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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠💠【信教の自由の破壊】明治元年三月に吹き荒れた【廃仏毀釈】の荒波 ⇒運動の首謀者「関野神社」と創作された「高岡市の歴史」の根源!!

2021-04-19 | 富山県高岡市

■「高岡市の歴史」は加賀藩の権力を背景にでっち上げられた。








■高岡市の関野神社が主導した「廃仏毀釈運動」で首を切られた「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」の墓地。首を切られた沢山の石佛群が遺されている。(※写真は一部分)


■高岡市の中心部に「前田利長」を神霊とする「関野神社」が在る。「前田利家」が「菅原道真」の子孫とされて「天神信仰」が浸透し、「前田家」は「天神」として天皇を上回る「鳳凰の化身」として喧伝された。その精神は「高岡」の命名由来にも繁栄している。
この神社の「関守一」は、天保元年十二月十三日に「関野神社」境内で生まれ、上京して国学を学ぶ。国学は明治維新と精神的な深い繋がりを持っていた事から維新政府との関係が生まれる。帰郷後に「越中社家触頭」に就任し、慶応三年四月従五位上下総守になる。明治元年三月に「金沢藩神祇取調係」になり上京して神祇官に就任した。帰高の後に神祇係として祭典式編修を担当。関野神社神職の兄の豊後守が退職を希望するが、自らは「川巴良諏訪神社外村社五社」の祠掌となり、「射水神社」の権宮司に就任。次いで新川県下神道事務局副長を兼ね、九月「射水神社」を高岡古城公園内に遷座した。

■明治元年三月に明治政府は「神仏分離令」を出し、これを受けて金沢藩は二年三月「今般、御一新に付き神仏混淆の義は廃され候う旨仰せ渡され候うに付、立山権現の称号を廃され雄山神社と相唱える。」として先ず立山権現管下の芦峅、岩峅寺から神仏分離に着手した。越中では射水の二上権現、赤丸村の赤丸浅井神社、砺波の医王山修験道の諸寺が在った。
高岡市の関野神社の神主「関守一」は金沢藩の越中社家触頭の地位に在り、藩命を受けて上京し、神祗官と打合せして帰藩した後には「神仏取り調べ係」に成った。関守一は先ず、芦峅、岩峅両寺から社僧に還俗願いを出させ、砺波郡の修験道40ケ寺の山伏に還俗を勧告した。五月には野尻村の法厳寺以下の半数は還俗を誓い寺号を廃して神職と成る事を選んだ。そこで、神式にのっとり両部神道の本尊仏像や仏具等を社殿から外へ放り出した為に住民の怒りが爆発した。そこで、仏像代わりに大きな「神鏡」を造る等して住民を懐柔した。それ迄、住民からの「布施」に頼っていた僧達は神職としての定給も無く、たちまちに生活に困窮した。その為に、仏具や什器、或は建物さえ売却しなければならない程に困窮した。多くの僧達が失業し、由緒有る寺や神社も無住と成って衰退した。戦後の国家神道の廃止はそれを加速して皇室の伝統は軽んじられ、数千年の歴史を刻んだ寺社も衰退した。これが日本民族の精神の荒廃と無政府主義者の個人主義を産み出して日本民族の信仰にまで海外から中傷を受ける情けない民族に堕落した。
全ては薩長主導の明治政府の暴走とそれに便乗した吉田神道主導の「廃仏毀釈」に起因する。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」は、天皇家庄園、上賀茂、下鴨社庄園、足利家菩提寺庄園として続いた門跡寺院「聖護院」の末寺で在ったが、全体は「西宝院」と言う山伏が管理していた為に、明治二年には還俗を選択して「川人他治馬」と名乗り、武士の資格を与えられたと言う。
富山藩では過激な「合寺」も行われて、復古神道の平田流神道(※平田篤胤)に心酔した大参事林太仲は「一派一寺」の命令を下して大砲を引き廻して寺院を脅しつけ、各寺の仏像や鐘等を鋳潰して大砲を造ろうと目論んだ。富山近辺の木造の仏像は神通川に運ばれて焼却され、金属類は鋳造所で鋳潰された。この事に怒った各寺院は明治政府に直訴して、明治政府は富山藩庁に善処を命じた。横暴を尽くした林太仲は廃藩と共に逃げる様に東京へ戻り陰棲したと言う。
(※「富山県の歴史」坂井誠一著)

■「明治維新の時に後醍醐天皇の親政を目指した掛軸」(※後醍醐天皇肖像画)





■この様に、明治政府の維新の方針は、本来が後醍醐天皇や後鳥羽天皇が目指された「天皇親政」を目指すもので在ったが、吉田神道の影響や当時の国学思想の影響で、明治維新はあらぬ方向に脱線して、時の政府の威信を背景に、従来の両部神道の廃止だけで無く、この時とばかりに虎の威を借りた社家が自分の都合の良いように神社の再編も目論んだ。明治維新政府は帝国議会で「南朝を正統とする議決」を行い、明治天皇の栽可を受けた。それにも関わらず「南朝の牙城」、「後醍醐天皇の庄園」で在った「五位庄赤丸村」にも「御一新の嵐」が吹き荒れて「延喜式内社赤丸浅井神社」の「別当寺鞍馬寺」の多くの仏像、仏具は放り出され、多くの石仏の首が破壊された。
従来、各寺院が持っていた様々の特権は廃止され、高岡市では正に「前田利長」を祀る「関野神社」に権限が集中して「関野神社神職会」も誕生している。
この時に「延喜式内社二上射水神社」は関野神社の関守一によって二上山から高岡城古城跡に移転させられ、両部神道の二上射水神社の別当養老寺は発言権を奪われた。

■戦争に勝てば全てが許されて後世には何時も嘘やデマが宣伝される。日本でも政権が替われば前政権の痕跡を消そうとする宣伝が行われ、文化や制度、施設の破却が行われた。明治維新でも同じ幕臣が引き起こした革命で勝者に付いた者は自己の立場を有利にする為に真実を封じて嘘を喧伝し、勝側に便乗した者達は居丈高に敗者を攻撃して発言を封じている。明治維新の時の廃仏毀釈は中国の文化大革命以上の暴挙で在り、その暴挙は現在も完全には反省されず、戦後の政権はその思想を温存した。一方では天皇を象徴にして利用して、国民には表面的には「信仰の自由」を示し乍らその中味は「廃仏毀釈の反省」や「真の信仰の回復」は行われていない。その為に国民は精神的な支柱と成る真の信仰を失い漂流し、人間性を失いつつある。その政策は現在も高岡市政に色濃く残っている。元々、その「神道」は天皇の専らする所で在ったが、いつの間にか天皇祭祀を横取りした勢力が時の幕府や政府と結託して国民の精神的な誘導を行う道具にしてしまった。神道は、元々は自然の創造神に感謝する人間の本来持っている敬愛と尊崇から発したもので在ったが、それが民衆の抑圧の為の道具にされてしまった。国民は新年には神社に「初詣出」を行うが誰も「何と言う神が祭られているか」に関係無く神社の建物に対して拝礼する。その行動は時の為政者に対して従属を示していた藩政期と同じ景色だ。心の発露としての拝礼が行われ無い宗教は単に世間に対する「偽善」でしか無い。宗教者は真の教義の説明や道理、倫理を教える事無く、単に国民に迎合するか、金儲けの「お客」としてのみ表面的に対応してお茶を濁している。「権威の回復」では無く「信仰の回復」こそがこの荒んだ日本を救う為に求められている。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」の神官は元、「西宝院」と言う聖護院派の山伏で在ったが、明治二年に還俗して「川人他治馬」と名乗り神道の神官に成った。
赤丸浅井神社背後の「丸形の墓標は神官川人家の墓」で、多くの石仏群や石の墓標は「西宝院」の時代のもの。石仏群は全て首切られ、後にセメントで修復されている。








■明治維新はかくも酷い宗教弾圧に変質した。現在も、明治維新の時の廃仏毀釈によって多くの名刹がその由緒を封殺され、神社でもこの時の異変に声を挙げる神職も少ない様だ。元の両部神道の神社は現在も声を抑えてその歴史を封印している。寺院でも、利長の菩提寺の瑞龍寺や前田家と縁組して提携していた勝興寺等は現在も高額な公費で修復され、その名目には「歴史のまちづくり」の口実が使われる。でっち上げの歴史を検証する事も無く、資料編も無い小説の様な「高岡市史」をバイブルとして「高岡市の歴史のまちづくり」は「前田教」と言う宗教に毒されて進んでいる。「高岡市の歴史に1600年以前は必要無い」と高岡市の幹部は公然とウソ吹く。一部の元の豪商や地元有力財界人達はその特権を吹聴して「高岡市の歴史は我々が作り上げた。」とでも言いたげだ。それは、市民の目をふさぎ、耳をふさぎ、口を抑えて来た一部の連中と官僚達の独善的な発想でしか無い。それが高岡市の目に見えない「岩盤規制」に成っている。毎年、人口が1000人近くも減少しても、高岡市は気にも掛けず、企業誘致や企業振興の施策も行わない。只、「前田教」にすがり、偽の観光地をでっち上げて全国から観光客を呼び、労せずして金儲けをしようとする「高岡商人の魂胆」が見え見えである。何処かの誰かが「富山県民の閉鎖性」を訴えてゴウゴウたる県民の非難を浴びたが、「釜の中の茹で蛙」は熱湯に成る迄気付かないのだろう。「お友達の政治」ではせいぜい皆で公費からお揃いの靴を新調する位が高岡市の政治レベルでしか無いのだから……。これが、この民度の低さが全国からのブーイングに成っているのだ。

■高岡市では、正に全ての高岡市の歴史はこの「関野神社由緒」に集約されて、事実は全て封殺され、それが現在も「高岡市の正史」と信じ込まされて、高岡市自体がその虚偽の由緒を喧伝し、様々な観光地をでっち上げている。又、高岡市の著名な祭りの「御車山祭り」は元々、越中宮極楽寺所縁の祭りで在ったが、現在は関野神社の祭礼だとされている。何と、「後醍醐天皇皇子宗良親王」所縁の熊野信仰すら、現在は関野神社の信仰だとされている。
(※「越中宮極楽寺由緒」参照)
高岡市では、明治維新から遥か遠い現在に於いても、憲法に認められた「信仰の自由」や真実を学ぶ為の「教育を受ける権利」すら保証されず、高岡市の各部局はウソの情報を流して市民や児童達の耳をふさぎ、口をふさぎ、目をふさいでいる。


●この「関野神社由緒」は、当方が原始資料を元に高岡市史の誤りを指摘して説明した時に、高岡市の幹部が「これが高岡市の正史だ。読め!」とばかりに押し付けて来たものだ。

