良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

善と正を教えるだけが親ではありません

2014-01-28 19:19:40 | すてきパパママにご提案
 母娘クライシス、という言葉をご存知ですか?
まだまだ子どもが幼いと、なかなかこういう「深刻な親子の問題」は遠いもの、として、真剣に考えることはないかもしれません。
 昨年末、NHKの番組、特報首都圏で「母娘クライシス」の問題が取り上げられ、今まで以上にこの言葉に関心を持つようになったお母様達が増えたことと思います。
 極々簡単に言ってしまうと「母と娘の関係が上手くいかず、かなり深刻で修復不可能な溝になること」をこう呼びます。
 「お母さんは・・・好きじゃないです」という程度の問題ではなく、娘が成長して大人になった時、肉親である母親と絶縁をしてしまう、というほどの深い問題、なんですね

 昔から、DVのような問題が発生しなければ、母と息子の関係は比較的良好です  中高生になった息子に「うぜー 」とか「くそばばー 」と蔑まれた時、悲しいという感情は持っても、結構、母親は息子の暴言は受け止められ、いつまでも息子はかわいいと思う こういうことはよく耳にします。私の息子の中高時代、まわりには、このタイプのママ達が大勢いましたよ

 しかしその一方で、幼稚園児である娘との関係に悩む母親・・・は、決して少なくはありません。娘が真剣に「ママが嫌いだから、おばあちゃまのところで暮らしたい」と言う、とか、母親への嫌がらせとも受け取られる娘の悪行、愚行に振り回され、平常心を保てなくなった母親とか・・・私のところに、こういう悩みを持ってご相談にいらっしゃる方は、毎年、2件や3件ではありません。
 とにかく、娘達がティーンエイジャーになってくると、幼児期には平穏だった家庭でも、どんどん母と娘の関係は難しくなり、深刻になっていきます(じつは、父と息子の関係も難しいものですが、ここでは敢えて触れません)

 母親は、娘がどんなに幼くても、同性であるがゆえに「こんな時、私なら〇〇するのに」とか「こんな場合には、私は絶対に△△しない 」と自分に重ね合わせ、心の中で娘の言動、行動を批判します。
 なぜか「批判や避難」なのですよねえ・・・不思議と愛情に満ちた「アドバイス」ではないのです。そして大抵の場合、母親は表情も硬く、気づけば「非難」や「忠告」「文句や愚痴の類」として、母の口から娘に発せられます 当然、娘はムッとして・・・母親を無視するか、暴言を吐くか、睨むか・・・

 息子の行動が理解不能であっても、「私は女だから、男の子のことは結局はわからなくて当然ね」と、あっさりギブアップをしたり、はたまた、涙を流して懇願したり・・・と、母親は息子相手には攻撃的にはならない場合が多いですねえ。
 でも、相手が娘の場合には、最後の最後まで重箱の隅をつつくようなバトルになってしまう・・・

 相手が誰であっても、こじれてしまった関係を修復することは、本当に難しいものです。
親子の関係の場合、本当の意味で「こじれた関係」というものは幼児期にまで遡り、すでにその時点でボタンの掛け違いをしていた、ということがほとんどです。そうなると、一朝一夕には、関係の改善はできません
 こういう意味では、「母娘クライシス」の問題も、子どが幼いから遠い話題、として、ほおっておくことはできないのです。
 2歳、3歳、4歳の毎日が、点となってつながり、それが線となって10歳、15歳、20歳・・・へと繋がっていくのですから

 せっかくの機会です。
是非ぜひ、この話題を機に、一度ご自分のこととして考えてみてください
 話題としては「母娘クライシス」を提供しましたが、ここでは、相手が娘ではなく、息子の場合でも同じように考えてみましょう。
  あなたは「母親」「大人」「人生の先輩」「年長者」ということを振りかざし、息子や娘に多くを求めすぎていませんか?
  自分が若い頃に間違ったことは、我が子には間違わせたくない!という思いで忠告をし、自分が上手くこなしたことは、自分と同じ道、同じ方法を強いていませんか?
  無意識のうちに、自分のしえなかった夢を必死に我が子に託していたり、自分の過去の行いの自画自賛になっていたり・・・そんなことはないでしょうか?

 そして、知らず知らずのうちに、目の前の我が子の姿を落ち着いて真剣に見ることをせず、今自分に向かって話している子どもの声を聞くことなく、「母親」や「愛情」という錦の御旗をかざして、子どもに接していないでしょうか?

