良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

ポプラディア サムズの記事

2007-12-29 13:02:06 | すてきパパママにご提案
 12月18日にポプラ社から発売された「ポプラディア サムズ」という雑誌に、私の書いた短い文章が掲載されています 
 内容は、日曜日にごろごろと寝ているお父さんに、「そのままの、素顔のお父さんでいいのですよ」というもの。実際には、ごろ寝を奨励しているのではなく、もっと別のところにポイントはあるのですが、私の書く文章としては、ちょっと意外?と思われるものかもしれません

 最近では、「父親も積極的に子育てに参加すべき」「父親が子育てに熱心な家庭に、賢い子どもが育つ」というコンセプトの雑誌が多くなりました。
 それが良いとか悪いとか論じたいわけではなく、「これ系」の雑誌を読んでいると、ある意味では露骨に、今までは育児から遠かった父親を煽ることで、急に社会派の父親が登場し、我が子の中学受験や、勉強への姿勢に喝を入れる・・・というストーリーが見えてきます
 きっと父親は、そういう雑誌の特集記事を読み、「父」という立場よりも、企業や社会の中での自分の姿をそこに重ね、あらためて我が子に「もっともっと」とか、「うん 自分の人生はやはり間違っていないぞ」のような思いを持って、意気込んで子どもに関わることになるでしょう。
 しかし、こういう性質での父親の関わり方は、すべてが好循環を生めば万事ハッピーに展開し、素敵なドラマになりますが・・・残念ながら、往々にして、子どもの反発をかい 父親の意気込みは空回りし 悪循環を招かないとも限らない・・・

 父親の気持ちが伝わらない、愛情のつもりの叱咤激励が子どもに受け入れられない・・・これは父親が一生懸命だったり、一念発起しての行動だったりするからこそ、悲劇であり、泣き笑いの喜劇でもあります

 こんな私の思いもあり、それこそ、前回のブログにも書いた「発想の転換、視点を変える」ように、「自然体のパパこそ素敵」と語ろうと思い、この原稿をお引き受けしたのでした

 あの後、サムズを読んでくださった生徒や卒業生のお母様方から、こんな内容のメールを頂戴したので、少しご紹介させてください

 ママ 1
 銀行員だった私の父は、朝起きるともう家には居らず、帰宅は私達子どもが寝てしまったあと。そんな、絵に描いたようなモーレツ社員でした。
 休日は、社内でのコミュニケーションをとる為に部下を連れて出かけたり、接待ゴルフだったり・・・。
 一般に言う家庭サービスとは程遠く、どうしても子ども達にとっては、父親は遠い存在でした。
 そんな家族を守るために一生懸命に働いてくれている父を思い、お給料日には母子揃って父を出迎え、「お給料をうやうやしく頂く」という儀式を、母は必ず毎月やっていました。子ども心に、この儀式は、父の尊厳を感じる時間でした。そこまでではありませんが、私も上の子の時には、心掛けて儀式をやっていたのですが、最近ではお給料も振込みなのでサボっていました・・・
 もう一度、考えなくてはなりませんね

 ママ 2
「お父さん」は、やっぱり本当に大変ですよね。
私の父は夜勤もある仕事をしていた為、昼間に寝ている、という事も頻繁にありました。
小学校の1、2年生の頃でしょうか。私は父に 「お父さんはお仕事でどんな事してるの?」 と聞いた時の事をはっきり覚えています。
 父が私の質問に、一生懸命に話してくれた姿・・・それを聞いた時の私の気持ち・・・先生のあの文章を読んでいて思い出しました。
 そして、父が昼間に寝ている時、母がいつも私達に・・・
 「お父さんはね、あなた達子供の為に、みんなが寝ている夜もお仕事をしてくれているのよ。みんなが美味しいご飯を食べられるのも、学校に行けるのも、このお家に住めるのも、ぜーんぶお父さんのお陰。夜にお仕事をして、朝帰って来て疲れていらっしゃるのだから、そーっとお父さんを寝かせてあげてね。」
 と言っていた母のことも思い出しました。
 そんな母のお陰でしょう。私は、小さな頃から、自分の父親のことを、ゴロゴロパパと思った事は一度もありません。
 母の役目・・・とても大事ですね。だから私も、子供達にはいつもお父さんの事をいーっぱい話しています。
最近では、疲れて昼寝しているお父さんを気遣って、まだまだ小さな我が家の子ども達が「しーっ!静かに」なんて言うようにもなりました。 小さな子たちのやりとりは本当に可愛いです

