良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

日本語、通じません?

2008-05-17 23:22:25 | こまりん子、こまりんパパママ
 昨日、私はスポーツクラブで、ピラティスのレッスンを受けました。身体のかたい私にとって、ヨガやピラティスは苦手で、ストレッチ系のレッスンは自発的に受けることはありませんでした
 しかし、健康的に見えながら、実際には何だかんだと投薬治療を受けなければならなかった、体内脂肪率が信じがたいほど高かった私は、最近では、親切な女医の友人のアドバイスを100%受け入れ、本物の健康体を目指すために、苦手なクラスも受けるようにしています
 まあ、何事も真剣にやってみると、なかなかおもしろく、今でも身体はたかいままですが、楽しくレッスンを受けています

 そう、そのピラティスです
すでにご存知の方も多いかもしれませんが、ピラティスには、「○○のようにするから、△△になる・・・」というような、しっかりとした理屈があります。ヨガも同じですね
 もちろん、どんな運動にも理屈はありますね。テニスでもゴルフでも、フォームやスイングによって飛距離が違ったり、コースが違ったりします
 しかし、特に「根性も勢い」も関係のない、こういうピラティスやヨガのような「静のスポーツ」では、そのメカニズムを理解して、正確にそのメカニズム、道理の通りに動くことによって、初めて大きな効果が得られる、というものです (その点、『動のスポーツ』の場合。たとえば、少々走り方が悪くても、とにかく、走ってしまえば、エネルギーを使い、カロリーは消費され、上手くいけば脂肪も燃焼します。やれば、まあ、効果はある、わけですね)
 だからこそ、先生は、ご自分でその動きをされながらも、一生懸命にお話になり、その道理、その効果を話されます
 「そうそう・・・右の脇をしっかりと伸ばしましょう 身体を前に屈めたり、反ったりしては効果はありませんよ・・・そう、右手を、左の遠く・・・遠くに伸ばしてください・・・そうです。そうすれば、右の脇が伸びて、そのことによって背中の筋肉も・・・・」というように、話されます。
 私は、先生や体の柔らかい方のように、上手に、格好よくできなくても、自分の稼動範囲にちょっと苦しいかな、と感じる程度の「がんばり」をプラスすると、本当に先生のおっしゃるように、「伸びたり」「気持ちよくすっきりしたり」するものです。なるほどなあ・・・と思います

 ところが、昨日私は、おもしろいことを発見したのです。
5,6人でレッスンを受けていたのですが、一人、20代のお嬢さんが、全く先生のおっしゃる動きをしないのです
 いや、先生の言うことを意図的に無視し、反抗しているわけではありません。身体も柔らかいですし、お若いですから、動きがしなやかです
 しかし とにかく、我流というか、好き勝手、というか・・・動きやポーズが、ことごとく先生のおっしゃっているものとは違う・・・
 ですから、先生は、必ず立っていって、一人一人の動きに手を貸し、教えられるときには、その若いお嬢さんのところではかなりの時間をとって、一つ一つの動きを直されます ご本人も、決してそれはお嫌ではないようです。
 
 最初、私はこのお嬢さんのことを、スポーツクラブにありがちな「勘違いさん」かと思ったのでした 「私はベテランなのよ、私はかなりできるのよ」ということをアピールしたいために、妙に張り切って動いたり、目立った動きを見せてしまう方・・・おいでになりますよね
 でも、彼女はそういう感じとは違いました。決してしゃかりきで頑張って「見せて」いるわけではありませんし、先生が直されることを「はい!はい!」と素直にお聞きになり、笑顔で直していらっしゃいます

 そんなお嬢さんを観察していて・・・私は気づいたのでした
このお嬢さんは、張り切る勘違いさんではなく、単に「先生の言葉が理解できない人」だったのです
 その理由・・・この方はじつは外国人だった、という訳ではありませんし、先生が片言の日本語しか話せない、というわけでもありません。お二人とも、れっきとした日本人の方です。
 けれど、残念なことに、どうもこのお嬢さんは、先生がお話しになるひと言ひと言が聞けない・・・理解できない・・・らしい
 たぶん、小さい頃から、「しっかりと話を聞き、理解する」という習慣がなかったのでしょう・・・少なくとも、親やまわりの大人から、「じっくりと聞き、理解をする重要性」を教えられることなく成長し、幸いなことに、今までのところ大きな失敗もなく、平穏に暮らしてきたのでしょうね

 それから彼女を観察していると、先生の最初のひと言を聞くと「はいはい、わかった」というような様子で、さっさと自分流の行動に移ってしまいます。
 そして、その行動が、先生が指示されたものとピタリと合っているかどうか?ということもあまり気にならない様子で、ひたすら、自分に心地よい状態で、「なーんちゃってピラティス」に甘んじていらっしゃるのでしょう

