赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📕⛵ 『太平記』に見える射水市の「放生津城」と「白山神社」⇒後醍醐天皇の「恒性皇子」と「名越時有」!!

2021-04-15 | 富山県高岡市





「後醍醐天皇」の皇子「恒性皇子」は越中二塚村で暗殺された。





















■南北朝時代に、富山県射水市の新湊小学校の敷地に在った「放生津城」は、北条一門の「名越時有」の居城で在った。現在の高岡市南部の神社に幽閉した後醍醐天皇の皇子「恒性皇子」をも暗殺して全力で戦ったが多勢に無勢、放生津城は敵に囲まれて、女子供は海に逃して戦った。しかし、遂には城中の者全員が自害し、女・子供も含む一族全員が海の藻屑となった。「太平記」には「平家物語」の「壇之浦の戦い」の様な光景で、女官の華やかな衣装が海面に漂って、悲惨な一族が海に漂う様子を著している。
この後には、舟がこの海上を通ると霞の中から亡霊が現れ、「我こそ名越時有」と告げて、かき消す様に消えたと言う。
富山県高岡市二塚1343に「白山神社」と言う神社が在る。古いこの神社は、この「名越時有」が社殿を建てたものだと云う。この神社には、「織田信長の根尾氏宛の古文書」も保管しており、系図からすると「巴御前」の一族の「中原氏」にその姓が見られる名門の神官の様だ。この神社の近くには「恒性皇子」を幽閉していた「悪皇子社」と言う神社もある。この「悪皇子」と言うのは「特別な力を持った皇子」と云う意味だと云う。





●この系図の後醍醐天皇第八皇子「宗良親王」は、興国三年、越中石黒氏の「赤丸浅井城」「福岡町木舟城」に入られ、南朝の士気を鼓舞された。赤丸城ケ平山中腹には「宗良親王の墓」と伝わる「親王塚」や宿舎跡とされる「親王屋敷跡」が在る。


●「放生津城の歴史」
放生津城は元々は土塁を巡らし、塀や柵、櫓を取り付けた「守護の屋形」で在ったが、その後、城郭が造られ放生津城になって行く。周辺には河川から水を引き込み、防衛と兵器・食糧等を運び込む水運が確保された。放生津城は約6000坪近くも在ったとされ、北条氏の一族の名越時有が正応元年(1288年)に構築したと伝わっている。後醍醐天皇の皇子で京都の大覚寺門跡で在った「恒性」(コウショウ・ツネタチ)は鎌倉幕府の討幕に参加された為に、元弘三年(1333年)二月に越中に流された。名越時有は恒性皇子を高岡市二塚に幽閉したが、全国で南朝軍が攻勢を強め幕府軍の弱体化が目立ち始めた為、元弘三年五月十四日、時有は恒性皇子を幽閉した場所で暗殺した。この頃、京都六波羅で敗戦した幕府軍に向けて出羽や越後の朝廷方が北陸道を攻め登って来た。時有は越中、能登の御家人を集めて戦ったが、戦況は不利で、放生津城に籠った時有は妻子を海に逃して海に沈め、一族郎党79人は放生津城に火をかけ、妻子の死亡を確認してから全員が切腹して果てたと云う。
「太平記」は、「一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取り組んで同じく身をぞ投げたりける。紅の衣、絳アカキ袴の暫く浪に漂ひしは、吉野立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如くに見えけるが、寄せ来る波に紛れて、次第に沈むを見果てて後、城に残り留まりたる人々、上下79人同時に腹を掻き切って、兵火の底にぞ焼け死にける。」と記す。
南北朝の終期1392年に後亀山天皇が後小松天皇に神璽が伝えられ、その頃の越中守護畠山持国は在国しなかった為、守護代として神保国宗、長職、慶宗と続き、この間80年間、「放生津館」を構えた。中央では、畠山氏と官領細川氏が争い、明応三年(1494年)には第十代将軍足利義稙ヨシタネ(義材ヨシキ)が神保氏を頼って越中の放生津にやって来た。この頃、実質的に富山県新湊に幕府の臨時政権ができたとする歴史家もある。
石堤村西光寺縁起には、「将軍足利義材」が、度々、立ち寄ったと記載されている。
【「五位庄」は「足利義満」が「相国寺」(※「金閣寺」)に寄進して以来、足利家菩提寺の「等持寺」「等持院」の庄園として続いた。】
神保慶宗は謙信の父の長尾為景と永正十七年(1520年)富山新庄城で戦い敗れて、この時に放生津城も焼失したと云われ、その後も神保氏と上杉謙信の戦いが続き、文祿元年(1592年)に廃城されたと云う。



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