■賢明な諸氏におかれては、様々な原本や真実の歴史を調べて「正確に高岡市の歴史を認識されている」と思う。偽の歴史家や教育者、政治家、官僚達は「原本」も見た事も無く、孫引き、ひ孫引きの郷土史や加賀藩の権力を背景とした偽の歴史史料を恰も真実の如くに語っている。
高岡市の歴史は加賀藩の権力を背景としたファンタジーで有り、その影には大多数の庶民の汗と涙が隠されている事を知るべきだ。又、その為に地域社会は大きく崩壊して限界集落が増え、あたら素晴らしい若者達が終世結婚も出来ない歪んだ社会に成ってしまった。そして、現在も未だ、加賀藩の亡霊が高岡市を覆い尽くして差別と偏見を助長している事を理解すべきだ。
又、行政は多額の税を浪費せずに真の公正な地域社会の再建を図るべきだ。
閉鎖した中心部の商店街に多額の投資を繰り返しても、独裁的な「中心市街地活性化法」によって一部に開発を集中しても最早、大都市との格差は埋めようが無い。それなら寧ろ、地方の特色を生かした「田園都市」を目指したらどうか? 名古屋に近い岐阜市は僅かな間に商業は壊滅して駅前にはマンションが建ち、名古屋のベットタウンとして再生している。しかし、金沢市や富山市に住宅を供給できる程、両都市にそのニーズは無い。とすれば、誰かが言った様に広く日本や世界に目を向けた開発を志向するしかあるまい。本家の前田家のお膝元の金沢市では「世界の金沢市」を市のスローガンに、パリやローマ等の世界レベルの観光都市の構築に邁進している。しかも、金沢市では「前田家の権威による観光開発」だけで無く、新しい現在の市民の視点に立った新しい都市作りと情報の開放に依る観光開発を目指している。金沢市の観光開発は高岡市とはレベルの異なる段階に進んでいる。公共交通の高速化で、「ストロー現象」の為に金沢市によって一番影響を受けるのは高岡市である。しかし、高岡市にはその危機感すら見受けられず、高岡市では相も変わらず「加賀藩のお陰様」の精神と「お友達政治」でお茶を濁している。発展の無い都市は消滅する。一時期、高岡市には多くの企業が進出したが、近年は企業誘致にも力を入れていこなかった。どの都市でも都市の消滅を防ぐ為に市長自らが鞄に企業誘致のパンフレットを入れて各地の有力企業に日参して企業誘致を行って来た。しかし、驚く事に、高岡市は企業誘致を自ら行う事無く、「企業誘致は商工会議所が担当する」と逃げ回り、責任転嫁をして来た。その結果、加速的に人口の激減、企業の撤退が続き、市街地もゴースト化した。何時までも加賀藩の亡霊に頼っている間に、高岡市は廃墟に成った。近年の市長は口先だけのゴマ化しに終始して、お友達企業や高岡市の有力企業寄りの政策に終始してきた。その結果、決定的に税源不足に成り、市役所職員の給料削減や施設の削減にのみ熱心に成り、帳尻合わせにのみ終始している。最早、財政破綻した夕張市の前段階に成っている。その基本は短期間しか存在しなかった「高岡城」が無くても、金沢と同様に「前田家のお陰」、「歴史都市」と称して怠慢を重ねて来た。一刻も早く、この誤った歴史観を替え、現実的な政策を採るべきだ。今こそ高岡市の職員は廃仏毀釈の時に歪められた「御車山祭り」や「二上射水神社」等の【由緒】を直視して、加賀藩は越中を占領地、収奪の地域として認識していたに過ぎない現実を知るべきだ。前田家が明治維新後に編纂した「加賀藩史稿」には「税金は越中に依存していた」と明確に記されている。特に、越中西部の小矢部川以西の地域は60~75%迄の高額な課税を明治維新に成る迄続けて来た。県内各所の道路や河川の傍に在る「地蔵尊」は、この過酷な収奪の結果、自殺した民衆の成仏を願う為に築造されたものが多い。自殺した者はその集落で始末をしなくてはならず、「村人は川に流れて来た遺体を竹の棒で下流に押し流した」と古老は云う。これが高岡市の「町衆」(※実際は単なる豪商)が「お陰様」と崇拝する加賀藩の政策の実体なのだ。「高岡市」は教育委員会が主導して市役所組織を挙げ、高岡市民が真実の歴史に目覚めない様に、【高岡市の歴史は1600年以後の歴史しか無い】と喧伝し、【「高岡市」は「鳳凰鳴けり 高き丘に」の詩経の一節から名付けられた。】と喧伝している。これは、富山新聞発行の「富山県大百科辞典」に拠れば、元々は皇室庄園で在った赤丸村から移転した高岡市関町の「総持寺」の「山号」で在ったと記載されており、その山号を取り上げて瑞龍寺は「高岡山瑞龍寺」と名付けたと云う。高岡市の広報に確認しても「その根拠資料は無い」と回答している。「高岡市史」には何処の郷土史にも在る「資料編」が無い。全くの「偽書」の「高岡市史」を高岡市の行政は市民統治の為に利用して市民を騙し続けている。その背景には、加賀藩を背景に横暴を極めた関野神社等の「吉田神道」の画策が在った。京都の「吉田神社」を頂点とする「吉田神道」は歴代の政権に取り入り、徳川幕府には「神社・祢宜諸法度」を制定させて、全国の神社の神官の任命権を得て、両部神道の古い寺院から神社を簒奪する運動を激化させた。高野山や比叡山や歴史の在る古い寺院には、敷地内に神社を設置するのが一般的で在り、赤丸村の聖護院派山伏「川人山鞍馬寺」は「三社権現」形式の【三つの神社を抱える寺院】で在り、「石動山天平寺」は「五社権現」の形を採った。「二上射水神社」の別当寺には「養老寺」が在る。この吉田神社勢力が明治維新の廃仏毀釈の動きに乗っかって、県内の両部神道寺院の廃止に動いた。この時に、両部神道の各神社の由緒も書き換えられた。過激な廃仏毀釈に驚いた明治政府は、改めて過激な運動に注意をしている。しかし、高岡市では、市役所を初め、高岡市を挙げて「加賀藩のお陰様」と唱えて、偽の「高岡市史」迄捏造?して、関野神社の祭礼として「御車山祭り」も「歴史遺産」にしてしまった。この祭りは「越中宮極楽寺由緒」に拠ると、元々、南朝の牙城の赤丸村に後醍醐天皇の皇子「宗良親王」が創建された「越中宮極楽寺」に伝えられた「宗良親王」の使用された牛車を利用した祭りで在った事が記載されている。「二番町」の山車だけは牛車の形の二輪車で在り、後年、造られた他の町内会の山車は祇園祭の「山鉾」と同じ「四輪車」で在る。「二番町の山車」はこの牛車を利用しているからで在り、他の町内会の四輪車の山車は「御神輿」だからで在る。

(※「越中宮極楽寺由緒」の全文は当ブログの別項目に掲載しているので自分の目で確認して戴きたい。)






●「関野神社縁起」の検証
本殿・神明社は延喜式内社「越中国射水郡 加久弥神社」の論社。本殿・熊野社は延喜式内社「越中国婦負郡 熊野神社」の論社。
(※「論社」とは別に「本社」と名乗る神社が在り、「議論されている神社」と言う意味で、殆どが「吉田神道」等の神社が幕府や藩の力を背景に主張している神社。)

▼「延喜式神名帳」には「射水郡 加久弥神社二座」と有り、
加久弥神社[カクミ]2座 の説明として一般的には
①加久弥神社[かくや]「稻倉魂神、天照皇大神」(富山県氷見市神代2676) 
②高岡関野神社[たかおかせきの]「伊弉册尊、事解男尊、速玉男命、稲荷大神、前田利長郷」(富山県高岡市末広町9-56)、
とされる。

★関野神社縁起では
本殿が3棟あり、それぞれ以下の神を祀る。
『神明社』(国常立尊、保食神、天照皇大神、三毛入命)
『熊野社』(伊弉冉尊、事解男命、速水之命)・相殿(素盞嗚命、軻遇突智)
『稲荷社』(稲倉魂命(稲荷大神)、菅原道真公、前田利長公)
・「加久弥神社」は「延喜式内社の神明社」と説明している。
・「高岡神社」の祭神は「稲荷大神」としている。「稲荷大神」は言うまでも無く「伏見稲荷大社」の事で有る。
・「熊野社」の祭神は「伊弉册尊イザナミノミコト」とされて、併せて「事解男尊」を祀るとされている。「事解男尊」は熊野社に祀られる前から伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られていた。熊野三山の「熊野速玉大社」の祭神は「伊弉諾尊イサナギノミコト」で有り、熊野三所権現は「伊弉册尊、速玉男尊」を祀る。『日本書紀』には「伊弉冉尊」が死んだとき熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に祀られたとされ、熊野信仰の原点とされる。

■「延喜式神名帳」(江戸時代の写本→越中利波郡・射水郡の延喜式内社)


■「先宮熊野社と関野神社の騒動」を伝える「越中宮極楽寺由緒」
(※「越中宮極楽寺」は、後醍醐天皇皇子の宗良親王が信仰されて後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」に勘請されたとする「熊野社」を祀り、高岡市熊野町の「先宮熊野社」はこの時に勘請された古い神社として、「前田利長」が「先宮」と命名して崇敬したと伝える。「関野神社」はこの「先宮」が関野神社のものだと主張して勝手に「先宮」を名乗った為に騒動に成った。)



■「先宮熊野社」(高岡市熊野町)は後醍醐天皇皇子の宗良親王が勘請されたと伝える古い神社だ。



■高岡市の「先宮熊野社(高岡市熊野町)」の由緒を伝える加賀藩記録


▼しかし、曾て、関野神社が熊野社として「先宮熊野社」(本家の熊野社)の篇額を掲げた時には、高岡市熊野町の「熊野社」が「先の宮の本社は熊野町の熊野社だ」として氏子が押し掛け、その篇額を取り除いたとされ、又、曾て「加久弥社」の篇額を掲げた時には氷見市神代の「加久弥社」の氏子が押し寄せて篇額を取り除いたと伝わり、この神社の由緒には様々な論争を含んでいる。
※「延喜式内社赤丸浅井神社」の摂社の「石堤浅井神社」も加賀藩時代に「本社」を名乗り神社簒奪を図ったが、加賀藩の裁定で「石堤浅井神社の敗訴」が確定して、摂社拝殿からの吉田神道の祭壇祭具の撤去を命じられている。
徳川幕府が伊勢神道に対抗して吉田神道と組み「唯一神道吉田神道」を保護した事から、全国で古い神社の簒奪が発生して、吉田神道は神職の任命権を与えられた事から、その力を使って全国の神社を支配したと言われる。
▼「高岡市御車山祭り」の「御車」は「豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎えた時に使用した車を前田利家が拝領してそれを市民に与えたのが始まり」としているが、高岡市の古刹の「越中宮極楽寺」では、南北朝時代に後醍醐天皇の庄園の「吉岡庄(赤丸村)極楽谷」に後醍醐天皇の皇子宗良親王が入られて「極楽寺」を創建され、二百数十年間は赤丸村に在ったが、「宗良親王」が県内を巡航された時に使用された車を極楽寺で保管していたものを何時か庶民が「曳き山」として曳き廻したのがこの「曳き山祭り」の原点だと伝えている。その証拠に現在も祭りの始めに町内役員が正装で「極楽寺」へ拝礼している。
(※「極楽寺由緒」はこのブログ内で全編公開しています。)
▼前田家は金沢市尾山町に氏神として「尾山神社」を祀っているが、この神社の祭神は高岡市の「物部神社」と氷見市阿尾城に在った「榊葉神社」を合祀したもので、何れも越中の神々で在り、「前田家」が祖先を「物部氏」とする事から来ている様だが、前田利家が越中に入る前には「神々への信仰が無かった」ものか? 何故、加賀藩は各地の神社を簒奪し続けたのか?
金沢市や旧富山市、旧高岡市に加賀藩が動かした著名な寺院も越中五位庄から動かしたものが多く、加賀藩が庶民の信仰や文化を取り上げて、加賀藩のコントロール下に宗教を置いた事が解る。

📙📃🐎【高岡市の偏向した歴史認識】 臨済宗の名刹「国泰寺」の「戒め」に思う!! ⇒富山県高岡市の「御車山祭り」の由緒?