 私はこのお二人からのそれぞれのメールを読み、すばらしいご家庭に育たれたのだなあ・・・と胸が熱くなりました
 とかく、今のお母様方は、幼い子どもを相手に、「パパの悪口」をおっしゃいます。
 それを聞いてママを批判したり、違った自分の意見を蕩々と述べる年齢になっていない子ども達は、ママ族にとっては、恰好の「愚痴相手」なんですねえ・・・それも十分に理解できます

  でもね、お父さんが出勤をなさる時、いってらっしゃい!と頭を下げるよりも先に・・・
 「パパ、今日は○曜日だから、ゴミ、出しといてね!あっ、無精しないで、ちゃんとネットの中にね。カラスが来るんだから・・・」
 と言い、パパは両手にゴミ袋という姿で玄関を出ます。子どもは、どんなことを思って、パパを見送るのでしょう?それとも、子どもは玄関まで、パパを見送らない?

  「今夜は早いから、うちでご飯を食べられるよ!」と言って出たパパ。ママはいつもは先に済ませる夕食を、子どもも待たせ、少しうれしい気分で食卓を整えます。そこにパパからのメール。「やっぱり帰れない。付き合いがある。遅くなる」ママはがっかり・・・でも、がっかり気分はほんの10秒程度で、あとは我が子相手に、機関銃のようにパパの悪口。「ねえ、パパったら、いつもそうなんだから。ねえ、あなたもそう思うでしょう?今日はみんなで夕食しようっていったのに、この間も残業だとか言って、結局は食べられなかったじゃないね。パパは、ほんと、ウソつきなんだから。さ、もう食べましょ!パパの好きなもの作ったげたのに、バカみたい!」
 こんな言葉をシャワーのように浴びた子どもは、当然思います・・・ママ、一生懸命にご飯を作ったのに、パパはお約束を守らない、ウソつきだから・・・ママがかわいそう・・・
でも、そうでしょうか?

  日曜日、掃除機をかけるママ。
「もう、パパ、邪魔だってばー。そこに寝っころがらないでよー。掃除機かけられないじゃーん!」そう言って、掃除機の先でパパの背中をゴンゴン。これを見ている子どもは、どんなことを思うでしょうね

 パパがゴミ捨てをすることも、お料理をすることも、お掃除をすることも、とっても素敵なことだと思います
 会社の中でしか力を発揮できず、家事は何もできない、というパパよりも、すごく素敵だと思います
 でも、やっぱり、ママの言葉、ママの態度はとっても大切だと思うのです
 幼い子どもにとって、母親の存在は大きいもの。そのお母様の言葉や態度は、そのままで「肯定され」て、子どもの中に「正しいもの」として植え付けられるのですからね。

 私がいつも考えていること。「言葉足らずは、心足らず」です
すべてのことを見る目、感じる目、それはすべて「心」に通じています

 子どもにとって、一番身近で、一番大きな存在であるお母様。そのママの心の豊かさが、そのままで子どもの豊かさとして反映していくのですね

 どうぞ、今年一年のさまざまなことを振り返り、母として、妻として、人として、あなたの1年がどんな毎日であったかを、じっくりと考える時間も持ってくださいね
 そして、来るべき2008年も、みなさまにとって、ご家族にとって、実り多い、素敵な年となりますように、心よりお祈りしております

 今年のブログは、きっと今日は最後でしょう。
今年も読んでくださり、本当にありがとうございました。来年も、みなさんの「考えるチャンス」となる何かを提供できるよう、一生懸命に書いていきたいと思います
 
 どうぞ、みなさま、良いお年をお迎えください


前進!前へ進め!

