良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

親は子の鑑、子は親の鑑

2007-02-23 11:01:43 | 悪い子、悪い親?
 今朝テレビを見ていると、荒川区の「あらかわの心」推進運動の一環である「おせっかいおじさん・おばさん運動」についての話題が取り上げられました この運動の趣旨は、年長者が何事も見て見ぬ振りをせず、どんどんと若い世代に注意をしようというものでしょう。確かに、これはここ数年、よく耳にする話題ですね
 この話題が出たとたん、ゲストコメンテーターはこぞって口を開き、 
 「先日、子どもに注意をしたら、親ににらまれた
 「子どもに注意をするよりも、本当は親にいってやりたい
などなど、現代の傍若無人?!の子どもたちに対してよりも、非常識で無責任な!!親たちに対する、もっていきばのない非難轟々でした
 本当にそうですねえ ちょうど私もつい先日、電車の中で、まさに意を決して親に注意をしようか、と思いながらも、最後の勇気が出ず、黙って電車を降りて悶々としたのでした
 某有名幼稚園の親子2組が電車に乗ってきて、男の子たち二人はドアの前に駆け寄っていきました。そこにはすでに、年配の男性が立って本を読んでおられたのです 子どもたちがそこに行っただけで、じつは、すでに男性の足元を何度も蹴ったりしていたのですが、まあ仕方がないか、という顔をされた男性は何もおっしゃらず、少し車内側に体をずらせて立って読書を続けていました
 男の子たちはまさに傍若無人で、キャーキャーと騒ぎ、ドアの前でふざけ、誰の目にも行儀が良い子たちとは見えず・・・
 ドアが開いて、乗車する客が乗り込んできても、その場を空けようとしません。驚いたことに、その様子を明らかに見ている母親たちも、楽しそうにお話に興じ、なぜか注意をしないのです
 まあ、百歩譲って、男性の邪魔になっているということに気づかなかったとしても、車内で騒ぐ、ドアが開いているのに、その場をどかないなど、当然、わが子の愚行が見えているのに、母親たちは何の言葉かけも叱責もない・・・

 以前、やはりその幼稚園の親子が、比較的すいた電車だったとはいえ、3人分のスペースを使って座り、子どもは靴も脱がずに窓のほうを向いて座り、親子で大声で話していた、ということがありました
 日ごろから、電車通園している方々です。幸いにも、その子どもたちは、幼いころから毎日、公共の乗り物を経験することで、同年代の子どもたちよりも多くを学ぶ機会に恵まれているにも関わらず・・・実際には何も親子で学ばず、何も親は子どもに教えず、ただただ制服を着て、わざわざ幼稚園の恥をさらしているのは残念です・・・

 最近、こんなこともありました。
大きなショッピングモールの混んだエレベーターでの出来事。エレベーターは各駅停車のように、毎階ごとに開きます 当然ですが、これはルールとして、ドア付近に立っている人は、乗り降りする人のことを気遣い、一旦エレベーターを降りたり、少し体をずらしてスペースを空けたりしますよね
 そして、乗り降りの場合は、「降りる人が先」と決まっています。これはルールであると同時に、非常に理に適った行動です
 ところが、結構よい年に見える父親、絶対にスペースを空けないのです もちろん、降りることもありません。
 その父親は妻と二人の幼稚園児に見える子どもたちと一緒でしたが、父親も母親も何の行動もおこしませんので、子どもたちもエレベーターの入り口付近に立ったまま、全く動こうとはしません

 子どもが幼いうちは、親は最も身近な「人としてのお手本」です
お手本が間違っていたり、お手本がお手本の機能を果たしていなかったら、子どもは何も学べません
 親は子の鑑(かがみ)であり・・・そして、怖いことに、子は親の鑑(かがみ)でもあります
 頭脳明晰であるかどうかは、ぱっと見ただけでは判断できかねますが、子どもの行動、言動をほんのわずか見ただけで、その子の人としての立派さ、賢さはある程度は見えるおのであり・・・それは親の立派さ、賢さが見える、ということを意味します