2021-04-19 | 富山県高岡市


そのHPには【言葉を発す時は怒りや虚妄を除き去ることが必要であり、何かを行う時には 穏やかに偽り無くずばりと潔く行おうとすることを大事にする】と書かれている。

💢【虚偽の歴史を伝える高岡市の文化】
ガラパゴス化している高岡市教育委員会は「加賀藩の治世」を踏襲して、今だに「加賀藩の治世以前の1600年以前の歴史」を知る必要は無いと公言する。全ての歴史は加賀藩の時代に起こったとする妄想を市民に強要する高岡市の高齢の幹部達。

■高岡市の「御車山祭り」が終り、翌日、「御車山会館」を訪ねた。目的は、ユネスコの無形文化遺産にも指定された「曳き山文化」の「高岡市の御車山祭り」の由緒を聞く為で在った。
対応したのは元高岡市博物館の学芸員をしていたと言う女子学芸員と館長らしい人物だったが、詳しい事は二番町に聞いてくれと言われて多忙な二番町の役員が会館に駆けつけて頂いた。言う迄も無く「二番町の山車」だけが二輪であり、これはどうみても皇族や関白以上が乗られた「與車」と言われる乗り物であり、他の山車はどうみても「御神輿」の原点の山車で在る。そこで、彼らに「高岡市の御車山祭り」の由緒について尋ね、◆「何故、祭りの始めに役員が越中宮に極楽寺に挨拶に出向くのか?」、◆後醍醐天皇の皇子「宗良親王」が創建された「越中宮極楽寺由緒」では「御車山会館」が説明する内容と異なり、この祭りは「後醍醐天皇皇子宗良親王所縁の行事」と記されている事を告げ、藩政時代に「関野神社と先の宮事件」と云う論争が在った事を告げた。
その時に突然、館長らしき人物が顔色を変えて激昂して「一体何を言いたいのだ。高岡市には1600年以前の歴史は必要無く、それ以前に極楽寺の祭りが在ったと言う証拠は在るのか?」と言い放った。当方は専門家に問い合わせに出向いたのだが、逆ギレされてしまい、学芸員は「もうおしまいです」と帰る様に催促した。全国何処の観光地でも客の質問に逆ギレして追い返す観光地は何処にもない。しかも、関係者は無言で立ち去り、何処の観光地でも聞く「有難うございます」との挨拶もなくて背を向けた。
税金で建てた建物に、税金で雇われた職員が、「観光案内」として常駐して居ながら、税金を支払う市民が施設の説明を求めたら逆ギレして追い返す。こんな事態は全国でコンサル活動をしていた経験からしても見た事も聞いた事も無いことだ。
「ユネスコ無形文化遺産」と胸を張る割に、何も知らない人間を施設案内に雇って、しかもその実際の歴史も研究していない。

■「高岡市」は「御車山祭り」は吉田神道系の「関野神社」の祭礼だと決めつけるが、元々、高岡市の佐野大地は後醍醐天皇皇子宗良親王が「妙法院院主」をされていた時の「妙法院領庄園」で在り、その隣接の「越中吉岡庄」はその父君の「後醍醐天皇の庄園」で在った。その「宗良親王」が創建されたと伝わる「越中宮極楽寺」では、この祭りで使用される「御車」は親王が南朝軍を鼓舞するために各所を廻られた時の「與車」と言う公卿の乗り物だと記している。

■明治維新の時に高岡市の「吉田神道関野神社関神官」が主導して、両部神道の寺社や名刹の仏像、仏具等を破壊して【廃仏毀釈】を推進した。この運動を根拠に「関野神社」は富山県西部の神道の頂点に立ち、真言宗、天台宗だけで無く全ての仏教もこの時以降は口を閉ざしている。
富山県西部の多様な「信仰」を奪った「関野神社」は、終戦後ものうのうとしてその権威を誇示して、「高岡市の歴史」の中心に在る。高岡市内の寺社はその由緒すら封印して現在も沈黙している。


🔽「赤丸村極楽谷」で創建された「越中宮極楽寺」に伝えられたという後醍醐天皇の王子「宗良親王」御使用の「御車」と伝える高岡市二番町の「曳き山」。(※「越中宮極楽寺由緒」参照)






■【南北朝時代に後醍醐天皇の皇子宗良親王が越中吉岡庄(赤丸村)極楽谷に創建された「越中宮極楽寺」の由緒】
⇒この数少ない「古書には」、高岡市が隠し通そうとした【真実の歴史】が記載されている。









■「高岡市の御車」は豊臣秀吉が後陽成天皇を迎えた時の「御車」だと「御車山会館」では説明して、会館にはその証拠として「絵図」が飾られている。しかし、古書には、実際に出迎えの為に御所に遣わされたのは関白秀次であり、高岡市では【聚楽第に保管されていた「七基の御車」を利長が市民に与えたのが始まりだ】と説明しているが、明らかに二番町以外は「御神輿 オミコシ」であり、これも事実と異なるだろう。
しかも、近年、利長が聚楽第に保管された「御車」を拝領したとする意見に対して、秀次が高野山で自決した事に怒った秀吉が、間もなく、この聚楽第を取り壊している為に、この「御車」を利長が市民に与えたとするのは時間的におかしいと言う論文も在る。仮にこの「御車」が後陽成天皇を御迎えした時の車なら係り員が云う様に「1600年以前」の歴史にも絡んで来る。

過去には高岡市では、教育委員会の中に「前田家以外の歴史は高岡市には関係無い」として左遷された事件も在ったと耳にした事が在る。
兎に角、何故、高岡市は「全て前田・利長」なのか理解に苦しむ事が多い。本家本元の金沢市で町づくりコンサルの御手伝いをして、百万石行事にも参加した経験からしても、高岡市の歴史観が異常に見えてくる。ここまで来ると高岡市全体が「狂信的な利長教の信者」の様だ。

■加賀藩士富田景周著作の【瑞龍閣記】では、「聚楽第拝領の誤り」を指摘している。現在の高岡市教育委員会では、「加賀本藩」の歴史を伝える「富田景周」の記録にすら逆らう「偽造された歴史」が堂々とまかり通っている。




■「高岡市の観光振興政策」
高岡市はその政策で「おもてなし」を打ち出しているが職員は役人根性そのもので「見に来い」「見せてやる」の態度そのもの。
他の行政は役人を百貨店等に派遣して「サービス研修」を行い、徹底した「サービストレーニング」を行っているのに、高岡市は依然「井の中の蛙」。
「御車山祭り」は「利長所縁の祭り」として相変わらず「吉田神道の吹聴」を真に受け、小矢部川河口には「如意の渡し」を偽造している。

🔽「義経記」では上流の「五位庄赤丸浅井神社前の出来事」(※鎌倉時代初期には後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」と呼ばれた。)で在る「勧進帳」の場面を、当時の高岡市長が率先して「如意の渡し」と言う観光施設を小矢部川河口の出来事として偽造している。その後、この事に付いては、「高岡市広報統計課」が曾て発行して成人式で新成人に渡された小冊子では、【高岡市内の有力企業「●●海陸」の専務の発案で、単なる渡し場を赤字解消の為に「如意の渡し」と名付けて、小学生にその運航船を「如意渡し丸」と名付けて貰った】とか? それを当時の高岡市長が公式に喧伝したと言う事だ。正に産学官の連携で見事に「偽物の観光地」がでっち上げられた。
高岡市広報統計課が真実を伝えたこの内容は、その後、反動的な一部の職員が「高岡市教育委員会」の実権を握ると、このでっちあげられた「高岡市の歴史」は再び復権して「真実の高岡市の歴史」であると再び喧伝され、近年にはこの銅像が高岡市伏木駅前に移動された。これには、地元伏木の有力者の精力的な動きも在った様だ。現在も●●海陸を中心とした勢力が歴代高岡市長を支援しており、高岡市伏木の公民館は、市内でも群を抜いて豪華なものに成っていると言う。一部には、この様な「政治を利用した過大な施設が高岡市の財政を破綻に導いている」とする意見があり、「前田家ゆかりの浄土真宗 勝興寺」がかつての「古国府」の地に在る事も、高岡市がこの地域に財政を傾ける様な巨額な投資を続ける原因と成っている。「勝興寺」は、かつて「一向一揆」の頭目として織田信長に逆らったが、その後は、「民衆を弾圧する加賀藩の手先」として「門徒制度」で真宗門徒の弾圧に手を貸していた。この事は浄土真宗門徒にとって恥ずべき事だ。「勝興寺」が加賀藩の意向を背景に威張り散らした為に、同じく「浄土真宗西派」の名刹で在った「井波瑞泉寺」は袂を分かって「東別院」の寺院にくら替えしている。

とにかく、現在の「高岡市政」は訳の分からない「歴史都市」を唱え、地域偏重が大きく、無策な「中心地域活性化法」を採用して、地域住民の活力を疎外して周辺地域の抹殺にのみ邁進している様だ。

🔻【高岡散策】(※高岡市広報統計課発行)




「高岡市教育委員会」は、小矢部川河口の「如意の渡し像」が一企業の客集めの為にデッチ上げたものだとして、平成8年、この冊子を成人式に配布した。
この中で、高岡市は、【「義経記」自体が作文で在り、「如意の渡し」も何処か分からないとしている】が、「福岡町史」には「井波町」に伝わったという【小矢部川の絵図】が掲載されており、この「二位の渡し」から小矢部川河口の「六渡寺村の渡し」迄を別名、「六渡寺川舟下り」という舟下りルートで在った事が記されている。この様ないい加減な広報誌を新成人の若者全員に配布したと言うから、「高岡市」のデタラメぶりが明らかだ。それに、当時の市長は「如意の渡し」として立派な銘板を市費で付けているのだから、ますます以って「上から下迄デタラメな役所」で在る。


