔の石黒氏の所領であった。この地域を開発したと推定される国人領主の池田氏は木曽義仲を埴生護国八幡宮に案内した「池田次郎忠康」の末裔と考えられており、木曽義仲は各地に諏訪大社を勘請している。この池田氏は小矢部市今石動(旧名は池田)、赤丸城ケ平山の麓一帯の「池田島」、氷見市の池田、高岡インター近くの池田地区等に名を残し、赤丸の総持寺旧地の周辺の池田島地区の開発を行い、高岡総持寺の敷地も寄進したとされている。この池田家には古く「イバラノ宮」と呼ぶ持ち宮が在ったが、今は旧地も農地に変わっている。この「イバラの宮」の場所は高岡インター周辺の池田地区周辺と推定され、今も高岡市細池の自宅の庭にこの神社に在ったと云う「地蔵菩薩の板光背」と「旧地の写真」が残されている。(※「池田家」には高岡市の総持寺に祀られている国指定文化財木造千手観音座像の鎌倉時代の「僧型の胎内仏」(※千体地蔵か?)と、加賀藩八家の奥村家から池田与三吉に嫁いだ姫が持参した「奥村家の兜仏ー観音像」と「懐剣」も伝わっていたと云う。)

【※高岡市柴野内島の隣接地の東石堤地内に八幡社の小さい社と小さな森が在り、古老に聞くと、昔は集落の墓地になっていたと云う。この森には鬱蒼と野イバラが繁茂し、池田家に残るイバラの宮の写真と酷似している。この隣接地は池田家が開発した高岡市池田地区である。】
この石造の「光背」とされるものは中央に円が有り「徳明」と彫られる。両部神道では「瓊瓊杵尊」の本地仏は「地蔵菩薩」である所から、元は仏像の「板光背」と見られ、一部に「バラ?」の花の模様が刻まれている。「十禪師大明神」の本地仏が「地蔵菩薩」で有り、神道では「瓊瓊杵尊」を御神体とする事から、和田地区の人達の伝承が正解で有り、「高岡市史」の編集者には両部神道への理解も無かった様だ。場所的にもこの池田地区は和田地区の隣接地で在り、旧地が不明とされている和田の「荊波神社」の旧地がこの池田家の持ち宮の「イバラノ宮」と推定される。
(※和田の「荊波神社」の由緒に「福田庄10ケ村総社」とされており、古の福田庄は、現在の和田から福田六家、立野地区迄を含んでいたと思われる。)
この池田家が高岡市関町の「総持寺」の敷地を寄進したと伝わり、高岡市郊外の鴨島地区の一帯が古くは石黒一族の「鴨島七郎」の領地で在った事から、池田家は石黒氏との親族関係とも推定される。武内宿祢の系統図からすると石黒氏の祖の利波臣志留志は池田氏の祖の紀氏等と同じ「武内宿祢」を祖とする。又、木曽義仲に従った越中の国人は石黒氏の他、鴨島、向田、池田、福田等とし小矢部市から高岡市に至る国人領主が総て義仲軍に参戦していた様だ。
小矢部市の「今石動』もその昔は「池田」という地名で有ったと云う。
(※「治承・寿永の内乱論序説」浅香年木著参照、「源平盛衰記」、「池田市衛門家伝承・写真・石碑」参照)

【※「八幡宮」は応神天皇(誉田別命)の神霊で神功皇后、玉依姫を祀り、元々は「東大寺の鎮守」で有り、大仏の傍らに祀られていたと云う。東大寺大仏造営の時に九州の「宇佐八幡宮」が聖武天皇に全面協力を申し入れた為に、天皇は感謝の意を示して宇佐八幡宮に庄園を献じて東大寺大仏の鎮守社にしたとされる。高岡市福田周辺には八幡神を祭神とする神社が多い。東大寺庄園に東大寺鎮守の八幡宮を祀ったと見られる。(※「故事類苑 神祇部一」参照)→平家が東大寺を焼いたのは源氏が八幡太郎義家にちなんで八幡神を氏神とした為か?】

又、この地域には石黒氏の居城の在った福岡町「木舟」付近を通過する「黒石川」と、礪波、庄川近くから流れてくる「祖父川」が流れ、この川の下流域の小矢部川河口の高岡市内には「早川地区」が在る。「祖父川」は古い絵図(小矢部市史参照)には「ソフ川」と表示されており、明らかに「早川」⇒「速川」から読み名が変化したものである。この辺りは小矢部川が氾濫して河川敷だった事もある。この地域こそ「東大寺庄園杵名蛭村墾田地」の絵図にほぼ条件が当てはまる様に思われる。小矢部市の江戸時代初期の「越中四郡絵図」に拠ると、木舟城の至近距離を流れていた川が「黒石川」と見られ、古い時代には現在と流れが相当異なっていた事が判る。ただ古の小矢部川は西山の麓を流れていたと浅井神社由緒に記載されており、庄園の範囲や川の位置が大きく変わっていた可能性がある。(※「越中四郡絵図」小矢部市図書館蔵 参照)
又、「祖父川」と「庄川」の間には、後に高岡城の水利となった「千保川」が流れているが、位置的にこの川の事を「杵名蛭川」と呼んでいる様だ。この河川も時代により蛇行を繰り返したとすれば、現在の「荊波神社」の周辺には水郷、河川敷が広がっていた事も想定されるのだ。

▼この現地の状況を「国立歴史民俗博物館」に連絡した所、「庄園データーベース」の「東大寺庄園杵名蛭庄」の比定地に「高岡市立野」が加えられた。

・【東大寺庄園杵名蛭庄】
(※「庄園データーベース」)

(※「国立歴史民俗博物館」のHpで閲覧可能)



小矢部川沿いの「高岡市上渡り地区」には「五位の渡し場の石仏」と「神社跡」が残っている。







■「小矢部川沿いに開発された直後の赤丸村向野新村絵図」(※「杉野家文書」福岡町歴史民俗資料館蔵)当時の河川敷は混沌としていた様子が判る。

🔴【吉田神道高岡関野神社】が創作した偽の【高岡御車山祭り由緒】!!

2021-04-15 | 富山県高岡市


■「吉田神道高岡関野神社」は、「前田利長」を祭る神社として、数々の神社の簒奪を試み、元々は、「越中宮極楽寺」が祭る「後醍醐天皇王子宗良親王」の信仰を伝える「熊野社」の祭礼を簒奪した。
かつて、「高岡関野神社」は高岡市熊野町の「先宮熊野社」や「赤丸浅井神社」の末社の「石堤浅井神社」を簒奪せんとして動いたが、いずれも氏子衆の猛反発に会い、神社簒奪の試みは失敗した。
しかし、明治維新で「両部神道廃止令」が出されると、「高岡関野神社」はかつての加賀藩前田家の権威を利用して、両部神道の神社由緒を関野神社の由緒に組み込み、デタラメの「神社由緒」、「寺社由緒」を吹聴して、「数々の悪業」を重ねている。







■【高岡市史】はこの「吉田神道史観」に基づき一人の編集者が偽造した「大作」で在る。
数々の「高岡市史」の根拠は、「高岡関野神社神官関氏」が作文した「誠しやかな作り事」を根拠に書かれており、現在の「高岡市」、「高岡市教育委員会」の教育・観光のアピールの根幹になっている。
かつて、「吉田神道」が天皇の権威に反抗して徳川幕府と組み、勝手に伊勢白川神道の「神祇官」を詐称して、勝手に「神祇管領長上」等の官位を詐称して、「白川神道」に対抗した。
全国の神道研究者は、「吉田神道」が歴史を歪曲して数々の悪業を行った事は周知の事実で在る。
しかし、「偽前田教」の新興宗教に毒された「高岡市」では、「高岡市に1600年以前の歴史は無い」等と教育委員会幹部が喚くほど、「加賀藩本藩」に伝えられる歴史すら信用せずに、誠しやかな「作文」を唱え続けている。高岡市では「偽歴史書」の「高岡市史」を【信仰】しているが、根拠となる「古文書」等の資料は、高岡町人や関野神社関係の者達が唱えて作文した資料ばかりで在る。
その為に、「高岡市史」では「資料編」が存在せず、さすがに作文したものを「資料」として刊行する度胸迄は無かったものと見える。
しかし、この「吉田神道」の毒素は、現在の近代的な高岡市に於いても、密かに市民生活に浸透して、信じがたい歴史を行政、マスコミも吹聴し続けている。
「高岡市」は、正に「歴史創造都市」を標榜して、ひたすら、「フイクション」に基づき町作りを推進して、惜しみなく「町衆」を自認していた高岡市旧家や前田家恩顧の寺社に税金を投入して、その為に多額の負債を作り、財政は破綻した。近年盛んに行われている市街地再開発の補助金や寺社の改修も、国1/2,県市の補助金が1/2となっており、巨額の税金が投入される事によって財政危機をもたらしている。
問題は税金投入のみならず、投入の効果測定も公表されていない。
国の税金投入では、投入金額を遥かに上回る「効果」が無ければならず、これは「B/C」という規準で算定され、税金投入は「B/C」=1.0以上になっている。(※BENEFIT/COST)
効果の無い再開発に税金を投入するのは、正に「ドブに税金を捨てる行為」で在り、議会は厳重に監視すべきだ。
公費を使用して、「加賀藩の殿様」にでもなったかの様に、温泉で傍らに女性を侍らせてジビエ料理を堪能するだけが議会の仕事では無い。寧ろ、議会にこそ獅子身中の虫が巣くっている。
これが加賀藩の悪習慣で在る「料亭文化」だと勘違いして、「加賀藩」を標榜して税金を浪費する者達は先ず議会に辞表を提出すべきだ。