 子どもの心に寄り添うこと・・・美しい言葉、ですね
でも、決して簡単なことではありません。そして多くの親達は、「善」や「正」をシュプレヒコールのように繰り返し、子どもに覆いかぶさり、子どもを威嚇し、子どもに要求するのです。
 確かに、「善」や「正」は大切です。教えなければなりません けれど、果たして「母として善」「父として善」でしょうか?

 相手が幼児であっても、小学生であっても、真剣に子どもの言葉を聞こうとしているでしょうか?
 頭ごなしに、この子は未熟なんだからと、子どもが口を開くたび眉間に皺をよせ、耳のシャッターを下ろして、自分が「善」として話す体制になっていないでしょうか?

 子どもは、幼い頃からずっと、本当は両親、特に母親とは時間を共有し、同じものを見て、同じように美しいきれいだと共感しあい、優しい時間を過ごしたいと思っているのです
 それなのに、そんな子どもが発信しているサインをスルーして、「善」や「正」を諭すだけの鬼ババアになってしまうのは、とってもとっても悲しいです

 「私は善である」「母親は善であるべき」と勝手に自分を追い込み、そして自滅しそうになって子ども相手に怒鳴りまくる親・・・そんな親になるのは止めましょう。

 優しい心で我が子を見る目・・・せっかく2つも目があるのですもの。耳だって2つ。せめてその1個ずつは、目の前の子どもを見る目、子どもの言葉を聞く耳にしてみませんか?




暮らしの中で「!?」と感じる心

2013-11-24 12:18:38 | つぶやき
 私達は頻繁に「感性」という言葉を使います。
世の中が豊かになり、物質的なものに満たされてきた今、「心」とか「気持ち」とか、そういう精神性があらためて重要視されるようになったからなのでしょう

 「感性」という言葉を国語辞典で引いてみると、「物事を心に深く感じ取る働き。」「外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える能力。」と書かれてあります。後者のほうは凡人には理解が難しく、「???」の部分もありますが、それでも何となく「科学的に・・・とか、理屈とか論理とかではなく、直接、心に訴えるもの、響くこと」ということだと思います

 子育てをしていく上でも「子どもの感性を磨く」とか「感性豊かな子どもに」というふうに、よく語られますね。
 引越しをして半年。新しい家で初めての秋、冬を迎えます。
27年間も住んでいた家では、季節のうつろいを敏感に感じ、楽しんではいたものの、それはひとつの大きなローテーションでした。その時々で、小さな発見や驚きはあったものの、ほとんどのことは想定内。
 けれど、ここの家では、すべてのことが「初めて」で、いろいろと気づくこと、驚かされること、がたくさんあります

 いきなり「お手洗い」の話題で恐縮ですが・・・マンション暮らしでは、必ずしもお手洗いは外に面しているとは限らず、横浜の以前の我が家では、お手洗いは窓のない「小さな密室」でした。
 いろいろと小物を飾るのが好きな私は、一日に何度も使うお手洗いを大事に思い、季節によって飾るものを替え、陽は当たらないものの、小さなグリーンや花を飾り、癒しの空間にしていました 私にとって、お手洗いとは、そういうもの、でした。パチンと電気のスイッチを入れ、ドアを開けて入る・・・ドアを閉めて、パチンとスイッチを切る・・・
 ですから、この家に来ても、同じようにお手洗いを飾り、毎日、パチンと電気のスイッチを入れ、ドアを開けて入り、ドアを閉めてスイッチを切る・・・そう、習慣、ですね。

 ところが。
今も同じようにお手洗いに入ろうとしたのですが、考え事をしていたために、電気のスイッチを入れるのを忘れてドアを開けてしまったところ・・・まるで、初めての空間に入ったような気分に襲われました 今までは、電気をつけ忘れてドアを開けると、そこは「真っ暗な空間」でした。そして、慌てて電気をつける!
 けれど、今日、私が入った「小さな空間」は真っ暗ではなく、電気が点いていなくても、ぼわっと暖かい明るさに満たされた空間でした。色で表現するとすれば・・・薄いオレンジ色の空間、でしょうか ヒヤッとしているのに、そこにあるものが、きちんと明るさの中にある。
 今までの半年間はいつもの習慣で、昼でも夜でも、必ず電気を点けて入っていた時には、全く見たことのない光景であり、感じられない空気でした。
 
