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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸「金沢古蹟志」(※森田柿園著、12巻)に見られる『金沢市の二つの高岡町』

2021-04-14 | 富山県高岡市











■前田利長が高岡城から金沢へ移った時に、慶長10年、16年に各々10万石、6万石の扶持を金沢へ返還して、越中高岡町から家臣を金沢に戻された。

■金沢市には、越中高岡から家臣が移り住んだ時に『二ケ所の高岡町』の武家屋敷町を作り、その一ヵ所は現在の前田家の氏神社「尾山神社」の正面に当たる「藪内」に設けられた。この名称から、この地域は「一面が藪」の荒れ地で在っただろうとしている。この地域は現在では「金沢市高岡町」になっており、金沢市文化ホール、ニューグランドホテル等が立地している。
又、もう一ヵ所は卯辰山の麓の現在の森山一丁目辺りで在り、この地域はその頃「馬場高岡町」と呼んでいたと言う。この地名は現在無くなっており、明確な範囲は不明だと云う。

🌸「加賀藩の農政(改作法)」⇒「加賀藩」の「村御印」とは?【高岡市博物館の講演会】

2021-04-14 | 富山県高岡市


■「赤丸村、舞谷村、鳥倉村」等の小矢部川西方の重税と、末森の戦いで五位庄勢を裏切った沢川村田畑氏統治の「沢川村」の優遇!!
⇒佐々成政に従った守山城神保氏張、柴野城寺島牛介、赤丸城中山直治の軍勢は能登末森城の前田勢を攻撃する為に沢川、小野村を通り進撃したが、沢川村の土豪田畑兵衛は末森城への道案内をすると申し出て、道も無い山中に軍勢を誘導して末森城への到着を遅らせた。その功績で田畑兵衛は家臣並の無役十村役、山廻り役に任じられ、見渡す限りの領地を利家から授けられたと云う。
(※「北国全太平記」【田畑兵衛狭道の事】)
反対に、戦後、末森城を攻めた小矢部川西部の村々には加賀藩の最終迄、生き残る事が難しい位の75%(他の諸税を加えると8割以上の酷税が課せられ続けた。)














・「赤丸村」を知行した柴野城城主寺島牛介一族の記録。(※「二上山研究」高岡市博物館で販売)
⇒末森城の戦い以後、寺島牛介は加賀藩には仕官して、その一族は一旦、別の領地を与えられたが、水害の為に改めて赤丸村等が与えられたと云う。(※「槻尾家文書」ー寺島一族の小島氏の子孫)





■「田畑兵衛」は「平家の末裔」とされ、田畑家の由緒書には「元祖兵衛の父田畑主水は能登口郡前領主の三宅弾正家秀に仕え、主人に従って討死したが、兵衛は入道して越中の沢川村に移った。天正十二年に佐々成政が能登末森城の奥村助右衛門を攻めた時に佐々軍を山道に迷わせた功績により、扶持を受けて、延宝二年には前田綱紀により山廻り役を命じられた。代々、兵衛を名乗り四代以外は全て山廻り役を勤め、九代の時には高桑兵衛を名乗り、数少ない御扶持人山廻り役に就任した。十代の時には無役御扶持十村役に成った。」とされる。












💥「高岡市御車山祭り」の由緒の検証!!⇒「続群書類従」に記載される「後陽成天皇の聚楽第行幸」の全記録。

2021-04-14 | 富山県高岡市





























①図版5は高岡市出身の神道学博士高尾哲史氏の指摘される「後陽成天皇聚楽第行幸図」であり、天皇は天皇を象徴する「鳳輦 ホウレン」に乗られて聚楽第に行幸されたと指摘されている。

②「帝室博物館」が発行した写真には、天皇の乗り物「鳳輦」と上皇専用の「ビンロウジュ葺きの與車」が写されている。

③天皇行幸絵図には先頭を行く天皇の「鳳輦」とそれに続く「中宮」等の「與車」が描かれている。

④秀吉の「御所参内」「聚楽第行幸図屏風」と言う書籍には、「輿 コシ」に乗った武将と貴族の乗り物の「與車」が記載されている。天皇行幸の時に従った武将は「騎馬」が習慣であり、この絵図の正確さを指摘される向きも在る。解説にはこの「與車」は天皇の乗り物では無いとされている。
「高岡市御車山会館」ではこの絵図の乗り物「與車」が豊臣秀吉が後陽成天皇を出迎えた時の「御車」であり、これが高岡市二番町が前田利長から拝領した「御車」だとしている。しかも、同様の「御車」を全部で七台も利長が各町内に与えたと云う。

⑤塙保己一が総検校として編纂した「続群書類従」の『帝王部巻第八十四 聚楽第両度行幸日次記』の全編を掲載したが、その中には「天正十六年」「天正二十年」の行幸が記されており、天正二十年 後陽成天皇を御迎えに上がったのは関白秀次と成り、この時に秀吉は既に太閤に成っている。天正十六年の天皇行幸の時には、秀吉が諸大名を集めて「誓詞」を取っていた為に関白秀吉が遅参したとし、非礼が在った事が記されている。天正二十年の行幸の時には、「太閤秀吉は聚楽第で天皇に歌を献上した」事が記されている。

⇒・これ等の事から「二輪の二番町の御車は後陽成天皇が乗られた鳳輦を改造したもの」とする見解は、全く見当違いであり、天皇・天子を象徴する「鳳凰」の付いた乗り物を臣下に下げ渡す事は絶対に無い事だ。
・④の「與車」が秀吉の乗り物で、これが利長に与えられたとすると、それは「秀吉」では無く「秀次」の乗り物と云う事になる。豊臣秀次は天正十九年に「関白」に就任しており、後陽成天皇の聚楽第行幸が在った天正二十年には豊臣秀吉は「太閤」であり、「関白」は豊臣秀次で在った。
・仮に、後陽成天皇の行幸の時に豊臣秀吉が御所に参内した時に使用した「與車」が下げ渡されたものなら、その「與車」は関白を秀次に譲った時に聚楽第と共に秀次に譲ったと見られる。「與車考」に拠ると、この車は「関白」の車兩に成る。しかも、④の絵図に記載される「随臣」は「白衣の神官姿」で在り、武家の行列にしては「丸」と呼ばれた稚児姿の者や神道の最高位の天皇を警備する白装束の従者が従っている事から、これが「豊臣秀吉」の乗り物だったのかは検証できない。この記録に拠れば、二人の「舎人」が随臣として従っていたとされ、白衣の人物は天皇の随臣と考えられる。




■高岡市の『御車山祭り』の由緒や、「総持寺が赤丸村に在った」とする国宝概説を否定する「高岡市史」も根本的に改める必要が有り、正に「歴史は真実を物語始めた」と言える。
神道学博士の高尾哲史氏はその論文の中で、「後陽成天皇聚楽第行幸図」を挙げて、「後陽成天皇はこの時には【鳳輦 ホウレン】と呼ばれた人が担ぐ「輿」に乗られていた」事を指摘し、又、別の学者は「利長屋敷に保管されていた牛車(※「輿車 ヨシャ」)を払い下げられたと云うのは時期的に合わない」と指摘されており、利次の反逆に怒った「豊臣秀吉」が聚楽第を解体してしまった時期とも併せて説明されている方もいる。
何処にも「伝承」と「真実の歴史」があるが、「富山県郷土史会」のある学者は「歴史は一つの発見で今迄の通説がひっくり返る。これこそが歴史研究のダイナミズムだ」と総会で述べられた。民衆の伝承は伝承として、正式の「高岡市史」が夢物語を何時まで継承する積もりか? 日本中の学者が「高岡市の歴史に疑いの目を持っている事」を高岡市はもっと認識すべきだ。「高岡市」は「歴史のまちづくり」を目指していると云う。このままでは「絵空事のまちづくり」として世間の嘲笑を浴びるだろう。









🔴 「南朝の牙城 越中国」の痕跡を留める宮内庁管理「後醍醐天皇皇子恒性皇子の墓」(※高岡市二塚町)!!

2021-04-14 | 富山県高岡市
●宮内庁管理「後醍醐天皇皇子恒性皇子の墓」高岡市二塚町!!












●越中に入られた二人の後醍醐天皇の皇子「宗良親王」・「恒性皇子」!!
(※「本朝皇胤紹運録」、「群書累従 群書系図部集」塙保己一著)










■「後醍醐天皇」の「第八皇子 宗良親王」は興国三年(1342年)、新湊に上陸して福岡町赤丸の「浅井城」、福岡町木舟の「木舟城」に入られたとされる。高岡市の「越中宮極楽寺」は「宗良親王」の創建と伝えられ、「極楽寺由緒」には「二百数十年間、赤丸村に在ったと言う」と記載され、この時に「宗良親王」が巡航の為に使用された「與車」は、やがて住民達に引き回されて現在の「高岡御車山祭り」の二番町の車として利用されたと云う。従って、この二番町の山車だけが二輪車で巡航し、他の町会の四輪車の山車は、京都の葵祭りで引かれる「山鉾」と同じく、「御神輿」の一種で在ると言う。

又、「後醍醐天皇第十四皇子 恒性皇子」は、北朝の「名越時有」に拉致されて高岡市二塚に幽閉され、終には「名越時有」に殺害された。しかし、やがて新潟から南下して来た新田義貞軍に追い詰められて元弘3年(1333年)、名越一族は全員が放生津の海に逃れて全滅した。
「太平記」には「平家物語」の「壇之浦での平家の滅亡」と同じ様に、海面には色とりどりの女人の衣裳が浮かんだ様子を著してその「哀れ」を表現している。

■高岡市のイオンSCの近くに、越中に流されて足利一族の「名越時有」に監禁され、終には時有に暗殺された「後醍醐天皇の皇子」の「恒性皇子」の墓が在る。この墓は正式に皇胤の墓と認知されて、現在は宮内庁の管理の皇室墓所と成っている。
(※名越時有;鎌倉幕府2代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とする。)
高岡市福岡町赤丸村を中心として拡がって居た「越中吉岡庄」は南朝の天皇の「後醍醐天皇の庄園」で在り、「恒性皇子の兄」の「宗良親王」が越中石黒氏の「石黒光景」が築城した「吉岡庄浅井城」に子孫の「石黒重之」の出迎えで入られたと言う。赤丸城ケ平山の麓には「極楽寺」が創建された「極楽谷」や「宗良親王の館跡」とされる場所が遺されている。
(※「石黒系図」では、赤丸浅井城城主「石黒光景」は、「源平盛衰紀」に登場する高岡市福岡町木舟の「木舟城」を築造した「石黒光弘」の父に当たる。)

■後醍醐天皇の「第七皇子 浄尊法親王」は「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」の本寺に当たる門跡寺院の「聖護院」に出家された。「聖護院」にはその昔、「後白河上皇」の皇子が初代門跡として入られており、聖護院派「川人山鞍馬寺」の「吉岡庄」・「五位庄」での格式が窺われる。
(※高岡市関町の「総持寺」へ「千手観音像」を伝えたとされる河内国「金剛寺」は後白河上皇が創建された。)

■「恒性皇子」を殺害した「名越時有」は高岡市二塚に「白山神社」を創建して氏神としたと云う。
現在、この「白山神社」の神官は「川人山鞍馬寺」の末裔の「川人家」の孫に当たる「高尾神官」が奉仕されている。






■高岡市二塚の「白山社」は「名越時有」が造営した神社だが、現在、奇しくもこの神社の高尾神官は「赤丸浅井神社の孫」に当たる。

🔷🔹皇室所縁の『衆徳山総持寺』の 「国指定重要文化財木造千手観音座像 御開帳」⇒ [富山県高岡市関町]( 毎年11月15日)!!

2021-04-14 | 富山県高岡市


■「正平八年 御入」と胎内に記載される事からこの仏像は南朝ゆかりの「千手観音座像」とされ、胎内には「金剛位理乘 本願聖人」(※後鳥羽上皇法名)、「藤原浄円 大檀那」(※鎌倉幕府評定衆 斎藤長定入道)、「仏所 幸賀 大仏師」(※慶派)、「同 頼真 小仏師」等の鎌倉時代の人物の署名や、南朝の護持僧として著名な高野山近くの「河内金剛寺 禅恵」等の南朝関係者や「摩尼徳丸」(※寺の経理を担当した従者)、公卿、武将、「石熊女」・「亀松女」等の白拍子、数多くの「時宗」の僧等の署名が在り、その範囲は広範囲にのぼる。

◆「総持寺」は元々、後醍醐天皇の庄園の「吉岡庄(赤丸村)」に在ったが、室町時代の応永年間に移動したと伝わる。





















🔴【創出された高岡市の観光地】高岡市の海運会社が作り出した「小矢部川河口の義経記の如意渡し」!!