 先生が、わざわざその方のほうを見て・・・
 「どうぞ、勝手な動きはしないでくださいね。ピラティスには、一つ一つの動きに意味があり、それを正確にすることで、効果が出てくるのですからね。無理せず、じわじわとやっていけばよいのですよ。とにかく、勝手な動きをしても、全く意味はありませんからね
 と、何度も何度もにこやかに話されます。しかし、このお嬢さんは、「じつは、先生は私に言っているのだ・・・」と察することもないようでした

 「人の話を落ち着いて、正確に聞けない」ということは、生きていく上での致命傷にもなりかねません。
  人の言葉を正確に聞けなかったために、相手を誤解したり、相手に誤解されたり・・・
  人の言葉を正確に聞けなかったために、理解が中途半端でトンチンカンな行動をしたり・・・
  人の言葉を正確に聞けなかったために、身に危険が及ぶことがあるかもしれない・・・

 このピラティスの場合は、あくまで趣味であって、間違った行動、ポーズをしたところで、誰に迷惑をかけるのでもなく(先生は、明らかにイライラとなさっていますが・・・)、大きな問題にはなりません。
 しかし、この若い女性が「人の話を正確に聞けない」ままでお仕事をしたり、主婦業、母業をしたとしたら???きっと、職場では上司や同僚、後輩に迷惑をかけることもあるでしょうし、顰蹙を買うことも頻繁に起こるでしょう
 主婦業、母業では、他愛ないおつきあいではあっても、言葉は不可欠です。相手の話を正しい理解力をもって聞き、そして、相手に伝わるように言葉を選びながら話す・・・これが、大切でしょうね

 今の子ども達は、「話す」ことも「聞く」ことも下手です。
少ない語彙、貧弱な表現力、言語力しかないために、話した相手が自分の言葉を理解してくれない、ということもしばしば。そうなると、「こんなに自分は必死に伝えようとしているのに、相手が理解してくれない」と、相手のせいにして、癇癪を起こす子どもは多いものです
 また「聞く力」も低いので、少し難しい表現を使われてしまうと、たちまち意味がわからず、お手上げ状態に陥ります

 将来、みなさんのお子様方がスポーツクラブでピラティスをするかどうかはわかりませんが、やはり、人の話をしっかりと聞き、正確に理解し、行動に移す・・・これだけの能力は、最低限備えてあげなければならないでしょうね

調子に乗っちゃ、ダメですね・・・

2008-05-10 22:04:26 | 良い子、良い親!
 そう、私の「ランニング」です
例のパラカップ以来、すっかり私は「一人前のランナーのつもり」になり、ネットでも、頻繁に「10キロラン」でエントリーできるマラソン大会を探していました
 基本的に、暑くなるこれからは、ランニングの大会には相応しい季節ではないため、よほどの寒冷地、避暑地でなければ夏場には大会はありません。次のシーズンは、季候の良い秋でしょうね
 そんなことがわかっていながら・・・やっぱり、私はあの「大会の興奮」が病みつきになり、あともう1回だけでも、大会で「10キロ」を走ってみたい、と考えていました

 5月3日、私は夕方から大阪に向かいました。大阪で一人暮らしをしている主人の母の81歳のお誕生日をお祝いするためです その夜は、母のリクエストに応えて、京料理のお料理屋さんでお祝いの夕食。その後は、そのお店から近いところに暮らしている私の両親のマンションに立ち寄り、みんなでお祝いのケーキを食べました

 そして翌日。私は、朝から前回に帰省をした時に買いそろえた「実家用」のランニングウエアに着替え、いそいそと一人でランニングに出かけました 自分のペースで走り、約15分で実家のお墓のあるお寺に到着。
知恵袋の夫の母から、常々「どんなお参りでも、~のついでに、というお参りは良くないのよ お参りをする時には、それを目的とし、他のことを一緒にするのは控えなさい お参りをする対象のものに、それは失礼というものですからね」と教えてもらっていながら、今回はまさに究極のついで参り 汗をダラダラとながしたまま、ランニングの出で立ちで、私はご先祖様の前で手を合わせ、非礼を詫びながらも墓参を済ませました
その後も大阪の街中を走り、1時間弱で帰宅しました。

 その翌日。
今度は、夫と一緒に走りました あいにく、小雨がパラパラと降りだしましたが、この日は墓参ではなく「天満の天神さん(てんまのてんじんさん)」と大阪人が呼んでいる大阪天満宮まで走り、夫と二人、また汗ダラダラで二礼二拍手一礼・・・でお参り この日も、約1時間を走りました。
 その日の夜に、夫も私も、横浜に戻りました