 ここまでわかっていれば、ひいては立派な人を育てるために『子どもたちにとっての』おせっかいおじさん・おばさんになることが、どれほど意味のあることか、ということは十分にわかります
 しかし、自分の精神衛生上、我慢をして、胃が痛くなるよりも、『わけのわからない親に対する』おせっかいおじさん・おばさんになることこそ必要なことでしょう
 でもねえ、オトナは突然にオトナになったわけではなく、毎日、毎日の時間を重ねてオトナとしての今があるわけで。
 困った親たちであるオトナたちは、時間をかけて「困った人」として完成されてしまっているのです・・・

 ヴー・・・やっぱり、どちらにしても胃が痛くなります・・・
 横浜は、荒川区とは遠く離れてはいますが、私は毎日、荒川区にエールを送りつつ、私も「おせっかいおじさん・おばさん運動」を念頭において、生活をしていこうと思います


バチが当たるよ!

2007-02-14 16:06:02 | すてきパパママにご提案
 昨日、あるお父様からいただいたメールの中に「最近は、『バチが当たる』というような、日本人特有の感性が失われつつあることを残念に思います」と書かれてありました。
 本当にそうですね この「バチがあたる」について、たまたま私も思うところがあり、是非書いてみたい、と思っていた矢先のことでしたので、これを読ませていただいたとたん、思わずウンウンと大きく頷いてしまいました

 私が子どもの頃、そう、昭和30年代です。何か悪いことをしたら、必ずと言ってよいほど・・・
 「そんなことしたら、バチが当たるよー
と、祖母や伯父、伯母、もちろん、両親にもよく叱られたものです
 今になって思えば、「バチが当たる、ということは~~~ことなんだよ」というような説明を、まわりの大人から受けた覚えはありません。しかし、子ども心に、それは非常にとんでもないことで、そんなことになったら一大事だ、という「感覚」があったように思います
 そして、その「バチが当たる」というイメージの中には、単に何か罰になるようなことを課せられるとか、何か悪いことが我が身に起こる、とか、そういう単純なものではなく、もっと重く深い罪を犯した時にやってくる、世間様から後ろ指さされるような、究極に恥ずかしい、救いようのない天罰・・・そんなふうに受け止めていました。それは、ある意味、畏敬の念とでもいうのでしょうか

 「バチが当たる」この言葉は要するに、「戒め、同時に悔い改めることを促す金言」だったのでしょう

 今の子ども達を見ていると、ほとんど怖いものがないように思います
近所に口うるさいおじいさんやおばあさんがいるでもなく、幼稚園や保育園の先生方は、概ねみなさんお若く、「園の主」のような小うるさいおばあちゃん先生などはなかなかおられず・・・学校の先生も、「楽しく明るく」をモットーに、そつなくこなすようなお友達先生。そして何より、ご両親がみなさん総じてお優しいですからね・・・
 昔のようなカミナリ親父は近年なりをひそめ、休日のパパは気か進まないまでも、我が子の魅力に負け、家庭サービスをするお兄さん感覚のデレデレお友達パパが増殖
 お家には、ぶつぶつといつまでも小言を言うお母さんだけ これでは、子どもにぴりっとしろ!というほうが無理な注文なのでしょう。

 本来、「バチがあたる」とは、神仏が下す、悪事をこらしめるための報い、たたり。というふうに辞書を引くと出てきます。そうなんですねえ・・・
 最近、よくとんでもない親、として紹介される典型的なダメ親に、愚行をする子どもに思い切って注意を他人に逆ギレし、「ほら、怖い顔したとなりのおばちゃん(おじちゃん)に叱られちゃったかえら、お利口にしなさい」という親がいますよね。
 でも、「バチが当たる」は、決してそういうたまたま隣に座ったおばさん、とか、そこに居合わせたおじさんが怒る、という程度のものではなかった気がします

 私は、以前ブログで、子どもだって子どもなりの理解力はあるのだから、何でもきちんと教え、伝え、理解させましょう、という提言をしたことがありました もちろん、今でもその通りだと思っています。しかし、「教え伝える」と「叱る怒る」は意味が違います