2021-04-14 | 富山県高岡市
■💢【歴史創造都市 高岡市 ??】⇒創出された「義経記」記載の【如意渡し】!!








■高岡市広報課が発行した【たかおか散策】には、「小矢部川河口の如意渡し」は、伏木~六渡寺の渡船を経営していた伏木港湾交通の専務が客集めの為に「如意渡し」と名付け、高岡市長が「義経、弁慶像」に「如意渡しの由緒」の銘板を付けたという。
この冊子は成人式で全ての新成人に配布された。
広報課はその解説で【義経記は作られた話であり、その渡河地点が何処かも分からない】としている。
しかし、一旦、創られた物語はその後一人歩きをして、この「如意渡し」は高岡市の観光地として喧伝され、「歴史上の真実」として富山県はビデオで広報し、高岡市は史跡として広報する様に成った。
【高岡市の観光推進記事は出典の明示されない「伝聞」、「推測」、「創作」による虚偽の広告が多く、高岡市の観光の目玉の富山湾の「義経岩」すら、「元々、石切場」で在ったとする異論が在り、「義経」が此処で雨宿りをしたとか、通過したとか云う記録は無く、根拠は地元民が意図的に作り出した伝聞が元に成っている事が多く、歴史の根拠となるはずの「高岡市史」にも、「根拠」となる「資料編」は存在しない。高岡市の歴史、観光案内等には意図的な創作が在り、根拠となる文献すら無い「虚偽」のものが在り要注意だ。中には、加賀藩恩顧の人達が創作した物語が在り、「高岡市」の観光広報すら根拠の無いデマに類するものも在る。】

■「如意渡し」は、加賀藩の時代には「六渡寺川舟渡し」と言い、小矢部川と庄川支流が合流した地点から「六渡寺村の渡し場」迄の「舟下りルート」を「六渡寺川舟下り」と呼んだ。※(「福岡町史」)
加賀藩時代には、小矢部市から伏木河口迄の間では、「赤丸村向野新村」の「五位渡し」が「加賀藩営」の「公営舟渡し場」であり、「西村の彦兵衛、赤丸村五兵衛」が船渡し役として銀貨で役銀を支給されたという。(※「福岡町史」)
この「五位渡し」は、かつて小矢部川が西山の麓を流れていた時には、「赤丸浅井神社」、「赤丸浅井城」の前で庄川支流の「唐又川」と小矢部川が合流していた「阿光ヶ淵」と呼ばれていた地点に在った「二位の渡し」と見られる。この「唐又川」は「庄川~木船城~赤丸浅井神社前」へと流れていたと言う。
(※【蓑のしずく】、「川人山三社記」福岡町史)

















■【義経記】は室町時代に書かれたと云われ、鎌倉時代には「越中吉岡庄」と呼ばれた「後白河上皇」の庄園で在った。この庄園は室町幕府の統治下に成ってから、「足利義満」が自ら創建した「相国寺」の庄園として寄進され、その後も足利家菩提寺の「等持院」、「等持寺」の庄園として続いた。その管理は「室町幕府管領畠山満家」やその子「畠山持国」等の畠山家が担当した。(※「富山県史」)



「大阪府羽曳野市」に遺る室町時代の「畠山文書」の中の「越中絵図」には、【赤丸浅井城】に【越中守護畠山持国】の記載が在る。



🔴【NHKスペシャル】「崖っぷち わが町の議会!?」⇒富山県高岡市

2021-04-14 | 富山県高岡市


■公共放送がようやく動いた!!
全国の地方議会の悲惨な状態!!











平成31年4月27日(土曜日)、「NHK」全国放送でも高岡市の財政破綻のニュースが報道される事態になっている。
高岡駅の改造に150億円もの巨額な資金投入を議会の圧倒的多数で可決し、負債は1100億円に膨れ上がり、公共施設料金は五割増しになり、地元のバスは廃業になった。福祉サービスの切り捨ても密かに進んでいる。









■【高岡市の公共施設利用料金は10月から五割増しになる。】
同時に発表された高岡市内の地域施設のコストは特定地域が極端に大きく、行政施設コストの地域格差が明らかに!!  高岡市内の地域エゴの格差か?





💢高岡市、高岡市議会は責任を取らないのか?
平然と「大した事では無い」と市民に説明している腐り果てた議員達。
料理屋では女達を侍らせ、猪の肉をほうばり、政務費で立派な靴を新調し、偽領収書を使い廻す腐り果てた地方議会。
地方議会は老人達のひま潰しとまで報道されている。
鉄面皮な顔で表情も変えずに淡々と議会説明をする市長。郊外の公共施設を廃止したと自慢そうに議会報告する破廉恥な議員達! 郊外に住む人達こそ加賀藩以前から住み、生活して、文化を作り上げ、歴史を紡いで来た。しかし今や「歴史創造都市」の標語を掲げ、周辺地域が紡いで来た長い歴史を「高岡市の歴史」として横取りして、デタラメな「高岡市史」をデッチ上げて「創造」している。周辺地域を貶しめ、全てを加賀藩成立の1600年台以降の歴史に仕立てて、僅かに数年しか存在しなかった「高岡城」や、その時に建てられた裕福な商人達の施設を「文化財」に仕立て上げて、本当は大和朝廷以前から開かれていた地域の古い歴史を消し去る。しかも、その加賀藩の治世は「圧政」と「血の粛清」で民衆は「水しか与えられない水飲み百姓」に貶められて、「釡煎り」、「張り付け」、「斬首」、「奴隷売買」を続けた極悪非道な政治を行った「加賀藩」の歴史を振りかざす、「前代未聞」のガラパゴス都市「高岡」。
「前田利常」は、家臣達に遺した「利常公夜話」で、「時に百姓や民衆の首を撥ねて黙らせて政治を行った」事を伝え、「油断せずにこの方針を続ける様に!!」と伝えている。これこそ、「加賀藩」やその後継者で在る現在の「高岡市」の本質で在る。

高岡市の為政者達は現在も「加賀藩の歴史を踏襲し、民衆を黙らせてやりたい放題」。
「市民」が意見や要望を直訴しても、官僚上がりの歴代市長達は「前向きに善処します」と言う常套句を繰り返し、回答も出さずに時間が経つのを待っているだけ。
その内に老人達は去り、若者達も去ると言う前提で!! 
その結果、密かに、何もしない内に、「高岡市の人口」は静かに毎年千人以上が減少し続けている。
「善処します」と言う回答は「何もやりたくない。」と言う官僚達や政治家が常に用いる意思表示の常套句で在り、市民達を愚弄する時の言葉だ。
全国でも高額な報酬をお手盛りし続けて「破綻しました」とどの面下げて市民達に報告しているのか? 
淡々とペーパーを読むだけで、「シャンシャン」で手打ちして議会は終わる。
高岡市長、議会議員達、高岡市幹部は「恥じ」知らないのか?



議会を支えてきた地方マスコミは地元有力者達が出資して設立している為、地方議会の腐敗は蓋をされ続けている。
高い公共料金で成り立っているNHKが漸く動いたのか?
マスコミの不正防止機能も劣化している。

🔻因みに、財政破綻した夕張市の市長に破綻後に当選した市長は月給4万円で、家計は奥様のアルバイトで賄っていたというから、崇高な政治理念の無い人物では、財政再建等、夢の又夢であろう。

■【高岡市の中心市街地活性化法の適用により、破壊された高岡市中心部】➡《打つ手も無く、破壊されて行く高岡市》
🔽高岡市の中核的商業施設「高岡大和」が2019.8月末には閉鎖に追い込まれる。


2019.8月末には高岡市で唯一の百貨店「高岡大和」が閉店へ!!
高岡市の繁華街で在った「高岡オタヤ通り」の中核施設「高岡大和」がいよいよ閉店へ動く。かつては、第三セクターオタヤ再開発の目玉事業で在った「オタヤ再開発ビル」のキーテナントの「高岡大和」(本店 金沢市)が撤退して、いよいよ、御旅屋通り商店街はその繁華街の火が消える。しかし、無駄な追加投資を行っても回復できる見通しは無い。
第三セクターと言えども「経営は自己責任」を徹底して、古参議員達の圧力で財政から追加投資をすべきでは無い。
かつて、岐阜市でもJRの高速化で名古屋~岐阜がわずか15分程度で繋がると、かつて、繊維卸商店街として中部地区の流通基地になっていた岐阜駅前の問屋街や百貨店が軒並み閉鎖に追い込まれ、岐阜市はこの一帯を住宅、老人医療施設の複合再開発を試みた。この再開発は大成功で、マンションは即日完売の大成功で在ったが、柳ヶ瀬通を初めとする商業施設は止めを刺されてしまった。今や、鉄道の高速化で岐阜市は完全に名古屋市のベットタウンに様相を変えた。それによって繁華街の土地価格は暴落して地域の資産は知らないうちに大幅に目減りした。
高岡市でも、東海北陸自動車道の開通や北陸新幹線の開業によって百貨店では金沢や名古屋との競争が激化していた。しかも、高岡市郊外では巨大なイオンモールが開発され、現在も北陸新幹線駅前で倍近い床面積の増床工事が進んでいる。しかもイオンモールでは「駐車場は無料」で、様々な銀行、医療、レジャー、カルチャー、レストラン等の機能を併せて持ち、一つの市街地の機能を持っている。
鉄道の高速化で弱小施設や地域は金沢、名古屋等のみならず、東京、大阪、京都等の大都市圏とも直結して、全て、「ストロー現象」で大都市圏に顧客は吸い込まれてしまう。それも、時間は必要とせずに、瞬時に都市の劣化が進行して、最早、元に戻す事は出来ない。いくら、高岡市が巨額の再開発を続けても、それは一部の高岡市と結託したコンサルタント、設計業者、ゼネコン、金融機関の成績を上げるだけで、地域はこれらの集団と地域のフイクサーに全てを吸い上げられる。しかも、行政機関は、有力者への忖度やお友達の仕事作りの為に多額の税金をこれらの施設に投入し、ついにはスラム化したコンクリートの瓦礫だけが遺る地域が誕生する。その頃は議員や市長は多額の報酬を貯めて優雅に老後生活を送り、市民は多額の税負担で生活機能や医療サービスも受けられなくなる。しかも、資金を蓄えた地域有力者達は、その頃には便利な大都市圏の高級マンションで余生を過ごしている。これが近未来の高岡市だ。
正に、「加賀藩前田利長」だけを信奉する偏見に満ちた一部の地元利権者達が【加賀藩の越中占領政策】を引き継いでいる【悪政】と言える。

🌸🔹【高岡市財政破綻説明会】「財政破綻」に導いている高岡市の観光化事業の実態⇒「過酷な封建時代を讚美するだけ」の高岡市の偽物の都市計画⇒周辺市街地の切り捨てが始まった!!