「二位の渡し」とは、「元正天皇の二位の宮が創建された」と伝わる「延喜式内社赤丸浅井神社」の前に在った「舟乗り場」で在り、「如意の渡し」とは、「東大寺大仏の造営の時に米五千石を寄進した」と言う「石黒氏の祖」と伝わる「利波臣志留志」が統治した地域を流れる「小矢部川の舟渡しの事を」指していると見られる。「如意」は「仏舍利」を示し、「如意の渡し」は「石黒領の舟渡し」を指していると見られる。「源平盛衰記」には「木船城」の「石黒光弘」の父親の「赤丸浅井城城主石黒光景」が、「六道太郎光景」と記載されている。鎌倉時代には二上庄を石黒氏が統治していた記録も在る。(※「石黒氏の歴史の研究」の【越中石黒系図】参照)



■この小矢部川河口の渡し場に在った巨大な「義経と弁慶の銅像」は最近、伏木駅前に公費で移設して改めて喧伝されている。高岡市の有力者と地元の有力者、高岡市の政治家が結託すれば何でも出来る高岡市の実態がここに在る。その高岡市は現在、放漫経営から「財政破綻」に瀕して、公共施設の閉鎖、福祉制度の廃止等がそもそもの戦犯達の手で進められている。

■高岡市の「高岡」命名の由緒も、富山大百科辞典(※富山新聞版)では「元々、高岡市の総持寺の山号は「高岡山」で在ったが加賀藩に取り上げられた」としており、高岡市の歴史の説明は殆どが「眉ツバ」ものだ。

観光地や由緒をでっち上げて居りながら、高岡市観光課は「クレームを受け付けない」と堂々とHPに謳うと言う厚顔無知ぶりだ。こんな態度で「おもてなし」とは片腹痛い。正に高岡市の現状は「羊頭狗肉」で在り、観光客を誘き寄せるだけの「観光振興」だ。今流行りの「●●サギ」の手口だ。もっと「正確な歴史認識」を持って「真の観光政策」を取らなければ、日本の、否、世界の信用を失う事に成り、全世界から嘲笑されるだろう。「高い教育レベル」を高岡市は吹聴してきたが、高岡市のレベルは、実際の「義経記」も読んだ事も無い人間が徳川幕府の手先で在った「吉田神道関野神社」や、加賀藩の歴史家富田景周や森田柿園の主張を盲信して、検証する事も無く観光地をでっち上げると言う誤りを惹き起こしている。

■加賀藩は、「能登末森城の戦い」で前田利家軍を攻めた佐々成政軍の「赤丸城主中山直治」に味方した地元の地域を徹底的に破脚して、住民を高岡市和田新村に強制移住させ、有力寺院も分割して弱体化させた。その上、寺社施設や住民を高岡市内に移転させて、その跡に残った百姓には「75%」もの酷税を課して住民を農奴として酷使し、明治に至る迄その政策は維持されてきた。この政策は小矢部川西側全体に行われて、特に福岡町鳥倉村、赤丸村舞谷、赤丸村花尾については最高税率の75%が課されている。加賀藩はこの地域の歴史や文化も抹殺してその全てを「高岡の文化」にすり替える事を行った。

これに対して、加賀藩の歴史家「森田柿園」は「越中史徴」を編纂し、「赤丸浅井神社」の調査も行い、石川県立図書館の「森田柿園文庫」には赤丸住民が見た事も無い大きな絵図も遺している。

しかし、現在も未だ「高岡市教育委員会」はこの「前田家至上主義」の政策を継続して、次々に「新しい歴史」を「歴史創造都市」を標榜して【創作】しているのだ。この背景も知らずに高岡市の有力者は厚顔無恥にも「前田利長が作った文化だ」として偽物の歴史を創作して吹聴している。元々、原野で在った高岡市街が、如何に前田家の御蔭で開発されたかを語るのは否定するものでは無いが、現在の高岡市郊外の地域の古代から続く歴史や文化、住民の生活をも抹殺しようとする「高岡市政」の企みは、かつてのナチス政権が行った政策と重なって見える。
かつての「赤丸村」には、「行政機関」、「警察」、「医院」、「幼・保、小学校等の教育施設」、「商店」、「JA」等の購買・金融機関や、生活の利便施設が整っていたが、合併を繰り返す度にこれらの施設は廃止され、4~5キロも離れた場所迄出かけなければならない。特に可哀相なのは、「学生」や「老人」で在り、その間の税・福祉費の負担は増大する一方で、150億円もかけた乗る人も少ない新高岡駅等の巨額投資の負担や巨額の市街地再開発の費用負担もさせられている。収益性の悪い市街化再開発程、市民に負担をかけるものは無い。国土交通省が補助金を付けるのはB/C(費用対効果)が1.0以上とされており、マンション等の開発は効果が少ない事が分かっている。「高岡大和」が撤退した「御旅屋再開発」の様に、無策な政治家が企んだ「見栄」だけの再開発は、市街地を瓦礫の山にするだけだ。地域によっては、再開発地域を森林にして、「文化施設」を集約する再開発も在る。これは「森の再開発」と云われ、地域の福祉や財政に優しい再開発とされる。

■加賀藩ゆかりの施設には無尽蔵な財政資金が投資されている。その上、地域の公民館は地域の運営に変えられ、負担は増すばかり。しかも、「財政が破綻する」と吹聴して、住民の福祉を切捨て、「議員」の報酬は全国でも多いという。正に、「加賀藩の政治」をそのまま継承している。


🔻(※富山県西部の「五位庄」は、鎌倉時代には「吉岡庄」と呼ばれ、「後白河上皇」以来「後醍醐天皇」迄「後院領」と呼ばれた皇室庄園で、室町時代には「五位庄」となった。南北朝を合一した室町幕府の「足利義満」は、「五位庄」を「臨済宗相国寺」(※塔頭寺院鹿苑寺金閣舎利殿)に寄進した。その時に、【「赤丸浅井城」が在った相国寺庄園「五位庄赤丸村」から臨済宗以外の宗派が追放された】と赤丸村に在った高岡市関町の「総持寺由緒(赤丸浅井神社伝承)」や越中西部の臨済宗寺院に伝えられている。











「越中絵図」(※【畠山文書 大阪府羽曳野市資料叢書】 室町幕府の統治下で菅領畠山満家は越中を八郡に分けて統治した。五位庄赤丸村の「赤丸浅井城」に越中守護畠山持国の記載がある。)




📕📝 越中の『砺波郡』と『射水郡』の郡界論争 ⇒ 地域史では砺波・射水郡界が論争の焦点になっているケースが在る !!

2021-04-19 | 富山県高岡市



















■郷土史研究に見られる不思議
砺波、射水郡界を論じるのにその時代には何処が郡界だったか確認せず、式内社を論じるのにその神社がどの祭神を祀っているのかを確認しない。そんな不思議な事がそうそうたる方々の意見にも見られる事が在る。


■『東大寺庄園須加庄図』には、「射水郡」に記載されているが、学会や高岡市国吉校下では砺波郡の国吉校下の「頭川」辺りをこの庄園に比定している。一方、学会では「射水郡と記載されているから射水郡の五十里辺りだ」とする意見も在る。
「富山県の歴史」(※久保尚文執筆)には、室町時代に桃井直常が五位庄の戦いに敗れて、幕府側の斯波氏が越中に入った時に砺波郡と射水郡界が動いたと記されている。
確かに、これ等の論争を見ると、時代により郡域が変化したと云う視点が欠落しているケースが多い。高岡市佐野は加賀藩時代には射水郡だが、室町時代には砺波郡になっている。赤丸村の舞谷村に在った「西大寺」(※高岡市)も舞谷村から佐野村に動き、更に現在の千保川と小矢部川の合流地点に動いた。高岡市佐野には南朝の宗良親王が入られたと論じる記事が在るものの、加賀藩時代には射水郡で在った事から根拠が曖昧で在った。室町時代に高岡市佐野が砺波郡域に在った事が分かれば、同じ郡域に在った「西大寺」や「極楽寺」が砺波郡赤丸村から動いたと云う事も成る程と理解できる。室町時代の絵図に「畠山家文書」記載の絵図が在るがこの絵図をもってしても明確な郡界は確認できない。




■高岡市佐野は現在の極楽寺近く迄が藩政時代のエリアで在った事を知る人が少ない事も地域史の混乱の原因でもある。藩政時代の郡界については射水市博物館に保管される石黒信由地図に詳細が在るものの、中世や古代の絵図が残されて居ない事もこの論争の理由である。最も古いとされる小矢部市保管の「四郡絵図」でも中世以前の状況は理解出来ない。とすれば、どちらの意見も根拠が無いと云う事になる。不思議なのは、その当時の絵図や具体的な資料によらずその地域が何処かを確認すること無くどちらの意見も組み立てられている事だ。とすれば、後は実際に発掘して検証するしか無いと思われるが、発掘をする行政はその地域が史跡に該当するのかを明確に認識する事無く発掘だけをしてその報告書を纏めている。たまたま、高速道路等の建設では部分的に行政と学会が共同で調査しているが、組織的に行政と学会が常に連携しているとは思われ無い。

■高岡市佐野地区は高岡市が発掘したが、二年前に東大寺の「正倉院展」に全国の庄園図の中で唯一、高岡市の「東大寺庄園クボタ庄図」が展示されたが、高岡市は勿論、地元の方達も全く認識が無かった。全国からこの展示を見る為に多くの人達が行列を作り、数時間も待ってこの展示を見に来られているが、その地元は全く無関心で、新聞等のマスコミも全く無関心だった。某社にも連絡したが全くの無反応。奈良の国立博物館の監修に拠る資料も発刊されて、「この庄園は高岡市十二町島、佐野辺りに比定される」と記載され、この地域でも高岡市は史跡の発掘をしているが、誰も関心が無い。
コレが「歴史のまちづくり」を標榜する高岡市の実態だ。行政の仕事はホームベージで発表するだけで良いのか?




📕🐎🏯 悪逆非道の「前田利家」を伝える福井県越前市・「北国太平記」!!

