母娘クライシス、という言葉をご存知ですか?
まだまだ子どもが幼いと、なかなかこういう「深刻な親子の問題」は遠いもの、として、真剣に考えることはないかもしれません。
昨年末、NHKの番組、特報首都圏で「母娘クライシス」の問題が取り上げられ、今まで以上にこの言葉に関心を持つようになったお母様達が増えたことと思います。
極々簡単に言ってしまうと「母と娘の関係が上手くいかず、かなり深刻で修復不可能な溝になること」をこう呼びます。
「お母さんは・・・好きじゃないです」という程度の問題ではなく、娘が成長して大人になった時、肉親である母親と絶縁をしてしまう、というほどの深い問題、なんですね
昔から、DVのような問題が発生しなければ、母と息子の関係は比較的良好です 中高生になった息子に「うぜー 」とか「くそばばー 」と蔑まれた時、悲しいという感情は持っても、結構、母親は息子の暴言は受け止められ、いつまでも息子はかわいいと思う こういうことはよく耳にします。私の息子の中高時代、まわりには、このタイプのママ達が大勢いましたよ
しかしその一方で、幼稚園児である娘との関係に悩む母親・・・は、決して少なくはありません。娘が真剣に「ママが嫌いだから、おばあちゃまのところで暮らしたい」と言う、とか、母親への嫌がらせとも受け取られる娘の悪行、愚行に振り回され、平常心を保てなくなった母親とか・・・私のところに、こういう悩みを持ってご相談にいらっしゃる方は、毎年、2件や3件ではありません。
とにかく、娘達がティーンエイジャーになってくると、幼児期には平穏だった家庭でも、どんどん母と娘の関係は難しくなり、深刻になっていきます(じつは、父と息子の関係も難しいものですが、ここでは敢えて触れません)
母親は、娘がどんなに幼くても、同性であるがゆえに「こんな時、私なら〇〇するのに」とか「こんな場合には、私は絶対に△△しない 」と自分に重ね合わせ、心の中で娘の言動、行動を批判します。
なぜか「批判や避難」なのですよねえ・・・不思議と愛情に満ちた「アドバイス」ではないのです。そして大抵の場合、母親は表情も硬く、気づけば「非難」や「忠告」「文句や愚痴の類」として、母の口から娘に発せられます 当然、娘はムッとして・・・母親を無視するか、暴言を吐くか、睨むか・・・
息子の行動が理解不能であっても、「私は女だから、男の子のことは結局はわからなくて当然ね」と、あっさりギブアップをしたり、はたまた、涙を流して懇願したり・・・と、母親は息子相手には攻撃的にはならない場合が多いですねえ。
でも、相手が娘の場合には、最後の最後まで重箱の隅をつつくようなバトルになってしまう・・・
相手が誰であっても、こじれてしまった関係を修復することは、本当に難しいものです。
親子の関係の場合、本当の意味で「こじれた関係」というものは幼児期にまで遡り、すでにその時点でボタンの掛け違いをしていた、ということがほとんどです。そうなると、一朝一夕には、関係の改善はできません
こういう意味では、「母娘クライシス」の問題も、子どが幼いから遠い話題、として、ほおっておくことはできないのです。
2歳、3歳、4歳の毎日が、点となってつながり、それが線となって10歳、15歳、20歳・・・へと繋がっていくのですから
せっかくの機会です。
是非ぜひ、この話題を機に、一度ご自分のこととして考えてみてください
話題としては「母娘クライシス」を提供しましたが、ここでは、相手が娘ではなく、息子の場合でも同じように考えてみましょう。
あなたは「母親」「大人」「人生の先輩」「年長者」ということを振りかざし、息子や娘に多くを求めすぎていませんか?
自分が若い頃に間違ったことは、我が子には間違わせたくない!という思いで忠告をし、自分が上手くこなしたことは、自分と同じ道、同じ方法を強いていませんか?
無意識のうちに、自分のしえなかった夢を必死に我が子に託していたり、自分の過去の行いの自画自賛になっていたり・・・そんなことはないでしょうか?
そして、知らず知らずのうちに、目の前の我が子の姿を落ち着いて真剣に見ることをせず、今自分に向かって話している子どもの声を聞くことなく、「母親」や「愛情」という錦の御旗をかざして、子どもに接していないでしょうか?
子どもの心に寄り添うこと・・・美しい言葉、ですね
でも、決して簡単なことではありません。そして多くの親達は、「善」や「正」をシュプレヒコールのように繰り返し、子どもに覆いかぶさり、子どもを威嚇し、子どもに要求するのです。
確かに、「善」や「正」は大切です。教えなければなりません けれど、果たして「母として善」「父として善」でしょうか?
相手が幼児であっても、小学生であっても、真剣に子どもの言葉を聞こうとしているでしょうか?
頭ごなしに、この子は未熟なんだからと、子どもが口を開くたび眉間に皺をよせ、耳のシャッターを下ろして、自分が「善」として話す体制になっていないでしょうか?
子どもは、幼い頃からずっと、本当は両親、特に母親とは時間を共有し、同じものを見て、同じように美しいきれいだと共感しあい、優しい時間を過ごしたいと思っているのです
それなのに、そんな子どもが発信しているサインをスルーして、「善」や「正」を諭すだけの鬼ババアになってしまうのは、とってもとっても悲しいです
「私は善である」「母親は善であるべき」と勝手に自分を追い込み、そして自滅しそうになって子ども相手に怒鳴りまくる親・・・そんな親になるのは止めましょう。
優しい心で我が子を見る目・・・せっかく2つも目があるのですもの。耳だって2つ。せめてその1個ずつは、目の前の子どもを見る目、子どもの言葉を聞く耳にしてみませんか?