 都心の狭小住宅ですから、当然、庭などというものはありません すぐお隣には同じような家が建っていて、2階のお手洗いの窓の外も、じつはお隣の家の外壁です。
 ところが、季節が初冬となり、太陽の軌道が低くなったことで、今までより陽の光がたくさん入ってくるようになったのだと思います。つい半月ほど前その事に気づき、私は慌てて家の中の貴重な「大きな窓」であるキッチンの窓に、大好きなサンキャッチーを吊るしました。すると案の定、午前中は太陽の光を受けて、キッチンの白い壁にはたくさんの小さな光の粒、プリズムでいっぱいになります
 横浜の家のリビングでは、毎朝、サンキャッチャーの光を受け、リビングの天井も、四方の壁も床も、全体が光の小さな粒、プリズムで満たされました。特に初冬から春にかけては、午前中の長い時間、光の粒がリビングの一部、でした
 もちろん、それに比べると、今、キッチンの窓でサンキャチャーが集められる光は5分の1、10分の1です。けれど、小さなクリスタルのカットボールが太陽の光を受けて、まるで魔法のように、小さな光の粒つぶを放っている・・・美しいことに違いはありません

 とってもつまらないことです
なーんだ、お手洗いが明るかった、っていうだけでしょう?そりゃあ、マンションの間取りの都合で密室だったお手洗いとは違い、今は窓があるんだから、電気点けなくたって、それなりに明るいは当たり前じゃないですか
 その通りです。それだけのこと、です。

 でもね、何かに気づき、驚き、スゴイ ステキ と感じること・・・すごく大事だと思いませんか?大人が、そういう生活を過ごしていると、きっとそばにいる子どもも、同じように日常の小さなことに『気づき、驚き、スゴイ ステキ 』と感じていくようになる、と思うのです

 まずは「気づく」こと。あっ!おっ!と思えること 私は、それが「感性」だと思います。
 


公共の場でのマナー

2013-08-08 10:21:50 | 悪い子、悪い親?
 子どもの躾、子どもの社会性・・・長い間、ブログの更新を怠り、久々のテーマがこの重さ ただ、最近、よくこのテーマについて考えさせらる出来事が多いのです。

 私は職業柄、どんな時でも、どんなところでも、子どもがいるとそこに目がいき、行動や言動が気になります 時にはあやし、時には話しかけ、子どもを見ていると飽きません。
 けれど、5回に2回程度は、その子ども達の親に秘かに腹を立て、そんな親の元に生まれ、育てられている子どもの将来の社会性を憂います・・・ まあ実際には、そんなことは大きなお世話なんですけれどねえ

 先だって、恒例の介護帰省をした折、母と一緒に中国料理のレストランに行きました そこのシェフは、大阪の地方局のテレビ番組によく登場するらしく、かねがね母は行ってみたいと思っていたそうです。
 ホテルのレストランらしく調度品は重厚で、サービス、お店の方の対応、お味、すべてにおいて「さすが」でしたが、お値段も「なるほど」というものでした、ははは

 案内されたお席は、親子3人のお隣のテーブルでした。
じつは私は、お食事の時にはなるべく子ども連れのテーブルの近くには座りたくない、と考えています というのは、子どもの様子、親の対応等が気にかかり、その家族によっては時には食べた気がしない、ゆったりとした気分で食事ができないからなんです
 その子がお利口さんであればあったで、「偉いなあ ご両親の躾が行き届いているなあ」と感心し、親子の様子から目が離せなくなってしまいますし、その子が社会性のない野生児であれば、今度はどうしてしっかりと親は世話をしないのだろう?なんで叱らないのだろう」と食べた気がしない・・・
 その日も、正直、アジャ~と思いました。私一人の食事のような時には、コソコソっとお店の方にお話をし、席を替えてもらったりするのですが、母が一緒となると、またいろいろと説明をするのも大変なので・・・と、そのまま席につきました。

 その女の子・・・4歳くらいでしょう。とっても愛嬌のあるニコニコ笑顔のお嬢さんでね 表情は豊かで、仕草もとっても子供らしくてかわいいのです
 けれど・・・落ち着いて座っていない 食事をしているはずなのに、完全に席から降り、テーブルのまわりで遊んでいる状態。そして、時々、お母さんに呼ばれると、口だけ開けてお母さんの横に立ち、その状態で食べ物を口に入れてもらう かわいい子だっただけに、私はその飼育係と動物、という感じの様子が残念でなりませんでした