■「吉田神道」の【高岡関野神社由緒】(※貞享二年寺社由緒書上げ)


🔴🏯 🔹徳川家康の旗本となった富山県高岡市の守山城城主「神保氏張」系図 ❗❗

2021-04-15 | 富山県高岡市








■高岡市の守山城城主「神保氏張」は、能登畠山氏から神保家に養子に入り、織田信長の妹を妻として上杉謙信と戦ったが敗れて上杉謙信家中となる。その時に信長の妹とは離縁させられ、信長の妹は再婚している。その後、織田信長軍が越中に攻め込み、再び信長幕下の佐々成政に従う。信長亡き後、佐々成政と共に、木舟城の佐々平左衛門、柴野城の寺島牛介・小島甚助兄弟、牛介の甥の中山直治等と共に富山県と石川県境の西山を越えて末森城に向かい、能登末森城で戦った。しかし、末森に向かう途中で、五位庄沢川村の土豪の田畑兵衛が前田利家に内通して、道案内と称してわざと山中を引き回して末森城への参陣を遅らせた為、その間に、前田利家が応援に駆け付けて、佐々陣営は奮闘空しく撤退した。その後、前田利家の通報で、豊臣秀吉が呉羽山に押し寄せると、佐々成政は恭順の意向を示して降伏し、成政は秀吉から一端、新川郡を知行されたものの、再び九州肥後に転封される。神保氏張は佐々成政と共に肥後に移ったが、成政の検地に怒った農民の一揆に手こずり、秀吉から切腹を命じられた。その為、神保氏張は再び流浪して、徳川家康に仕官して旗本として家康に仕えた。


■この時に、寺島牛介・小島甚助兄弟は末森の戦いでの鉄砲の腕を買われて前田利家に仕官して、高岡市伏木の勝興寺の一画に屋敷を構えた。後に寺島牛介家に原家から養子に入った「寺島蔵人」は加賀藩で高岡町奉行、算用場奉行等を歴任して、藩の財政改革に貢献したが、耳障りな意見書や大きくなった蔵人の勢力を警戒した第十三代加賀藩主前田斉泰によって能登島に流罪となり、そこで生涯を終えた。現在も「寺島蔵人邸」は金沢の観光地として残されている。


■畠山氏張が養子に入った「神保家」は、系図に拠ると、先祖は秩父平氏の中村、土屋、二宮を名乗り、氏張の数代前から「神保」を名乗って「守山城城主」となっている ❗❗

■【越中の『神保氏』には系図に拠ると、能登畠山氏家臣の[平姓良文系]と[惟宗姓系]の系統が在る。
・元々の越中守山城の神保氏は、系図に因ると、上総一族の千葉一族で有数の大族であり、千葉介常胤の叔父にあたる常康が印旛郡臼井庄(千葉県佐倉市臼井)に移住して臼井と称した。上総一族の臼井常康の子の常員が「臼井庄神保郷」(船橋市神保町から八千代市)を領して神保を称した。千葉氏は平安京時代の桓武天皇の血を引き「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた。平安時代末期、千葉氏の惣領であった「千葉介」は、下総国(千葉県北部から茨城県の一部)の在庁(国府に出仕する地方官僚)としての「介」を称し、千葉庄を本拠とする地方豪族で平家に敗れた「源頼朝」を同族の「上総権介広常」と共に、挙兵から一貫して協力して「源頼朝」の信頼を得て鎌倉幕府の成立後には東北から鹿児島に至る全国各地に領地を与えられた。承久3年(1221年)の「承久の乱」で宇治川の戦いで神保氏の一族が幕府側で活躍している。(※「吾妻鏡」)⇒「神保氏張系」
・鎌倉幕府御家人、六波羅探題評定衆の大内氏に仕えた神保氏の一流は、「臼井常俊」が嘉暦3年(1328年)越中国守山庄神保に移住して神保を称したとされる。臼井常俊の7代孫の神保時綱(左近将監)の次男の「神保尹胤」は延徳元(1489)年 延徳元年(1489年)に足利義尹(足利10代将軍)に仕え、義尹は義材と改めたが、明応2年(1493年)に管領の細川政元により京都を追放されて越中に逃れた。その翌年の明応3年(1494年)9月に、足利義材は細川政元追討の為に越中で挙兵し、細川政元も新将軍足利義高(義澄)を奉じて義材討伐軍を起こした。足利義材は近江・河内の戦いで連敗し、周防・長門守護の大内義興を頼って落ちて行った。神保尹胤もこれに供奉して大内氏の重臣となった。この系統は富山城や放生津城の「神保長職」の系統とされる。この系統は九州の島津氏と同じ「惟宗姓」とされる。

■東京神田の神田神保町は、徳川家臣名簿に在る「惟宗系 神保長職」の系統の屋敷跡で在る ❗】

■守山城の「神保氏張」の系統は、先祖を「良文系平家」として、中村、土屋、二宮、神保と改姓しており、この一族は「守山城」に入城した時に「神保」を名乗った様だ。
・桓武平氏の「千葉氏」は、「千葉宗家」「千葉六党」「良文流」「千葉一族」等の大族で、「神保氏張」が養子に入った神保氏の「良文流」でも、平良文の末裔、三浦党、三浦惣領家、岡崎氏、和田氏、蘆名氏、正木氏、秩父党、秩父氏、河越氏、畠山・小山田氏、江戸氏、渋谷氏、鎌倉党、鎌倉氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏、中村党、中村氏、土肥氏、小早川氏、土屋氏、二宮氏、平良文の兄・平国香の子孫、平良文の兄・平良兼の子孫、安達氏他の氏系統を持つ。
(※「千葉一族」http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/index.htm 参照)

■(※「改選諸家系図」徳川家臣系図)







📙📃 富山県高岡市立野周辺(※五位庄)の【東大寺庄園杵名蛭庄】と 聖武天皇の勅願社【五位庄神社】!!

2021-04-15 | 富山県高岡市
●「延喜式内社福田荊波神社」と【東大寺庄園杵名蛭庄】⇒高岡市立野周辺の東大寺庄園と多くの神社の立地 !!