2021-04-18 | 富山県高岡市
「前田利家」の大量民間人殺戮の記録


「金沢市文化財 北方心泉作 前田利家像」(※北方心泉はその作品全体として文化財指定)
⇒加賀藩ではこの像を正月の床飾りにしていたと言う。





■越前・加賀・越中の一向一揆では多数の農民が殺戮された。前田利家が福井県武生にいた時に、一揆に加わった農民は野山に隠れた婦女子も捜し出され、引き摺り出されて約一千人全員が徹底的に殺戮された。その処分は槍で突き刺す「磔刑」や、熱した釜に手足を縛って放り込む「釜煎り」の刑であった。その時に、憤り絶望した越前の農民達は御寺の「 瓦」にこの残虐な殺戮の様子を刻み、後代に伝えようとした。
又、古い歴史を綴った「北国太平記」と言う書物には、前田利家が富山県と石川県境の「石動山」を攻撃した時に、寺に居た婦女子や乞食等も含めて全山の民衆を皆殺しにしてその首をはねて寺の山門に吊るしたと記載されている。











■福井県では各市町村にこの歴史認識が生きているが、高岡市の歴史は現在も前田家だけを崇める歴史しか無い。高岡市教育委員会の幹部は「高岡市の歴史は前田家が統治した1600年以前の歴史は無い!!」と平然としてウソぶく。「前田家の歴史以外は歴史では無い」と云うのだ。
歴史はこの高岡市にもさまざまな数千年の歴史がある。この偏向した歴史認識が、かくも「宣伝」に因って正反対になるのは、一面恐ろしい事だ。現代でも「福井県」では「前田利家」は悪逆の武将として密かに語り継がれている。

🔴殺戮と圧政の加賀藩主【前田利常】⇒【越中国高岡山瑞龍閣記】(※富田景周著)に記載される「高岡市の歴史」!!

2021-04-18 | 富山県高岡市
🔴【歴史創造(想像)都市 高岡】
■「高岡市」の「日本遺産」
🔻前田家ゆかりの地
🔽「前田利常」が築いた町「高岡」
・【「封建領主前田利常」が人民からの徹底した搾取で築いた「高岡」】という事実を伏せた上辺だけの「歴史」による「日本遺産」の捏造??
⇒農民達を牛馬の如くに使役して搾り取った財産を一部の加賀藩ゆかりの商人達に分け与え、その協力で領民達から財貨を集めて利益を蓄えた【加賀藩恩顧の特定商人】が贅沢を尽くした「高岡市の文化」。
➡これらの商人達には「加賀藩からの免許状」が出されており、「高岡商人」が加賀藩に大枚をはたいて免許状を取得していた事は疑う必要も無い。
🔽「歴史創造(想像)都市高岡」のテーマの実態。
・「寺社」の由緒や文化の由緒を偽造した「吉田神道高岡関野神社」の作文を踏襲した【高岡市の歴史】
🔽「高岡市鋳物資料館」に在る「仁安の御綸旨」の真偽については、「どこかで購入した古文書」との疑惑が在る。能登の鋳物師に伝わる「古文書」との違い? 元々、「越中吉岡庄の領主の後白河院政」の元で発行された「仁安の御綸旨」が何故、高岡鋳物師に伝わったのか?
🔽南北朝時代には「吉岡庄」(※赤丸村鍛治屋町島)に宇多源氏の流れを汲む宇多刀工「宇多国光」の流派が栄えた。
⇒「皇室庄園越中吉岡庄・室町幕府御料所越中五位庄」の利波郡赤丸村に在った寺社の由緒を上書きして「前田家ゆかりの寺社の歴史」として偽造した「吉田神道高岡関野神社」の策謀?
➡加賀藩が高岡市へ強制的に移転させた赤丸村に在った「寺社」等の歴史を前田利家の居城「高岡守山城」の城下から動いたと偽造した「高岡市の歴史」・・「高岡総持寺」が室町時代に「足利家菩提寺相国寺」の庄園「越中五位庄赤丸村」から守山城近くの六渡寺村へ動き、続いて高岡へ動いた事。「高岡」とは「総持寺の山号高岡山総持寺」に由来する事。・・「越中宮極楽寺」等、高岡市内の古刹はその殆どが「越中五位庄」から高岡市内へ強制的に移転させられた事実。「延喜式内社高岡射水神社」は元々、高岡市守山に在ったものを「吉田神道高岡関野神社」が強制的に高岡城跡地へ移転させたもの。(その後、守山の氏子達の抗議でその縁起を現在の「延喜式内社射水神社」へ戻したと云う。)

≫≫≫等等、「寺社由緒の改竄」等は枚挙にいとまがない。正に「高岡市の歴史」は「創造(想像=改竄)」の成果?
従って、「高岡市史」には、その根拠となる「資料編」が無い!

■高岡市では、【[高岡]は「鳳凰鳴けり高き岡に」と言う「詩経」の一節から命名された】と喧伝される。云う迄も無く【鳳凰】は「天皇の象徴」であり鳳凰紋は何処にでも使用してはならない。しかし、高岡市では、「前田利長」を天皇に比して「鳳凰」は「加賀藩前田家」を指すとする「物語」が喧伝され、各所に鳳凰像が飾られ、皇室軽視、前田家偏重のとんでもない風潮が根づいている。「高岡市の命名」については加賀藩に【三壷記】という古書が伝来しており、「高岡開町」以前の歴史も詳しく伝えている。

■高岡市内では、「令和」の新天皇が即位された日にも「国旗」を掲げる家も殆ど見られず、相変わらず「高岡市」は高岡市を開町した「前田利長」を喧伝する事に終始している。
高岡市福岡町赤丸周辺には、かつて「後白河上皇~後醍醐天皇」迄続いた「上皇」の庄園【越中吉岡庄】が在り、高岡市内には四ヶ所の「聖武天皇」ゆかりの東大寺庄園が在り、各所には公家の庄園が広がっていた。前田家が越中を侵略する前は、正に皇室と密接な地域で在った。

■【高岡】は元々、「越中総持寺」の山号「高岡山コーコーサン」で在ったが「瑞龍寺」建設の時に加賀藩から接収されて「高岡山瑞龍寺」と成った。(※「富山県大百科事典」富山新聞社発行)
(※[越中総持寺]は西暦1000年頃に【越中吉岡庄】(赤丸村)に創建されたという。室町時代に「越中吉岡庄」から「五位庄」に改名されて「臨済宗相国寺」へ寄進された時に、小矢部川河口の六渡寺村へ動いたと伝わる。その後、現在の高岡市関町へ動いた。足利義満はこの時に臨済宗以外の寺院は室町幕府越中守護の居城「赤丸浅井城」の周辺から追放したと臨済宗寺院に伝えられている。)

🔻【越中吉岡庄】(富山県高岡市福岡町赤丸周辺)
(※南北朝時代迄吉岡庄。南北朝時代末期には五位庄。)
🔽「吉岡庄」の記録




🔽「越中吉岡庄」」の記録「人車記」(※近衛家陽明文庫)




🔽「兵範記」([越中吉岡庄]の記録)




🔻【室町時代】の「総持寺」の記録
「室町幕府」から所領安堵状が出ていた古刹の「越中総持寺」。




「越中総持寺」へは室町幕府からの安堵状が出されていた。


🔽「室町幕府第三代将軍足利義満」は、「室の業子」の追善供養の為に「越中五位庄」を「臨済宗相国寺」へ寄進した。










🔴「総持寺」の山号「高岡山」を接収した「加賀藩前田家」を象徴する「高岡山瑞龍寺」の記録【瑞龍閣記】(※富山県高岡市)




■殺戮と圧政を続けた尾張国から来た侵略者、第三代加賀藩主「前田利常」が「前田利長」の為に、贅を尽くして建てた越中農民達の墓標「瑞龍寺」。

■「高岡市」が信奉し英雄視する封建領主「加賀藩三代前田利常」の統治思想と実態。
🔽【殺戮と搾取を続けた加賀藩政】
加賀藩は主に越中からその財を搾り取った。(※「加賀藩史稿」)
その越中農民達の血と汗、涙の結晶の莫大な財は藩主一族の華美な生活に惜しみなく投ぜられ、その為に、幾多の農民は家族を売り、又は近くの河川等に身を投げたと伝えられ、遺骸の処理負担を恐れた集落では当番を河川に立てて、上流から流れて来る遺骸を長い竹竿で下流へそっと押し流していたと古老は語り伝えている。

◆【加賀藩史縞】(※前田家が金沢市に編纂を依頼して作成された)





◆【百姓というものは鷹の様なものである。鷹は食べ物を与えすぎて肉付きがよくなると鳥をとらえなくなる。百姓も同様で、肥えすぎると農業を疎むようにななる。しかし、鷹の肉付きが弱く成りすぎると鳥を取り逃がす。と同様に百姓も疲れすぎると田畑の耕作ができなくなる。】
⇒「百姓とゴマの油はしぼればしぼる程出る。」、「百姓は死なぬ様に、生きぬ様に」との農業政策を「前田利常」が採っていたのは有名でこの言葉は前田利常の統治思想としてよく引用される。
(※「加賀藩・富山藩の社会経済史研究」水島茂著→富山県史・福岡町史の編集委員)


「加賀藩史話 微妙公夜話(前田利常が伝えた家訓)」(※若林喜三郎著)

■昭和、平成の大修理が終わった時に刊行された「瑞龍閣記」には、「高岡開町」、「高岡の命名」、「曳き山祭りの由緒」、「熊野社の由緒」、「聚楽第拝領の誤り」、「繁久寺」の変遷等について記載されている。







■【瑞龍寺の梵鐘由来】


前田利常が養父の利長の為に建立した「瑞龍寺」の梵鐘は、福野町高屋金屋村の鋳物師が鋳造したもので「福野町安居寺アンゴウジ」の梵鐘で在ったが、瑞龍寺造営の時に徴用されたと伝わる。
(※「吉江の昔と今」福野町吉江村)

■加賀藩の歴史家「富田景周」は、武門の歴史家として加賀藩に伝わる「三壷聞書」には「高岡命名の人物」を「三久」とする事は違うと言っている。「三壺聞書」では、【高岡城の地鎮祭の時に越前一乗谷の波着寺の僧空照が呼び寄せられて、その時に「高岡」と提案した】事が記載されている。



🔽金沢市に在る「波着寺」は「加賀藩ゆかりの天徳院」近くに在る。


又、【「高岡」は高岡城築城以前の古書にも既に記載されており、「高岡城築城の時に命名されたとするのは誤りである」】とし、「高岡は関野を改めて命名された」としている。
ここには、現在の「高岡市の歴史」が脚色され、改竄された経過が事細かに記されており、武門の歴史家で在った「富田景周」の独特の歴史感を反映している。

