「知らない人に話しかけられたら、お返事をするのはダメよ」
「ニコニコ話しかけてくる人は、コワイ人かもしれないから、気を付けてね」
これが、現代、世間一般の「都会の子育」ての定番なのだと聞きました。何とも悲しいではありませんか・・・
飛躍した論理かもしれませんが、要するに、知らない人は悪い人なのかもしれないから、関わってはいけません、ということですね
私は仕事がら、町中でも子どもの様子がすぐに目に入り、そして、大阪生まれの血でしょうか、すぐに誰にでも気軽に声をかけます
たとえば、妹の手を引き、一生懸命にママが押すベビーカーの後ろを必死に早足で歩いていく4,5歳児を見ると、その親子を追い抜く時に「あなた、おりこうちゃんねえ 立派なお兄ちゃまだわ。ほめてもらってね」とか・・・
ランドセルを背負った小学校低学年の子どもが、道端で一生懸命に何かを見ている様子に出くわすと、「ねえねえ、何を見てるの?何か面白いもの、見つけたの?」とか。
一つ目の例の場合は、そこにママがいらっしゃるわけですから、さすがに大人であるママは私の言葉を聞いて警戒心を見せることはなく、むしろ、ハッと後ろを振り向き、我が子二人の様子をあらためて見て、私に会釈をしてくれたりします
でも、ここ数年、あきらかに後者のような例の場合、子ども達の対応は違ってきたと思います
以前は、同様のシチュエーションで声をかけると、大抵の子どもは「〇〇を見てるの」と返事をしてくれました。ある子は恥ずかしそうに。ある子は嬉しそうに。
中には、おーよくぞたずねてくれましたとばかりに、堰を切ったように説明をしてくれるちょっぴりオタク的な子どももいたりして・・・本当に子どもっていいなあ、と思う時間でした
ところが、今は多くの場合、固い笑顔を残し、さっとその場を立ち去ります。もちろん、こんな時には、いろんな意味があってそうすることと思います。思わず時間を忘れて没頭してしまったことに気づき、我に返って慌てて家路につく、という場合もあるでしょうし、没頭していた自分をちょっと恥ずかしく思い、羞恥の心理で早々に立ち去りたいと思った場合・・・ でも、明らかに「知らない人に、親しげに声をかけられてしまった。おお大変」という様子の子も少なくありません。
確かにこんな時代です。子どもの「警戒心」を育てることは、本当に大事なことなのだとも思います。
でもその一方で、多くの親達は「子どもの優しさ」「優しい心」をも育みたいと思っているわけでね・・・ そうであれば、人を見て「警戒心」が前面に出るようなリードでは、人に対して優しい言葉かけをする、とか、優しい心からの思いやり、というものは育ってはいかないでしょう
人と人とがたとえ一瞬でも触れ合うこと。
ふっと和む言葉をかけたり、かけられたりすること。
それは、本当に素敵なことですね。そう思いませんか?
悲しいこと、辛いことがあって、長い時間をかけてお友達に話し、そして、長い時間をかけて慰めてもらったり、チアアップしてもらったり これも素晴らしいことです。
でも、それほど親しくない人の、ほんの短いひと言に心和んだり、救われたりすることもあります それは、その相手とたとえ短い時間でも、人と人として向き合ったから、でしょう。
土曜日の早朝。その日は、いつもの土曜日よりもずっと早い時間に私は家を出ました。歩いている人もまばら。
いつもの大きな交差点、信号を渡り始めると、歩行者用信号の青信号が点滅を始めました。私はびっくりして、走り出しました
すると、反対側から走りながら渡ってきた人とすれ違う時、「走ろう」と声をかけられたのです。すれ違う瞬間、その人の笑顔が見えたように思いました。「走ろう」の声は、すれ違ったあとで遅れて聞こえてきました。
「走ろう」
「走れ!」ではないのです。私に「走れ!」と言ったのではないのです。
走ってきたその人は、走っている自分に対しても、走りだした私に対しても「さあ、走ろう もうすぐ信号が変わる。渡りきらなきゃね」私にはそのように聞こえました。
私は、何という気持ちの良い朝一番の出来事だったことか・・・と、本当にほのぼのとしました
世知辛い現代社会では、子どもの人懐っこさは表裏一体であることよくわかります。
でもね、人と人とが触れ合って、相手を警戒するのではなく、相手を思い気持ちを持てば、そこに尊い空気が生まれ、そこから「優しさ」が育まれるということを、やっぱり、子育てをしている親だからこそ、知っていてもらいたいな・・・と心底思っています・・・
