赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🏯🐎 『畠山家文書』・『畠山記』・『畠山家記』から見えて来る室町時代の越中の戦乱と越中の武将達!!

2021-04-15 | 富山県高岡市



🔽「足利義満」は室町幕府御粮所の「越中五位庄」を「相国寺」(※金閣寺)へ寄進した。


🔽「足利義満」の母親系統の「越中蜷川系図」⇒富山市蜷川の「蜷川城」(※現在の「最勝寺辺り」)、「滑川城」を拠点とした「蜷川新右衛門親当」は、「室町幕府万所代」として、越中の「新川郡」、「利波郡」を知行されたという。(※「蜷川の郷土史」)




■「東寺百合文書」には、「徳大寺家領般若野庄」の範囲等が記載されている。「五位庄」は庄川と小矢部川の間の「五位の東庄」と、小矢部川と西山の間の「五位の西庄」が在った。


▼「東寺百合文書」には「射水郡内」として「般若野地頭方」や「五位庄の東庄」、「氷見の北市」等が記載されている。又、別の文書には「五位庄野尻」と記載されており福野町野尻迄が五位庄に含まれていたとされる。「畠山家文書」に在る「越中絵図」は【三代将軍足利義満】の時のもので、この時に「五位庄」は「相国寺」に寄進された。その後【足利義持】は[五位庄の半分]を足利家菩提寺「等持院」へ寄進して、底地の管理は【守護畠山満家】に預けられたとされる。
(※「富山県史 中世」)
【※「畠山家文書」の「越中絵図」は、「畠山満家」が越中四郡を八郡に分けて統治したと「源畠山吉益系図の畠山満家の説明」に記載されている。この絵図は【足利義満】の頃に整備された越中絵図と見られる。(※時期によっての異同は在ったと見られる。)】

🔻【越中絵図】の「利波郡五位庄赤丸村」に在った【赤丸浅井城】には、「上分 畠山持国」と記載されており、「管領畠山満家」の子供の「越中守護畠山持国」が「赤丸村の浅井城」を拠点として、「越中守護代」を配置したと言われる。
この頃は、隣接の「氷見郡」は「室町幕府万所代蜷川新右衛門」の下で「神保氏」が守護代で在ったが職務怠慢を理由に交代させられた。(※「蜷川家文書」)

🔽「(高岡)守山城神保四郎右衛門」が配置されていた記録がある。(※「神保四郎右衛門」は【加賀藩寛文侍帳】に見える。

🔻本姓平氏の織田信長の妹を妻にしていた守山城系「神保氏張」の系統は「平姓良文流」で、「安藝守」を名乗り、富山城の「神保長住」の系統は薩摩島津氏の同族の「惟宗姓」で、「越中守」を名乗る。この二つの神保系図は全く異なるのだが、歴史上、屡々混同が見られる。両者共に室町幕府の「越中守護斯波氏」から「神保姓」を賜姓されたと見られるが、「富山城系神保氏」は源氏の足利一門の斯波氏家臣で在り、「守山城系神保氏」は同じく足利系(能登畠山系)で、源頼朝の家臣の平姓畠山重忠の後継者足利義純の一族で、古くは「中村」等を名乗っていた事が静岡県立図書館の「神保系図」に記載されている。⇒「平氏畠山重忠」の未亡人(北条氏)と足利一門の「足利義純」が再婚して「源氏系畠山氏」となり、室町幕府管領、越中、能登等の守護を勤めた。
(※「蜷川家文書」)(※「神保系図」静岡県立図書館)







■「畠山記」(※別名「足利季世記 第一」)には明応二年(1472年)に将軍足利義稙が細川政元に将軍職を追われて幽閉されたが脱出して越中の椎名・神保・石黒左近大夫・小坂や能登の畠山義元・長九郎左衛門、加賀の富樫政親、越前の朝倉等を頼って越中国牧野に逃れた事が記載されている。





■【畠山家記】
「室町時代の越中」と「徳大寺家領 般若野庄」
⇒長尾為景(※上杉謙信の父)と徳大寺家領が争った「般若野の戦い」と越中石黒氏等の諸将の動き!!



◆「畠山家記」には
越中国の石黒氏等の諸将が、畠山ト山の縁者の徳大寺家に従って「徳大寺家領般若野庄」で「越後の長尾為景」と戦い、長尾為景を越中国雨溝(※雨晴か?)で為景の首をはねたと記載されている。
(※天文14年「1546年」には般若野の戦いが行われた。)





■室町時代には、足利将軍家の一族の源氏畠山氏が能登、越中、摂津、紀州、河内、城州を所領とした事から、越中は常に室町幕府の動きの中心と連動しており、畠山一族の内紛を端緒とした【応仁の乱】等の大乱にいつも巻き込まれていた。
この時期には畠山氏の領国として、正に近畿圏と同じ歴史を越中でも歩んでいたのだ。近畿圏諸国と一つの国として歩んだ室町時代の歴史は現在も富山県の歴史に生き続けている。富山県の歴史はこの広域の歴史をもっと検証すべきで、ここから広域の観光交流も生まれて来る。



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