2021-04-14 | 富山県高岡市

■平成28年市債残高 [1128億円]!!
⇒更に、平成30年度予算では40億円の歳入不足に陥る。



■「高岡市公共施設削減計画」が発表され、福岡町地区の施設が集中的に削減される。
【2018年1月26日午後7時からUホールで説明会→順次に各地説明会】
高岡市の「中心市街地活性化法」に基づく周辺市街地の枯死化政策が始まった。高岡市は今回の財政破綻に陥った責任を誰も取って居ないし、議会は相変わらず高給を貪っている。
◆財政を破綻させた当事者意識の無い市長、市役所幹部、議会は相変わらずコンサルタントに丸投げした「再編計画」とやらを市民に投げつけ、「市民アンケート」を取り、【民主的に再編を進める】と云う。
決定的な戦犯は「他人事」の様に高額の報酬を貪りながら・・・・・
誰にも責任は無いと云うのか責任を取る人間も居ない。市民も見くびられたものだ!!
高岡市と福岡町が合併した時の責任者達は、破綻計画が発表されると「私の責任では無い」とマスコミに説明していたが、破綻寸前に合併して居ながら、知らなかったでは済まされない。合併した時には公の場所で自慢げに話していた人達が、いきなり、口を拭ってマスコミに話していたのを見た時には、これが「高岡市の政治の実体」だったのかと改めて解った。破綻寸前の高岡市が「中心市街地活性化法」に基づき郊外をリストラする計画を出しているのに、ワザワザ、「郊外」になる福岡町がリストラされる事が解って居ながら、高岡市との合併を進めたのは何故か?  ある他都市の住民からは、「福岡町は高岡市に騙されたんだよ!!」と皮肉を込めて云われた。周辺の公共施設や交通、教育施設等の利便施設が廃止されても税金は安くはならない。
◆破綻に瀕した高岡市役所のホールには、「高岡市名誉市民達の肖像」が誇らしげにズラリと壁一面に張り巡らせて在るがその功績の説明は無い。これらの人達は【体制派】として、高速道路の誘致や新幹線駅の在来線併置等の交通政策に失敗し、街造り、企業誘致を怠り、利権を貪り、補助金で太り市役所財政を破綻させた方々の墓標でも在る。小矢部市等では、成功した企業創設者が学校等の公共施設を寄付したり、地元貢献の為に採用を推進したりされたが、高岡市ではこれらの名誉市民達が高岡市へ何を貢献したのか分からない。
高額な税金に苦しむ一般市民には何の関係も無い人達だ。













■高岡市財政を破綻させた「観光化政策」



■2018.1.26より高岡市当局の周辺市街地施設の切り捨て計画が説明されると云う。【中心市街地活性化法】による周辺地域の抹殺計画が愈々動くと云うのだ。議員達は口を拭って「大した事では無い」とウソぶき、当局は惨状を訴えて市民を説得する積もりらしい。しかし、どう誤魔化しても、必要な資金が足りなく成った事は家計ではサラ金からの借入やアルバイトに精を出す必要が有り、破綻への一歩に違いはない。高岡市の富裕な政治家や財界が不足金を高岡市に寄進するなら別だが?
計画では、福祉施設の民営化と合わせて、各地の集会所への補助の切り捨てや福祉施設の閉鎖が検討されている。それ等の施設は災害時の「避難場所」に指定されているものも在り、市街地とは異なり、高岡市郊外では公営の施設しか鉄筋コンクリートの耐火建築物や水害の時の高層避難施設は無い。高岡市中心部は民間の施設でも委託により避難場所は確保できるが、日本全国が「災害時の避難場所の確保」に動く中で、高岡市は「市街地住民だけの生き残り策」を模索しているらしい。高岡市が標榜する「中心市街地活性化」は周辺の定住人口の拡大でこそ実現できるのに、周辺住民を切り捨ててその住民が単純に中心市街地に動く筈もない。周辺地域が不便に成り、コミュニティが破壊されれば、住民はより便利で商業施設や医療施設、教育施設、公共交通機関等の充実した他の都市に流失する。高岡市の様に、就業先も無い不便な都市に市民が我慢して住み続ける筈も無い。既に、高岡市では密かに「老人福祉」のページがいつの間にか消され、他の市町村で行わなわれている「難聴老人の補助事業」も市民に広報する事も無く制度が消滅している様だ。これからは、高岡市ではこれから「真綿で首を絞める様に弱者の福祉切捨が進む」恐れが大きい。【行政は市民の税金と付託に依って成り立っている事】を忘れて、一部の「有力者」とされる者達が暴走する之までの高岡市政は、今迄以上に監視が必要で、他都市の様に活発な「オンブズマン」の必要性が益々大きくなっている。現に、政治資金の不正流用で世間を騒がせた富山市では、詐欺行為を働いた大量の議員達の刑事告訴が進んでいるが、高岡市ではウヤムヤの内に時間が経過して、恐らく地方選挙では再び「詐欺議員達」が議場に現れる恐れが大きい。これからは「犯罪」に手を染めた議員達が議会に復活できない様に監視しなければならない。再び選挙で当選したら「免罪符を得た」としてグレーの議員達が復活し、何食わぬ顔で議場を闊歩し、地域の会合では「議員様」、「地域のリーダー」として何食わぬ顔で長々と「挨拶」をする。今後は、これらの者達を徹底して排除して「市政の浄化」を急がなければならない。無批判で進められる「お友達」、「有力者」達に依る地方政治は、最早、限界を超えた。近年、「官制談合」、「業界談合」は厳しく取り締まられる様になったが、芸者やコンパニオンを交えた「大宴会」や、「ゴルフ」、「麻雀」等の非公式の場所で「目くらまし」をして、闇取引をして政策を決定して来た「日本の政治制度」は根本的に何も変わっていない。この原因は、「不都合を隠し」、「開き直り」と「猫ダマし」で国民を振り回して来た日本の「政治風土」全体の問題でも在る。
■高岡市は北陸新幹線の高岡駅を在来線の駅から切り離し、城端線で乗換えて新幹線に乗換える。この為に在来線の高岡駅の開発に150億円も投下した。又、現在の高岡市の大きな支出の中には【高岡駅前東地区の再開発】が在る。この事業は報道に拠ると向當光生氏(元建設省建設経済局宅地開発課建設専門官)が主宰される建設コンサルに委託されて事業化の途上に在る。東京のコンサルタントは「都市計画」、「町造り」と云うと、大都市圏の高層ビル群を想定して、どんな野原の真ん中にも数十億単位の再開発を仕掛け、ガッポリとコンサルタント料を頂く。その費用は投資額の数パーセントといとも容易く仰るが、その金額は庶民の見たこともない金額で在る。人一人居ない町の中に数億の建物を建て、数百円のラーメンを食べに来る客も300円近くの駐車場料金を払わなければならない。誰が考えても、周辺には広大な敷地が在る田舎で、無料の駐車場を持つ大規模店舗に対抗できるはずもない。そこに敢えて、政治の無策な政権は全国一律に「中心市街地活性化法」を適用して周辺住民を誘導する政策を打ち出した。それをオール与党の行政、議会は「飯の種」とばかりに【合意】する。大体、これ等の政策に【資本主義社会】の【経済合理性】は働いているのか?
その背景でニンマリしているのは、「商人が造った高岡市」を吹聴する「商人村」の大地主、商人達だけで在る。そこに商工会議所と云う利益団体が旗を振り、益々の利益誘導を謀り、それを商人達を背景に出た議員達が構成する議会が多数決で決定する。高岡市を見ると、他都市に比べて富裕層が公共の為に寄附をしたと云うのは聞いた事がない位だ。利権で儲けた資金は市民達から搾り取るだけで、市民に還元される事は無い。何か行事があると雛壇には普段見た事も無い議員達や地域の有力者達がガン首を並べ、長々とどうでも良い「祝辞」や挨拶をする。この人達は「破綻した高岡市財政に何を貢献できるのか」については誰一人、口をつむんで発言しない。人前で常々大言壮語してきた人達が「高岡市の為に」と思うなら、まず今迄ガッポリと儲けさせてもらった高岡市の為に私財を提供し、率先して工場を高岡市に移転させ、雇用の拡大を図るべきだ。何も高岡市に貢献しない人達が、どの面を下げて「高岡市の有力者」、「加賀藩恩顧の大商人」と威張っているのかとマジマジと見つめたくなる。しかも、合併した福岡町には加賀藩恩顧の大商人も居ないのに、「加賀藩恩顧の・・・・」人達は、高岡市の指導者としてのさばっている。かつて、加賀藩は越中を占領地として高率の課税を続けたが、その加賀藩の陰に隠れて美味しい汁を吸っていたのは誰なのか?
他都市に転勤すると、頻繁に「高岡商人」の事を「高岡強盗」と云われ続けた。儲けた金で金貸しをして返済できない者達から土地や財産を取上げ、土地を買い漁っては貧しい者達に貸して収益を上げ続ける。これが、かつての高岡商人達が蓄財したカラクリだ。その背景には「加賀藩恩顧」を振りかざし、高岡市以外には「曳き山祭り」をさせないように邪魔をして、高岡市以外には「鋳物作業」をさせないように邪魔をした事が様々な記録に見られる。現在も高岡市の公共施設はすべからく「加賀藩恩顧の・・」、「加賀藩の文化を・・・」と云う口実を免罪符として施行されている。そのサイクルは、財政が破綻した高岡市では何かが変わったのだろうか?
実際に「加賀藩の歴史」を調べると、本家の金沢本藩の「歴史書」や「資料」には、「高岡市の記録」はほんの僅かで在り、高岡市民に吹聴されている「高岡城」も「加賀藩の居城」の資料にすら載せられて居ないものも在る。それを「歴史創造都市高岡」と表題を付けて全国に吹聴しても、「又、例の誇大広告か?」と真実を知る人達はせせら笑う。
■【高岡市】の名前の由来が、「詩教」の一節の「鳳凰泣けり」から来ているとして市内各所に造られた「天皇のシンボルの鳳凰像」は、破綻に瀕した街中にさらしものに成って正に「泣いている」。高岡市街地には、かつて「天皇」や「法皇」が住まれた歴史は無い。富山県では、唯一、福岡町赤丸周辺の一帯が、かつて、「後白河上皇」から「後醍醐天皇」の時代迄「上皇庄園」の「後院領吉岡庄」と呼ばれ、そこには現在高岡市関町に赤丸村から動いている「総持寺」等多くの社寺が在った。総持寺の【国指定重要文化財木造千手観音座像】の胎内には、かつての「吉岡庄」の領主の「後鳥羽上皇」の法名「金剛位理卿」が記載されており、この仏像こそ「法皇(鳳凰)」のシンボルなのだが、そこでも高岡市の加賀藩恩顧の者達は、さりげなく「前田利家」を「鳳凰」に見立てているのだから、「正に天を恐れぬ不届き者達」と言える。
この「吉岡庄」は室町時代に入ると「室町幕府の御粮所」に成り「第三代将軍足利義満」は、「五位庄」を自らが創建した「相国寺」に寄進している。「足利義満」は宇多天皇の血筋でも在り、自らが「日本国王」と名乗った。その後、「足利義持」が五位庄の半分を足利家菩提寺の「等持院」へ寄進した頃、福岡町赤丸村に在った「赤丸浅井城」には、室町幕府越中守護の「畠山持国」の名前が遺されている。持国はその後、室町幕府管領と成り、その後継者問題から【応仁の乱】の原因を作った人物でも在る。(※「畠山文書」羽曳野市資料叢書)
➡【義経記】で、「守護の館が近ければみすみす見逃せない」と関守の「権守」が義経に宣言しているのは、正に「守護畠山持国の居城の赤丸浅井城」の事に他ならない。「肯搆泉達録」では、「文武天皇皇子」(「聖武天皇の弟」)が在城されたと言う。(※「続日本紀」)







■財政が破綻に瀕した今、根本的に「高岡市の町造り」を考え直す時期に来ている。捏造された嘘っぽい歴史を当てにして「都市計画」を進めるのは、「正にドンキホーテ」の物語を地で行く行為だ。
高岡市の駅周辺では、駅ビルや駅前再開発が行われているが、残念ながら高岡市が行ってきた「御旅屋地区再開発」は平日は老人が日向ぼっこするか時々周辺住民が通過する程度で、御旅屋通りはシャッター街に成っている。再開発にも国、県、市の補助金が入るが、莫大な投資をしても、御旅屋通りの様な大型商業開発でさえも、高岡市では周辺がスラム化して来る。その本質的な原因は「急激な人口減」と郊外に強力な大型商業施設が既に出来上がっている事で、既に何とも対応の仕様が無い状況に在るがこれ等の施設には更に改修計画も在る様だ。

近年、高岡駅前再開発を手掛けるデベロッパーは全て、他地域の企業で在り、再開発では北陸では聞いた事が無い。地域性がどの程度認識されているかは分からないが、「何でもかんでも作れば良い」的な発想で、高岡市の駅前に巨大なスクラップが出来ない様に祈るしか無い。高岡市の再開発は地元住民の血税が入っているにも関わらず、一般市民には詳細が報告される事も無く、「補助金拠出の案件一件」として、「知識も関心も無い議会」で「承認」される。この様にして、ベルトコンベアー宜しく、血税は中央官庁OB達の思惑でコンサルをダミーにして様々に垂れ流される。役人は黙り込み、議会は御手当さえ良ければシャンシャン大会で通過させる。コレが「中心市街地再開発」の仕組みで在り、そこには「血税」を使うと云う概念すら存在せず、「まちづくり」と云う大義名分で、商業関係者の「利権」と有力者への「忖度」だけでどんどん血税は浪費される。実際、再開発事業では市民にとっての便益は二の次で、何処でも「市長様」の手腕を強調して、それに便乗する連中が選挙対策に利用する。何としても形を造りたい「市長様」は、困難な商業開発を避けて、床当たり収益性の少い「ホテル」や「マンション」を核にした開発に走り、その結果、地価の暴落が起こり、市街地は壊滅して、入居者の居ないマンションが林立する「新しい施設のゴーストタウン」が量産されて仕舞う。