2007-12-24 14:29:14 | すてきパパママにご提案
 先日、クリスマスイルミネーションに彩られた有楽町界隈、丸の内のブランドストリート、皇居3分の1周・・・を、女性ばかり25名ほどで走ってきました
 スタートは、10月にオープンしたばかりの「有楽店イトシア」。
ここは、プランタン銀座、マロニエストリートに続いて、「変貌する銀座」の最後の切り札として登場した商業施設です。ここのメインになっているのがデパートのマルイ
 今回のランニングは、そのマルイのスポーツ関連部門「フィールド」が企画した、女性のための「ライトランニング」で、トライアスロンのコーチが、正しい走り方、有酸素運動(LSD(long, slow, distance ゆっくりと長い距離を走る)の大切さについて簡単な講義をし、そのあとでランニング、そして、走り終わったあとは、いつも長蛇の列でなかなか手に入らない幻の?!クリスピークリームのドーナツを懇親会で食べるというオマケつきの企画でした。

 フィールドのスタッフジャンパーの方7,8名と、防寒を考えたランニングウエア姿の女性がわらわら・・・有楽町駅前をスタートすると、みるみるうちに好奇の目 ビックカメラ本店前を通り過ぎ、丸の内界隈に入り、ちょっと道が広くなったあたりで10分弱のストレッチ もうこの時点では、ランナー達は見られることに慣れっこになって、すこぶる真面目にストレッチと準備運動。体はポカポカと温かくなってきました

 さあ、いよいよランニング開始。
通行人の邪魔にならないように、3グループに分かれて、時間差でスタート。ここ5,6年ですっかりブランドストリートに変貌した丸の内のビジネスビルの1階店舗。1キロ8分程度(時速7.5キロ)というゆっくりのLSDスピードでは、店内の様子もうかがえます
 ハアハア、ゼーゼーするようなスピードでは、有酸素運動にはなりませんよ、というコーチの教えを守り、おとなりを走る人に「わあー、このお店、きれいですねえ」とか、「ほら、あっちのお店、おしゃれー」などと、十分にお話しができます。
 今年オープンした新丸ビルの横を走り、ライトアップされた東京駅を遠望し、さらに華やかな通りを走ります
 この頃になると、体も温まり、走ることに足も慣れてきて、気分はハイになっていきました。走り始めて20数分・・・
 スポーツクラブのランニングマシーンの上や、ご近所の住宅街を走っているのでは、この「華やかな気分」は味わえません
クリスマス前の、町全体がウキウキした気分に浮かれ、イルミネーションでキラキラしている時期だからこそ、味わえる高揚感かもしれませんね ランニングに特有の、「走り出したとたんに、止めたくなる気分」はやってきませんでした。

 走る、という行為は同じであり、体への負担という意味での運動量は同じなのに、それに取り組む気分、シチュエーションが違うと、こうも楽に、楽しく走ることができるのですねえ・・・

 時間にして、45分くらいだったでしょうか。
ナイトランニングは、武道館で折り返し、九段下あたりで無事に終了しました。シャワーをして、着替えを終えたその日のメンバー達は、興奮冷めやらず、いつまでも「楽しかった」「素敵だった」と話が盛り上がり、名残惜しい思いで別れました。

 先日、「視点を変える」という内容のブログを書きました。
今回は、その第2段。「視点を変える」に加えて、「発想の転換」とでも言うのでしょうか

 子育ては、時間の拘束の長い、すぐに効果の現れない、長い長い挑戦・・・ですね
 相手は生き物ですから、反応も千差万別。決して、育児書に書いた通りの効果や、先生からのアドバイス通りにいく、とは限りません そのたびに、親はショックを受け、傷つき、「ああ、こんなはずではない・・・」と嘆くのです。