(注記)【■高岡市関町に在る「総持寺」は、元々「高岡山総持寺コーコーサン」と言ったが、「瑞龍寺」の建立の時にその山号を前田家に取られて「瑞龍寺」は「高岡山瑞龍寺」に成った】と「富山県大百科事典」(富山新聞社刊)に記載されている。
「総持寺の住職が高岡と名付けた」と伝わるのは、元々「赤丸村の高い岡」に在った「高岡山総持寺」の由緒を伝え、この寺が古くから「関野」に移っており、地域のシンボルでも在った事からこの地域全体を著名な寺院の山号から「高岡」と呼び慣らしていたものと見られる。
「総持寺」に祭られている「国指定重要文化財木造千手観音像」の胎内には、「金剛位理卿 本願聖人」と記載されており、この仏像が「後鳥羽上皇の祈願仏」で在った事を示している。又、この仏像はその多くの胎内名から鎌倉時代に造られ、「後白河上皇」が創建され、「後鳥羽上皇」や歴代の天皇、皇族が帰依された「河内金剛寺」から伝来したと伝えられる。この「総持寺」の山号が「鳳凰鳴けり高き岡に」の詩経の一節から取られたものとすれば、[この千手観音像を造像した「後鳥羽上皇」は「承久の乱」を引き起こして「隠岐島」に生涯流されて終に都の土を生きて踏む事が叶わなかったが、この千手観音像が皇室庄園「越中吉岡庄」(赤丸村舞谷、後白河上皇~後醍醐天皇)の小高い山の上に建てられた「総持寺」に伝来し、その「後鳥羽上皇」の無念を比喩して、「鳳凰(法皇)鳴けり高き岡に」の一節に込めて「高岡山」と名付けていたもの]と見られる。因みに、「総持寺」はその後「衆徳山総持寺」と号しているが、この読みは「ストクサン」と呼び、これは「後鳥羽上皇」が生涯、「保元の乱」で敗れ、讃岐国に生涯流されて「悪鬼・怨霊」として歴代天皇に恐れられた「崇徳上皇」の鎮撫の意を込めて名付けられたものと見られる。「崇徳上皇の怨霊」を恐れた明治天皇も、「崇徳院」が祭られる「讃岐国金比羅宮」に勅使を派遣されている。】



💠📚🏯 【太平記 巻11 越中の守護自害の事】⇒越中の高岡市二塚、放生津を舞台にした著名な軍記【太平記】!!

2021-04-18 | 富山県高岡市






●「越中吉岡庄」(※高岡市赤丸周辺)は「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として続いた。
高岡市二塚の白山神社は「名越時有」の創建と言う。二塚には、1333年(元弘三年)第十四代執権北条高時の指示で「名越時有」に暗殺された後醍醐天皇の第十一皇子の「恒性皇子」の墓が遺されている。その後、名越時有が滅亡した高岡市牧野には恒性皇子の兄の後醍醐天皇第八皇子「宗良親王」が、1342年 (興国3年)に南朝支援の為に入られ、越中石黒氏の居城の赤丸浅井城、木舟城、福光城を拠点として県内を巡行されたと言う。
(名越流北条氏は、鎌倉時代の北条氏の一族で、鎌倉幕府2代執権の北条義時の次男北条朝時を祖とし、名越の地にあった祖父の北条時政の邸を継承した事により「名越」を称した。母方の比企氏の地盤を継いで代々北陸や九州の国々の守護を務めた。)















■【絵本太平記 全40巻】







■【越中守護名越遠江守時有、舎弟修理亮有公、甥の兵庫助貞持の三人は、出羽、越後の宮方が北陸道を経て京都へ攻め上るべしと聞いて道にてこれを止めんとして越中の二塚(高岡市二塚)と言う所に陣を取って近国の勢共を集めている所に、六波羅迄も攻め落とされて、後に東国にも軍が起きて既に押し寄せている等と聞き、時有の催促によって馳せ集まった能登、越中の者共と共に放生津に引き退いた。その為に、放生津の守護の陣へ敵方が押し寄せようとした為に、今まで忠誠を誓っていた郎党達も時間と共に逃げ去ってしまった。又、明日には敵方が押し寄せると分かると今まで親交の深かった仲間も忽ちに変心して、反って、反逆を企てる事態に成ってしまった。今と成っては、近親の三族や普代の侍達、併せて僅か79人しか残って居なかった。5月17日の午刻に敵方の一万騎が押し寄せると聞いて「我等、この小勢にて合戦をしても何ともならず、なまじに戦っても敵方の手に掛かって辱しめを受ける事こそ、後世に迄嘲られるだろう」として、敵方が近づく前に女子供達を舟に乗せて沖に沈めて、我が身は城内で自害しようとした。名越時有の女房は未だ今年、ニ十一歳であったが、九歳と七歳の二人の子供を育てていた。弟の修理助有公の女房は、嫁いでから三年になるが、妊娠しておりもう産まれるばかりに成っていた。兵庫助貞持の女房はこの45日前に都から迎えたばかりの女房で在った。この女房は三年余りの間、焦がれて迎えた女房で在ったが、今と成っては惜しまれる事ばかり。

女子供達は沖に舟を漕ぎ出して次々に海に身を投げて、「紅の袴が波間に漂い、落花、紅葉の散り乱れる有り様にて、寄せ来る波間に沈んだのを見た城中の者共は79人。次々に腹をかっ切って兵火の中で焼け死んだ」 と記す。

その後、この海には怨霊が現れ、若い女房姿や死んだ三人の武将達等が海底から現れて二塚の方へ海の上を歩いて行ったと言う。又、ある時には、舟の近くに現れて武将達が恨み言を述べて、書き消す様に消えて行ったと言う。】

📚📖 東大寺の怪談⇒「東大寺上院修中過去帳」に登場する『青衣女人』!!

2021-04-18 | 富山県高岡市









■毎年三月一日から十四日に行われる東大寺の「お水取り行事」で「上院修中過去帳」と呼ばれる東大寺大仏の造営・維持に貢献した関係者の過去帳が読み上げられる。
この中には聖武天皇を初め歴代の天皇や皇族、藤原氏、源頼朝、実朝等の源氏や北条義時等の北条氏等の権力者が列記される。当初、聖武天皇の発願で造営された東大寺大仏は、平家が源氏に追われた時に東大寺、興福寺他の南都の著名な寺院に火を放った。当初造営された時には僧行基や利波志留志等の関係者の寄進と勧進で造営されたが、平家に焼かれた南都の寺院はなかなか復興できなかった。寺院の建物だけで無く各寺院の著名な仏像、絵画にも多大な損害を受けた。その時に活躍したのが、運慶、快慶等の「慶派仏師」や「南都絵所」と云われた絵仏師達で在った。この時、「慶派仏師」は現在の京都駅前近くの七条に工房を構えた事から「七条仏所」と呼ばれた。源頼朝に追われた義経と弁慶が勧進僧に身をやつして北陸路の五位庄を奥州へ落ち伸びたのは、正にこの時に東大寺の復興の為に全国的な勧進が行われていた背景がある。
毎年、お水取り行事で読み上げられる「過去帳」の中で、「源頼朝」の18人後に「青衣女人」の名前が記載されている。二月堂縁起にはこの謎の女人について記載されている。

■承元年中の頃(1207年~1210年迄。天皇は土御門天皇、順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。)この「上院修中過去帳」を読む僧集慶の前に青い衣装の女人が来て「どうして私を過去帳に読み落としたのだ」と言って掻き消す様に消え失せた。
この人物ははっきり素性が分からず、取り敢えず「青衣女人」と記載して今も読み続けていると云う。過去帳の女人の名前を集慶が読み落としたものか、それとも初めから記載されて居なかったものか。しかし、読み落された人物の見当がつかない事から、この人物は初めから記載されて居なかったと見られている。この人物の前後の記載からしてこの人物は土御門天皇の時代の人物で、この僧集慶の時代の人物と推定される事から、この女人は僧集慶所縁の人物で在ったものかとドラマチックに考えれられているらしい。通常、この過去帳を読むのは相当年配の僧であり、この青色の衣装は当時は高貴な女人の衣装で在ったと言うから、この女人はこの老僧の若かりし頃のロマンスを秘めているかも知れないと想像を逞しくしていたらしい。
このお水取り行事が十四日間と言う長丁場の行で有り、毎日沐浴、読経、五体投地と精進を繰り返す行で有り、この過去帳を読み上げる後半の十二日に入ると疲労で妄想と幻覚に襲われるらしい。この「青衣女人」は現在も謎の女人とされたまま毎年読み上げられているのだと言う。 (※「青衣女人」全国書房発刊 参照)

🔴🔴 「東大寺庄園杵名蛭庄」の位置が「高岡市立野地区」に比定されて、「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」に掲載された。!!

2021-04-18 | 富山県高岡市





●この庄園は砺波市では、井波町の「高瀬遺跡」であるとしていたが、東京大学資料編纂所は「これは室町時代の庄園である」として否定しており、砺波市散居村研究所の池田所長は砺波郡の郡界近くの高岡市佐野辺りを比定されていた。しかし、実際に現地調査をすると、明らかにこの庄園は高岡市福田地区の【荊波神社】の隣接地区の「立野地区」が該当する事が分かった。








■「和名類聚抄」(※平安時代中期の辞書)には、【荊】は「ナミエノキ」と記され、もう1つの【蔓荊】には「ミハヒ」と記されている。
同じ文字を使用しているが、「ミハヒ」はツルの形の「野バラ」等を指し、「ナミエノキ」とはトゲのある別物の木で在った。
砺波山や河川敷には古くから「野生のグミの木」が繁茂していた事が古書に記されている。近年では大山町の河川敷に野生グミの群生が見られるが、この木はグミの実を食用にできる他、昔は囲炉裏の燃料としても使用された様だ。
(中国では「荊」の杖で打つ刑を「徒刑 ズケイ」と云い、その為に「徒刑」を「荊刑」と呼んだものか? 「徒」は元々、「ト」と呼ぶ所から「荊刑」を「トケイ」と呼んだか?)

■富山県内では「延喜式内社荊波神社」についての論争が在る。特に、高岡市福田と砺波市池原の二ヵ所はその主張が対立しているが、高岡市福田の神社は「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」を祭神とし、砺波市池原は越中石黒氏の祖先神「彦刺肩別命 ヒコサシカタワケノミコト」を祭神としている。延喜式内社とは国家の神であり、国から「幣帛」を贈られた神社で在り、地方では国司が拝礼した神社の事で、「ニニギノミコト」は天皇の祖先神だが、「ヒコサシカタワケノミコト」は地方豪族「利波臣」の祖先神で在り、延喜式内社としては祭神から見ると高岡市福田の神社が該当する。
▼「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」は「天照大神」の子である天忍穂耳尊と、「高皇産霊尊」の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子で、『日本書紀』では「高皇産霊神」の子の天火明命の子とする。
(→「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神は「正一位 高皇産霊神」と言う皇室の最高神。「延喜式内社二上射水神社」の祭神は「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」。)

■「高岡市史」は高岡市福田の祭神が「ヒコサシカタワケノミコト」と指摘して砺波市池原説を採り、福田説を否定しており、「高岡市万葉歴史館」も砺波市池原説を採って、悉く福田説を否定している。
何れも「荊波神社」を「ウバラ神社」と呼んでいるが、これは「やぶなみ」、「となみ」と読める。「荊」を「ウ」と読めば「ウナミ」と読める。一方、「延喜式神名帳」には「ウバラノヤブナミ」と振りかながして在り、振りかなからすると「ウバラに在るヤブナミ神社」と書かれている。





■「東大寺庄園杵名蛭庄図」には、「速川」(※ソウ川→祖父川)や「杵名蛭川」(※千保川)等が記載されており、位置関係を確認すると間違いなく高岡市立野、池田地区に在ったと見られ、この「杵名蛭庄」に隣接して「荊原里 ウバラノサト」と記載されている。正にこの位置は現在の高岡市福田地区に該当し、「福田荊波神社」が延喜式内社で在る事が立証できる。
恐らく「荊波神社」をウバラと読ませたのは、この「神名帳」の部分を採ったもので、実際は「ヤブナミ」と読むのが正しい様だ。
和名では「荊」をナミエノキと読ませている事から起こった混乱と見られるが、この字を「ト」と読めば、この字は「トナミ」と読め、これが「利波臣 トナミノオミ」の祖先神とされたものだろうか?