高岡市校外の能越道高岡インター近くの福田地区に「荊波神社」と書いて「ウバラジンジャ」と呼ぶ「延喜式内社」が在り、富山県には同名の神社が他にも数社在る。福田の神社は神社庁の資料に拠ると、二上射水神社と同じ「ニニギノミコト」を祭神としている。しかし、砺波他の同名の神社はその祭神は「利波臣志留志」の先祖とされる『彦刺方別命』を祭神としている。云う迄も無く、延喜式内社は「延喜式神名帳」に記された国家の神々で有り、天皇でも「神代」の人物が「祭神」となっており、福田以外の神社は「延喜式内社」としての性格から外れている。
(※「福田神社」と言う神社はどういう訳か、隣地の立野地区に在る。)
「東大寺庄園杵名蛭庄」の図面を検証すると、この『庄園の隣地』には「荊原里」が記載されている。この読み方は正に「ウバラ」である。又、「石黒上里」、「石黒中里」の表示も有り、「速川」の表示もある。現在、立野周辺を流れる「祖父川」は古い図面では「ソフ川」と記載されており、祖父川の下流の高岡市には「早川」地域もある。
※(「速川」⇒「ソフ川」⇒「祖父川」⇒「早川」)
古地図に在るこの地域の他の河川も現在の河川と良く似た位置に在り、この庄園は、高岡市立野周辺に在った庄園と推定できる。高岡市高田島地区の【五位庄神社】は「聖武天皇勅願社」とされており、東大寺大仏の発願をされた聖武天皇が関係している。(※「富山県神社誌」)

■高岡市のインター周辺の池田地区を開発した高岡市細池の「池田家」には、その領内に在ったと言う「イバラの宮」の旧地の写真と、「徳明」と彫られた仏像の板後背が保管されている。この板後背は、明らかに「地蔵菩薩」のものであるが、仏像本体は何処へ移されたかは不明と云う。福田の「荊波神社」は「ウハラノヤブナミ」とフリガナのある古い神名帳も有り、「ウハラ」地区の「ヤブナミ」神社と解説しているものも在る。又、この神社は、「福田庄」が「後白河上皇」や「後醍醐天皇皇子宗良親王」とも関係が深い「妙法院領」になった時に、比叡山に祭られている「十禅師社」が祭られていたと云い、この神社は「両部神道」では本地仏を「地蔵菩薩」としている。池田家は源平の昔から続く旧家と推定(※「治承・寿永の内乱論序説」朝香年木)されており、その領地は氷見の池田地区から小矢部市迄の広範囲の地域に展開していたと推定されており、この池田家には高岡市総持寺の「胎内仏」が祀られている。この古い氏族が、「イバラの宮」を自らの庄園の中に祀っており、その祭神(※地蔵菩薩)は「何れかに移された」と云い、反面、福田の「荊原神社」は何処から移転して来たとしており、「旧地は分からない」とされている事から、この神社が池田家の「イバラの宮」と推定される。高岡市池田地区の隣接地区の「東石堤」には、池田家に保管されている「イバラの宮」の旧地の写真と良く似た「野イバラが繁茂した小さい森」と「八幡宮」が在り、この敷地が「イバラの宮」⇒「荊波神社」の旧地と推定される。

■東大寺の大仏造営の時に「宇佐八幡宮」が同意した事に感謝した「聖武天皇」が、東大寺大仏の守護神として、東大寺に「宇佐八幡宮」を勘請された事から、東大寺庄園と八幡宮は非常に密接で在ったと見ている。県内の東大寺庄園跡には八幡宮や、仏教の「法輪」を神社の建物に付けた「十二町町島神明宮」や「宮川神社」等が在り、元々の由緒が窺い知られる神社もある。

※高岡市渡地区の「五位橋」の近くの堤防下には、「義経記」に登場する「二位の渡し」の後継とされる『五位の渡し』に在った「地蔵堂」が在る。

🔴【鎌倉幕府の記録 吾妻鏡】⇒[富山県高岡市国吉]の記録 【越中国吉岡庄国吉名】の【北條朝時】の伺候人「小見左衛門の尉親家」と【五十嵐小豊次】の争論!!

2021-04-15 | 富山県高岡市







■鎌倉幕府執権[北條義時]の子供の「北條朝時」が、「承久の乱」で越後の五十嵐氏が報償として知行された「越中国国吉名」を横領した為に、五十嵐氏が幕府に訴えた。裁判の結果、知行地域は五十嵐氏の知行地域として認められている。





■【吾妻鏡】 (4 月 9 日)
【1239年 (※暦仁2年、2月7日 改元 ⇒延應元年 己亥)】
(5月1日) 庚午 人倫売買の事、向後これを停止せらる。これ飢饉の比、諧わざるの族或いは妻子所従を沽却し、或いはその身を富裕の家に寄せ、渡世の計と為す。仍って撫民の儀を以てその沙汰無きの処、近年甲乙人面々の訴訟、御成敗の煩い有るに依ってなり。





(5月2日) 辛未 (越後の)【五十嵐小豊次太郎惟重】と【遠江の守(北條)朝時】の伺候人(代理人)「小見左衛門の尉親家」と、日来相論の事有り。今日前の武州の御亭に於いて一決を遂ぐ。亭主の御不例未快と雖も、これを相扶けその是非を聞こし食さしむと(綿を以て御額に結び、鶏足を懸けらる)。匠作渡御す。主計の頭師員・駿河の前司義村以下評定衆等列参す。これ「越中の国国吉名」の事なり。
惟重則ち当所は「承久勲功の賞」として拝領するの処、親家押領するの由これを訴う。親家また惟重の知行分は、全く惣名に亘るべからず、親家知行し来たるの旨これを陳ぶ。各々の問答に及ぶ。親家その過を遁れ難きに依って、前の武州殊に御気色有り。当座に於いて侍所司金窪左衛門大夫行親を召し、親家を預かり守護せしむべきの由仰せ付けらる。またその子細遠州に仰せ遣わさると。遠州頗る恐れ申せしめ給うと。

(5月3日) 壬申 国吉名の事、惟重裁許の御下知状を賜うと。

■【越中吉岡庄】
奈良時代から南北朝時代末期迄続いた庄園で、この地域の地域神で在った「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」に拠ればその神域は【国吉、赤丸周辺、小矢部市宮島迄を含んだ】(※富山県立公文書館「赤丸浅井神社由緒」)とされる事から、鎌倉時代は「後鳥羽上皇」の庄園で在った「吉岡庄の国吉名」を、「後鳥羽上皇」が引き起こされた「承久の乱」の戦利として、幕府は五十嵐氏に報償として知行していた事が分かる。





🔷🔹越中の延喜式内社【ウバラ神社】とは? ⇒「東大寺庄園越中杵名蛭庄」と『荊原里』

2021-04-15 | 富山県高岡市


■「東大寺庄園越中杵名蛭庄」は現在、学会では「高岡市伊勢領、狼、市野瀬地区」に比定されているが、現地を調べるともう少し小矢部川寄りの高岡市立野、池田、高田島辺りに該当する様だ。「赤丸浅井神社」の伝承では、往古、小矢部川自体が赤丸浅井神社前の西山の麓を流れており、福岡町鳥倉村から高岡市石堤、国吉辺り迄、西山のすぐ麓を流れていた様だ。その為、この杵名蛭庄ももっと西山寄りに立地したと見られる。





■【十禅師】とは?
辞書を繰ると、『十禅師』とは【日吉山王(ヒエサンノウ)七社権現の一。国常立尊(クニトコタチノミコト)からかぞえて第十の神にあたる『瓊瓊杵尊』(ニニギノミコト)を、「地蔵菩薩」の権現とみて名づける。】とされている。
高岡市福田の『ウバラ神社』はこの『十禅師』を祀り、『延喜式内社荊波神社』と書いて『ウバラ神社』と呼ばれている。その経緯としては、この福田庄が南北朝の頃に比叡山系の妙法院の庄園になっていたからだと云う。比叡山には七社権現の一つとしてこの『十禅師』を祀っている事から、「高岡市史」の様に高岡市福田の「荊波神社」は延喜式内社では無いとする意見がある。


■高岡市万葉歴史館の解説では【現在「荊波神社」と称する神社の所在地は富山県砺波市池原、西礪波郡福光町岩木、高岡市上北島(通称は福田ウバラ神社と云うが、実際の地番は高岡市和田954番地)などがある。このうち、神護景雲元年(767)の東大寺領「越中国礪波郡井山村墾田地図」の記載から、荊波の里は井山村近接の砺波市池原とする説が有力である。】と解説している。しかし、「富山県神社誌」(※神社庁)に拠ると、福田の『ウバラ神社』以外はその祭神が越中砺波郡の語源にもなっている大伴家持の後に越中国司になった「利波臣志留志」の祖先の「彦刺方別命 ヒコサシカタワケノミコト」になっている。又、砺波市池原の「ウバラ神社」は藩政期には「白山神社」と称していたという記載も見られる。
高岡市万葉歴史館が根拠としているのは、万葉集で大伴家持が
「墾田地を検察する事に縁て、礪波郡の主帳多治比部北里(タジヒベノキタサト)の家に宿る。ここにたちまちに風雨起こり、辞去得ずして作る歌一首
【夜夫奈美里(ヤブナミノサト)に宿借り 春雨に 隠りつつむと 妹(イモ)に告げつや】
二月十八日に、守大伴宿禰家持作る。」と言う一句を根拠に、この「荊波(ヤブナミ)の里」は位置からして、砺波市池原と結論付けている。