 私が最近の子ども達を見ていて感じること、それは、今の子ども達に欠落しているものは・・・
  「ハッと顔が引きつるような瞬間」
  「ドキッと心が震えるような恐れ」
  「言い訳も、くちごたえも、ぐずぐずも、うだうだもできなくなる硬直感」

 そうです 理屈ではなく、子どもが「身体で、感覚で納得すること」です
 それは、震え上がるような父親の一喝でも良し、「バチが当たるよ」という何とも恐ろしいひと言でも良し。キリスト教や仏教等、宗教色のある幼稚園や保育園で育っている子どもであれば、「神様は、何でも見ていらっしゃるよ」「ののさまは、いつも見ていらっしゃる」という言葉かけ、かもしれません。

 子どもを育てる上で、何かを禁止したり、促したりする時に、昭和の時代のように怖がらせてはいけない、脅してはいけない、とは思いますが、理屈を越えた感覚的な納得をさせるための働きかけは、決して「そんなことしてたら、お化けが出るよ」というセリフとは意味が違いますからね
(私が子どもの頃は、人さらいにさらわれる、とか、ことりのおじさんが来る、などと祖母から脅されました。人さらいは、何となく子どもでも理解できましたが、私は「ことり(子捕り)」の意味がすんなりと理解できず、その言葉の音から「小鳥」と勝手に理解し、「小鳥のおじさんなら来てもいいな」などと、トンチンカンなことを思っていました

 いかがですか?あなたのお子さんには、ちゃんと「びくっとする瞬間」がありますか?
 父親や母親が本気になって叱った時、畏敬の念を持って、親の言葉を神妙に聞く耳は育っていますか?


  今日のおすすめご本 

「何かお勧めの本はありますか?」よくお母様方にたずねられます ではでは、これからはブログの最後に、「これは是非!」という児童書をご紹介しましょうね

おおきなおおきなおいも―鶴巻幼稚園・市村久子の教育実践による

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ももいろのきりん

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隠すのは無理でしょう?

2007-02-10 12:06:16 | つぶやき
 女性は子どもを生む装置、機械」の発言がすっかり大きな問題になりました
 そんな中、またまた柳沢大臣、次は「家庭に2人の子ども、が健全な家庭」発言。失言の総合商社?デパート?ですねえ。
 どちらも、話の流れの中で出てきたもので、「健全云々」の問題発言も、実際にはアンケート調査結果を元にして語った大臣のお言葉。
 それにしても、マスコミはこぞって大臣の言葉尻を取り上げ、より一層世間の批判への意識を煽ったかたちとなり、少々お気の毒な気もしないではありませんが・・・
 まあしかし、大臣にまでなるお方としては、公の席での言葉選びがあまりお上手ではなかったというか・・・言葉足らずだったというか・・・

 しかし、私はここ一連の柳沢大臣騒ぎを見ていて、ふっと思ったのでした。
「人は、やはり『思わず本音が出てしまう』『どんなに装っても、つい本心が見えてしまう』そういうものなのでしょう

 何度かテレビに流れたように、柳沢大臣は失言後、しどろもどろの言い訳をしたり、ある意味、当然とも思える逆ギレもあり・・・
 でも結局は、大臣の本心はきっと「女として生まれてきたわけだから、四の五の言わず、しっかり子どもを生んで育てろよ」と思っていらっしゃるわけで、また「どうせ生むんだったら、たった一人なんかじゃなく、最低2人くらいは生まないとダメだよ」というように、常日頃から思っていらっしゃったのでしょう
 確か、大臣も二人のお嬢様がおいでになる、健全なご家庭のお父様ですよね。ただ、そのお二人のお嬢様方が、やはり健全なご家庭の妻となり、二人以上のお子様を出産なさっていのか?までは存じ上げませんが