■「高岡市史」の様に、「神社由緒」を調べるのにその祭神も調べずに勝手に別物の祭神を挙げる等は全く論外だが、「延喜式神名帳」に記載される神社がそこらの適当な神社と考える「歴史家」の無知加減にも驚きを隠せない。











庄川町に在ったとされ、「赤丸浅井神社」の神田が在った事を記している「東大寺庄園石粟庄図」の欄外に「荊波往還道」の記載が在る道路名が記されている事から砺波市池原説を高岡市は採っているが、「荊波」と言う名前が県内一円に繁茂していたナミエノキやミハヒから由来していたならば、県内の何処にでも「荊波」が在っても不思議では無く、神社の格式は「その神社の祭神」によってこそ決められている事こそ重視すべきだ。「神社」を論じるのに「祭神」を抜きに考える事こそ在ってはならない事だ。
「延喜式内社」とは「延喜式」と云う国法に記載された『神名帳』に記載された神社の事で在り、何れも「神代の神々」を祭神としている。何れも朝廷から勅使が派遣されて、越中の式内社の「国弊小社」は朝廷の使いとして国司が派遣されていた。従って、越中国司と成った「利波臣志留志」の祖先神とされる「彦刺方別命」が天皇家の祖先神として「神名帳」に記載される事等はあり得ない事だ。

■「高岡市」に新しく設置された「あいのかぜ鉄道」の「やぶなみ駅」は、この地域が万葉集に出てくる「やぶなみの里」だとして命名されたが、これは明らかに誤りで有り、この里は「ウバラの里」で有り、「やぶなみ」は神社の名前を指している。

▼「元万葉歴史館副館長」の「高野氏」は、万葉集に登場する「やぶなみの里」は、「蝮部」の名前が記される「砺波市」の「東大寺庄園井山庄」の隣接地域で在ったと「万葉歴史博物館」の機関誌に記載されている。

🔴📚 越中の【織田信長文書】 と美濃【根尾氏】⇒『岐阜県歴史資料館』の高岡市関係の古文書と調査!! !

2021-04-17 | 富山県高岡市










●「岐阜県歴史資料館所蔵」の『織田信長文書』の 解説!!
高岡市内の古文書の組織的調査すら行われて来なかった高岡市の実態!!

「岐阜県歴史資料館」には『織田信長から美濃の根尾谷の根尾氏への文書』が残されている。同様の文書は「砺波市文化財」の信長から根尾氏への文書と、高岡市二塚の「名越氏」創建の【二塚白山神社】に保管されている二通が富山県内に在る。先頃、白山神社高尾宮司からの御依頼でこの文書の解読文を依頼されたので、この「岐阜県歴史資料館」発行の文書もお届けした。
この文書は越中に潜む根尾氏に対して、【井波瑞泉寺の一向一揆衆が越中の飛騨口から美濃へ侵入しない様に警戒する様に】と命ずるものだ。
(※「根尾谷」は「薄墨桜」で有名だが、この桜の大木は根尾氏の墓標ともされる。)


■高岡市では高尾氏文書については未調査。岐阜に在る信長文書は「岐阜県歴史資料館」に寄贈され、砺波氏の根尾氏所蔵の文書は「砺波市文化財」に指定されて保存が図られている。
高岡市「二塚白山神社」保管の一通は所蔵者すら中身を御存じ無くて、高岡市では全く知られていない様だ。

🔴越中砺波郡「東大寺庄園杵名蛭庄」の位置確認⇒「富山県高岡市立野」!!

2021-04-17 | 富山県高岡市


■「東大寺越中杵名蛭村墾田地」について、平成29年、「国立歴史民俗博物館」は「庄園データーベース」の記載に「富山県高岡市立野」を推定位置として加えた!!








■文化庁の文化遺産オンラインや南砺市の意見は井波町の高瀬神社近くの「高瀬遺跡」を「東大寺庄園杵名蛭庄」とし、砺波市出身の東大寺庄園研究の権威の金田先生は「高岡市戸出~中田辺り」に比定されている様だ。しかし、この杵名蛭庄図を作図して見ると、この庄園には「石黒川」、「杵名蛭川」、「速川」の河川と、「石黒上里」、「石黒中里」、「荊原上里」、「荊原里 ウバラノサト」の村落の表示が在り、この庄園図には東大寺大仏造営の時に「米三千石」、「庄園100町」を寄進して「国司待遇」の「員外介」に成った「利波志留志 リハシルリノサクワン」の署名が在る。
しかし、近年、「高瀬遺跡」が「杵名蛭庄」で在ると言う意見は少なく成ってきており、「東京大学資料編纂所」の発表に拠れば、この「高瀬遺跡」は「足利尊氏」が東大寺に寄進した庄園として紹介されている。そのホームページには以下の記載が在る。

■【大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之二十二。
 本冊は、〔第一部一八 越中国高瀬荘〕よりはじまり〔第一部二四 雑荘〕の途中1−24−82までを収めた。『東大寺文書之十』寺領部第一部第一黒田荘より始まる東大寺図書館所蔵未成巻文書は、荘園単位のまとまりが完了し、ひと区切りついたことになる。以下では、利用の便宜を図るために、内容をいくつかに分類して紹介する。
〔第一部一八 越中国高瀬荘〕
 現在の富山県東礪波郡井波町にあった。建武・康永年間の足利尊氏よりの寄進に始まる。平安・鎌倉時代の荘園が多い東大寺領の中では室町期に成立する点でやや珍しい。同様のものとしては周防国大前村・遠江国蒲御厨が他にある。
 本荘は学侶方に属しており、その所出は東大寺八幡宮神供、華厳・三論談義用途などに充てられた(一七二七号)。本冊には収録した史料は次の通りである。寄進直後康永元~三年の経営帳簿類(一七一三・一七三八・一七二八号)。応永末~永享初年にかけての預所一族をめぐる問題(一七一八号他)。さらにこれには興福寺も絡んでくる(一七一四号他)。その後守護代遊佐氏の関係者が代官となった、永享(一七二六号他)・康正・長禄頃(一七二五号他)の文書。文明一三年越中の一向一揆に高瀬荘荘民が参加したことを記す一七二三号などである。(参考)『富山県史』通史編Ⅱ(一九八四年)】





■実際に地理的に検討すると、この中の「杵名蛭川」は「千保川」に該当し、「速川」は中世の古図には「ソフ川」と成り現在は「祖父川」と名前が変化している。この祖父川の下流には「延喜式内社速川神社」が在り、この辺りは「高岡市早川」の地名で在る。
又、「荊原里」の辺りには「延喜式神名帳」に「ウバラノヤブナミ」とフリカナが在る高岡市福田の「荊波神社」が在り、この神社の祭神は「延喜式内社二上射水神社」の祭神と同じく「ニニギノミコト」で在る。又、古代には「小矢部川」が西山の麓を流れて赤丸浅井神社前で庄川支流と合流していたと「赤丸浅井神社」に伝わる事から、この二つの延喜式内社の位置を確認すると、この「杵名蛭庄」は【小矢部川沿いで砺波郡の射水郡との境界辺りになる「高岡市立野、池田、高田田島(旧赤丸村領)辺り」】がその立地場所と推定される。
























🎠🎠 【越中史料】(※富山県蔵版)に記載される「高岡市命名」の解明についての「加賀藩士森田柿園」の指摘と「高岡市御車山祭り」の由緒!!

2021-04-17 | 富山県高岡市




●金沢市柿木畑(※元の宇都宮書店の前)に住んで「柿園」と号した「加賀藩士森田柿園」は、代表作「越中志徴・加賀志徴・能登志徴」の三部作を初め、大作の「金沢古蹟志」や各種の写本を遺しており、その大量の遺作や収集した図書、「赤丸浅井神社古跡図」等の絵図、「富田流免許状」等の巻物等は「石川県立図書館」の「森田柿園文庫」に収蔵されている。







■「富山県」が嘗て編纂した「越中史料」には、「森田柿園」の著作からの引用を掲載した「高岡市命名の由来」や、「高岡御車山祭りの由来」等、多くの史料を掲載している。「高岡市の歴史」については、「吉田神道 関野神社」や「高岡の有力町人」が記載した古文書等がその根拠とされており、誰もその根拠となる「原本」を見た事が無い話が、まことしやかに「高岡市の歴史」として吹聴されているケースが在る。







■この「越中史料」には、「森田柿園」の「高岡市の命名」についての記載を引用しているが、それによると、【「三壺記」等には「三休」が詩経の一節を引用して「鳳凰鳴けり高き岡に」から「高岡」と名付けた】とされているが、これは恐らく間違いであろうと指摘して、【野史には既に高岡の名を載せているものが在り、既に「治乱記」、「北越太平記」・「北越軍談」等には記載されており、この「由来」は後世に成ってから唱えられたもので、「何ぞ證とするに足らんや」】として否定している。

◎「加賀藩記録 三壺記」の実際の記載は、【「前田利家が高岡城を建設した時に、越前一乗谷の波着寺の僧空照他一名を呼び寄せて地鎮祭を執り行わせた。その時にこの僧が元々の関野を高岡と申し上げた。】と記載されており、この「空照」は金沢市に寺を建てて、石川県と富山県境の「石動山 セキドウサン」の住職に任命された。この「三壺聞書」は、藩主も関心を示して調査したとされ、高岡市では「藩主」が知っていた内容も平然と偽造しているのだから正に明確な作文と言える。(※「石川県史」)
➡「加賀藩の記録」で本藩の石川県と属領で在った富山県では、全く異なる内容が伝えられており、特に「高岡市」の歴史に登場する「加賀藩の記録」は全くの創作が伝えられている。[高岡市]では「高岡」は高岡市関町の「総持寺住職」が詩経の「鳳凰鳴けり高き岡に」を引用して命名したと伝えられ、恰も「前田利家」を天皇の象徴の「鳳凰」に例える伝説を捏造し、高岡市のホームページでも堂々と広報している。しかし、確認すると、何処にもその様な確実な資料は確認されず、町民や家臣達が自分達の優位性を吹聴する為にデッチあげたものの様だ。高岡市自体も「根拠は分からない」としている。