 けれどね、それこそ、相手が「生き物」である限り、それが当然のこと。親としてはベストの対応をしたとしても、相手である子どもに意志と個性がある限り、反応は「概ね」育児書通りであったとしても、効果のほどは同列、同質、にならないのが当たり前。
 子どもを育てている間は、常に、「視点を変えること」と「発想の転換」が親に要求されているのです。この二つを上手にやっていかない限り、自分で自分の首を絞めることになりますよ

 さっき、私はランニングに関して、こう書きました。
 『走る、という行為は同じであり、体への負担という意味での運動量は同じなのに、それに取り組む気分、シチュエーションが違うと、こうも楽に、楽しく走ることができるのですねえ・・・』
 この部分・・・ふかーく捉えてくださったでしょうか?
これは、決してランニングだけに言えることではありません。案外、どんなことにも置き換えられるのでは?と思うのですよ

 たとえば子育て・・・
『子どもに接する、という行為は同じであり、体への負担という意味での運動量、割く時間は同じなのに、それに取り組む時の親の気分、シチュエーション(作り)が違うと、こうも楽に、楽しく子どもに接することができるのですねえ・・・』
 そうです、発想の転換です

 こんなことも言えますよ。
昔、私の息子が中学受験のための塾通いをしているときのことです。あれは、確か4年生のカリキュラムが始まったばかりの、小学3年生の3月頃、だったでしょうか
 私はまだまだその状況に慣れず(たぶん、息子はすでに自分のライフスタイルの中に上手に組み込んでいた、と思えました)、学校から帰ってきて休憩する間もなく、小学校の制服を着たままで、テストを受けるために塾の入り口に消えていく息子の後ろ姿を見送りました。私は、とても可哀想に思えたのでした
 行ってきますと嫌がりもせず、口におやつをほおばったままで、さっさと入り口に向かう息子・・・
 「これからテストに行くんでしょ なんで、そんなにさっさと行けるの?どうして行ってきます!なんて元気に言っていけるの・・・」私は、自分で送っていっておきながら、ウジウジと考えました
 でもね、ある時から、全然別の発想をしたのです。

 私が「可哀想だ・・・」と思っている限り、彼は可哀想なヒーローでしかあり得ない。
 でも、どうせ家でいたって、なんだかんだとしているうちに時間ばかりが過ぎ、大したこともしていないのに、一日が終わっていく・・・
 それならば、少なくとも彼は、同年代の子ども達と、同じ方向を向いて歩んでいこうしている仲間達と切磋琢磨し、教えることがプロのとっても素敵な先生方の指導のもと、彼の若くて柔らかい脳みそは、音をたてて働き、一瞬一瞬、脳のシワシワが増えていくんだ

 そう思うと、私は「いってらっしゃい がんばって!きゃー、あなたは、また帰って来るときには、今よりもっともっと賢くなっちゃってるんだあ」と心底思えて、満面の笑顔で送り出せました。
 息子だって、くらーい、陰気くさーい母親の顔を見て塾に行くよりも、笑顔で送り出されるほうが、どんなにか幸せな気分か

 話を元にもどして、子育てでも同じです。
子どもの相手をするのは大変 子どもはちっとも言うことを聞かない 頑張っているのに、ちっとも成果が感じられない
 そんなネガティブな思い、マイナスの「気」で子どもに接していると、子どもだってうれしくはありません。

  子どもを相手にするのは大変・・・そうそう、あなただって、昔は「大変」と思われる側の存在だったんですよ 

  子どもはちっとも言うことを聞かない・・・聞かせようとしているあなたのほうに、何か焦りがあるのではありませんか?そのことは、まさに今、聞かせないと身に危険のあることですか?誰かに多大な迷惑をかけること、でしょうか?もし、そうでなければ、「言うことを聞かせたい!」と思っているあなたの、ある意味、自我、ではありませんか?
  頑張っているのに、ちっとも成果が感じられない・・・あなたが望んでいるような、劇的な変化として現れる成果はないかもしれないけれど、本当に成果は「0」でしょうか?ピュアな感覚、子どもを受け入れてやろうという、柔らかい心で我が子を見てあげれば、きっと、小さな成果はあるのではありませんか?頑張っているから成果として実ってほしいのではなく、本当は、がんばっているあなたに、誰かから労いの言葉が欲しいのではありませんか?