■高岡市は石川県の北陸電力能登原発から40km県内に在り、富山県独特の海風によって原発事故の被害が想定されている。高岡市では本腰を入れた「災害対策」もされず、見せかけの対策に終始している。高岡市では原発事故の際に幼児に飲ませる「ヨウ素」の配布計画の説明や原発事故の際の避難訓練は行われず、地震対策の避難訓練が行われただけだ。氷見市では原発事故の被害を想定して避難訓練を実施しているが、北陸電力との利害関係者が多い高岡市は、この事実を伏せて具体的な対策も行わない。理由は、半径30kmの圏外だからと云う理由らしいが、真の理由は北陸電力関係者で在る地元有力者や電力の従業員、取引業者への忖度でしか無い。原発事故対策の説明会を電力会社が行う場合は、その参加者は、電力会社の招待客や電力会社関係者、取引業者等が殆どを占め、反対も無く、シャンシャン大会になるように予め仕組まれている。又、各地の委員会や審議会等には予めコンサルタントが根回しをして、提案議題に賛成意見を述べる大学教授等の知識人を選別してコンサルタントが提案する内容に沿って決議させ、委員達には相当の日当+御車代を支給する。官製学者は自らの意見も伏せて研究資金の出そうな大企業に恩を売る。これ等は、実際にコンサルタント業務に関わって来た経験に基ずく事実だ。これが、大した内容では無い手続き的な審議会なら影響は少ないが、これが国民の生命、財産にとって重大な審議会でも行われている事が問題だ。業界では「独占禁止法」に基ずく「談合」が摘発されて話題になるが、これ等の「官製の談合に基ずく審議会」に対しては市民、マスコミの告発以外に制裁は無いが、そのマスコミも富山県の有力者達が支配する。
地方議会での「闇から闇」の体質は、近年、政治資金の不正利用の摘発で明らかになったが、政治のもっと深い闇は、これ等の政財界、コンサル、学者等に依るオール与党化された国政や地方行政の秘匿体質に在る。これ等は表面的には恰も【国民の代表者が国民の為に行っている「善行」に見せかけている】が、実際は関係者の利益誘導や名誉欲に立脚した「陰謀」だ。

■「北陸電力能登志賀原発」の危険性を報せる本も出版されている。






■海風(あえの風)により原子力発電所の被害はほぼ全てが富山県内や新潟県等に拡散する。


■高岡市は観光化事業を政策に掲げて「歴史のまちづくり」を標榜している。
しかし、この政策の中味は誠に貧弱で、「国の政策」を受けて、慌ててコンサルに依頼して基本構想を作り、審議会に特定の先生を招いてその内容をオーソライズして議会で決定したものと見られる。この手法は何処の自治体も行っている手法だが、簡単に言うと「商売人のコンサルに丸投げした計画」と言うのが実態だ。しかし、この手法での問題は、この政策が失敗した時にはコンサルには何の保証責任も無い事で、果たしてこの計画自体が市民にとって望ましいか、実際に自治体として発展する為の計画かと云う事は誰も関知しない。計画を有効に実施する為には、全市民が納得し、進んでこの街作り計画に参加できる計画でなければならない。しかし、地方自治体では、職員の知識不足と人材不足で、全市民運動にできる計画を作りあげる能力が無く、行政トップが本当の熱意を持たず、議会もセレモニーだけで終始している自治体ではおうおうにして、このやり方が一般化してしまう。
高岡市の計画を見ると、「高岡市の政策」と銘打っているが、これは、国の政策を受けて作り上げたにわか作りの政策にしか見られない。「街作り」には先ず、「回遊性」 を確保して、個々の観光地を繋ぐ視点が無ければならない。その上で、観光地に滞在させる仕掛け-「滞留性」を確保して、滞在、宿泊、飲食、観光地を繋ぐ仕掛けが必要だ。単に「加賀藩と関係するらしい観光地」を羅列するだけの都市計画では発展性が無い。
「高岡市の歴史は加賀藩の歴史」と単純に考えるのはコンサルがよく使う手法で、とりあえず議会受けの良い言葉を並べるやり方だが、封建時代を懐古するだけが「歴史」では無く、ましてや、「商業」と「鋳物」、「曳き山」、「菅笠」だけが高岡市全体の歴史ではあるまい。市内の殆どを占める農業圏や周辺地域は「中心市街地活性化法」で切り捨てて、有力富裕層や役人だけに都合の良い都市計画に果たして、全市民が賛同するだろうか? 広域の高岡市には古代から続く素晴らしい歴史が在り、前田家以前の歴史の方が遥かに長い。高岡城の廃墟や、小矢部川河口に高岡市長が捏造した「如意の渡し」や、一部の知ったかぶり市民がでっちあげた「義経岩」等で世界から観光客は誘致できるのか?
高岡市の人口は毎年、1000人近く減少し続け、多くの雇用を支えた大企業は海外や日本全国に移転し、実態は正に「空洞化」している。数千人の職の無い人達が職を求めても、高岡市では臨時雇用だけしか無く、仕方無く子供は都市で就職し、市内で失業した人達は臨時雇用に落ちて行く。「有効求人倍率」と云う言葉には「非正規社員」を含んでおり、この言葉には明らかにマヤカシが入っている。近年の国策で進められた「国民の非正規化政策」で、実際に職安に来る求人は殆どが「臨時雇用」で在り、実際の正規雇用を求める求職者は公表された何倍もの人達で在る。その現実は実際に職安の窓口を訪れたら直ぐ分かる。役所が国民を目眩ましにしている実態が分かる。高岡市はこの現実に目をつぶり、起業振興や雇用確保の為の企業誘致も行わない。かつて、高岡市役所では「企業誘致は商工会議所の仕事」と説明された。高岡市には責任が無いと云う事だ。

■高岡市の主要施設として20億円をかけたと言う「万葉歴史館」は、一日当たり入場者が200人と聞き、これで採算は取れているのかどうかは分からないが、平日に訪れても他の訪問者の姿も見かけない。この建物の地下には全国でも有数の万葉資料を備えて、常時学芸員も配置しているが、ここも何回訪れても他の訪問者と会った事がない。高岡市の周辺には、大伴家持が国司として赴任していた頃に開発された「東大寺庄園」が点在しており、高岡市がこの建物を「万葉集」に拘って「文学館」としてのみ活用しているが、実際にはもっと深い歴史的な背景がこの地域に在る事を発信して居らず、隣の砺波市が市を挙げて「東大寺庄園の研究」に力を入れ「地域の歴史発掘」を行っているのとは格段の差が在る。その中核で動いている「砺波市散居村研究所」の活動は、著名な東大寺庄園研究者を所長に迎えてスタッフを揃え、定期的にバスで市民を史跡に案内する等の実践活動が日常的に行われる為、市民の関心は高い。それに引き換え、高岡市には全国でも有数の万葉集研究施設が在りながら、東大寺庄園の「須加庄」、「鳴戸庄」、「杵名蛭庄」、「クボ田庄」、「鹿田庄」等の高岡市周辺の研究も低調で、市民の殆どが自分の住んでいる地域にそんな庄園が在った事も知らない。そこには、「万葉集」だけでなく、この地域の古代から続く歴史が厳然と遺されている。高岡市は「1600年以前の前田利長以前には高岡市の歴史は無かった」(※「高岡市御車山会館館長の御言葉」)とする「新興宗教」に毒されており、その思想が「加賀藩守旧派」によって広げられて、高岡市の行政全体を歪めている。この発想は交通体系や教育環境整備、福祉行政等全てに暗い影を遺しており、これが、毎年、1000人も人口が減り続ける理由なのだが、行政はこれが「少子化」、「高齢化」の為だとうそぶき、政策が変えられる様子も見られない。現実には、【中心市街地活性化法】に拠る悪政や、交通政策の無策で、周辺地域では、既に高齢者の「買い物難民」や「医療難民」が発生していて、日々の生活に困っている人達も少なく無いのだが、他の市町村に比べて「高岡市」では、中心部の商業者を偏重してその対策を講じる姿勢は全く見られない。話題は職員や議員達の報酬しか無いのだ。正に、これでは「白蟻の巣」では無いか?
以前、高岡市の窓口に相談者の依頼で市道計画を聞きに行った所、その担当者から用件を告げて直ぐに、「気に入らないからお前には教えない」と侮辱的な態度を取られた事が在る。何がお気に召さなかったのかは分からないが、帰りがけに知り合いの議員の名前を口にしたとたんに、駐車場迄追いかけて来て謝ったから二度、ビックリだった。又、ある時に、高岡市の幹部に面会を求めた所、「お待ち下さい」と告げられ、約一時間後に「会えないから出直して下さい」と使いの者から告げられた。更に、新設の「御車山会館」に「御車」の歴史について聞きに立ち寄った時には「高岡市が説明している定説と違う歴史史料が在る」と告げると、その館長は大声でいきなり激怒して、係員は「帰れ」と言う。高岡市の職員は市民を怒鳴りつける程偉く、知識が豊富らしい。高岡市職員のこれ等の市民に対する非礼な態度は、正に「加賀藩政時代の身分制度」を彷彿とさせる出来事だ。高岡市では気に入らないと会うことも拒否するし、観光客も追い返す方針らしい。当方は毎年、相当の税金を納めており、しかも礼を失しない様に大変、気を使っているにも拘わらずに、その「公僕」は昔の殿様然として振る舞っている。昔から「公務員は公僕」と言われるが、正にこれでは「市民が公僕」で在り、「偉い高岡市職員には百拝してお願いしなければならない」様だ。これが高岡市の目指す「観光都市」なのか?
この体質が、全てに「時代錯誤」「閉鎖性」「忖度政治」をもたらし、「高岡市の衰退」をもたらしている。今話題の「相撲道」に限らず、日本では「礼に始まり、礼に終る」事を美徳としてきたが、現在迄、高岡市政では加賀藩保守の「体制派」が絶対的な権力を行使してきた為に高岡市の近代化が遅れ、市民を蔑む土壌が常態化して、このまま「加賀藩時代の悪政」の延長で「高岡市」は「財政破綻」に陥るのだろうか? 加賀藩時代には問答無用で村役を投獄して、税収を上げた「十村断獄事件」が在ったが、いずれ、高岡市も加賀藩の悪政を踏襲して、「垂れ流し政治」の結果を市民に尻拭いさせる事になるのだろうか?