まだまだ子どもが幼いと、なかなかこういう「深刻な親子の問題」は遠いもの、として、真剣に考えることはないかもしれません。
昨年末、NHKの番組、特報首都圏で「母娘クライシス」の問題が取り上げられ、今まで以上にこの言葉に関心を持つようになったお母様達が増えたことと思います。
極々簡単に言ってしまうと「母と娘の関係が上手くいかず、かなり深刻で修復不可能な溝になること」をこう呼びます。
「お母さんは・・・好きじゃないです」という程度の問題ではなく、娘が成長して大人になった時、肉親である母親と絶縁をしてしまう、というほどの深い問題、なんですね
昔から、DVのような問題が発生しなければ、母と息子の関係は比較的良好です 中高生になった息子に「うぜー 」とか「くそばばー 」と蔑まれた時、悲しいという感情は持っても、結構、母親は息子の暴言は受け止められ、いつまでも息子はかわいいと思う こういうことはよく耳にします。私の息子の中高時代、まわりには、このタイプのママ達が大勢いましたよ
しかしその一方で、幼稚園児である娘との関係に悩む母親・・・は、決して少なくはありません。娘が真剣に「ママが嫌いだから、おばあちゃまのところで暮らしたい」と言う、とか、母親への嫌がらせとも受け取られる娘の悪行、愚行に振り回され、平常心を保てなくなった母親とか・・・私のところに、こういう悩みを持ってご相談にいらっしゃる方は、毎年、2件や3件ではありません。
とにかく、娘達がティーンエイジャーになってくると、幼児期には平穏だった家庭でも、どんどん母と娘の関係は難しくなり、深刻になっていきます(じつは、父と息子の関係も難しいものですが、ここでは敢えて触れません)
母親は、娘がどんなに幼くても、同性であるがゆえに「こんな時、私なら〇〇するのに」とか「こんな場合には、私は絶対に△△しない 」と自分に重ね合わせ、心の中で娘の言動、行動を批判します。
なぜか「批判や避難」なのですよねえ・・・不思議と愛情に満ちた「アドバイス」ではないのです。そして大抵の場合、母親は表情も硬く、気づけば「非難」や「忠告」「文句や愚痴の類」として、母の口から娘に発せられます 当然、娘はムッとして・・・母親を無視するか、暴言を吐くか、睨むか・・・
息子の行動が理解不能であっても、「私は女だから、男の子のことは結局はわからなくて当然ね」と、あっさりギブアップをしたり、はたまた、涙を流して懇願したり・・・と、母親は息子相手には攻撃的にはならない場合が多いですねえ。
でも、相手が娘の場合には、最後の最後まで重箱の隅をつつくようなバトルになってしまう・・・
相手が誰であっても、こじれてしまった関係を修復することは、本当に難しいものです。
親子の関係の場合、本当の意味で「こじれた関係」というものは幼児期にまで遡り、すでにその時点でボタンの掛け違いをしていた、ということがほとんどです。そうなると、一朝一夕には、関係の改善はできません
こういう意味では、「母娘クライシス」の問題も、子どが幼いから遠い話題、として、ほおっておくことはできないのです。
2歳、3歳、4歳の毎日が、点となってつながり、それが線となって10歳、15歳、20歳・・・へと繋がっていくのですから
せっかくの機会です。
是非ぜひ、この話題を機に、一度ご自分のこととして考えてみてください
話題としては「母娘クライシス」を提供しましたが、ここでは、相手が娘ではなく、息子の場合でも同じように考えてみましょう。
あなたは「母親」「大人」「人生の先輩」「年長者」ということを振りかざし、息子や娘に多くを求めすぎていませんか?
自分が若い頃に間違ったことは、我が子には間違わせたくない!という思いで忠告をし、自分が上手くこなしたことは、自分と同じ道、同じ方法を強いていませんか?
無意識のうちに、自分のしえなかった夢を必死に我が子に託していたり、自分の過去の行いの自画自賛になっていたり・・・そんなことはないでしょうか?
そして、知らず知らずのうちに、目の前の我が子の姿を落ち着いて真剣に見ることをせず、今自分に向かって話している子どもの声を聞くことなく、「母親」や「愛情」という錦の御旗をかざして、子どもに接していないでしょうか?
子どもの心に寄り添うこと・・・美しい言葉、ですね
でも、決して簡単なことではありません。そして多くの親達は、「善」や「正」をシュプレヒコールのように繰り返し、子どもに覆いかぶさり、子どもを威嚇し、子どもに要求するのです。
確かに、「善」や「正」は大切です。教えなければなりません けれど、果たして「母として善」「父として善」でしょうか?
相手が幼児であっても、小学生であっても、真剣に子どもの言葉を聞こうとしているでしょうか?
頭ごなしに、この子は未熟なんだからと、子どもが口を開くたび眉間に皺をよせ、耳のシャッターを下ろして、自分が「善」として話す体制になっていないでしょうか?
子どもは、幼い頃からずっと、本当は両親、特に母親とは時間を共有し、同じものを見て、同じように美しいきれいだと共感しあい、優しい時間を過ごしたいと思っているのです
それなのに、そんな子どもが発信しているサインをスルーして、「善」や「正」を諭すだけの鬼ババアになってしまうのは、とってもとっても悲しいです
「私は善である」「母親は善であるべき」と勝手に自分を追い込み、そして自滅しそうになって子ども相手に怒鳴りまくる親・・・そんな親になるのは止めましょう。
優しい心で我が子を見る目・・・せっかく2つも目があるのですもの。耳だって2つ。せめてその1個ずつは、目の前の子どもを見る目、子どもの言葉を聞く耳にしてみませんか?