赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸🏯 越中守山城城主【神保氏張】の妻『織田信長の妹』と徳川政権で手腕を振るった【春日局】(お福)!!

2021-04-14 | 富山県高岡市







■【神保氏張】の妻(織田信長の妹・名前・生年月日不詳)は天正三年(1575年)氏長を産む。氏張(大永八年1528年生まれ)は能登畠山家から神保氏の養子に入り、守山城城主となっていたが天正4年(1576年)上杉謙信に攻められ激怒した信長により妻は離縁させられ京都に流浪。信長の妹がいつ頃どの様な背景で氏張に嫁いだかは、「北越太平記」と云う古書に記載されているが、上杉謙信が神保氏張の兄(※能登畠山義隆の子)を姪の婿としていた為に、織田信長は謙信の怒りを静める為に、その弟の氏張に自分の妹を戦略として嫁がせたとされている。
「信長公記」の初見は天正六年四月に氏張は信長と会見している。同年、天正六年(1578年4月19日)に上杉謙信死去。氏張はこの年佐々成政の与力として信長により越中守山城城主・越中半国二十六万石領主に封じられて越中に派遣されるが、天正九年佐々成政が富山城主となり氏張は天正十年失脚して肥後熊本に流浪する。信長は天正十年(1582年6月21日)本能寺の変で死去。天正十二年(1584年)佐々成政に従って、柴野城の寺嶋牛介、赤丸の中山直治と共に能登末森城の前田利家と戦う。佐々成政は敗れて豊臣秀吉が越中に侵攻すると降伏し、しばらく新川を領有した後、天正十五年(1587年)熊本に転封されると氏張もこれに従う。天正十六年(1588年)佐々成政が秀吉に切腹させられると天正十七年には徳川家康に仕官して以後代々徳川幕府の旗本として存続した。氏張は文禄元年(1592年8月5日)江戸で死去。

(※神保氏張の妻で信長の妹は、神保氏張が上杉謙信に敗れて寺島牛介と共に上杉謙信の家臣となった時には実家に戻ったと見られ、やがて美濃の稲葉一鉄の子の貞通に再嫁して男子三人、女子二人を産み、娘の一人は織田信長の子息の三吉郎信秀に嫁いだと云う。→「織田信長総合辞典」雄山閣 、「上杉家臣名簿」参照)
(※稲葉系図によれば、この信長の妹の母[信秀の妻]は稲葉貞通の娘の玉雲院であったが、信長により離婚させられてからは祖父の稲葉貞通の後妻になっている。 )


最新の画像もっと見る