■高岡市は一貫してこの様に高岡市福田の『ウバラ神社』は延喜式内社では無いとしている。
しかし、東大寺庄園の中に越中砺波郡に在った庄園で「杵名蛭庄」(キナヒルソウ)と云う庄園が在ったが、正倉院に伝わったこの絵図を調べると、その隣接地に『荊原里』と記載されている。という事は、この庄園は『ウバラの里』に隣接して立地して、その字は『荊原』と記載されている。又、延喜式内社の一覧表の中には福田の神社のみに『ウバラノヤブナミ』 とフリカナのあるものも在り、この註記からすると『荊原里の荊波神社』という事になる。

■『延喜式』は律令制度の中の法律に当たり、醍醐天皇の時の延長五年(927年)に奏進され、その後40年を経過した康保四年(967年)に施行された。この間の延長八年(930年)には醍醐天皇が崩御され、その後、朱雀天皇を経た村上天皇崩御の後になって初めて施行されると云う長い時間が掛けられた。その中に記されていたのが『延喜式神名帳』と云う『国家の神々を祀った神社の一覧』即ち、国から幣帛(ヘイバク)と言う捧げ物が届けられた神社の一覧表で在る。従って、その祭神は国家的な神々ー即ち、皇室の重要な神々で在り、それは『神代の神々』で在る。ここで考慮すべきはその『祭神』が『人皇初代神武天皇以前の神々』で在った事で在り、「利波臣」の祖先の「彦刺方別命」は確かに「孝霊天皇の子」で在り、皇室系の一族ではあるものの「人皇第七代天皇」の子孫に当たり、これ等の神々には該当しない。
従って、「延喜式」に記載された『荊波神社 ウバラジンジャ』の祭神とは考えられないのだ。



■又、もう1つはその読み方で在る。「荊波」と記載してそれを「ウバラ」と読んでおり、どう考えてもこの字は「ヤブナミ」としか読めない。そこでヒントになったのが、「神名帳」のフリカナの「ウバラノヤブナミ」で在る。文字通りに解釈すれば、「荊原里に在る荊波神社」という事になる。しかし、学者諸氏は「荊波神社」は「荊波里」に在るべきだと云う先入観念が在り、その神社が「荊原里」に在るとは考えられないのだ。

■従って、これ等を総合すると、「延喜式内社 荊波神社」は「荊原里」が在った高岡市福田に在ったと考えられる。と言う事は、この「東大寺庄園杵名蛭庄」が、高岡市福田の隣接地に在った事になる。
(※もう1つの疑問点は、「福田神社」と言う名称の神社が別に高岡市立野地区に在り、この神社が元々の地主神とすれば、通称「福田荊波神社」は元々の「福田庄」の地主神では無いと言う事になる。⇒実際の地番は「高岡市和田954」)




■この事を検証するのに重要なヒントは、この杵名蛭庄の絵図には「速川」と言う記載が在る。これを小矢部市が所有する最古の越中絵図とされる「越中四郡絵図」に当てはめて見ると、その中には「ソフ川」と言う川が流れており、その川を現在の河川名に置き換えると「祖父川」になる。他の河川の状況や庄園内の三ヶ所の神社の表示もほぼ現在の高岡市立野周辺の神社の位置と適合する。しかも、この「祖父川」の下流の小矢部川との合流地域は現在も「高岡市早川」と呼ばれている。又、この庄園図には「石黒川」、「石黒上里」、「石黒中里」の表示が在り、「越中石黒氏」との何等かの繋がりを感じさせる。

■実際に現地を当たると、立野地区の隣接地に東石堤地区が石堤村の飛び地として残されており、そこには「野バラ」【= 昔は荊(ケイ)と呼ばれた】が一面に繁茂した小さな森が在り、どうもこの敷地は高岡市細池の池田家に伝わった「イバラの宮」の跡地写真とソックリで、その庭には「地蔵菩薩の板光背」だけが残されている。福田の「ウバラ神社」は何処から移転して来たかは分からないとされ、池田家は「イバラの宮の祭神が何処へ持ち去られたのかは分からない」としている。この名前が良く似ており、しかも、福田のウバラ神社の祭神が「十禅師の本地仏の地蔵菩薩」で在る事から、この福田ウバラ神社は国人領主の池田家が祀って来た「イバラの宮」と判断して先ず間違いは無い様だ。



■以上の三点を総合して判断すると、「延喜式内社荊波神社」は高岡市福田の神社で在り、砺波市や福光町の「荊波神社」は、郷土の英雄の「石黒氏の祖先の利波臣志留志」と万葉集に出てくる「夜夫奈美里」の地名が合体して創作された伝説と見られる。万葉集に登場する「夜夫奈美里」は「野バラやグミの様にトゲの在る植物が繁茂していた地域」を表し、それが「荊波」と即、一致するかは分からないものの、他の地域には「薮波」と言う地域も在り、「夜夫奈美里」も一ヵ所には限定出来ないのかも知れない。

■言える事は、「延喜式神名帳」を論ずるのに、学者はその祭神も調べずに議論している事で在り、高岡市福田の「荊波神社」の祭神は「延喜式内社二上射水神社」と同じ「ニニギノミコト」 を祭神としておりその祭神の「格」からしても、福田の「荊波神社」を「延喜式内社」と認定できると思う。更には、この福田の神社の正式の書き方は神名帳のフリカナ通り「荊原神社」で在り、「荊波」の「荊」が共通する事から、民衆の間で誤って伝えられた事が在ったのかも知れない。

(※参考)高岡市和田は加賀藩になった時に赤丸村の西部の農民を移住させて開いた村で在り、国人領主池田氏は元々、赤丸浅井神社前に屋敷を構えていたが、「所払い」になって国吉郷に移ったとされる。高岡市東石堤地区や高岡インターチェンジ周辺の池田地区はこの池田氏が開発したと伝わり、この辺一帯はその昔、池田氏の所領で在った可能性が高い。因みにこの池田氏は高岡駅南の総持寺の敷地も寄進したと伝わる。近くの羽広諏訪神社の拝殿は赤丸浅井神社の拝殿を移設したもので在る。
(※「所払い」; 追放の者を匿う事、奇談・異説を触れて人を集めた場合の罪で、その住んでいた村への立ち入りが禁止された刑)

🏯🐎 『越中守山城城主神保氏張』は徳川家康の旗本になって「江戸、裏二番町」に屋敷を構えた。

2021-04-15 | 富山県高岡市


■「江戸切絵図」(※国会図書館蔵)には第十一代神保數馬の屋敷が記載されている。


■「神保氏張」は能登末森城の前田・佐々の戦いの後に佐々成政に従って肥後に移ったが、成政が一揆鎮圧に失敗したとして豊臣秀吉から切腹を申し渡されると、流浪して江戸に向かい、徳川家康に仕官して旗本に取り立てられ、千葉に知行地を授けられた。屋敷は江戸城近くの裏二番町に構えて、子孫は代々この地に住まいした。




■「越中高岡 守山城城主神保氏張系図」(※「徳川諸家系図」静岡県立図書館)







🏯🐎 『畠山家文書』・『畠山記』・『畠山家記』から見えて来る室町時代の越中の戦乱と越中の武将達!!

2021-04-15 | 富山県高岡市



🔽「足利義満」は室町幕府御粮所の「越中五位庄」を「相国寺」(※金閣寺)へ寄進した。


🔽「足利義満」の母親系統の「越中蜷川系図」⇒富山市蜷川の「蜷川城」(※現在の「最勝寺辺り」)、「滑川城」を拠点とした「蜷川新右衛門親当」は、「室町幕府万所代」として、越中の「新川郡」、「利波郡」を知行されたという。(※「蜷川の郷土史」)




■「東寺百合文書」には、「徳大寺家領般若野庄」の範囲等が記載されている。「五位庄」は庄川と小矢部川の間の「五位の東庄」と、小矢部川と西山の間の「五位の西庄」が在った。


▼「東寺百合文書」には「射水郡内」として「般若野地頭方」や「五位庄の東庄」、「氷見の北市」等が記載されている。又、別の文書には「五位庄野尻」と記載されており福野町野尻迄が五位庄に含まれていたとされる。「畠山家文書」に在る「越中絵図」は【三代将軍足利義満】の時のもので、この時に「五位庄」は「相国寺」に寄進された。その後【足利義持】は[五位庄の半分]を足利家菩提寺「等持院」へ寄進して、底地の管理は【守護畠山満家】に預けられたとされる。
(※「富山県史 中世」)
【※「畠山家文書」の「越中絵図」は、「畠山満家」が越中四郡を八郡に分けて統治したと「源畠山吉益系図の畠山満家の説明」に記載されている。この絵図は【足利義満】の頃に整備された越中絵図と見られる。(※時期によっての異同は在ったと見られる。)】