■又、2015年に高岡市が同市千鳥丘町に建設した高岡西部総合公園野球場「ボールパーク高岡」(愛称)は、両翼100メートル、中堅122メートル、収容人員は内野6000人、外野4000人で、ナイター照明や投手の球速を計測表示するスコアボードを備え、甲子園球場を模していると云う大変立派なものだ。 この球場は、高岡市が旧福岡町と2005年に合併する際の新市建設計画の主要事業で、合併特例債で総工費は約49億円をかけた。「新市民らの一体感を醸成する為」と称して旧福岡町と近い市西部地域に整備したとされている。 しかし、実際には、この球場は、当初、福岡町地内に建設される事に成っていたが、どうも政治的な駆引きで高岡市内に建設されたと言われ、この位置に選定された理由は分からない。この球場前をいつも通るが、未だ球場からの歓声や近くの西高岡駅の混雑にもお目に掛かった事がない。球場周辺にはパラパラと犬の散歩者が見られるだけだ。こんな状況で果して経営採算は取れているのだろうか? 今後、発生する年間7000万円もかかる維持費や、膨大な修繕維持費は、又々、高岡市の財政を圧迫しないのか? 少なくとも、将来20年間に収入線が支出線を超えない限り、この施設は永遠に支出が拡大し続ける「放散」の状態になる。採算を意識しない建物では必ず御荷物に成って来る時期がやって来る。官公庁の施設でサービス施設として無料で運営される施設でも、施設の「貢献程度」を評価する「決算」が必要なのだが、毎年、ダラダラと予算を付けて維持するだけの施設になるのが一般的で、監視する筈の体制派主導の議会では議員は「名誉職」的に成り、自分の懷具合を意識するだけの議会に成り下がりがちだ。官庁建物にも何らかの「事業収支」や「評価基準」は必要だ。「収入見込」は変動するが、施設維持費等の「支出」は予め分かって来る。施設計画では本来ならこれ等の長期支出費用もコストとして施設計画の時に検討して予算計画を策定すべきだ。しかし、実際は「流れ」で計画が決定され、「後は野となれ」的に見切り発車してしまう。と云うのも穿った見方で、実際には賢明な運営がされているのかも知れないが、その情報は役人の頭にしか無く、施設毎の評価が公表されているのは見た事が無い。
「財政」も「家計」も収入が無ければ破綻するのは当然なのだが、「財政」の場合は無責任で事無かれ主義の議員や官僚達が、自分の懐さえ満たせば「善きに計らえ」とばかりに放置して、国民、県民、市民達には目眩ましの言い訳や取り繕いを行い、何ともならなくなってから、「実は財政が破綻した」と選挙民にシラーッと報告して、後は選挙民の税負担を上げて帳尻を合わせようとする。利権にまみれて組織的に議員を送り込む財界は操り人形の議員に罪を背負わせて「それは官の事」と口を結び、利権でガッパリ儲けた利益は役員報酬や社内積立金として懐にため込む。政府が云う「大企業に儲けさせれば次第に底辺に利益が降りる」と云う「トリクルダウン」の説明は正に詐欺師が云う説明と同質のものだ。「資本主義」が「資本家は限界迄利益を追求する」と言う体制で有る事は経済学者で無くても知っている。どの法律の何処にも「利益は従業員に還元しなければ成らない。」とは書いて無い。資本家が従業員から極限迄利益を搾り取る体制が資本主義なのに、「資本家の善意で利益を従業員に還元するだろう。」と言う経済政策で国民消費が回復する筈等無い。その上に更に家計から消費税を搾り取れば、国民の疲弊を増大するだけなのは学者で無くても周知の事なのだが、「皆で渡れば怖くない。」とばかりに国民が口をつむぐ事を良い事に議員や官僚はやりたい放題。不足した資金は日銀でお札を刷れば良いとばかりに資金をじゃぶじゃぶ市場に供給していると、その内にケタ違いのインフレに陥り、国民は息も出来ない位の惨状に陥る。現在の状況を見て【朝三暮四】の諺を想わずには居られない。
一般的に、建設投資の収支の黒字化期間は短い程良いのだが、経験上、20年間に収支が黒字にならなければ、赤字線が「放射」して赤字は拡大し続ける。通常は計画をコンサルタントに作成させる事が多いが、この経営採算計画(役所ではB/C)も、議会や市町村の動向を見てコンサルが鉛筆を舐める事が通常であり、事業範囲や数値を極限迄大きくするか小さくするかの「見込み」で採算計画はどうにでもなる。ましてや、収入計画は「予定」であり、「当たるも八卦」の世界になる。しかも、この採算計画では、複雑な指数や係数を用いるので、一般の議員や市町村の担当者ではその可否が判断しにくい。しかも、この計画では、開業後の採算をmaxにしている為に、実際の運営事務局がサボったりする事は見込んで居らず、ましてや、選挙で市長が交替した時の政策変更も考慮されない。しかし、建物の老朽化はマッタ成しで在り、内装2年、防水10年、設備15年等の耐用年数が来れば修繕維持費はマッタ無しになる。更には、コンクリートの施工不良や、鉄骨、鉄筋、外鉄部等も露出した場所や水にさらされた場所はマッタ無しで修繕維持が必要になる。それに加えて、その施設の陳腐化が発生して、必要性が低下して誰も来なくなる事が起こる。そうなれば、建物は使用出来ても、社会的なスクラップに成ってしまい、その時には巨額の解体費が発生する。この様に「施設」は「産み出してから始末される迄」、営々と金を食い続ける。収入計画がズサンで、日々の営業努力が無ければ、官庁施設はズット市民の血税を食い続ける「ゾンビ」になる。従って、時の権力者や有力者が一時期の「名誉」や「選挙対策」で、新しい施設を造り続ける事は、将来に取り返しのつかない禍根を遺す。正に、建物についても、常に「拡大生産」、「収入拡大」が要求されているのだ。そこに、努力しない市長や役人が介在したとしたら、市の財政がドロ沼に入り込む。今や、「行政」も「経済論理」、「国民主体」で「経営」すべきで在り、地方政治こそ「有能な経営者」を求めている。そこには「地元名士」や「有名大学出身者」、「中央官庁出身者」等と云う先入観が介在する余地は無いのだが、往々にして、地方政治は「迎合、忖度、利益誘導」等によって体制が作られ、その内に、行政全体が「沈没」してしまう。合理化と言えば、先ず能の無い経営者は社員を減らし、施設を閉鎖してつじ褄を合わせる。これが行政になると、先ず弱い者から「合理化」する。「職員」の給料をカットして、福祉施設の閉鎖が行われる。しかも、幹部は高給を取りながらで在る。経営責任が在れば、先ず、経営者が無給になる。これが中小企業では当たり前の事だ。
■現在の高岡市は、旧高岡市中心部への偏重が極めて高い。現在の高岡市中心部の商店街は郊外の大規模店に客を奪われ、文字通りのシャッター街に成っている。このスラム化して来る都市に対症療法でいくら資金を投下しても沈没は止まらない。大規模店と同じか、それ以上の投資をして大規模店に勝る施設計画や地域計画が無いと、小手先の対策で何とかなると思うのは間違いだ。要は最早、店舗間競争では無く、地域間競争で在り、大きくは都市間競争で在り、それも隣接都市間だけでは無く全国的な都市間競争でもある。又、郊外大型店では充分な駐車場を持ち、店舗間はオープンに成っている。一回、一回ドアを開けて入る店舗は「閉鎖型店舗」で在り、ユーザーの買い廻りや利便性が悪い店舗で在る。従来の商店街の形ではこの「閉鎖型店舗」になる。近年では、この店舗形態は通常「高級店」や「特定の顧客を対象とする店舗」で用いられるもので、日常の買い回り店の形態では無い。店舗の立地、構造等を無視して幾ら資金を投下しても採算は取れない。
隣県の金沢市では、「歴史のまちづくり」の為に先ず行ったのは、「情報の公開」、「市街地の電柱無柱化」、「観光施設を繋ぐ遊歩道の整備」、「ポケットパークの整備」等のインフラに力を入れて、将来的には片町から金沢港へのアクセス確保の為の「大規模道路」、「地下鉄整備」の計画を入れている。当時の市長は幅広く大手企業の意見も求める委員会を立ち上げ、商工会議所、石川県も交えた会議体を設け、手弁当で全国の先進地域の視察会が行われた。その精神の根幹には先ず「役所が保有する情報の市民との共有」と「役人の行政指導と言う恣意的な政治手法による公的情報の独占の排除」を目指し、役人の公的な奉仕姿勢を向上して公共施設の生産性の認識を高める事に在った。役所の持つ情報は基本的に市民の税金で収集されたもので在り、基本的には市民共有の財産なのだが、何を勘違いしているのか、「役所情報は役人のもの」と勘違いしている役人が多い。市民だけで無く、県外、国外から来た人達にも同質のサービスが提供されなければ、県外からの移住者は無くなり、国際的な観光客やコンベンション、アフターコンベンションの誘致は出来なくなる。世界の観光都市では観光客を意図的に差別して排除する都市は聞いた事が無い。要は、「世界に開かれた観光都市」で無ければ、気軽に全世界から観光客は来てくれないのだ。何処かの大企業の社長が富山県の閉鎖性を訴えて「今後、富山県からの採用はしない」と記者会見してブーイングを受け、知事迄が非難した事件が在った。この社長は、世界企業としては富山県基準の発想ではやって行けないと思ったのだろう。富山県民の閉鎖性は、地域に入ると、有力者や旧家等が幅を利かせて、一般市民は「当たらず触らず」に対応している。この、事無かれ主義が県外から来た人達にとっては「仲間主義、排他的」に見え、進んで意見を言わない態度を「消極的」と見て、これも「地域主義」の傾向の一つと見る。これでは、県外の人達や世界からやって来る観光客に「富山県民は何を考えているのか?」といぶからせてしまう。富山県民の「素朴さ」が、世界標準では「排他的」と見られる。金沢市では「加賀の一両妾」と言う言葉が在り、この言葉は金沢人のおおらかさを表すと同時に富山県民を「越中さ」と言う言葉で揶揄する意味が在り、前田家の占領地として「ガツガツした高岡商人」を評価する侮蔑する意味も含まれている。これは、「金沢人は一両を手にすると妾を囲うが、越中さは金が有っても働き続ける」と言う意味で在り、反面、賛辞にも取れる。各々、都市の歴史は異なり、何も被占領地の高岡市が尾張から来た前田家だけを歴史の中心に据えて、金沢方式をマネるだけが能では無い。加賀藩政の下では、越中西部は60~75%と言う目玉が飛び出る様な高率な税金をかけて、越中の民を塗炭の苦しみに陥れた悪政を敷いていた。その為、自害する者が絶えず、小矢部川に流れる遺体を番人が長い竹竿で下流に押し流していたと村の古老は伝える。歴史は客観的に事実を確認すべきだが、「高岡市史」自体が体制派が造り上げた「偽物」で在り、高岡市中央図書館にはこれを批判した「ある贋作物語」と言う書籍も残っている。
■高岡市の観光の目玉の前田家菩提寺の「勝興寺」や前田家から姫が嫁いでいた高岡市伏木の「勝興寺」は「国指定文化財」、「国宝」とされて、表向きは国費が投じられているかに見られるが、実は「国費の投入」には条件が在り、「補助分の半分は国費だが、残りの半分は富山県と高岡市が負担する」と云う原則が在り、この両寺の修復には四分の一が高岡市からの補助金になる。これ等も高岡市民の目を眩まして秘かに加賀藩恩顧の有力者が根回しして進められ、莫大な税金が投入される。加賀藩は越中を搾取の対象とし、民衆は塗炭の苦しみに喘いだ。「前田利常」は「越中の民衆の首を撥ね、脅しながら絞り上げた。」と「利常夜話」に記す。高岡市の「観光化政策」は、秘かに市民を欺いて加賀藩所縁の施設に集中して投資されて来たのだ。県内の古刹とされる寺院や神社は全て門徒や氏子が寄付を集めて自力で修繕維持をしている。加賀藩所縁と言うだけで、何故、国費、県費、市費が投入されるのか?
しかも、この施設は更に「拝観料」迄取っているのだから始末が悪い。
加賀藩恩顧の有力者は過去に莫大な利益を得ており、その関係者が秘匿した資産をこれ等の寺社に寄進すべきで在り、門徒でも無い一般市民の血税を投入する理由は無い。極論すれば、議会で多数派を占める加賀藩恩顧の守旧派が、高岡市の財政規律を歪め、際限無く利益誘導してきた結果が、莫大な財源不足を生じさせている。







■金沢の金箔産業は金沢市の全産業の3%しか無く、金沢では商談を芸者を挙げた料亭で行う習慣が在り、旦那衆にとっては日常の事である。地元では「金箔都市」、「郭文化」を打ち出したいと云う人達も在ったが、どれも「世界」に訴えるインパクトにはならない。その結果、当時の市長は「今後の観光都市は国内に止まらず、【世界の金沢】を売り出す必要がある」として、「世界都市 金沢」を都市計画の標語とされた。その為には駅周辺の世界的なホテルチェーンの誘致を目指して、駅前には高さ130mの「ホテル日航」の誘致を行い、金沢駅裏には2000台を超える立体駐車場の設置、駅地下の有機的な結合、バスターミナルの整備、観光案内用情報端末の主要交通施設への設置、市街地の交通誘導表示ボードの設置等の幅広い施策を実施。市街地を流れる辰巳用水の蓋を外し、流れる清流の演出や、兼六園~片町~武家屋敷~金沢駅の遊歩道と公園の整備、音楽、芸術ホール、近代的な美術館や観光スポットの整備等の多岐にわたる都市計画を実施して全国から来る観光客、学生や外国人の歩行ルートを確保して回遊性を高めた。何故、国際的なホテルチェーンが必要かと言うと、全てが外国人対応で、ベットは広く、長く、ユニットバスは広く、大きく、出入口や天井高さは高い。従業員には外国語の訓練を行い、案内には外国語も使用される。世界のホテルチェーンには大別して、アメリカ方式とヨーロッパ方式のホテルがある。アメリカ方式のホテルでは仕上げはシンプルだが機能的で、ヨーロッパ方式の仕上げは豪華で所謂、宮殿を彷彿とさせるがシャワー等の設備は簡単にできており、ヨーロッパの古いホテルでは部屋の真ん中に中世風の浴用の白いタブがあるだけのホテルもある。しかし、国際的なホテルチェーンはその交通アクセスもあるが、基本的にその都市が、人口が60万人、100万人等の大規模都市かどうかを立地基準にしている。従って、それ以下の地方都市では誘致の仕様が無い。裕福な外国人は、外国人対応の中核都市に宿泊して、その周辺の諸都市を観光する。富山市では例外的に旧名鉄ホテルや全日空ホテル、第一ホテルが立地しているが、これは従来、富山市が北陸の中核都市であり、大手商社等が富山市に支店を置いていた名残だ。その大手企業の支店や支社も今や、金沢に移ったり、廃止されたりして富山県全体のステータスも見る影もない。その点で、高岡市の観光は独自の施設を誘致するより、大都市との交通アクセスの利便性に重点を置くべきなのに、北陸新幹線は市街地の外れに立地して、城端線と言う支線に乗り換えて市街地へ向かわなければならない。その北陸新幹線も富山駅に互して利便性が計られるのかと思いきや、停止しない列車も在って、明らかに金沢とのアクセスは悪い。北陸自動車道にしても市街地から離れた場所にアクセスポイントが在り、全く、高岡市の交通政策は目茶苦茶である。