▼「富山県大百科事典」(※富山新聞社発行)には【「高岡山瑞龍寺」の山号「高岡山」は、古くから関野ケ原(※高岡市関野)に在った「総持寺」の山号を奪ったもので、その為に総持寺は以後、「衆徳山総持寺」と名乗った】事が記載されている。「高岡市」の「高岡」は【総持寺の住職が提案して名付けられた】とするのが高岡市では定説だが、実際は前田家が、元々関野ケ原に在った総持寺の山号を採って「高岡」と名付けたものだと云う。





■又、「越中史料」の中には、「前田利家」が「豊臣秀吉」から聚楽弟の屋敷の中に居館を受けていたが、この資材が高岡城に移設された経緯も記載されており、「越中史料」には、「高岡御車山祭り」の経緯等も記載されている。それによると【慶長十五年三月十七日に高岡関野社の神輿城内に渡御し、市民山車を造りて三の丸に抵る】とされている。この「関野社の御神輿」とは、【「熊野宮」・「神明宮」の御神輿で在った。】とされている。

■「聚楽第屏風」には『加賀少将』と記載された前田利家の屋敷が表示されている。この屋敷が前田利家に与えられた経緯が『北陸七国史(※「北国全太平記」)』に記載されている。
豊臣秀吉は秀頼の誕生を祝い、前田利家の忠勤を愛でて利家に「美濃、尾張、三州、伊賀、伊勢の5か国」を与えようとしたが、石田治部は利家への警戒を進言して、「利家には聚楽第に屋敷を与える」様に提案した。豊臣秀次の反乱に怒った豊臣秀吉は聚楽第を解体した。その廃材は加賀藩が拝領して、高岡城や菩提寺の建設に利用されたと伝わっている。











■高岡市二番町の「曳き山」は唯一、「二輪」の「與車ヨシャ」(※貴族の牛車)の形をしており、車には「熊野社」の鳥居を飾っている。「越中宮極楽寺由緒」によれば、これは「越中宮極楽寺を創建された南北朝時代の後醍醐天皇の皇子宗良親王が越中国内を巡航された時に使用され、極楽寺で保管していたものである」として、この「熊野社」は「越中宮極楽寺」に祀られる「宗良親王が信仰された熊野社」の事であるとしている。











・『二番町の曳山』【鉾留: 桐本座は千枚分銅(唯一人形ではない)。唐垣地幕は緋羅紗地剣梅鉢紋。 本金糸刺繍囃子。 還城楽(囃し方・枇杷首)。高さ 約9m、重さ 約2.5t】
⇒本座人形は無し。屋台前部に守護神を「熊野権現」とする「熊野神社」の朱塗りの鳥居があり、二羽の烏が留まる。7基の山車の内、唯一車輪が二輪である(直径 2.05m)。
4月30日の宵祭りには二番町のみ、神を迎える神事として提灯を手に、長持ちを担ぎ神様を迎え入れる。(※Wikipedia)

🔴 「越中五位庄」の浄土真宗の名刹「石堤 長光寺」の梵鐘の製作!!

2021-04-17 | 富山県高岡市
●高岡市の鋳物師⇒高岡市石堤村「長光寺」の鐘のルート!!す



■加賀藩の時代には、高岡市の鋳物師達は「殿様御仕事」と呼ばれた加賀藩の仕事や概ね日用品の製作に力を注ぎ、販路も又、広く全国に求めていたと言う。
その為に多くの「梵鐘」等の製作は多く、富山市金谷か金沢の鋳物師に委ねられたと言う。
その為に、高岡市石堤の名刹「長光寺」の鐘は金沢の鋳物師で「大乗寺」の梵鐘を製作した「今村定次」に依頼されて慶安二年に鋳造されたと言う。 現在は全国に多くの梵鐘を残す高岡鋳物師も藩政時代にはその製作の範囲が藩の方針で特化されて、殆どの梵鐘や仏具が他所の鋳物師によって製作されていた事は意外で在る。
(※【越中の鋳物業について】木倉豊信「越中史壇一号 昭和29年」)(※「富山県の歴史」坂井誠一著)







■加賀藩第五代前田綱吉が調査保存させた京都の「東寺百合文書」には室町幕府からの越中利波郡、射水郡の鋳物師に対する文書が多く遺されている。越中鋳物師の歴史は相当に古い様だ。



■「長光寺」は南北朝から室町時代の武将で「越中吉岡庄」の地頭も勤めた「小田(織田)氏知」が創建したと伝えられる。「長光寺」は「五爪龍の玉持ち紋」と言う中国の皇帝にしか許されて居なかった「寺紋」を持ち、中世には一向一揆の五位庄での中心寺院で在ったと言う。庭には「小田氏知」の墓が在る。


💠🔹【剣豪 斎藤弥九郎】 高岡市周辺の観光地「西山歴史街道」の『三千坊山』と幕末の剣豪『斉藤弥九郎』の故郷!!

2021-04-17 | 富山県高岡市
●越中出身の剣豪『斉藤弥九郎』




■富山県氷見市仏生寺は『斉藤弥九郎』のふるさと。
三百近くの寺院が在ったと伝わり、今も跡地が山中に残る修験道のメッカで、上杉謙信に多くの僧が惨殺された三千坊山。その麓に仏生寺というがある。高岡市からは国吉村の山間の道を進むと到達する。集落の入口に看板がある。
その村では、謙信の襲撃で三千坊山から流れ出る水が僧達の血で真紅に染まったと云う。
この村が『斉藤弥九郎』の生地で、今も子孫が住む山里。
斉藤弥九郎は、越中石黒氏の同族の加賀林氏の分流で、加賀富樫氏の末裔で在り、越前斉藤氏の流れを汲み、藤原一族。一向一揆に敗れた加賀朝日城の富樫一族が落ち延び、この山中に住み着いたとか?
故郷の氷見市には弥九郎の研究者も居られる様だが、高岡市では余り耳にする事も少なく、数年前に高岡市福岡歴史民俗資料館の「西山歴史街道をゆく 展」で展示された、高岡市岩坪で発見された「斉藤弥九郎の縁者へ宛てた手紙」位しかお目にかかっていない。
貧しい百姓に生まれ、長じて高岡市の商家に奉公して苦学し、やがて大志を抱いて江戸に向かい、剣を研いて幕末の剣豪と呼ばれた。
高岡市からは、国吉からこの仏生寺を過ぎて少し行けば庭園が有名な蓮如所縁の「浄土真宗光久寺」に着く。この庭園は「志」を寄進して拝観する事ができる。





📚📙 越中の古代氏族「射水臣」の末裔「算博士 三善為康」⇒「越中利波臣」の同族で「射水郡」の名前の元に成った「射水臣」!!

2021-04-16 | 富山県高岡市
●「越中射水臣」の一族の「三善為康」は 都に出て算博士三善家の養子に成り、本人も算博士を継いでいる。「射水臣」は孝元天皇の子孫の「武内宿弥」を祖とするとも云われ、「利波郡」の名前の元に成っている「利波臣」の一族とされる。「利波郡」の郡司の「利波臣志留志」は東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進して「越中国司」に成っているが、「射水臣」の詳細については分からない。「射水臣」については富山市辺りの「祇園社領」の記録等にも記録が残っており、「利波臣」の先祖で在る「射水臣」は越中で広範囲の地域を統治していたと見られる。







■「三善為康」が編纂した「朝野群載」には天皇願文、朝廷の文書、各所の行政記録等の古文書が記録されている。
その中の「諸司訓詞」には当時の鎌倉時代の独特の読み方が記録されている。そこには「斎宮 サイグウ」を「イツキノミヤノツカサ」と読み、「治部省」を「オサムルー」、「太宰府 ダザイフ」を「ミコトモチノー」、「兵部省 ヒョウブショウ」を「ツワモノノツカイ」と呼ぶ等、独特の名称が記載される。


🔷💠🔹 【信長記】丹羽長秀の家臣「太田牛一」が書いた「織田信長の記録」⇒石川県松任市、加賀藩に所縁の「太田家」!!

2021-04-15 | 富山県高岡市


●【織田信長と高岡市】
「織田信長」の妹は、高岡市の「守山城城主神保氏張」の妻と成り、二人の男子をもうけている。又、高岡市の瑞龍寺には「織田信長の分骨墓」が在る。
富山県砺波市と高岡市には、「織田信長」の発給文書が残り、一向一揆の監視の為に、岐阜県根尾谷(薄墨桜は根尾氏の墓標と云われる。)の根尾氏を越中に潜ませていた事が記されている。
更に、赤丸村鍛治屋町島に南北朝時代から江戸時代迄続いた【宇多派刀工】の菩提寺「三光寺」(※高岡市柴野)は、加賀藩時代に織田信長の四女で前田利長の正室となった「永姫」(※「玉泉院」)が再建した曹洞宗寺院である。

■織田信長の生涯を記した【太田牛一】の著作、【信長記】(※【信長公記】)
【太田牛一】は石川県松任市に丹羽氏の家臣として住んだ事もある。
「太田和泉守牛一」は「織田信長」の近習書記となり、後には信長の城の安土城下で屋敷を持った。永禄12年(1569年)から天正10年(1582年)にかけて丹羽長秀の与力として仕え、京の寺社との調整を担当する。【本能寺の変】の後に「丹羽長秀」に2,000石で仕え、「柴田勝家」と戦う為に坂本城へ参陣した。天正13年(1585年)「丹羽長秀」の没後、長秀の嫡男の「丹羽長重」に従って【加賀国松任城】に在城し、一時期松任で隠居した。
・その後、復活して「豊臣秀吉」、「秀頼」に仕え、関ケ原戦後には「徳川家康」に仕えた。子息の「太田小又助」は丹羽家、織田信雄、豊臣秀吉に仕え、その孫の「太田宗古」が浪人後、寛永18年(1641年)から「前田利常」に仕えて以来、家系は加賀藩士として続いた。

■【信長記】に記載される【織田信長の越中諸將の殺害】









元々、高岡守山城城主「神保氏張」と共に動いていた「木舟城」の「石黒氏」は『上杉謙信と内通している』と疑われて、「織田信長」に呼び出され、城主の「石黒左近」以下32名が近江佐和山に来た時に、「丹羽長秀」に襲われて十五名が暗殺されたと云う。次いで、越中の国人「寺崎民部左衛門」の親子も佐和山むへ呼ばれて丹羽長秀に預けられていたが、間も無く切腹させられた。