 子育て真っ最中のみなさんが、ナイトランニングに参加できる、とは思えません
 先生は、そんなに楽しい、有意義な時間が持てるから、そんな「発想の転換」なんて、カッコイイことが言えるんです。私達には、そんなことは出来ないもの・・・
 そんな文句の声が聞こえてきそうですね。確かに、みなさんは、「今は」私と同じことは出来ないでしょう。それはよくよくわかりますよ だって、私だって、15年前、10年前は、みなさんと同じ立場、にいたのですからね。
 それこそ、この時期、クリスマスプレゼントを買うために、私は上の子の手を引き、下の子をおんぶして、ママコートを着て電車に乗り(当時、ベビーカーには市民権はなく、ベビーカーに乗せたままで電車に乗り込む、という行為は想像もできませんでした。ですから、小さな子どもを連れて電車に乗るためには、抱っこをするか、おんぶをするか、しか選択肢はなかったのです。私がおんぶを好んでしたのは、両手が空き、前が見えやすいおんぶのほうが、幼い二人のわが子の世話をするには好都合だったからです)、横浜のデパートを歩きました
 想像できますか?格好悪いことがきらいな私が、です。おんぶにママコート、ですよ。でも、当時は、私は子どものためには、それが定番でした

 発想の転換は、あくまで「気分の問題」です。
何か、別の奇異なことをすることが、発想の転換、ではありません

 どうぞ、一度だまされたと思って・・・
「視点を変えて物事を見る」「発想の転換をする」をしてみてください。きっと、迷路の中にいるあなたに、暗い谷間にいるあなたに、たとえそれが細くても、光明が見えてくるはずです
 母親という生き物は、案外、「悲劇のヒロイン」でいることが好きなものです。「私って、かわいそう・・・」と思っていることで、自分を癒していることがあるのですね
 でも、ずっとそうしていては、母親も、子どもも、進歩はありません。

 前進 前進 前へーーーー、進め

見方を変えてみたら・・・

2007-12-12 14:58:15 | つぶやき
 私の月一帰省・・・どんなに慌ただしい時も、忙しい時も、絶対にスキップせず実行します
 すでにブログの中で何度も書いていますが、私の父はパーキンソン病を患い、すでに40年近くになります。幸い、進行がゆっくりで、今も寝たきりの状態にはなっていません。神経系の命令の伝達が上手くいかない、という病気。歩こう、とか、手を動かそう、という意志があっても、気持ちとは裏腹に筋肉は意志の通りに動こうとはしない・・・にも関わらず、まったく意志とは関係なく、手や足が痙攣したりしてしまう・・・
 この病気は、プロボクサーのモハメッド・アリや、バックトゥーザフューチャーというハリウッド映画で主役を演じたマイケル・J・フォックスが患っていることで、比較的社会の認識を得ている原因不明の難病です。

 現在、私の父はほとんどが車椅子での生活です。残念なことに、言語障害も出てきているために、自分の意志がスムーズに伝達できません。
 そんな状況の中、昭和の典型的な頑固オヤジで、万事自分の思いとおりにならないと怒鳴り散らし、母と娘の私は小さくなって暮らしていた・・・という生活でしたから、自分の思い通りにならないことばかりの生活を余儀なくされた父は、それでも他人の手伝いは気に入らず、好むと好まざるとに関わらず、結果的に、自分の狭い世界の中で生きていくことになっています

 原因不明の難病は、この世に本当にたくさんあります。
原因がわからないために、治療の方法も決定的なものではなく、進行を止めることができなかったり、原因がわかっても、完治のための治療方法がなく、命の危険性と隣り合わせ・・・という患者さん達も少なくありません
 