これに引き換え、金沢市では単なる観光だけでは無く、世界のコンベンションの誘致とアフターコンベンションを誘致する為の施策とも繋がって観光開発が進められている。観光、食、文化等の施設の集積と連携が無いと世界からの観光客は呼べない。ましてや、能登地区や周辺都市との連携が無ければ、アフターコンベンションは成り立たない。又、その都市周辺にそれをサポートする定住人口が必要である。そこで、計画されたのが、郊外や能登地区とJRを繋ぐ「駅西大駐車場計画」で在った。この駐車場計画は、JRが切符と共に駐車券を発行できる体制を取る事によって「一貫した交通体系」を作る事に貢献した。又、これ等の対策により、金沢市は「カー&ライド政策」で市街地の交通渋滞対策を行い、能登地区も含む広域圏の中核都市に成った。金沢市ではここまで徹底して都市計画で対応して来たが、果して、中途半端な現在の『高岡市』ではパリやロンドン、ローマやギリシャ等に対抗して世界から観光客を誘致出来るのだろうか? それに加えて、この様な貧弱な観光対策で、形ばかりの新幹線駅を持つ『高岡市』が、富山県西部の中核都市になれるのだろうか? 新幹線の誘致に巨額の投資をしてその採算は取れるのだろうか? その成否の全ては「高岡市」の努力一つに掛かっている。『待てば何とかなる』と言うものでは無く、汗まみれの努力が必要だと云う覚悟はあるのだろうか?
ただ、「新幹線誘致で赤字財政に成った。」と報告すれば、市長が免責されるものでもあるまい。
■古い歴史を売りにする、高岡市と良く似た条件の「飛弾高山」では、名古屋のセントレア空港からJR東海や名鉄バス等で、名古屋市内のホテルから一貫した送客体制が講じられ、海外からの観光客が激増した。名古屋では各著名ホテルにバスが横付けされて、セントレアと直結している。富山空港は世界には僅かに繋がっているが、世界からの集客体制には程遠い。しかも、知らない内に高岡駅から富山空港へのバス路線も廃止されており、富山駅迄列車、富山駅から空港迄は市内バスかタクシーしか無い。ヒタヒタと高岡市が窒息死する気配を感じざるを得ない。
■ある企業に「富山県進出」を打診した所、「富山県には名古屋を初め、オール日本をネットワークする空港も無く、ましてや富山空港は世界のハブ空港でも無い。現在の大企業幹部は秒単位で世界の工場等を駆け巡っており、中には自社ビルの屋上にもヘリコプター基地を備えて、直ちに海外に出発できる体制を取っている。この様な企業のトップはユーザーとの面会も5分程度しか無い。富山県の時間軸では、富山県に拠点を置くメリットは無い。」と断言された事が在る。漸く開通した北陸新幹線も大阪との連携も薄く、時間帯も僅かに改善したに過ぎず、日本は最早、リニアに見られる「超高速時代」に入りつつある。高岡市は嘗て、この「北陸新幹線」や「高速道路」の誘致にも後手を踏み、新幹線と在来線の駅舎は遥かに離れ、北陸自動車道も高岡市郊外の「能越道高岡インター」からのアクセスに頼っている。これは、高岡市の政治、企業、産業等が「井の中の蛙」で在り、世界の枢勢に疎い為だ。現在のビジネスは「玄関が世界に繋がっている」状況なのだ。観光客も外国人との対応が日常化しており、公共施設や交通機関、宿泊等の施設にも外国人を配置して対応している自治体が多い中で、他の地方自治体では看板や観光客向けパンフレット等も外国語併記にしている所も在る。高岡市は行政の対応やサービス施設の面でも「観光都市」には程遠く、来るべき「東京オリンピック」の二次観光都市としてのサービス体制も出来ていない。これで「観光都市」、「歴史都市」等と騒いでも、世界からは相手にもされない。富山県の「立山」には観光客が増えたと云うが、それは飽くまでも「点の観光」で在り、観光客が地元に落とす金は他の地域に比べて比較にもならない。金沢でも以前は道が整備されておらず、電柱が狭い歩道の真ん中に在って、リュックを担いだ「カニ族」と呼ばれた観光客が、電柱を避けて、正にカニと同じくゾロゾロと横歩きをしていた状況で在った。高岡市では歩道も嘗ての金沢程狭くは無いが、観光客がゾロゾロ歩いている状況でも無い。しかし、市内各地を繋ぐルートは判りにくく、観光案内板もロクに無い。スマホで勝手に調べれば良いと云うものでも無い。
■高岡市の事業では、近年一般化しているB/C(ベネフィット バイ コスト)の検証も無く事業資金が投下されている様で、「高岡市曳山開館」に25億、「福岡町駅前開発」に85億等の投下をしても、投下資金に見合うだけの「観光収入」や、再開発に伴うメリットが回収される事も無い。国の予算執行では「B/C 〉1.0以上」を徹底して費用対効果の事前、事後の検証が厳重であり、役所も自前の建物を持たずに民間の低家賃の施設に入居する等の対策を講じている。しかも、建物は建設すると、将来の修繕維持費等を含んで耐用年数迄、維持しようとした場合に、「初期投資の三倍の資金手当」が必要になる。この費用を捻出出来ない建物は遠からず「スクラップ」に成り、市街地はスラム化する。市長のパフォーマンスで、やたら箱物を造って業績をアピールするアホな市長は、将来、都市をスラム化する犯人なのだ。今回計画されている駅前再開発ビルはどの様な採算計画で、B/C がどうなっているかは是非、注目したいものだ。40億円も投下した福岡町駅前区画整理事業も、道路が拡幅されただけで、敷地は駐車場や民家、コンビニエンス等の低採算の施設しか立地せず、日中は人通りさえマバラだ。高岡市は何時まで、「再開発」と言う御念仏を唱えて、基本的な交通対策や教育対策、福祉対策等の政策を後回しにして、人口減対策も講ぜずに、何時まで商業者や利権議員の思惑だけの、採算計画も立たない「箱もの行政」を続ける積もりなのか?
高岡市は地元有力者の意向のままに市政を行い、無防備に市民の血税を垂れ流してきた。
■2017年にも高岡市の小矢部川河口に在る偽物の「如意渡し像」を伏木駅前に動かしたと云う。この銅像のモデルは高岡市福岡町赤丸の「二位の渡し」で起こった「義経記」に記載される事件をモデルにしたものだが、高岡市長は一民間企業である渡船会社の専務の意見を受け入れて「歴史を偽造」して、小矢部川河口に建設したものだ。これも「客が来なくなった」として、再び伏木駅前に動かしたのだと云う。
🔽小矢部川の河口に「如意の渡」のモニュメントが建つ。最近は観光案内にも登場するこのモニュメントは「勧進帳」の原点になった「義経記の二位の渡」(歌舞伎勧進帳では「安宅の関」のシーンになった。)の場面を大きな彫像にしたもので、「石川県小松市の安宅の関」とちょっとした本家争いが有ったと云う。両者とも偽物同士の争いだ。
高岡市は広報統計課1996年発行の「高岡散策」という本でこのモニュメント製作の経過を説明し、成人式にも配布した。それによると、モニュメント製作は民間のレジャー会社が観光振興の為に製作したもので歴史的な検証が行われた訳では無いらしい。
🔽「義経記」では、この事件は「五位庄」の出来事とされる。この庄園はこの事件が在った「鎌倉時代」には、「後白河上皇」の庄園で「越中吉岡庄」と呼ばれた。解説には、「如意の渡し」とは「五位の渡し」(※「赤丸浅井城」・「赤丸浅井神社」前の渡し場の「二位の渡し」から伏木河口の六渡寺村迄の舟下りルートを指す。)の事だと記されている。「二位渡し」は「赤丸浅井神社」が「元正天皇二位宮創建とされる由緒」に起因する。この事件は、義経主従が「二位の渡し」で舟に乗り込もうとした時に起こった事件で在り、これに引き換え、高岡市が捏造した小矢部川河口は、古くから「二上庄」と呼んでいた。(※「鎌倉遺文」)



「加賀藩時代の二上庄」


誰もが読んだ事の在る「義経記」を高岡市教育委員会や市長様は読んだ事も無いのだろうか?
その『偽の観光施設』を費用をかけて、2017年には再び伏木駅前に動かしたと云う。何処まで悪フザケを続ける積もりなのか!! 正に高岡市政は「お友達・忖度政治」そのもので在り、財政破綻しても責任を転嫁しても関係無いと言うのだろう。













