赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚📘越中国砺波郡 【東大寺庄園杵名蛭庄】の位置確認 ⇒高岡市立野、池田、高田島辺りか?!!

2021-04-15 | 富山県高岡市
●国立歴史民俗博物館は「庄園データーベース」の「東大寺庄園越中杵名蛭庄」について富山県高岡市立野周辺をその比定地として追加した。
⇒「平成29年6月21日」













■文化庁の文化遺産オンラインや南砺市の意見は井波町の高瀬神社近くの「高瀬遺跡」を「東大寺庄園杵名蛭庄」とし、砺波市出身の東大寺庄園研究の権威の金田先生は「高岡市戸出~中田辺り」に比定されている様だ。しかし、この杵名蛭庄図を作図して見ると、この庄園には「石黒川」、「杵名蛭川」、「速川」の河川と、「石黒上里」、「石黒中里」、「荊原上里」、「荊原里 ウバラノサト」の村落の表示が在り、この庄園図には東大寺大仏造営の時に「米三千石」、「庄園100町」を寄進して「国司待遇」の「員外介」に成った「利波志留志 ヒハシルリノサクワン」の署名が在る。
しかし、近年、「高瀬遺跡」が「杵名蛭庄」と言う意見は少なく成ってきており、「東京大学資料編纂所」の発表に拠れば、この「高瀬遺跡」は「足利尊氏」が東大寺に寄進した庄園として紹介されている。そのホームページには以下の記載が在る。

■【大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之二十二。
 本冊は、〔第一部一八 越中国高瀬荘〕よりはじまり〔第一部二四 雑荘〕の途中1−24−82までを収めた。『東大寺文書之十』寺領部第一部第一黒田荘より始まる東大寺図書館所蔵未成巻文書は、荘園単位のまとまりが完了し、ひと区切りついたことになる。以下では、利用の便宜を図るために、内容をいくつかに分類して紹介する。
〔第一部一八 越中国高瀬荘〕
 現在の富山県東礪波郡井波町にあった。建武・康永年間の足利尊氏よりの寄進に始まる。平安・鎌倉時代の荘園が多い東大寺領の中では室町期に成立する点でやや珍しい。同様のものとしては周防国大前村・遠江国蒲御厨が他にある。
 本荘は学侶方に属しており、その所出は東大寺八幡宮神供、華厳・三論談義用途などに充てられた(一七二七号)。本冊には収録した史料は次の通りである。寄進直後康永元~三年の経営帳簿類(一七一三・一七三八・一七二八号)。応永末~永享初年にかけての預所一族をめぐる問題(一七一八号他)。さらにこれには興福寺も絡んでくる(一七一四号他)。その後守護代遊佐氏の関係者が代官となった、永享(一七二六号他)・康正・長禄頃(一七二五号他)の文書。文明一三年越中の一向一揆に高瀬荘荘民が参加したことを記す一七二三号などである。(参考)『富山県史』通史編Ⅱ(一九八四年)】












■実際に地理的に検討すると、この中の「杵名蛭川」は「千保川」に該当し、「速川」は中世の古図には「ソフ川」と成り現在は「祖父川」と名前が変化している。この祖父川の下流には「延喜式内社速川神社」が在り、この辺りは「高岡市早川」の地名で在る。
又、「荊原里」の辺りには「延喜式神名帳」に「ウバラノヤブナミ」とフリカナが在る高岡市福田の「荊波神社」が在り、この神社の祭神は「延喜式内社二上射水神社」の祭神と同じく「ニニギノミコト」で在る。又、古代には「小矢部川」が西山の麓を流れて赤丸浅井神社前で庄川支流と合流していたと「赤丸浅井神社」に伝わる事から、この二つの延喜式内社の位置を確認すると、この「杵名蛭庄」は【小矢部川沿いで砺波郡の射水郡との境界辺りになる「高岡市立野、池田、高田田島(旧赤丸村領)辺り」】がその立地場所と推定される。





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