🔻【越中絵図】の「利波郡五位庄赤丸村」に在った【赤丸浅井城】には、「上分 畠山持国」と記載されており、「管領畠山満家」の子供の「越中守護畠山持国」が「赤丸村の浅井城」を拠点として、「越中守護代」を配置したと言われる。
この頃は、隣接の「氷見郡」は「室町幕府万所代蜷川新右衛門」の下で「神保氏」が守護代で在ったが職務怠慢を理由に交代させられた。(※「蜷川家文書」)

🔽「(高岡)守山城神保四郎右衛門」が配置されていた記録がある。(※「神保四郎右衛門」は【加賀藩寛文侍帳】に見える。

🔻本姓平氏の織田信長の妹を妻にしていた守山城系「神保氏張」の系統は「平姓良文流」で、「安藝守」を名乗り、富山城の「神保長住」の系統は薩摩島津氏の同族の「惟宗姓」で、「越中守」を名乗る。この二つの神保系図は全く異なるのだが、歴史上、屡々混同が見られる。両者共に室町幕府の「越中守護斯波氏」から「神保姓」を賜姓されたと見られるが、「富山城系神保氏」は源氏の足利一門の斯波氏家臣で在り、「守山城系神保氏」は同じく足利系(能登畠山系)で、源頼朝の家臣の平姓畠山重忠の後継者足利義純の一族で、古くは「中村」等を名乗っていた事が静岡県立図書館の「神保系図」に記載されている。⇒「平氏畠山重忠」の未亡人(北条氏)と足利一門の「足利義純」が再婚して「源氏系畠山氏」となり、室町幕府管領、越中、能登等の守護を勤めた。
(※「蜷川家文書」)(※「神保系図」静岡県立図書館)







■「畠山記」(※別名「足利季世記 第一」)には明応二年(1472年)に将軍足利義稙が細川政元に将軍職を追われて幽閉されたが脱出して越中の椎名・神保・石黒左近大夫・小坂や能登の畠山義元・長九郎左衛門、加賀の富樫政親、越前の朝倉等を頼って越中国牧野に逃れた事が記載されている。





■【畠山家記】
「室町時代の越中」と「徳大寺家領 般若野庄」
⇒長尾為景(※上杉謙信の父)と徳大寺家領が争った「般若野の戦い」と越中石黒氏等の諸将の動き!!



◆「畠山家記」には
越中国の石黒氏等の諸将が、畠山ト山の縁者の徳大寺家に従って「徳大寺家領般若野庄」で「越後の長尾為景」と戦い、長尾為景を越中国雨溝(※雨晴か?)で為景の首をはねたと記載されている。
(※天文14年「1546年」には般若野の戦いが行われた。)





■室町時代には、足利将軍家の一族の源氏畠山氏が能登、越中、摂津、紀州、河内、城州を所領とした事から、越中は常に室町幕府の動きの中心と連動しており、畠山一族の内紛を端緒とした【応仁の乱】等の大乱にいつも巻き込まれていた。
この時期には畠山氏の領国として、正に近畿圏と同じ歴史を越中でも歩んでいたのだ。近畿圏諸国と一つの国として歩んだ室町時代の歴史は現在も富山県の歴史に生き続けている。富山県の歴史はこの広域の歴史をもっと検証すべきで、ここから広域の観光交流も生まれて来る。


📕⛵ 『太平記』に見える射水市の「放生津城」と「白山神社」⇒後醍醐天皇の「恒性皇子」と「名越時有」!!

2021-04-15 | 富山県高岡市





「後醍醐天皇」の皇子「恒性皇子」は越中二塚村で暗殺された。





















■南北朝時代に、富山県射水市の新湊小学校の敷地に在った「放生津城」は、北条一門の「名越時有」の居城で在った。現在の高岡市南部の神社に幽閉した後醍醐天皇の皇子「恒性皇子」をも暗殺して全力で戦ったが多勢に無勢、放生津城は敵に囲まれて、女子供は海に逃して戦った。しかし、遂には城中の者全員が自害し、女・子供も含む一族全員が海の藻屑となった。「太平記」には「平家物語」の「壇之浦の戦い」の様な光景で、女官の華やかな衣装が海面に漂って、悲惨な一族が海に漂う様子を著している。
この後には、舟がこの海上を通ると霞の中から亡霊が現れ、「我こそ名越時有」と告げて、かき消す様に消えたと言う。
富山県高岡市二塚1343に「白山神社」と言う神社が在る。古いこの神社は、この「名越時有」が社殿を建てたものだと云う。この神社には、「織田信長の根尾氏宛の古文書」も保管しており、系図からすると「巴御前」の一族の「中原氏」にその姓が見られる名門の神官の様だ。この神社の近くには「恒性皇子」を幽閉していた「悪皇子社」と言う神社もある。この「悪皇子」と言うのは「特別な力を持った皇子」と云う意味だと云う。





●この系図の後醍醐天皇第八皇子「宗良親王」は、興国三年、越中石黒氏の「赤丸浅井城」「福岡町木舟城」に入られ、南朝の士気を鼓舞された。赤丸城ケ平山中腹には「宗良親王の墓」と伝わる「親王塚」や宿舎跡とされる「親王屋敷跡」が在る。


●「放生津城の歴史」
放生津城は元々は土塁を巡らし、塀や柵、櫓を取り付けた「守護の屋形」で在ったが、その後、城郭が造られ放生津城になって行く。周辺には河川から水を引き込み、防衛と兵器・食糧等を運び込む水運が確保された。放生津城は約6000坪近くも在ったとされ、北条氏の一族の名越時有が正応元年(1288年)に構築したと伝わっている。後醍醐天皇の皇子で京都の大覚寺門跡で在った「恒性」(コウショウ・ツネタチ)は鎌倉幕府の討幕に参加された為に、元弘三年(1333年)二月に越中に流された。名越時有は恒性皇子を高岡市二塚に幽閉したが、全国で南朝軍が攻勢を強め幕府軍の弱体化が目立ち始めた為、元弘三年五月十四日、時有は恒性皇子を幽閉した場所で暗殺した。この頃、京都六波羅で敗戦した幕府軍に向けて出羽や越後の朝廷方が北陸道を攻め登って来た。時有は越中、能登の御家人を集めて戦ったが、戦況は不利で、放生津城に籠った時有は妻子を海に逃して海に沈め、一族郎党79人は放生津城に火をかけ、妻子の死亡を確認してから全員が切腹して果てたと云う。
「太平記」は、「一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取り組んで同じく身をぞ投げたりける。紅の衣、絳アカキ袴の暫く浪に漂ひしは、吉野立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如くに見えけるが、寄せ来る波に紛れて、次第に沈むを見果てて後、城に残り留まりたる人々、上下79人同時に腹を掻き切って、兵火の底にぞ焼け死にける。」と記す。
南北朝の終期1392年に後亀山天皇が後小松天皇に神璽が伝えられ、その頃の越中守護畠山持国は在国しなかった為、守護代として神保国宗、長職、慶宗と続き、この間80年間、「放生津館」を構えた。中央では、畠山氏と官領細川氏が争い、明応三年(1494年)には第十代将軍足利義稙ヨシタネ(義材ヨシキ)が神保氏を頼って越中の放生津にやって来た。この頃、実質的に富山県新湊に幕府の臨時政権ができたとする歴史家もある。
石堤村西光寺縁起には、「将軍足利義材」が、度々、立ち寄ったと記載されている。
【「五位庄」は「足利義満」が「相国寺」(※「金閣寺」)に寄進して以来、足利家菩提寺の「等持寺」「等持院」の庄園として続いた。】
神保慶宗は謙信の父の長尾為景と永正十七年(1520年)富山新庄城で戦い敗れて、この時に放生津城も焼失したと云われ、その後も神保氏と上杉謙信の戦いが続き、文祿元年(1592年)に廃城されたと云う。


📕📚『お伽草子』と高岡市の「総持寺」に祀られる古い石仏⇒【美人になれる観音像】として名高い 西国第二十八番「成相山 成相寺」の「聖観音像」!!