 私が頻繁に、ブログの中で父の病気に触れるのは、どんなにマスコミで多く取り上げられても、なかなか身近に感じることのないさまざまな病気を、「知っている人のお父様の病気」として詳しく症状やその生活について読むことで、ほんの一時でも、「感じ、考える時間」にしていただき、本当の意味で難病について「知って」もらいたいな、という思いからです

 昔、マザーテレサが、愛情の対極にあるのは、無関心だ、と話されましたが、直接、何も「そのマイナス」に関わることはできなくても、知らない、というのと、知っている、というのとでは大きな違いがあるな、と考えています

 私と両親のケースでは、問題はむしろ介護をする側である母のこと、です。
父には申し訳ありませんが、医療面での治療、生活環境等では、たぶん、多くの患者さんの中でも、恵まれている環境(難病の患者から言えば、恵まれているも恵まれていないもないのかもしれませんが)にいるでしょう。
 もちろん、私達の考えるもっともっと父にとって居心地が良いであろう、と思えるさまざまな介護方法がありますが、患者である父がそれを拒否すれば、きっとそれは父にとっては苦痛以外の何ものでもありません ですから、現在の父の状況は、ある意味、ベストの環境での生活です

 それを思うと・・・私の帰省の一番の目的は、じつは母への親孝行、かもしれません
 母も70代半ばを過ぎ、何度も同じ話を繰り返す、とか、私が話したことを中途半端にしか聞いていない、というような老化がありますが、介護で気を遣い、睡眠時間も短い過酷な生活のもと、あのスレンダーな体のどこにエネルギーが宿っているのか?と不思議でなりません
 帰省中は、そんな母の話し相手になり、普段は週に2度、父をヘルパーに託し、駆け足で済ませるお買い物などを、一緒に「楽しく」すること、でしょうか
 私の独身時代は、母はバリバリの仕事人で、なかなか「娘とお買いもの」とか「娘とお出かけ」という時間がとれませんでした。
こんな状況になって、母とのしばしの憩いの時間を持っているのは、少々皮肉なことではありますが、すべて私たち家族に与えられた人生・・・と甘受し、今の状況の中で、一番「有意義な時間」を送れることを考えるようにしています

 さてさて、すっかり前置きが長くなってしまいました。
今回のテーマ「視点を変える」です。
 じつは、私は帰省の時、いつも飛行機を使います そして、地図が好き、富士山が好き、という妙な私は、空の上から鳥になった気分で、窓にかじりついて眼下を眺めます
 最近は、Google Earth というようなソフトがあり、世界のどんなところも、空から詳しく眺めることができるようになり、鳥の気分だけではなく、人工衛星に乗って地球の軌道上にいる宇宙飛行士の気分も味わえるようになりましたが、さすがにパソコンのモニターの画面上ではなく、自分の目で、眼下に広がる景色を眺めるのは、ひと味もふた味も違います

 特に、これからの冬の晴れた日は、羽田-伊丹便に乗って右側の席に陣取ると、離陸してすぐに眼下に関東平野が広がり、ベイブリッジや横浜のみなとみらい地区がよく見えます。そのあとは、ずっと鎌倉、江ノ島、湘南の海岸線、えぼし岩などもはっきりと見え、そして、すぐそこに富士山山頂が迫ってきます。その向こうに続くアルプスの峰々・・・
 新幹線では、こうはいきません。
 ということで、私は常に「右側の窓側」を予約時にすでに座席指定します

 しかし、今回は、チェックインした時点でふっとチケットに目を落とすと、「A」の文字。あれれ???
 「A」は、左側の窓側の席、ということです。
ありゃあ・・・がっかり、です 私は、どうもインターネット上で、間違って座席予約をしてしまったようでした。
 羽田-伊丹の便は、常にビジネス客で満席です。特に朝夕の便では、空席あり、という表示を見たことがありません
 私は、着陸後、すぐに飛び出してリムジンバスやモノレールに乗りたい、という思いもあって、常に前方座席を予約していますので、もしかしたら、後方の座席では右側の席に替えていただけるかもしれません。でも・・・
 私は仕方なく、「A」の席に座ることにしました。お天気は快晴 間違いなく、真っ白に雪をいただいた富士山山頂が見える日です。ああ・・・失敗、失敗・・・