▼「延喜式内社赤丸浅井神社」が「元正天皇の二宮」(※「文武天皇の二宮で聖武天皇の弟」)が再建されたと伝える「川人山鞍馬寺三社記」と、その縁起を否定して「六渡寺渡しが如意の渡し」と主張した加賀藩士富田景周著の「三州史」の記載。⇒加賀藩は、赤丸城の中山氏が能登末森の戦いで佐々成政に味方した為に、赤丸村の多くの寺院や住民を高岡市街に強制移住させて村落の解体を狙った。その為に赤丸村の歴史を前田利家が城を構えた守山城の周辺の歴史にすり替えた。当初、赤丸村は前田利家に内通した氷見の阿尾城城主菊池氏に与えるとしたが、降伏すると、その約束は反古にされて、赤丸村の米の生産が富山県西部でもトップクラスで在った為に、加賀藩の重役「長九郎佐衛門」に知行された。(※「越登賀三州史」・「越中志徴」・「小矢部市史」)
⇒高岡市の旧藩士や有力者はこの著作「三州史」を根拠にして歴史を捏造し、それを真に受けた不勉強のち学者様が「如意の渡しは守山城近くの六渡寺の渡しの事」と喧伝して、加賀藩の歴史を踏襲する「高岡市」は恰も真実の様に市民に吹聴した。井波町には「六渡寺川舟下り」(※「如意の渡し」と云う小矢部川舟下りルート)の絵図が遺される。
(※「福岡町史」掲載)
■「高岡市の歴史」は加賀藩が占領地を統治する為に都合良く作り替えられ、赤丸村から高岡市に動いた「御車山祭り」の原点に成っている「越中宮極楽寺」や、国指定文化財の千手観音像を祀る「総持寺」等の古刹の歴史も、「守山」や「高岡市石堤」から高岡市街に動いたと歴史を捏造している。全ての「高岡市の歴史」は加賀藩の嘘から始まっている。加賀藩恩顧の有力町民は大阪堺市で自治権を持った「町衆」を模して全て加賀藩の権力を背景として排他的な「唯一史観」を持ち、「周辺住民を見下した文化」を醸成して、平民は事無かれ主義で有力者にすり寄る習慣が定着した。その為に、前田利長を祀る吉田神道の関野神社と組んであらゆる宗教を弾圧して、あらゆる真実の歴史を偽造してきた。それが現在の「高岡市史」に全面的に反映している。
 従って、「高岡市史」には「資料編」も無く、高岡市の歴史に原文の古文書は遺されて居ない。在るのは高岡市の有力者が遺した作文ばかり。早く、真実の歴史に基づく「歴史の町づくり」に立ち返って貰いたい。
■市民の血税を地元の意見だけで垂れ流し続けた為に、2018年は40億円もの歳入欠陥を惹き起こし、再建団体に近づいたと報道されている。原因は明確で、「財政」を知らない行政幹部が「家計」では当然の「入りを促す」事をせずに、企業誘致等の歳入拡大策を全く取って来なかった為であり、地元財界や加賀藩時代から続く有力者主導の「忖度政治」を長い間ズルズルと続けてきた為だ。嘗て、「京都の有力企業が進出したいので用地のお世話をして欲しい」と高岡市幹部に申し入れた時に、高岡市幹部から「高岡市は誘致をやって居ない。窓口は商工会議所だ」と門前払いをされた事がある。かと思うと、別の大企業から高岡市内の工場の再開発を相談されたので市役所に各種規制を確認に出向いた所、市役所から頼まれたとして「その工場は市役所が開発するから手を引いてくれ‼」と言って来た。しかし、何時まで経っても市役所が動く気配は無い。公益事業優先の開発を考えているかと思いきや、市役所や議会が単に利権が欲しかったかららしい。
全国、何処の県や市町村でも知事や市町村長が率先して企業誘致に動き、幹部を叱咤激励して、自らも企業の直接訪問を行っている。嘗て、トヨタの企業進出窓口の方から「企業誘致に熱心に動かれているのは富山県では入善町で、町長の熱意は凄い」と聞いた事がある。その担当者からは「富山県」や他の市町村長の話は聞かなかった。
「高岡市」は長い間、「ぬるま湯の中の蛙」だったが、ここに来て急に「熱湯の中の蛙」に成っていた事が分かったらしい。それでも未だ、出てくる対策は「施設の閉鎖」や「市職員の給料カット」であり、当事者意識が無い行政幹部や議会は、相変わらず市民の血税をむさぼる積りらしい。「金をかければ観光客が来て税収が増える」と云う単純なものでは無い。この責任は、財政能力の無い市長や行政幹部とそれに癒着してただ「賛成」を唱えてきたオール与党化した議会の連帯責任だ。財政破綻したら議会や行政幹部は全額を個人財産で補填すべきだ。単に労働者の市役所職員の給料カットをし続ける事は責任の転嫁であり、先ず「市長」・「幹部」と「議員全員」の大幅な給料カットを行うべきだ。高岡市の議員歳費はお手盛りが続いて高額なレベルに在り、正に政治に巣食う虫達とも云える。虫達にも「害虫」と「益虫」が居る筈だ。
金沢市は加賀百万石のお膝元で有りながら、単に百万石の讚美だけでは無く、文化や遺された遺産は保存しつつも、高岡市の様に加賀藩を偶像化して瑞龍寺や勝興寺の単体に資金を投下するのでは無く、「有機的な結合の為に」資金を投下して、合わせて、都市計画による市街地再生を果たした。基本的には民間の再開発が主体で在り、一つの民間の寺院に単体で巨額の資金を投下していない。ましてや、その寺院に市役所の関係者を派遣する等は無い。金沢の本願寺別院でも独自で整備を続けている。市民の税金の使い方はかく有るべきだと思う。金沢ではこれ等の政策に因って、市民の憩いの場所としての市街地の利用が便利に成り、新たな商業施設も立地し始めた。金沢市でも、安易に進めた駅周辺のマンション開発では、地価の暴落や空室の発生等で痛い目に会っているが、富山市や高岡市は「中心市街地活性化」と称してこの金沢市が失敗?した計画を中心に据えた都市計画を進めている。やがて、これ等の町はスラム化して来るだろう。これは、商業実態を知らない、開発の結果に責任が無い商業主義のコンサルに丸投げした結果であり、世間が行政の動きをつぶさに見ている事を忘れた市役所の勝手な開発の結果だ。被害を受けるのは巨額の財産を拠出した権利者で在り、税金を拠出した市民なのだ。市民を抜いた行政都合の街作りが如何に自治体自体を廃墟に導くかを知らない為だ。開発利益や利便性、安全性等、市民が求めるものは多岐に亘る。高岡市の様に、都市機能の中心に為る交通政策や教育政策を無視して、「加賀藩に感謝」して「加賀藩関連の施設だけに」資金を投下する行政の姿勢にどれだけの市民が両手を挙げているかは、現在の人口減少を見れば一目瞭然である。教育施設、環境が悪いだけで、全国の都市から人口が減って、隣県に人口が動くのは今に始まる事では無い。北陸新幹線が入っただけで将来的に薔薇色に成った訳では無い。交通機関や高速道路の整備はストロー現象で、産業や雇用、住民を全て一挙、短時間に吸い上げてしまう。特に隣県で通勤圏の金沢圏への吸い上げは強力だ。名古屋近郊の岐阜市では、公共交通機関が高速化してから僅かの間に駅前の衣料品や飲食店が潰滅して、名古屋市のベットタウン化が進み、市内の百貨店も潰れ、駅前の商業施設は閉鎖して、駅前は「マンション開発」で対応した。
■「住宅開発」と「商業開発」では、その土地の収益力が全く異なり、嘗て富山市中心部は25000円/坪当り の家賃が取れたが、賃貸マンションになると、せいぜい坪当たり3000円から4000円位の収入しか見込めず、又、ビジネスホテルでは床坪当たり6000~8000円の収益しか見込めない。「収益還元法」で逆算すると、それが土地価格に直結して、市街地の土地価格の暴落が始まる。富山市総曲輪は嘗て、坪当たり500万円の時代には商店主達が子供達への相続に苦しんでいたが、近年はマンション開発が進み、中心部でも坪当たり80万円程度迄、地価が暴落している。マンションは販売価格から逆算して土地費、建築費、販売経費、利益を計画するが、土地費以外は価格弾力性が少ない為に、マンション開発では容積率から計算して土地の仕入れ価格が決まる。地方都市ではマンション価格から逆算すると一種当たり(※販売延べ床面積の一坪当たり)は20万/坪を超えられない。従って、市街地の中心部の容積率400%の地区でも土地の仕入れ価格は坪当たり80万(20万×4倍)を超えられない。これが富山市の地価暴落の原因の一つだ。この現象は一時期、金沢駅周辺でも発生して、金沢駅の周辺を国鉄清算事業団が土地を売却した時も、線路近くでも坪80万で売却された。これが、引いては固定資産評価減、税収減にも繋がって来ている。「中心市街地活性化」と称する安易な中心部のマンション開発は、思わぬ二次被害をもたらすのだ。
不動産投資や土地信託等では「家賃から逆算して」土地価格が決まる。事業者はその土地購入価格が低ければ低い程、事業利益が出るから、交通の便がさほど良く無い郊外でもマンション開発が進められる場合も在る。それが「リゾートマンション」と銘打って温泉付きとかのメリットを付けて販売された。しかし、温泉付きマンションは温泉の為に水道管の腐食が早い為に、後々、マンションのリフォームに巨額の費用が掛かる。マンションは外部や室内壁等の構造体、設備が共用の為に、老朽化しても勝手にリフォームできない。そのリフォーム費用も木造に比べて高層マンションでは足場代等の仮設費用も大きい為に、すぐ億円単位の費用が掛かり、入居者は頃合いを見て売却して逃げ出す。その為に、老朽化したマンションは買手が付かずにスラム化して行く。又、ホテルデベロッパーの中には僅かな見せ金を「協力金」として数年間、地権者に貸し付けて数年の内に回収して担保をゼロにする業者も在る。この場合は、定期的に訪れる改修や追加投資が建物オーナーの負担に成り、しかも、テナントの希望でされた独特の内外装の意匠は、そのテナントが契約を打ち切って突然退去すると、次のテナントには引き継がれ難い為に、オーナーは泣く泣く、賃料改訂や改修費用の負担で「泣き」を見るか、土地すらテナントに売却して、先祖伝来の土地もろともに喪って仕舞う。又、何としても事業を存続させようと足掻いても次のテナントが見つからずに、その再開発地域全体がゴーストタウン化する。要は、「生み出すのは官僚やコンサルが支援?するが生まれた後は自己責任」と言うことだ。又、賃貸を目指す再開発の場合には、「賃貸期間」と言うリスクが在る。商業テナントやホテルテナント等では数年、数十年単位で更新する為に、大規模テナントは採算計画が取れなければ、さっさと撤退する。ホテルでも十年単位で見直しをするから、余程解体費用を超える建設協力金でも受け取って居なければ、突然のテナント退去は破産を意味する事になる。多額の借入や償却残を残して、回転資金迄自転車操業に陥っているオーナーは、ハゲ鷹フアンドと呼ばれる様な不動産屋に全てを吸い尽くされるしか無い。この様に再開発の実態は最もリスキーな事業なのだ。
更に、いずれは、この事に加えて市街地の人口減少で、商業施設や医療施設が閉鎖して加速度的にスラム化が進む。最早、シャッター街どころか、崩れかけた廃屋の市街地が遺される。無秩序な市街地のマンション開発は、何れ、東京近郊で発生しているマンション街の様なスラム化を産む。そのスラム化対策として市役所は無尽蔵に公費を投入し続けて、自治体は崩壊する。その挙げ句に資金力のある者、一過性のマンション開発で利益を上げた者やたっぷり資金を貯めた政治家は何食わぬ顔で他の地域へ移って行く。これが、地方都市で今後、発生する現象だ。要は、どんな都市開発でも利益や便益を産まない開発では、何れ、スラム化して行く。新たな事業の創造や企業誘致等、あらゆる利益、便益誘導の努力もせずに、小手先のマヤカシで都市機能は維持出来ない。大都市では商業施設に一日、数十万人が入場するが地方都市では数千人単位に成る為、あるデベロッパーからは、「一人、100円の物を売っても、同じ建設費をかけていては採算が取れない」と告げられた事が在る。地方都市で、人口が毎年、千人も減少すると云う事はこれ程、深刻な事態なのだ。
■議員の横領に近い政治資金の使用により議会の多くの議員が辞職した富山市は市長の先進的な『まちづくり』の効果をを打ち消して、今や「恥じを知らない議会」として全国で有名になり、都市の魅力が半減した。長く企業誘致を担当した経験から、全国企業は、その所在地のステータスで支店や工場を置くケースも多い。又、その市町村の教育レベルや生活レベル、市民の意識等の「民度の高さ」を基準に進出する企業も在る。「東京都」や「金沢市」は全国的にも転勤族が住みたいとして候補に上げる。「教育環境」や「交通機関の利便性」が企業進出の大きなポイントにもなっている。嘗て、一流企業の誘致活動を行っていた時に、その企業の人事担当からその自治体の教育レベルや幼、小、中、高、大等の教育施設の詳細レポートを依頼された事が在る。企業が進出しても高度な産業では、教育レベルの低い地域へ社員が移動を渋るからだと云う。教育や交通、商業、医療等も人事採用では重要だと云う。これ等は全て「企業誘致」のツールに成っているのだ。残念ながら、現在の高岡市は、この重要なポイントも無視して、行政、議会は依然として深い眠りに入ったままだ。蔓延する「何とかなる」と言う考え方は、現在の様に移り変わりが激しい社会情勢では「衰退を選択」している事とイコールだ。新幹線ルートが決まった敦賀市等は、これで一挙に通勤圏が京都、大阪迄広がって、人工や産業の流失が加速する事を恐れていると聞く。高岡市も能越道路の整備は中京圏へのアクセスが広がり便利な事だけでは無い。実際に高速バスの整備では、高岡市に住宅だけを残して名古屋市や豊田市等への通勤が可能に成り、高岡市は中京圏や金沢、関西圏のベッドタウンになってしまう可能性がある。しかも、交通、商業、教育、医療施設が消えた街からは、加速度的に人口が流失する。その時になってから、お手盛りで勝手な事を行っている行政や議会は、如何に自分達の悪行が都市をダメにしてきたかを身に染みて痛感し、市民はこの無策を放置してきた責任を痛感するだろう。行政が何も出来ないなら、せめて、市民は声をあげて行政を監視し、叱咤する必要がある。役人は安定した給料で「行政指導」や「法律」を盾に権力を行使する事しか知らない。真剣に街作りを考え、実行出きるのは役人では無理だ。それに引き換え、民間は明日の飯を求めて、アイデアを出して、ノルマの達成に必至だ。石川県では、自治体に民間出身の人材をスカウトして、企業誘致を専門に行わせている自治体もある。民間を知らない役人に企業誘致は無理だと云う事だ。
企業誘致と云うと、単に雇用が増えるだけでは無く、勿論、従業員関連の諸税や企業の固定資産税、法人税等の自治体財政を増やす効果の方が直接的に効いて来る。又、「酒税」等は直接市町村にも恩恵をもたらすとして各市町村の誘致合戦が激しい。…と云うと役人は「そんな事は分かっている。」と逃げるが、その結果が明日の飯に繋がると言う民間の切実さは全く無い。財政難だからと給料がカットされても、それが自分達の怠慢の結果とも気付か無い。ましてや、行政マンを指揮するトップが何も行動出来ない「お利口さん」では、その迷走も止む事はない。何と言い訳しても政治は「結果責任」だ。長く続いた高岡市の政治家と官僚連携の放漫経営の結果、破綻の入口に来たと云う事だ。地域エゴで為政者に取り入り、勝手な事を重ねて来た一部の特定地域住民の責任も大きい。
■「財政破綻」したら他人事みたいに「税収不足です」と逃げる市長は企業経営者なら「即 解雇」だ。市民としては、一刻も早く、「高岡市」に「井の中の●●」から脱皮して、再建団体に陥る前に、広く世界に目を配って広い視野で「迅速に行動に移して」欲しいものだ。

◆国民的に有名な【義経記】すら理解していない高岡市教育委員会のコストはウナギ登りだ。


■「高岡市民」が深奉する「加賀藩政」は、実は「60~75%」もの【酷税】を課して「占領地」の「越中」から血税を搾り採った凶悪な「封建領主」の姿だった。加賀藩の搾取に苦しんだ高岡市和田村を開いた「和田佐助」は「はりつけ」にされた。(※「城端別院善徳寺文書」・「和田村善宗寺和田佐助寄進状」)



🔘越中の畠山氏家臣『神保氏』!! ⇒越中の二人の神保氏!!