2021-04-15 | 富山県高岡市
■丹後の「天の橋立」の近くの西国二十八番札所の「成相寺 ナリアイジ」の「聖観音像」が高岡市の「総持寺」に祀られている。この観音像が祀られている経緯は不明だが通称「観音寺」と呼ばれる「総持寺」に因んだからかも知れない。



「御詠歌:波の音松のひびきも成相の風ふきわたす天の橋立」


■富山県高岡市「衆徳山 総持寺」








■『成相寺の由緒』
「真応上人」が霊地を求め諸国を旅していたが、この地の風景に惹かれて庵を結び修行していた所、慶雲元年(704年)のある日、老人が現れ「観世音菩薩像」を置いて立ち去った。上人がこの像を安置する為にお堂を建てたのがこの寺の創始とされている。

【大雪の続いた冬のある日、食べ物はなくなり上人は餓死寸前であったが、そこに一頭の傷ついた鹿が現れた。肉を食べてはならないという戒律があったが、命には代えられず、その鹿の肉を煮て食べた。上人は食べてから、鹿の肉と思ったのは本尊の腿の木片であることに気付き、観世音菩薩が身代わりになり助けてくれたことを知った。上人は喜び、木片を「観世音菩薩」の腿につけると像は元通りになったという。これが成相(合)寺の寺名の由来とされている伝説である。】

■本尊の聖観世音菩薩は厨子の中に安置されており、秘仏になっていて直接拝観することはできない。

この本尊は「美人になれる観音様」、【美人観音】ともいわれているようである。美人観音の由来については御伽草子梵天国に詳しく書かれているという。(※「成相寺」HPより)



■【お伽草子 梵天国】

淳和天皇の御代に、五条の右大臣高藤という、賢く美しく裕福な男がいたが、一人の子供も授からないので悲しんでいた。夫婦で清水寺に参って祈り続けたところ、七日目に、美しい僧が現れて磨いた玉を大臣の左の袖に入れる夢を見た。ほどなく妻は身ごもって若君を産んだ。二歳のときに父に従って内裏に上がり、帝に褒められて侍従の位や領地を賜わった。七歳になると笛の演奏がことに優れていた。成人すると光るようで、父はこの子を非常に愛していたが、母が死に、父も侍従が十三歳の春に死んでしまった。

侍従が父の供養のために笛を吹いていると、七日目の真夜中に紫雲が天下ってきた。それには天女や童子が十六人、そして王冠を被って金の輿に乗った、威厳ある風貌の官人が一人乗っていた。官人は涙を流し、
「そなたの供養の笛の音は梵天国にまで達し、その孝心に誰もが感動した。私には一人の姫がいるが、来たる十八日に嫁に参らせよう。我こそは梵天王である」
と言って、再び天に消えた。約束の日に言われたとおりにして待っていると、えも言われぬ美しい姫が着飾って大勢の天女や童子を従えて天下ってきた。二人は夫婦になり、永遠の愛を誓った。

この話を帝が聞いて妬んだ。やがて侍従は中将になったが、帝に呼び出されて、「そなたの妻を七日間内裏に参らせよ」と言う。それが嫌なら、迦陵頻(半女半鳥で美しい声で鳴く想像上の鳥)と孔雀を呼んで、七日間内裏で舞わせよ。それが出来ないなら日本には住まわせない、と。中将は承知して帰り、姫に相談すると、簡単なことだとすぐに迦陵頻と孔雀を呼び寄せ、七日間舞わせた。

しかし、それを見ると帝の恋心はますます募った。それから二十日もしないうちに、今度は「鬼の娘の十郎姫を七日間内裏へ参らせよ。それが出来ねば、そなたの妻を召し上げる」と言う。それを聞くと姫は笑い、「彼女は私の父に仕える召使いですから、参らぬことはありません」と言って呼ぶと一瞬で現れた。十郎姫は何処で着替えたのかも分からないが、七日間毎日違う衣装で現れ、何をしても人より優れている。七日目が過ぎると、フッとかき消えてしまった。

帝は、あれほど素晴らしい十郎姫を召使いにする梵天王の姫はどんなに素晴らしいだろう、とますます恋心が募る。今度は「天の鳴神を呼び下して、七日間内裏で鳴らせてみせよ」と命じた。姫は八大竜王を呼んで内裏に行かせ、中将には耳と目を守る冠を与えた。果たして、内裏では雷光と轟音が鳴り響き、人々は帝も含めて半死半生になっていた。しかし、中将だけは冠のおかげでなんともなかった。中将が「静まりたまえ」と言うと、竜王たちは立ち去った。

五十日後、帝は再び中納言を呼んで、「そなたの妻の素晴らしさに私は惹かれるばかりだ。今度は梵天王の直々の御判を取って来てくれ」と言った。それを聞くと姫は泣いた。

「私はあなたと結婚したので、その間は人間であり、梵天国へ昇る事は簡単ではありません。中納言殿が行くにも、遠い道なので、別れている長い間どうすればいいでしょう」
「しかし、行かねば中国や百済に流されるだろう。それくらいなら、いっそ内裏へ行っておくれ」
「愚かなことを言わないでください。火の中水の底までもあなたと共にいます。いいですか、私の言うとおりにして下さい。七日間身を清め、北西の方向に行けば、大木の下に三頭の馬がいます。中で一番痩せた馬を牽いて来てください」

そして連れて来た馬に金三千両分の大豆を食わせると、身を三度震わせて上質の黄金のような毛並みになった。

「この馬を、明日の朝六時に東向きに立たせて乗りなさい。馬が身震いして足を掻いたら、両目をきつく閉じて、決して開けてはなりません。もう一度馬が身震いしたら開けてください」

言われたとおりにして目を固くつぶって鞭を当てると、馬は天空に駆け上がった。

やがて馬が三度身震いしたので目を開けると、梵天国に着いていた。そこは砂地で、山も里もなく、果てしなく平坦だった。内裏は金の門銀の門、敷き詰められた砂は黄金、建物は宝石である。中に案内されると、天女がお盆に酒や長さが一尺もある米のご飯などを載せて運んできた。
それを食べようとすると、隣の部屋に骸骨のような者が鉄の鎖で八方に繋がれているのに気がついた。その者は例の米を見て「一口下さい、飢えて死にそうなのです」と嘆く。中納言は大変優しい人物だったので、ご飯を少し与えた。するとたちまち鎖を引きちぎり、残りのご飯も奪い食って、暴風雨を起こして空に飛び出ていった。やがて梵天王が出てきて、
「困ったことをしてくれた。今の乞食こそ、羅刹国のはくもん王という者で、姫が七歳のときに奪って妃にしようとしたのを、四天王に捕えさせて縛めていたのだ。この国の慣習で、千日捕えて八つ裂きにして捨てるのだが、明日が千日目なのに逃げられた無念さよ。今与えた飯は、普通のものではない。一粒食べれば千人の力がつき、千年の齢を保つ。大事な客と思って出したものを奴に与えるとはうかつなことよ。はくもん王は姫を奪い、羅刹国へ逃げてしまった。この米を食べたために神力を得てしまったのだ」
と泣く。中納言は衝撃を受けながらも御判をもらい、大勢に見送られながら再び例の馬に乗った。

地上に戻るとまず内裏へ行って御判を渡し、家にとって帰したが、姫はさらわれてしまっていた。中納言は悲しみのあまり髪を切り、清水寺に行った。そこで「もう一度姫に会わせて下さい。それが叶わぬのなら、命を取って来世で会わせて下さい」と願った。すると八十歳ほどの老僧が夢枕に立って、「姫君の行方が知りたいなら、これより修行をして、筑紫の博多へ行くがいい。そこから船に乗れば、千日目には必ず分かるだろう」と言う。そこで博多から外国へ向かう船に乗ったところ、十三日目に嵐に遭って、どこかの国に流れ着いた。

港で心細く笛を吹いていると、背が高く色の黒い人々が集まってきて感心する。「多分、これは日本人だろう」と言うので「ここはどこですか」と訊くと、「ここは羅刹国。ここの王ははくもん王」と答えた。日本からここに流れ着いて住み着いているという老夫婦が家に住まわせてくれた。やがて笛の噂が届き、はくもん王が中納言を内裏に呼び寄せた。日本を恋しがる姫のために笛を吹けというのだ。笛の音を聞いて、姫はすぐに中納言だと分かった。

そのうち、隣の国の王から勅使が来て、はくもん王は三千人の手勢を連れ、三千里走る車に乗って「五十日しないうちに帰る」と出かけていった。姫は母の供養のため七日間修行者に笛を吹かせる、その間侍女たちも全員それを聞きなさい、と命じて、酒を飲ませた。七日経つと侍女たちは酔いつぶれて寝てしまった。中納言はいつ名乗ればいいだろうとタイミングを計りかねていたが、風が御簾を吹き上げて互いの目が合ったことがきっかけになった。