 長時間になれば、当然、子どもはその場にいることに飽きてきます。子どもの遊ぶ様子はどんどんエスカレートしていき、食事をしているお客様のまわりのテーブルにまで歩いていき、注意を引こうとおどけて見せたり、歌ったり、踊ったり・・・ホテルの方はハラハラとされている様子で、その子が各テーブルを離れると、その席のお客様に頭を下げて回る始末
 それでもいっこうにご両親は慌てる素振りもなく、子どもを連れ戻すこともなく、一生懸命にご自分達はビールを飲み、食事をされていて、時々子どもに手を振ったりするだけで、気になっていないようでした

 私自身も2人の子育て真っ最中のことを思い出せば、久しぶりの豪華なランチ、素敵なお店・・・となると、貪欲にもなります そのお気持ちも十分に理解できます

 でもね。やっぱり、それが外食の場であろうと、自宅であろうと、食事と遊びのメリハリはつけなければなりませんし、ましてやまわりに他のお客様がいる時には、その方達への配慮は不可欠です
 お箸の持ち方、食べ方、食事のマナー・・・すべて、毎日の食事の中で教えられて学ぶもの。そして、それが習慣となって身につき、その子の人となりの一部となっていきます。それが「躾」であり、その子の社会性として育っていくのです。

 そのお嬢さんは、本当にかわいい子だったのです もし、あの笑顔、歌や踊り、お調子者の振る舞いが公園で披露されていたとしたら、きっと私はあの子に声をかけ、ご両親に「とっても素敵なお嬢さんですねえ」と思わずお話をしたことでしょう

 あの子に罪はありません あの子は、真っ白な状態で生まれ、幼稚園や保育園、学校生活が始まるまでは、ほぼすべてのことを自分の家庭で、両親から学び、両親を真似て成長していくのですから。

 食事というものを、食事の時間を、そして、公の場での善悪やマナーを十分に教えられていな子どもはかわいそうです 楽しい食事の場が辛い時間になるほど、厳しくガミガミと言われ続ける子どもも哀れですが、社会性という面では、やはりガミガミ言われて、しっかりとしたマナーの身に付いた子どものほうが、将来はどんな場においても、恥ずかしい思いをすることなく、幸せになることでしょう

 子どもは親によって育っていきます。どこに出しても恥ずかしくない立派な子どもに育てるためには、偏差値的教育を受ける前の段階では、外注型の各種お稽古や知育雑誌の定期購入よりも、まずは家庭教育を考えること・・・私は本当に大切だと思っています


しつけアプリ、あっぱれ!

2012-12-18 16:27:24 | こまりん子、こまりんパパママ
 今朝、ニュースを見ていると「しつけアプリ」というものが出てきました。
詳しいシステムはわかりませんが、何らかの方法で、お母様のスマホに、「タイミングよく、鬼から電話がかかってくる」というもの、です

 たとえば・・・「お風呂に入らない」とか「歯磨きをしない」などと言ってグズグズと文句を言い、自分のmust をなんとか回避しようとしている子どもがいたとします。すると、その子のそばに置いてあったママのスマホが鳴ります
 ママが電話に出ると、鬼が話すのです。
  「コラ~ ママの言うことを聞いていない子はいないかあ

 いやいや・・・私は感心してしまいました。
こういう「おどし」に大賛成か?と問われれば、残念ながら「NO」ですが でも、こういうアプリを作ろうと思いつき、そういうシステムを考え、しっかりと企業として利益を生んでいる・・・すごいですねえ。アッパレです

 ニュースの中の映像ではありますが、まあ、おかしいくらい、グズグズ言っていた3歳前と思しき女の子が、電話が鳴ったとたん、飛び上がって驚き、恐れおののいて大泣きし、「ママのいうごろぎぐ~(いうころ 聞く)・・・」となります めでたし、めでたし、ですね、ママとすれば
 何度も同じことを言って怒鳴らなくてもいいわけですから、ご自分の精神衛生面でも救いです。何も、ママ達だって四六時中、ぐじぐじと文句を言っていたいわけではないのですものねえ。

 まあ、幼稚園の年中児以降になれば、「鬼から電話」という何ともコメディーチックなことは、非現実的だと何となく気づいてくるのでしょうが、2、3歳児には効果てきめんのようでした

 ただね・・・
そのニュースの中でも、何とも言えず「不甲斐なく映っていたのがパパ」です
それに、そのニュースのナレーションでは、はっきりと「毅然と叱れなくなったパパ」とか「父権が失墜している」とか言われているのです。

 パパ達。がんばってくださいよ
鬼に脅させて我が子に躾をするようでは、パパの沽券にかかわりませんか?