2021-04-13 | 富山県高岡市
●富山城を拠点とした『惟宗姓 神保氏』の系統は、高岡守山城を拠点とした『平姓良文流 神保氏』と共に徳川幕府に仕官して旗本として処遇されている。この系統が屋敷にした江戸の旧地は『神田神保町』と呼ばれた様だ。(※「平姓 神保氏」の守山城城主神保氏張の居宅は江戸裏二番町に在った。)


■「惟宗姓神保氏系図」(※静岡県立図書館蔵)

























■静岡県立図書館の「徳川諸家系図」と「大日本人名辞書 明治四十二年版」に拠ると、富山城神保氏の「四代目 相茂 スケモチ」は「本姓は惟宗長三郎」と言い、この一族は「鎌倉に本拠地を持ち、室町幕府管領畠山氏に仕えたが、父の式部少輔春茂の時に豊臣秀吉に仕えて和州(大和国)高市郡に6000石を有したが、慶長五年の関ヶ原の合戦に十九才で徳川軍に参戦して軍効在り、更に1000石を加増されて7000石を有した。しかし、大阪冬の陣で天王寺の地で34才で戦死した。」と云う。この系統は、越中に展開した神保長職、長住等の系統で在り、この一族は守山城の神保一族(当初は中村を名乗る)と共に、主家畠山家から「神保」の姓を授けられて、足利義満の時に越中守護畠山満家に従ったと云う。「相国寺供養記」にはこの二つの神保氏の氏名が載せられている。

🔨🔪富山県高岡市の「鋳物」文化のルーツ!! ⇒「二宮信濃入道」に対する「斯波義将」からの書状。

2021-04-13 | 富山県高岡市
■高岡市の「鋳物師」のルーツ⇒「越中国」の「二宮信濃入道」(※尾張斯波家家臣)に当てた「越中国の砺波郡、射水郡の鋳物師に対する斯波義将からの文書」


1376年[永和元年(北朝)/天授元年(南朝)] ~1385年[至徳2年(北朝)/元中2年(南朝) ]の書状

■越中の鋳物師の歴史は古く、先祖は河内国から呼び寄せられたと云う。前田利長が高岡を開いた時に砺波郡等から鋳物師を高岡に呼んだのが高岡市の鋳物文化のルーツと云われる。この文書ば1300年頃の越中国の鋳物師に対する処置を示すもので、鋳物師は全国で「居所や移動の自由が認められて、領主からの免状で数々の特権が認められていた」と云う。
この書状は「空海の寺」として名高い京都の東寺(※教王護国寺)の古文書である。

■高岡市の鋳物で作られた「仏具」や「彫像」、「生活用具」等は有名で、全国の寺院の鐘の製造では特に有名で、愛知県一宮市の「妙興寺」等の著名な寺院に納められている。
※妙興寺は、愛知県一宮市にある臨済宗妙心寺派の大寺院で山号は、長嶋山、寺号は妙興報恩禅寺と称する。 新陰流開祖上泉伊勢守信綱が修行し、柳生真蔭流無刀取り発祥の地として名高い。この寺院の鐘も高岡市のメーカーの鋳造で、重要文化財の鐘の代わりに使用されている。








🌸秀吉から「前田利家」に与えられた「聚楽第屋敷」!! ⇒「歴史の真実」廃材は高岡城の建設に利用されたか?

2021-04-13 | 富山県高岡市
■『聚楽第図屏風』には「加賀少将」と表示された「こけら葺きの二棟」が記載されている。
この屋敷は石田治部の提案で、秀吉が国を与えようとしたのを遮って替わりに前田利家に与えられたものだと云う。(※「北陸七国史」)






■金沢市文化財になっている「北方心泉」の「前田利家像と賛」














■「聚楽第屏風」には『加賀少将』と記載された前田利家の屋敷が表示されている。この屋敷が前田利家に与えられた経緯が『北陸七国史(※「北国全太平記」)』に記載されている。(※「早稲田大学デジタルアーカイブス」)
豊臣秀吉は秀頼の誕生を祝い、前田利家の忠勤を愛でて利家に「美濃、尾張、三州、伊賀、伊勢の5か国」を与えようとしたが、石田治部は利家への警戒を進言して、「利家には聚楽第を与える」様に提案した。

■豊臣秀次の反乱に怒った豊臣秀吉は聚楽第を解体した。高岡市では、その廃材は加賀藩が拝領して、高岡城や菩提寺の建設に利用されたと伝わっている。しかし、加賀藩の記録「三壷聞書」には、「この廃材は当初建設した「富山城」に使用されたが、富山城が火災で消滅した為に、次いで高岡の狭野セキノに新な城を築いた」とされており、この廃材は富山城と共に燃え尽きたとされている。
(※「三壷聞書」参照;金沢城郭研究会発行と石川県立図書館協会発行のものが在り、後者は加賀藩記録への追記分も含む。)


「森田柿園」所蔵14巻本を金沢城郭研究会が発行したもの。


前田家に伝わったこの書は、前田利家が織田家家臣の時から、加賀藩の成立、藩主の生い立ち、業績等の詳細、家臣団の名簿等を記載したもので、二十二巻。この書は前田家家臣の「山田四朗衛門」の作とか、「原田又右衛門」の作とか云われて伝わっていると云う。(※日置謙編集、石川県立図書館協会)

▼この絵図とこれ等の指摘は、高岡市の白山神社宮司で神道学博士だった故高尾哲史氏の博士論文にも記載されている。(※「国学院大学神道学博士論文」)

🔴🔘 「金沢古跡史」(※森田柿園著)が指摘する 「越中五位庄加茂城」と「加茂城下に創建された雲龍寺」の説明の誤り!!

2021-04-13 | 富山県高岡市
■「越中五位庄」の「加茂城」







■「金沢古跡史」は加賀藩士「森田柿園」が著した加賀藩管内の「地史」の大作






■「五位庄加茂城」の由緒の検証 ⇒「森田柿園」が指摘していた高岡市教育委員会の説明の誤り!!

「越中加茂城」と「二宮円阿軍忠状」、加茂城に「赤松政則が在城した」とされる事実は在ったのか?
①詳細を調べるとこの二宮円阿という人物は足利一族の斯波高経の家老に見られる。
「斯波高経」; 尾張足利氏四代目 1362年細川頼和に代わり越中に息・義将を派遣。信濃国から越中乱入。南北朝時代の南朝の武将で守護大名。越前・若狭・越中守護。南朝の勇将新田義貞を福井県で破る。観応の擾乱では足利尊氏と直義双方にその都度、仕える。
「二宮円阿」;次郎左衛門入道貞光円阿。斯波家家老で信濃口から越中へ乱入し庄城、野尻城、和田城、鴨城、頭高城で戦う。1363年(正平十八年)に軍功を申請する申請書を提出した。
(※「軍忠状文書」参照)



②加茂城の説明に、加茂に創建され金沢に動いた赤松氏所縁の「雲龍寺」について説明が在る。
加賀藩士「森田柿園」は「金沢古跡史」で、「赤松氏が加茂城を居城とした事はあり得ない。」と明確に否定している。「赤松政則」は足利将軍家から「天皇の神璽を後南朝から奪還した報奨として加賀半国を与えられた」とする「加賀半国」とは「石川県石川郡、羽咋郡の二郡」を指しており、越中の五位庄を与えられたとする事はあり得ないとしている。
又、「金沢古跡史」では「雲龍寺を創建した」のは「赤松政矩」としており、「高畑に居城した」とされる点に付いては金沢市郊外の石川郡に同じく「高畑」と言う地域が在る。
「越中五位庄」は「足利義満」が室の追善供養として「相国寺」(※棟頭「鹿苑寺金閣」)の庄園として、「越中蜷川氏」が政所代として統治したとされる事から、足利将軍家に従っていた赤松氏の別の人物が「五位庄の加茂に雲龍寺」を築き、この寺が後に金沢に動いた事を示している。




🔷🔶【高岡市早川地区】「延喜式内社 速川神社」と「東大寺庄園杵名蛭庄」 ⇒高岡市立野、池田、東石堤、高田島地区辺りに推定される「古代庄園」!!

2021-04-13 | 富山県高岡市
■「延喜式内社速川神社」(※高岡市波岡地区)










■「東大寺庄園杵名蛭庄」

この庄園図には「砺波郡」の語源と成り、越中国司に成った「利波臣志留志」がサインしている。

■東京大学資料編纂所は「東大寺庄園図」を精密写真に撮りそれを図面化している。その庄園図を拡大して詳細図にして見ると、その中には高岡市福田地区と推定される「荊原里 ウバラノサト」や「石黒上里」、「石黒中里」、「石黒川」、「速川」等の表示が在る。
「国立文化財機構」ではこの庄園は高岡市戸出辺りに比定しているが、この「速川」の位置、流域の「早川地区」や「延喜式内社速川神社」や「石黒川」(※アラマタ川)、「杵名蛭川」(※)の位置等を考慮するとこの位置は高岡市立野から高田島地区辺りに該当する。この庄園図中に、地区に隣接して「荊原里」が在り、この地区には現在も「延喜式内社荊波神社」が在り、「延喜式神名帳」にはこの神社に「ウバラノヤブナミ」とフリカナが付けられている。





■この地域の「祖父川」下流に「高岡市早川」や三協立山アルミ本社近くには「延喜式内社速川神社」が在る。
「祖父川」は加賀藩時代の絵図には「ソフ川」と記載されている。「速川」⇒「ソフ川」⇒「祖父川」とその呼び名が変化した事は間違い無い。しかも、この地域内には「聖武天皇勅願社 五位庄神社」が高田島地区に在り、又、「上渡り」、「東石堤」地区には「八幡社」が遺されている。「東大寺庄園杵名蛭庄図」には「神社」の位置が三ヶ所記載されている。東大寺大仏造営の時に聖武天皇に対して「宇佐八幡宮」が協力する意向を示した事から聖武天皇は「東大寺大仏の鎮守」として東大寺に「八幡社」を勘請された事から、嘗ては東大寺と八幡社は一体のものとして信仰された様だ。明治維新後の「神仏分離令」、「廃仏毀釈運動」の結果、現在では神社と寺院は別々と言う考え方が強いが、本来は「空海」が高野山を開いた時にその地域の地主神の神託を得て高野山を開いた。従って、元々、天皇家も「寺院」は「神社」と一体で信仰され、その後、「本地垂迹説」では正に神仏は表裏一体として信仰される様になっている。
又、立野地区隣接の高岡市東石堤地区に「イバラの宮跡地」と見られる「野バラ」が繁っている敷地が在り、そこにも小さい「神明社」の祠が在り、この神社は赤丸浅井神社の神官が祭祀を行っている。この神社を長く守っていた池田家にはこの敷地の写真と祭神とされていた「地蔵菩薩」の光背が遺されている。現在の「福田荊波神社」の祭神は「ニニギノミコト」であり、本地垂迹説では「地蔵菩薩」として信仰された。「福田庄」は嘗ては南北朝時代に比叡山系の妙法院の庄園となっていた為にこの祭神も仏像の「地蔵菩薩」とされた。現在の「福田荊波神社」は区画整理の時に何れかから動いたがその旧地は不明としているが、その旧地がこの東石堤の敷地とみても良いと思われる。











🌸🏯『前田利家 聚楽第拝領の事』⇒「北陸七国史」に見えるその背景!!

2021-04-13 | 富山県高岡市
●「北陸七国史」には前田利家が関白豊臣秀次が使用した「聚楽第」を拝領した背景が記載されている。





■「北陸七国史」に云う。
【豊臣秀吉は前田利家に感謝して美濃、尾張、三河、伊賀、伊勢の五ケ国を与えようとしたが、石田三成は利家に諸将が就く事を警戒して、代わりに豊臣秀次が自害させられた後の「聚楽第」を与える事を秀吉に進言した。利家は聚楽第に屋敷を移したが、家臣には「贅沢な屋敷に住まいすると、周辺の人間に利家が反逆心を持っている等と謀事にかけられる恐れがある。」と心を引き締める様に家臣に申された。家臣達は皆、この利家の先見性に感じ入った。】






■『この聚楽第の材木は、高岡市の前田家菩提寺の「繁久寺」や「高岡城」に使用されたと伝わる』と高岡市白山神社の故高尾神道学博士は論文で指摘されている。又、その論文では、『聚楽第図屏風』に「加賀少将」と記載された前田利家の屋敷が記載されている事を指摘されている。
しかし、実際には数度の火災により備蓄された木材は高岡で再利用される前に消滅した様だ。(※「三壷記」加賀藩記録)