「私を連れて逃げてください」
「私もそうしたい。しかし再び奪われて辛い目に遭わせるのは嫌です。私はどうなってもいい。ただ、いつまでも笛を吹いて聞かせましょう」
「いいえ、連れて逃げてください。三千里駆ける車ははくもん王が乗っていきましたが、二千里駆ける車があります。これに乗りましょう」

姫は中納言を車寄せに案内して袖を引っ張ったので、中納言は夢とも現ともつかないまま車に乗った。

しかし、車は真の主のはくもん王に忠義立てしてか、なかなか飛び立たない。そうこうするうちに侍女たちが目覚めて、姫と修行者がいないことに気付いた。報せを受けて、はくもん王が戻ってくる。「あの修行者こそは日本の中納言だったのです」と聞いて、怒髪天を衝いて目を車輪のようにし、車に飛び乗った。

恐ろしい形相のはくもん王が部下を引き連れて追って来るのを見て、中納言は「あなたをまた辛い目に遭わせることになる」と嘆いた。姫は「今は言っても仕方ありません。いっそ、一緒に海に沈みましょう」と言う。その時だった。迦陵頻と孔雀が現れて、迦陵頻がはくもん王の車を後ろに蹴り戻し、孔雀が姫の車を先へ先へと蹴り出した。そして二羽で一緒にはくもん王の車をポンポン後ろに蹴り戻し、ついには奈落の底に蹴り落としてしまった。

中納言と姫君の車は懐かしい五条の我が家に戻った。しかし屋敷は荒れ果て、人の気配はない。しばらくすると、奥の方から人が一人出てきた。見れば、仕えさせていた蔵人である。涙に咽んで「君が出家なされてより今日まで、六十六ヶ国を尋ね参らせましたが、どこにおられたのです」と言う。内裏に参内すると、梵天国だけでなく羅刹国まで見てきたというのは素晴らしい、と、丹後と但馬の両国を与えられた。中納言はこんな憂鬱な都は早く離れようと、急いで丹後へ下った。

こうして八十歳になると、中納言は久世戸の文殊に、姫は成相の観音になって現れたという。羅刹国で宿を貸してくれた老夫婦は、成相寺の鍵取りの御前になったということだ。

参考文献
『御伽草子(上)』 市古貞次校注 岩波文庫 1986.




📚📘越中国砺波郡 【東大寺庄園杵名蛭庄】の位置確認 ⇒高岡市立野、池田、高田島辺りか?!!

2021-04-15 | 富山県高岡市
●国立歴史民俗博物館は「庄園データーベース」の「東大寺庄園越中杵名蛭庄」について富山県高岡市立野周辺をその比定地として追加した。
⇒「平成29年6月21日」













■文化庁の文化遺産オンラインや南砺市の意見は井波町の高瀬神社近くの「高瀬遺跡」を「東大寺庄園杵名蛭庄」とし、砺波市出身の東大寺庄園研究の権威の金田先生は「高岡市戸出~中田辺り」に比定されている様だ。しかし、この杵名蛭庄図を作図して見ると、この庄園には「石黒川」、「杵名蛭川」、「速川」の河川と、「石黒上里」、「石黒中里」、「荊原上里」、「荊原里 ウバラノサト」の村落の表示が在り、この庄園図には東大寺大仏造営の時に「米三千石」、「庄園100町」を寄進して「国司待遇」の「員外介」に成った「利波志留志 ヒハシルリノサクワン」の署名が在る。
しかし、近年、「高瀬遺跡」が「杵名蛭庄」と言う意見は少なく成ってきており、「東京大学資料編纂所」の発表に拠れば、この「高瀬遺跡」は「足利尊氏」が東大寺に寄進した庄園として紹介されている。そのホームページには以下の記載が在る。

■【大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之二十二。
 本冊は、〔第一部一八 越中国高瀬荘〕よりはじまり〔第一部二四 雑荘〕の途中1−24−82までを収めた。『東大寺文書之十』寺領部第一部第一黒田荘より始まる東大寺図書館所蔵未成巻文書は、荘園単位のまとまりが完了し、ひと区切りついたことになる。以下では、利用の便宜を図るために、内容をいくつかに分類して紹介する。
〔第一部一八 越中国高瀬荘〕
 現在の富山県東礪波郡井波町にあった。建武・康永年間の足利尊氏よりの寄進に始まる。平安・鎌倉時代の荘園が多い東大寺領の中では室町期に成立する点でやや珍しい。同様のものとしては周防国大前村・遠江国蒲御厨が他にある。
 本荘は学侶方に属しており、その所出は東大寺八幡宮神供、華厳・三論談義用途などに充てられた(一七二七号)。本冊には収録した史料は次の通りである。寄進直後康永元~三年の経営帳簿類(一七一三・一七三八・一七二八号)。応永末~永享初年にかけての預所一族をめぐる問題(一七一八号他)。さらにこれには興福寺も絡んでくる(一七一四号他)。その後守護代遊佐氏の関係者が代官となった、永享(一七二六号他)・康正・長禄頃(一七二五号他)の文書。文明一三年越中の一向一揆に高瀬荘荘民が参加したことを記す一七二三号などである。(参考)『富山県史』通史編Ⅱ(一九八四年)】












■実際に地理的に検討すると、この中の「杵名蛭川」は「千保川」に該当し、「速川」は中世の古図には「ソフ川」と成り現在は「祖父川」と名前が変化している。この祖父川の下流には「延喜式内社速川神社」が在り、この辺りは「高岡市早川」の地名で在る。
又、「荊原里」の辺りには「延喜式神名帳」に「ウバラノヤブナミ」とフリカナが在る高岡市福田の「荊波神社」が在り、この神社の祭神は「延喜式内社二上射水神社」の祭神と同じく「ニニギノミコト」で在る。又、古代には「小矢部川」が西山の麓を流れて赤丸浅井神社前で庄川支流と合流していたと「赤丸浅井神社」に伝わる事から、この二つの延喜式内社の位置を確認すると、この「杵名蛭庄」は【小矢部川沿いで砺波郡の射水郡との境界辺りになる「高岡市立野、池田、高田田島(旧赤丸村領)辺り」】がその立地場所と推定される。




📚【偽りの歴史書⇒高岡市史】『高岡市史』掲載の「荊波神社」の祭神と『富山県神社誌』掲載の「荊波神社」の祭神!!

2021-04-15 | 富山県高岡市
■高岡市和田、福田、立野、東石堤、池田、上渡り、高田島地区には、福田の「荊波神社」や高田島の「五位庄神社」、上渡り「八幡社」等の多くの神社が遺されている。



■公的な『高岡市史』のデタラメな記事。
砺波市池原の『荊波神社』の祭神は石黒氏の祖の『利波臣志留志』の祖先神『日子刺方別命 ヒコサシカタワケノミコト』であるが、高岡市福田の『荊波神社 ヤブナミジンジャ』の祭神は二上射水神社と同じく『瓊瓊杵尊 ニニギノミコト』である。ところが、「高岡市史」では福田の神社の祭神も「日子刺方別命」だと訳の分からない主張をしているのだ。
(※延喜式神名悵では「ウバラノ」とフリガナが在り、これは「ウバラノサトのヤブナミジンジャ」を指していると見られ、「荊波神社」は「ヤブナミジンジャ」 と呼ぶべき。しかし、現在はこの「荊波神社」を「ウバラジンジヤ」と呼び慣わしている。高岡市立野辺りに比定される「東大寺庄園杵名蛭庄図」には、「杵名蛭庄」の隣接地に「荊原里」と明確に記載されている。⇒「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」を参照)
(※「注意」比定地の中の「井波町」は誤り⇒末尾の「高瀬遺跡」の欄を参照されたし。)















■神社を語るのに祭神も調べていないこのいい加減さ? 一体、何を主張しようとしているのか?
この前提で「高岡市史」は、「この福田地区に都の政庁が在ったとは考えられず、砺波市池原の『荊波神社』が位置的には有力である」と結んでいる。延喜式内社は必ず都の政庁に在った訳では無く、このデタラメな論理は何処から来るのか?