「ニコニコ話しかけてくる人は、コワイ人かもしれないから、気を付けてね」
これが、現代、世間一般の「都会の子育」ての定番なのだと聞きました。何とも悲しいではありませんか・・・
飛躍した論理かもしれませんが、要するに、知らない人は悪い人なのかもしれないから、関わってはいけません、ということですね
私は仕事がら、町中でも子どもの様子がすぐに目に入り、そして、大阪生まれの血でしょうか、すぐに誰にでも気軽に声をかけます
たとえば、妹の手を引き、一生懸命にママが押すベビーカーの後ろを必死に早足で歩いていく4,5歳児を見ると、その親子を追い抜く時に「あなた、おりこうちゃんねえ 立派なお兄ちゃまだわ。ほめてもらってね」とか・・・
ランドセルを背負った小学校低学年の子どもが、道端で一生懸命に何かを見ている様子に出くわすと、「ねえねえ、何を見てるの?何か面白いもの、見つけたの?」とか。
一つ目の例の場合は、そこにママがいらっしゃるわけですから、さすがに大人であるママは私の言葉を聞いて警戒心を見せることはなく、むしろ、ハッと後ろを振り向き、我が子二人の様子をあらためて見て、私に会釈をしてくれたりします
でも、ここ数年、あきらかに後者のような例の場合、子ども達の対応は違ってきたと思います
以前は、同様のシチュエーションで声をかけると、大抵の子どもは「〇〇を見てるの」と返事をしてくれました。ある子は恥ずかしそうに。ある子は嬉しそうに。
中には、おーよくぞたずねてくれましたとばかりに、堰を切ったように説明をしてくれるちょっぴりオタク的な子どももいたりして・・・本当に子どもっていいなあ、と思う時間でした
ところが、今は多くの場合、固い笑顔を残し、さっとその場を立ち去ります。もちろん、こんな時には、いろんな意味があってそうすることと思います。思わず時間を忘れて没頭してしまったことに気づき、我に返って慌てて家路につく、という場合もあるでしょうし、没頭していた自分をちょっと恥ずかしく思い、羞恥の心理で早々に立ち去りたいと思った場合・・・ でも、明らかに「知らない人に、親しげに声をかけられてしまった。おお大変」という様子の子も少なくありません。
確かにこんな時代です。子どもの「警戒心」を育てることは、本当に大事なことなのだとも思います。
でもその一方で、多くの親達は「子どもの優しさ」「優しい心」をも育みたいと思っているわけでね・・・ そうであれば、人を見て「警戒心」が前面に出るようなリードでは、人に対して優しい言葉かけをする、とか、優しい心からの思いやり、というものは育ってはいかないでしょう
人と人とがたとえ一瞬でも触れ合うこと。
ふっと和む言葉をかけたり、かけられたりすること。
それは、本当に素敵なことですね。そう思いませんか?
悲しいこと、辛いことがあって、長い時間をかけてお友達に話し、そして、長い時間をかけて慰めてもらったり、チアアップしてもらったり これも素晴らしいことです。
でも、それほど親しくない人の、ほんの短いひと言に心和んだり、救われたりすることもあります それは、その相手とたとえ短い時間でも、人と人として向き合ったから、でしょう。
土曜日の早朝。その日は、いつもの土曜日よりもずっと早い時間に私は家を出ました。歩いている人もまばら。
いつもの大きな交差点、信号を渡り始めると、歩行者用信号の青信号が点滅を始めました。私はびっくりして、走り出しました
すると、反対側から走りながら渡ってきた人とすれ違う時、「走ろう」と声をかけられたのです。すれ違う瞬間、その人の笑顔が見えたように思いました。「走ろう」の声は、すれ違ったあとで遅れて聞こえてきました。
「走ろう」
「走れ!」ではないのです。私に「走れ!」と言ったのではないのです。
走ってきたその人は、走っている自分に対しても、走りだした私に対しても「さあ、走ろう もうすぐ信号が変わる。渡りきらなきゃね」私にはそのように聞こえました。
私は、何という気持ちの良い朝一番の出来事だったことか・・・と、本当にほのぼのとしました
世知辛い現代社会では、子どもの人懐っこさは表裏一体であることよくわかります。
でもね、人と人とが触れ合って、相手を警戒するのではなく、相手を思い気持ちを持てば、そこに尊い空気が生まれ、そこから「優しさ」が育まれるということを、やっぱり、子育てをしている親だからこそ、知っていてもらいたいな・・・と心底思っています・・・