 「パパなんて、ゴロニャ~ンって猫なで声を出したらイチコロよ!」なんて、ティーンエイジャーになった娘に言われたいですか?
 「オヤジなんて、屁でもないよ。俺に怒れるわけないしさ。」
なんて、同じくらいの身長になった息子に言わせておいて良いのでしょうか。
 
 子どもの小さな頃に「しっかりと毅然としたパパの姿を見せて」おかなければ、成長してから急に「父親風を吹かせて登場」しても、何の権威も感じられないでしょう

 怒鳴っても、時にはお尻をピシッとぶつことくらいはあっても、父には家長としての態度は必要です 三つ子の魂、百まで。三つでパパを「パパはちょろい」と思われてしまってはいけません


                           


 
 まどか先生の新連載のブログ 「親子の関係 いろはにほへと」

 かわいい我が子との関係・・・難しい!というパパ、ママは少なくありません
 一番近いところにいて、最も影響を与えるパパ、ママ。子ども達は、家庭の中で、パパやママを見て学び、日々育っているといっても過言ではありません。
 そんな子どもとの関係を、いろんな方向から捉え、考えてみましょう



仕事と子育ては違います

2012-12-05 09:36:36 | こまりん子、こまりんパパママ
 仕事と子育ては違う・・・そんな当たり前のこと、簡単なことに気づいていないママが急増しています ここ5、6年ですねえ、そういうお母様達が増えて、常に子育てに不安を感じていたり、子育てに自信を失って右往左往する・・・私は、苦笑をしているわけでも、嘲笑をしているわけでもないのです
 私はひたすら、そういうママ達をお気の毒だと思っているのです 今すぐにでもお目にかかって・・・
 「大丈夫 あなたは、ステキなママですよ あなたはこんなに頑張っているじゃないですか。今の子育てで大丈夫
 と、握手をし、ハグをし、励ましてあげたい 心からそう思っています

 ここ10年でどんどん増えてきている働くママ達、ワーキングマザー。そういうママ達が、子育てに不安を感じることが多いように思っています。そして、そういうママ達が、どうして子育てに不安を感じるか?という理由は、手に取るように理解できます

 ここで、仕事に関して考えてみましょう。
仕事の場合は、概ね、努力は報われます。仕事の大小に関わらず、計画的に仕事をし、そのパフォーマンスが自分の満足のいくものであれば、成果に結びつきますね
 多少、職場の人間関係等、仕事の成果に影響を及ぼすことはあっても、基本的には、自分の努力、自分の力量によって仕事は完成されていきます。
 ワーキングマザー達は、そういうご自分の確固たる経験が「自分のスタンダードの思考、感覚」になっているのですね。それは当然のことですね。
 ですから、知らず知らずのうちに、家事であっても、育児であっても、その感覚を引きずってしまうのでしょう

 でもね、子どもは「生き物」です。
血を分けた愛する我が子であっても、生まれたその瞬間から、子どもは「その子の道」を歩んでいます。そうである限り、たとえ幼くても、親の「思い通りにはいかない存在」なんですよー、残念ながら

 もっと言えば、「親の子育ての努力は、即効性を持って報われるものではない」という認識が必要です
子育てでの努力は、必要不可欠なものです。なぜなら、この世に産み落とした限り、親は我が子を立派な社会人になる卵として、一生懸命に育てる責任があります。じつは、この認識のない親はたくさんいます。「この子は私の子」という認識しかない親、です。(まっ、このことに関しては、また別の機会にお話をしましょう。)

 話を元に戻しましょうね。
仕事をするように、子育てはできません 仕事のときのように、子育てはすぐに効果は出ないもの、なのです なぜなら、相手は自分とは違い生き物であり、経験のない、超未熟な存在なのですから。