第一、当時の国立の神社とも云える「延喜式内社」が一地方豪族の「利波臣」の祖先神とされる「彦刺方別命」である筈が無い。延喜式内社の祭神は全て「神代の天皇家の祖先神」で在り、実際に「富山県神社誌」では、「福田荊波神社」の祭神は「瓊瓊杵尊」で在るとしている。
因に「二上射水神社」の祭神も「瓊瓊杵尊」で在り、「赤丸浅井神社」の祭神は皇室八神の一つの「高皇産霊神タカミウブスナノカミ」で在る。

■一方、砺波市は池原の神社は、「東大寺庄園井山庄」に「荊波神社の神田」が記載されるから、その「井山庄」が在った砺波市の池原の神社がこの「荊波神社」であると主張している。しかし、「赤丸浅井神社」の神田が遠く庄川町に在った「東大寺庄園石粟庄図」に「浅井神一段」と記載されており、この論理にも無理がある。庄園のすぐ近くに在ったからと云う理屈は必ずしも当てはまらない。現に、砺波市が主張していた「東大寺庄園杵名蛭庄は井波の高瀬庄の位置に在った。」とする事についても、東大寺庄園研究の権威の金田先生が「高岡市戸出市野瀬辺り」とする意見を発表されており、砺波市の主張は否定されている。この「杵名蛭庄図」には「荊原里」と明確に記載されており、「杵名蛭庄」が高岡市の砺波郡界に位置していたとすれば、当然、「荊原の里」に「荊波神社」が在った事に成り、立地的には「高岡市福田地区の荊波神社」こそが、延喜式内社であると云える。どうして行政の歴史研究はこの様にいい加減なのか? この事からも『高岡市史』のデタラメさが分かる。

■「東大寺庄園杵名蛭庄」の位置に付いては、「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」では、【高岡市立野辺り】としている。




■福田の『荊波神社由緒』では、元々の在った場所を何故か不明としているが、近くには『イバラの宮』の故地とされる写真や遺物を保管している一族が在る。
高岡市細池の旧家池田家に伝わる「イバラの宮」の写真や地蔵菩薩の板光背等がそれで在る。歴史学者の浅香年木氏は『寿永の内乱論序説』で、この池田氏は「源平盛衰紀」に登場して木曽義仲を埴生八幡宮に案内した『池田次郎』の末裔で、氷見市池田、高岡市池田、赤丸村池田島、小矢部市今石動(旧池田)等を開発した国人領主で在ろうとされている。この池田家は高岡市の総持寺の敷地も寄進したと浅井神社記録に伝えており、古い「吉岡庄」の時代から繁栄した一族の様だ。又、この一族は元々、赤丸浅井神社の門前に屋敷を構えて「肝煎」を勤めたが、加賀藩から下された二度と発行されないとされる納税の割り当て書である「村御印」と呼ばれた重要書類を紛失したとして、「手鎖、入牢の刑」を受けて所払いと成り、国吉村四十九に動いたとされる。(※「杉野家文書」福岡歴史民俗資料館) この跡は弟が全財産を受け継ぎ、赤丸村の肝煎を勤めた。(※赤丸村の「池田」、「奥田」、「桜木」の総本家に当たり、この池田家は高岡市の総持寺千手観音像の鎌倉時代の胎内仏や冑に祀った「冑仏 カブトブツ」等を保管している旧家である。)




■「東大寺庄園杵名蛭庄図」に記載される『荊原里』⇒福田地区の『荊波神社』が延喜式内社の『ウバラノ ヤブナミジンジャ』と推定される根拠!!








◆「東大寺庄園高瀬庄」⇒東京大学資料編纂所のHpには従来、「東大寺庄園杵名蛭庄」に比定されていた「高瀬庄」は、足利尊氏の寄進に始まる東大寺庄園であるとして「杵名蛭庄」と同一と言う意見を否定し、文化庁も否定している。



・【大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之二十二。
 本冊は、〔第一部一八 越中国高瀬荘〕よりはじまり〔第一部二四 雑荘〕の途中1−24−82までを収めた。『東大寺文書之十』寺領部第一部第一黒田荘より始まる東大寺図書館所蔵未成巻文書は、荘園単位のまとまりが完了し、ひと区切りついたことになる。以下では、利用の便宜を図るために、内容をいくつかに分類して紹介する。
〔第一部一八 越中国高瀬荘〕
 現在の富山県東礪波郡井波町にあった。建武・康永年間の足利尊氏よりの寄進に始まる。平安・鎌倉時代の荘園が多い東大寺領の中では室町期に成立する点でやや珍しい。同様のものとしては周防国大前村・遠江国蒲御厨が他にある。




🌸🏯 越中守山城城主【神保氏張】の妻『織田信長の妹』と徳川政権で手腕を振るった【春日局】(お福)!!

2021-04-14 | 富山県高岡市







■【神保氏張】の妻(織田信長の妹・名前・生年月日不詳)は天正三年(1575年)氏長を産む。氏張(大永八年1528年生まれ)は能登畠山家から神保氏の養子に入り、守山城城主となっていたが天正4年(1576年)上杉謙信に攻められ激怒した信長により妻は離縁させられ京都に流浪。信長の妹がいつ頃どの様な背景で氏張に嫁いだかは、「北越太平記」と云う古書に記載されているが、上杉謙信が神保氏張の兄(※能登畠山義隆の子)を姪の婿としていた為に、織田信長は謙信の怒りを静める為に、その弟の氏張に自分の妹を戦略として嫁がせたとされている。
「信長公記」の初見は天正六年四月に氏張は信長と会見している。同年、天正六年(1578年4月19日)に上杉謙信死去。氏張はこの年佐々成政の与力として信長により越中守山城城主・越中半国二十六万石領主に封じられて越中に派遣されるが、天正九年佐々成政が富山城主となり氏張は天正十年失脚して肥後熊本に流浪する。信長は天正十年(1582年6月21日)本能寺の変で死去。天正十二年(1584年)佐々成政に従って、柴野城の寺嶋牛介、赤丸の中山直治と共に能登末森城の前田利家と戦う。佐々成政は敗れて豊臣秀吉が越中に侵攻すると降伏し、しばらく新川を領有した後、天正十五年(1587年)熊本に転封されると氏張もこれに従う。天正十六年(1588年)佐々成政が秀吉に切腹させられると天正十七年には徳川家康に仕官して以後代々徳川幕府の旗本として存続した。氏張は文禄元年(1592年8月5日)江戸で死去。

(※神保氏張の妻で信長の妹は、神保氏張が上杉謙信に敗れて寺島牛介と共に上杉謙信の家臣となった時には実家に戻ったと見られ、やがて美濃の稲葉一鉄の子の貞通に再嫁して男子三人、女子二人を産み、娘の一人は織田信長の子息の三吉郎信秀に嫁いだと云う。→「織田信長総合辞典」雄山閣 、「上杉家臣名簿」参照)
(※稲葉系図によれば、この信長の妹の母[信秀の妻]は稲葉貞通の娘の玉雲院であったが、信長により離婚させられてからは祖父の稲葉貞通の後妻になっている。 )

🔴高岡市福岡町歴史民資料館⇒【赤丸浅井神社から倶利伽羅の手向け神社まで】の特別展が開催された!!

2021-04-14 | 富山県高岡市


■浅井神社、赤丸城、加茂城、西明寺入道塚、経筒、倶利伽羅手向け神社等北陸古道沿いの歴史、発掘物、地元の名家に伝わる古文書等を特別展示。古墳から発掘された人骨、かわらけ、刀剣、赤丸城の井戸の滑車の現物が展示されている。五位庄が未だ皇室直轄領の「吉岡庄」と呼ばれた時代には源頼朝や桃井直常等の武将が痕跡を残しています。「義経記」で義経主従が落ち延びた時、この五位庄を経由し、「二位の渡し」から小矢部川の舟に乗り「如意の舟渡し」を過ぎて、伏木河口の六渡寺の渡し場に着いたと云う。「二位の渡し」で平の権守に身元を怪しまれた弁慶は山伏に変装した義経を扇子で打擲して難を逃れたのは有名。これは小松の安宅の関では無く、赤丸の「二位の渡し」の出来事。赤丸浅井神社は「元正天皇二宮御創建の宮」(実際には文武天皇の二位の宮石川朝臣広成と思われる。)で有り、浅井神社の麓には小矢部川と庄川が合流して「阿古ケ淵」という大きな合流点が広がって、義経主従はここから船便で川下りをしたと思われる。今も小矢部川に沿って旧北陸道の山側街道の痕跡が残る。

■高岡市福岡民俗資料館(高岡市福岡町西五位西明寺地内)