 飛行機は、ほぼ定刻に離陸しました。
眼下に広がるのは房総半島。木更津や君津が見え、すぐに東京湾の向こうには三浦半島が見えました 
 横須賀、城ヶ島もくっきり。私が、今までには一度も見たことのない風景です。
しばらくすると、伊豆半島。狩野川の流れが見え、天城の山々、山に囲まれた西伊豆の町が見えます。この日はお天気が良く、下田のほうまで見えました・・・
 少し、海だけが見えていたかと思うと、今度は、渥美半島です。
海岸線は、まるで九十九里のように長々と続き、先は太平洋の大海原です。伊良湖岬の向こうには、伊勢湾をはさんで鳥羽あたりが見えます。
 もしかしたら、三島由紀夫の潮騒の舞台、神島も眼下に見えているのかもしれません。すべて、初めて見るものばかり・・・

 私はつくづく思ったものです。
「絶対に右側がいい」そう思い続けていた時には、私は、伊豆の山々も、渥美半島も、伊勢志摩も見てはいませんでした。
 けれど、それは同じ飛行機から見える景色なんですね

 視点を変える、とは、同じものを見るときに、違う方向から見る、という意味です。同じものを見るにしても、見る方向を変えてみれば、違っても見えるし、同じ方向から見ていたのでは、見えないものがある、ということにもしっかりと気づきなさいね、ということです
 言葉としては、十分に理解はしていますし、「視点を変えて・・・」などと、機会があると、アドバイスとしてよく語る言葉、でしょう。
 しかし、実際に「比喩」としてではなく、「視点を変えて」みると、こうも違うものが見え、こんなにも感激し、新鮮な気持ちになれるのです。私は今回、「左側」に座ることで、イヤというほど、この事を実感しました

 大切なことを決断する時、真剣に考える時、人は真面目に考えれば考えるほど、出口のない迷路の中を、ぐるぐると回ることがあります。考えることを止めることもできず、疲れ果てて、ボロボロになる・・・打開策が見えてこない・・・誰にでもあることでしょう
 でも、「視点を変えてみる」ことは、時には本当に世界観が違ってくるほど、新しい何かを啓示してくれることがある・・・そう思いました

 今度、大阪に行く便に乗るときには、是非、「左側の席」を指定し、地図をチェックした上で、乗ってみたいと思います
 ただただ、雨女の私は、快晴のフライトを祈るばかりです

子どもは変わってはいない!

2007-12-04 22:05:11 | こまりん子、こまりんパパママ
 師走に入り、気温が急に下がったせいか、葉っぱの色づきが早くなりましたね
 今朝、ベランダの窓を開けると、「かさかさ・・・かさかさ・・・」と音がします。???と思ったら、風に吹かれて、桜の葉っぱが落ちる音、なんですねえ
 季節の移ろいを「愛でる」ことも素敵ですが、音を感じる、ということは、なかなか意識していませんでした 日頃は、都会の騒音の中で、あまり自然の音を感じることはありませんが、静かな朝や夜などは、きっと、「それなり」の音があるのでしょう。
 もっと、敏感になってみよう、と思った時間でした

 さて、先日、ひょんなことから、休日の朝の時間、ファーストフード店に行きました 時間調整のために立ち寄った、自宅の最寄り駅のMでしたが、コーヒーを持って3階席に行き、私は驚愕、でした 驚きました、ではなく、まさに「驚愕」したのです
 というのも、奥の席に入って行こうとしたら、そこにはキャップを斜めにかぶり、だぼだぼのジーンズを履いた・・・という感じの中学生?と思しき5人。
 テーブルの上に座り、椅子に足を乗せ、大きな声で話しています 何か言うと「ヤバイ、ヤバイ」と「マッジー、マッジー」という言葉を連発。すでにジュースは空っぽになっていて、そこは傍若無人な彼らの振るまいが許される空間になっていました