 先日、友人に教えてもらった貴石や水晶などを扱うお店に行った時のことです・・・
 お店の方とお話をしていると、そこに小学生の男の子二人を連れたご両親が入ってきました
 お母さんは、台湾人であるお店の方を見つけるやいなや、大変興奮してお礼のようなことを語られ、年長のほうの男の子も、お母様についてボソボソと話し、照れた様子でごあいさつをしていました
 それほど大きくない店内です。自然に聞こえてきたお話によれば・ ・・その男の子は中学受験をしたらく、嬉しい結果をいただいた、というようなお話でした

 昔から、水晶をはじめとするさまざまな貴石には、人を幸運に?正しい方向に?導くパワーがある、と言われています 特に中国では、古い時代から研究され続けた学問の中に、「人はそれぞれに定められた道を歩いていて、その道は生年月日や、名前などによって決まっていく」というものがあります
 そして、生来の自分の資質と、日頃の努力を補うものとして、そういう貴石が用いられた、ということでした。
 いろいろとお話をうかがっていると、なるほどねえ・・・と考えさせられることも多く、私にとっては大変興味深い時間でした

 そうです そのご家族に話しを戻しましょう。
意気込んで入ってこられたように見えたお母様は、嬉しくて嬉しくて仕方がない、というご様子で、早口でいろいろとお話になっていました ご長男はニコニコ顔で、ご次男は興味津々という様子で店内を見回っていて・・・アレレ、お父様は

 その3人とは離れ、店の隅のほうで腕組みをし、チラチラと3人のほうを見たり、店内のいろいろな石を見たり・・・
 しかし、明らかにお母様とは違う空気を醸しだしていたのです 表情はやわらかく、時にはにこにこと微笑まれたりしていたのですが、それでも、やっぱり、違う空気に包まれている 違う気を発している 様子でした。
 さしずめこれがマンガであれば、お父様の顔の横に吹き出しがあって・・・
 「ったく・・・。なーに言ってんだよー、馬鹿馬鹿しい。言っとくけど、オレはそんなもん、信じないぜ わけわかんねー。石?水晶?それが何だってんだ ただの石じゃん・・・」と書かれたことでしょう

 そうなんですね そのお父様は、たった一度も、ほんの小声ででも、「なんだそりゃあ」とは言わず、にこやかに立っていたのですよ。決して、声に出して「馬鹿馬鹿しい」なんておっしゃらない。
 けれど・・・やっぱり空気が、そこだけは明らかに違っていたのでした パッパとネガティブな気?が、にこやかな表情からも発散されていたのでした たぶん、それはそこにいた誰でもが感じたはずです。

 小学校受験の世界では、しばしばこんな質問を受けます。
 お母様A「先生、我が家では主人が非協力的なんです。というか・・・じつは、主人は受験には反対なんです。ただ、もう勝手にしろって感じで・・・そんな状態で、面接に言ったらどんなことになるんでしょう?こんなことでいいんでしょうか・・・」
 お父様B「本当は、僕は私立小学校でなくても良いって思っているんですよ。ただ、家内がどうしても私立私立ってうるさくて・・・面接では、僕は何を言えばいいんですか?」
 私は、こういうご質問に「それではダメですねえ・・・」とか、「面接では~~~言ってください」などとは言いません
 それに、実際、今までにもたーくさん、そういうご家庭はありましたからね。

 でもね、やっぱり、私は思うのです
柳沢大臣や、水晶屋さんで立っていたお父様のように、「心は見えるもの」だと・・・
 そりゃあ、ベテランの俳優さん、役者さんで、長年の経験と修行で、すっかり「別人」になりきれるような方であれば別ですが その方が凡人であっても、非凡な方であっても、口を開けば、きっといつかは本音は出てしまうでしょうし、黙っておいでになったとしても、その方の表情や反応は、如実に本心を表してしまう・・・
 
 では、どのようにして面接をクリアしていくのかって?
それは、お父様が無理に自分を作らず、演じず、面接時、自分達ご家族のことを待っていてくださった学校に対して、人としての礼を尽くし、真正面から真摯に向かい合えば、お父様のわが子への深い愛情は学校側に届くものです
 むしろ、本当は疑問だらけで学校に向かいあうのに、言葉だけで「御校のすばらしい伝統ある教育に感動し・・・」などと、歯の浮くような調子の良いことを並べ立てるほうが、軽薄な嘘は見抜かれ、情けない薄っぺらな父親だと思われてしまうでしょう

 人は、動物でありながら、知恵と感情というすばらしい宝物を授かりました
 けれど柳沢大臣・・・やっぱり人は、それを機械的にコントロールできるほど器用な「装置」ではないようですよ

おもちゃにも魂!?