 でもね、仕事でそれなりの成功、成果を治めてきた(きている)ママ達の場合、たくさんのアンテナも持っていて、常に「我が子に良いこと、子育てに効果的なもの」をリサーチしています。たとえば・・・
  取引先のMさんが教えてくれた○○幼児教室は、東大脳を育てるってことよ。3歳では遅いんだって。
  職場の上司のSさんは、お嬢さんに1歳から○○っている英語教材を使っていたから、すでにネイティブみたいな発音なんだって。
  ネットで見た!毎日の読み聞かせは必須だって。どんなに大変でも、必ず毎晩、読み聞かせをしなくちゃ。
  ○○先生のリトミックは、知育の最高峰なんだって。すでに定員だから、ウェイティングリストにお願いした。
  おもちゃは、○○のおもちゃがいいのよ。世界中の高名な博士が頭を良くするために考案したものばかりを集めているの。 Etc. etc.

きっと、すべてウソではなく、本当のことでしょうね でもね、それらはあくまでも「情報のひとつ」であって、子育ての「切り札」ではないはず、です。
 ところが、知らず知らずのうちに「育児も私のパフォーマンスのひとつ。ヘマをしちゃいけない。最高の情報を集め、最高のものを施せば、我が子は最高になる」という自己暗示をかけてしまい、それに雁字搦めになって、思い通りにならないと腹を立てる・・・
 ここから先は2つのタイプに分かれます。ひとつは、思うような成果がでないと、子どもにあたってしまうタイプ。要するに、DV的要素のある対応を子どもにしてしまう母親、言葉の暴力に発展する母親です。
 そして、もう一方が最も多い「子育てに不安を感じる。自分の子育てが正しいのかどうか、常に悩む」という母親、です。

 もしあなたが我が子に、子育てにおける「最高のものと言われる100のもの」を与えたとしましょう
でも、たった「10」しか実らないこともありますよ。じゃあ、残りの「90」は無駄だったか?と問われれば、1年後に「10」、数年後に「10」の芽が出てくるかもしれません
 じゃあ、その残りの「70」は意味がなかったか?いいえ、そうではありません
あなたがもし、成果ばかりを求めるのではなく、深い深い愛情を持って、「100」のものを与えたとしたら、その「100」を与えている時のあなたは愛情に満ち、きっとお子様はその愛を感じ、幸せな時間を過ごしたはずです
 「愛情」母親の愛情ほど、尊いものはありません 子どもは知育教材でもなく、すごいおもちゃでもなく、何十冊の本でもなく、ママの愛情を受け、それを栄養にして、毎日、一瞬一瞬、心も身体も成長していっているのです

 正しい子育て?そんなものは、箇条書きにできるものではありません。
それに、そもそも「正しい子育て」とは、何でしょうか?
 たとえば・・・体罰はいけない、と言われて久しいですが、けれど、時には教育的見地からピシッとお尻をぶって教えないといけないこともあるはずですし、大声で叱ることは下品かもしれませんが、それが電車の中で道徳的に躾けなければならない時には、我が子に怒鳴る必要もあるでしょう。となれば、「正しい」と定義できる子育てなど、そもそも存在はしないはず、です

 もし、どうしても1つだけ「正しいこと」を伝えるとすれば、愛情を注いで育てること、これだけでしょう

 我が子に様々な「成果(ときには、成長、という言葉に置き換えられるかもしれません)」を求めて、無意識のうちに「give & takeの子育て」をしてしまっている自分に気づき、まずは、自分自身を救ってあげましょう そして、ゆったりとした気分で、子どもに相対してみませんか?

 人より早くオムツがとれなくても、
 教えたことをなかなか覚えなくても、
 買い与えた高級なおもちゃで遊んでくれなくても、
 読み聞かせに思うような反応をしなくても・・・ 

 いいでしょう?そうであって欲しい!それを求めているのは、あなたの「エゴ」かもしれません、そうではありませんか?
どうせオムツは取れるし 教えたことも覚えるでしょうし 本に興味を示すときも来るでしょう まあ、高級なこだわりおもちゃに関しては、子どもの好みではなかったかもしれませんが、ふふふ。

 見返りを求めず、子どもとの時間を、心底楽しみ・・・我が子の「小さな発見」に喜び、「小さな変化」に拍手する・・・そんな本当の意味での「豊かな子育て」をしてみませんか?