 私は、彼らに注意するほど勇気があるわけでも、野暮でもなく(いっとき、オヤジ狩り、という事件が横行しましたねえ・・・)、すごすごと入り口のほうの席に引き返しました そして、コーヒーを飲み始めたのですが、じつは、ラッパー風の彼らに驚いたせいで気づかなかったのですが、入り口付近の席も、十分に驚愕に値する人達の空間でした

 私の左隣・・・
必死に携帯電話でゲームをする父親 その横で「パーパー、下手くそ 何やってんの- だめじゃーん!」と半泣きになってダメ出しをしている4,5歳の男の子。
 父親は、息子が何か言うたびに「うるせ-」と画面を見たままで怒鳴り、ゲームを続けます。
 男の子は、席の上に靴のままであぐらをかき、ずっと文句を言いながら、父親の携帯画面に顔を寄せて見ています

 私の向こう側・・・
大きな裁ちバサミで、スポーツ新聞の記事を切り抜く50代の男性。たくさんの新聞を積み上げ、お目当ての記事を見つけては切っていきます 見ていると、競馬や競輪、競艇の成績表のようなものです。手慣れた感じで作業を進めていましたが、テーブルの上も、椅子の上も、新聞だらけになっていました

 私の右隣・・・
5,6年生の息子が、必死に問題集に鉛筆を走らせます 顔と問題集の距離は、もう10センチ程度。彼の手の動きから、どれほど彼がその問題に集中してるかがわかりました その隣では、経済関係の新聞を読むお父さん。息子が小声で何を言うと、お父さんは新聞をたたみ、別の問題集を広げます。明らかに、中学受験塾の日曜テストまでの調整時間、という親子でした

 私は、まるで「作ったドラマ」の中にいるように感じました。
こんなに、申し合わせたように、さまざまな人達がこの同じ空間にいていいの?
 私に、わざわざ話題を提供してくれるために、誰かが仕掛けた何か 思わずそう思ってしまいました
 そのうちに、20歳くらいに見える女性がコーヒーを持って入ってきました。
私がしたように、最初は奥まで行き、きゅっと眉をひそめて戻ってきました 
 奥の席で、わーっと例の彼らが湧いたかた思うと、そのうちの一人が、女性の席の前に座り、「ナンパ」を始めました
 私は、心臓がどきどきしました。これからどうなるんだろう?無関心を装い、出ていってしまおうか?いや・・・どうしたらいいのだろう・・・
 女性は、男の子が何を言っても、全く無視、でした まあ、明らかに彼らの間に5歳程度の年齢差があるので、女性も強気だったのかもしれません
 私はずっと必死に見ていてはいけないのだろうなあ、と思いながらも、どこに目をやってよいのかわからず・・・
 すると、私の視線を感じたのか、男の子が、急に私のほうを振り返りました。「」ぎゃーーーーーー。
 その男の子は私の顔を見て、顔だけをぎゅっと前に突きだし、にこっと笑って「ちわッス!」と言うのです。思わず、私はニコッと笑い、目礼しました。
 彼の顔、彼の目は、普通の、かわいい中学生でした。瞬時に、彼は悪い子じゃないな、と思ったのでした。何だか、私は急に悲しくなってしまいました・・・

 世の中では、「子どもが変わった」と言います。私も、そうだなあ、と思っていました。
 でも、実際には、子どもは、何もかわっていないのではないだろうか?そう思いました。
変わったのは、彼らを取り巻く世界と、彼らを育てる親たちのほう、でしょう

 そして、『我が家では、子どもには、いろいろな人がいることを教えたいです!』というご両親がおいでになりますが、現代社会では、良い悪いという価値判断ではなく、その「いろいろな」振れ幅が昔よりも想像以上に大きい、ということを、じつは実感していらっしゃらないのではないだろうか?と、しみじみと思う瞬間があります。

 今週末のMでも、同じ光景が見られるのでしょうか・・・