 さて、またその翌日、5月6日です。
この日は、すでに主人のトライアスロンのお仲間とのお約束で、多摩川でランニング練習をすることになっていて、もちろん私も同行。「ああ、パラカップのあの日、多摩川では快調に走ったよなあ・・・」そんなことを思いながら、夫の友人達と一緒に走り出しました
 しかし
明らかに「自分のスピード」ではありません。
私が楽に、気持ち良く走られるスピードは、1キロ7分~7分10秒。しかし、この日の最初の1キロは6分。たった1分間、と思われるかもしれませんが、1分間は、結構長いものですよ
 次の1キロも、6分10秒・・・一緒に話ながら走っていても、相手の女性は息があがっていないのに対し、私は明らかに、「ハーハー」の状態で話ながら走っています
 さすがに足のどこかの筋肉が痛いとか、膝が痛いとかではありませんが、明らかに、このペースで残りの7キロを走ることは無理だと判断しました
 3キロを過ぎたあたりで、ご一緒していた方に「どうぞどうぞお先にいらしてください。私にとってこのペースは、かなり速いペースなので、後からゆっくり行きます!」とお声をかけました。
 みるみるうちに、その方の背中は遠く・・・小さくなっていきました

 私は4キロまで走り、くるりとUターンし、走り出しました
 来た時、往路での強い向かい風は弱まっていました。遠くで、こいのぼりが悠々と泳いでいました 河岸の花々が風に揺れ、さわさわと鳴っていました
 次の1キロ標識のところで時計を見ると、ラップは7分10秒でした。自然に、気持ち良いと感じる速さで走っていたら、まさに、それが私の「スピード」でした

 何だか、私はとっても恥ずかしくなりました 私はまさに、調子に乗っていたのです

 ランニングを始めて6ヶ月あまり・・・最初は、1キロ走るだけで気分は滅入り、実際に足のあちこちが痛くなりました。
 夫のアドバイス通り、ランニングを終えた後は、氷水で膝のアイシングを十分にしました。それでも、その日の夕方に買い物に行くと、階段を降りる時には、膝が痛くて上手く降りられませんでした。ふくらはぎなどもパンパンに張っていました
 そんな情けない状態だった私が、次第に走ることに慣れ、「楽しい」とまで感じられるようになり、心肺機能も高まり、脚力もついてきました そんな頃に、パラカップがあったのでした。

 実際、パラカップの記録を計算してみると、1キロ平均6分30秒で走っていることになります。以前にも書いたように、それは「火事場のバカ力」的要素が高く、決して自分の実力にはなっていないのです
 そのことを、自分では十分に認識している、と思っていながら・・・本当は、こっそり、心の中で・・・
 「まあ、1キロ7分弱・・・ってところ、なんだろうな、実力は。ははは、さてさて、次の10キロのレースでは、1時間を切ることも夢じゃない、かもね
 などと考えていた・・・のですよ

 私は、自分の身のまわりに起こることすべてを敏感に感じ、しっかりと受け止め、それらから、いろいろなことを考えるようにしています
 今回の「3日目は、10キロを走りきれませんでした事件」も、決して私の「ランニング」の話としてだけではなく、そのことから、もっともっと多くを学ぼうと思っています

 この日、私は他のメンバーから離れ、一人で来た道を自分のペースで戻りながら、「どんなことでも、きっと『自らのベストのペースを知り、そのペースを守ることこそ、成功の秘訣』ではないかな?」と感じていました

 きっと、対子ども、でも同じことだと思います。
歩くときも・・・走る時も・・・ピアノのお稽古も・・・お勉強も・・・
 必ずその子にとっての「ベストのペース」があるはずです
 親は、まずはその「我が子のベストのペース」を知ることでしょう お隣の○○ちゃんのペースが「2」だから、うちでは「3」を求めてやろう、というような軽薄な判断は、必ずあとで、親子に歪みと不協和音を生じるでしょう 反対に、うちの子はゆっくりペースで成長しているのだから、「4」や「5」を求めず、「2」にしておこう、という決定も、反対の意味でも親の身勝手な言い分ですね

 親が我が子のベストペースを知り、そして、決して急かさず、着実な次の1歩へとリードする・・・ なかなか、これはむずかしいようですね。
 でも、どうぞ実践してみてください。親は子どものリーダーです

 私が、ランニングを楽しめるようになったのは、身近なところで、正しいリードをしてくれた私のプライベートコーチである「夫」がいたからです
 夫は、決して私に無理を強いず、ちょっと足に違和感がある、と申告すると、決めた距離を走りきっていなくても、あっさりと途中で走るのを止めさせました。
 そして、「今日のランだけでも、間違いなく足も膝も強くなっているよ。次の機会には、もっと走られるようになっているよ」と励まし、ラン後のストレッチやアイシングを教えてくれました。
 そしてひたすら、走れるようになった時の喜び、嬉しさ、楽しさについて語り、新しく拓ける世界の素晴らしさを話してくれました
 確かに、ランニングとは「走る」ことですが、筋肉を動かして「走る」という行為を黙々とやっていくのではなく、単なる運動としてのランニングには終わらない、「走ること、から生まれるさまざまなステキなこと」を教えてくれました
 
 きっとこれは、受験勉強等に置き換えれば、「合格のためだけの受験勉強」というのではない、もっと価値のある、広がっていく有意義なものを教えてくれた、ということだったでしょうね

 私達大人は、子どもの達の成長のため、たくさんの「見極め」が必要ですね・・・