2007-02-01 22:45:01 | つぶやき
 もう10年ほど前でしょうか。今、まさに「ねつ造問題」で話題になっている番組の制作会社からご連絡があり、それこそ例の番組の中の質問コーナーで回答者になってくれないか?というお話でした
 当時は、まだまだ番組も始まったばかりで、ねつ造をしなくとも、いろいろと題材が豊富だった、のでしょうね

 さて、その時のテーマは「整理整頓」。私は、最後の3分ほどで、視聴者からの質問に答えました その質問は、こういうものでした

 「今度、幼稚園受験を考えているものですが、聞くところによると、幼稚園受験の考査の中では、『後かたづけ』というのがある、ということでしたが、実際のところはどうなのでしょう?」

 それに対して、私は、こんなふうにお答えをしたのでした

 「実際の考査で『後かたづけ』が考査項目になり、その出来不出来に対して数値的な点数がつく、ということもあるとは思います しかし、本来、自分が遊んだ後は後かたづけをする、散らかしたおもちゃをきちんと元の場所にもどす、ということは、大切な躾の面で、習慣になっているべきことですよね 子どもに後かたづけをさせる、ということの意味は・・・私だったら、このように教えますよ お母様もよく考えてみてください
 
 「さあさあ 今まで楽しく遊ぶために使ったおもちゃ達、クレヨンや紙、というような道具達は、あなたの遊び相手をしてくれた大切なお友達よね だから、あなたが遊びを止める時には、その相手をしてくれた仲間達に感謝の気持ちを込めて・・・「ありがとう、今日は楽しかったよ。僕と、私と、遊んでくれてありがとう お疲れ様!また明日も、一緒に遊んでね」そういう気持ちで、もとの場所に戻してあげなければいけないわね お外で遊んだあなたが、遊び終わった後はちゃーんと自分のお家に帰るでしょう?おもちゃ達も同じよ、おもちゃ達のおうちに、そう、元あった場所に返してあげなければいけません あたりまえよね

 いかがでしょう?
 「もうー 何度言ったらわかるのー かーたーづーけーなーさーいーーーー」と怒鳴ったところで、きっと、後かたづけを嫌う子どもは、素直に言うことを聞きはしないでしょう
 そして最後は渋々、ブツブツと文句をいいながら、お母様が片づける・・・お母様がそれを使って、ルンルン遊んだわけでもないおもちゃなのに
 そんなことは筋違い、です そんなことはおかしいですよね。たとえ子どもでも、自分が行うべき行為の本質を理解し、そのように行動しなければならないことはたくさんあります
 言い換えれば、文句を言い続ける、怒鳴る、というだけではなく、我が子がきちんと理解できるように伝え、教えなければいけないでしょう

 とにかく
子どもが自分の遊びの時間、お友達との時間、日常生活の時間を大切にするように、自分の遊び相手をしてくれるおもちゃや文房具も、当然、それらと同じ価値で大切にすべきなんですよね

 以前、私は、八百万の神(やおよろずのかみ)というお話をしたことがありましたが、覚えていらっしゃいますか?すべてのものには、魂が宿っているのだ、という考え方
 後かたづけの話しに、それに通じるものがあるでしょう?

 子どもが遊ぶおもちゃにも、ぬいぐるみにも、お人形にも、やっぱり魂はこもっているのです。人間のように話したり、動いたりはできないけれども、それでもそれぞれに「魂」は宿っているのです
 そう考えれば、どんなおもちゃも、決して粗末にはできないでしょうね