良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

知らない人は、コワイ人?

2017-01-22 13:04:57 | つぶやき
「知らない人に話しかけられたら、お返事をするのはダメよ
 「ニコニコ話しかけてくる人は、コワイ人かもしれないから、気を付けてね
 これが、現代、世間一般の「都会の子育」ての定番なのだと聞きました。何とも悲しいではありませんか・・・
 飛躍した論理かもしれませんが、要するに、知らない人は悪い人なのかもしれないから、関わってはいけません、ということですね 

 私は仕事がら、町中でも子どもの様子がすぐに目に入り、そして、大阪生まれの血でしょうか、すぐに誰にでも気軽に声をかけます 
 たとえば、妹の手を引き、一生懸命にママが押すベビーカーの後ろを必死に早足で歩いていく4,5歳児を見ると、その親子を追い抜く時に「あなた、おりこうちゃんねえ 立派なお兄ちゃまだわ。ほめてもらってね」とか・・・
 ランドセルを背負った小学校低学年の子どもが、道端で一生懸命に何かを見ている様子に出くわすと、「ねえねえ、何を見てるの?何か面白いもの、見つけたの?」とか。
 一つ目の例の場合は、そこにママがいらっしゃるわけですから、さすがに大人であるママは私の言葉を聞いて警戒心を見せることはなく、むしろ、ハッと後ろを振り向き、我が子二人の様子をあらためて見て、私に会釈をしてくれたりします
 でも、ここ数年、あきらかに後者のような例の場合、子ども達の対応は違ってきたと思います

 以前は、同様のシチュエーションで声をかけると、大抵の子どもは「〇〇を見てるの」と返事をしてくれました。ある子は恥ずかしそうに。ある子は嬉しそうに。
 中には、おーよくぞたずねてくれましたとばかりに、堰を切ったように説明をしてくれるちょっぴりオタク的な子どももいたりして・・・本当に子どもっていいなあ、と思う時間でした
 ところが、今は多くの場合、固い笑顔を残し、さっとその場を立ち去ります。もちろん、こんな時には、いろんな意味があってそうすることと思います。思わず時間を忘れて没頭してしまったことに気づき、我に返って慌てて家路につく、という場合もあるでしょうし、没頭していた自分をちょっと恥ずかしく思い、羞恥の心理で早々に立ち去りたいと思った場合・・・ でも、明らかに「知らない人に、親しげに声をかけられてしまった。おお大変」という様子の子も少なくありません。

 確かにこんな時代です。子どもの「警戒心」を育てることは、本当に大事なことなのだとも思います。
でもその一方で、多くの親達は「子どもの優しさ」「優しい心」をも育みたいと思っているわけでね・・・ そうであれば、人を見て「警戒心」が前面に出るようなリードでは、人に対して優しい言葉かけをする、とか、優しい心からの思いやり、というものは育ってはいかないでしょう

 人と人とがたとえ一瞬でも触れ合うこと。
ふっと和む言葉をかけたり、かけられたりすること。
 それは、本当に素敵なことですね。そう思いませんか?

 悲しいこと、辛いことがあって、長い時間をかけてお友達に話し、そして、長い時間をかけて慰めてもらったり、チアアップしてもらったり これも素晴らしいことです。
 でも、それほど親しくない人の、ほんの短いひと言に心和んだり、救われたりすることもあります それは、その相手とたとえ短い時間でも、人と人として向き合ったから、でしょう。

 土曜日の早朝。その日は、いつもの土曜日よりもずっと早い時間に私は家を出ました。歩いている人もまばら。
いつもの大きな交差点、信号を渡り始めると、歩行者用信号の青信号が点滅を始めました。私はびっくりして、走り出しました
 すると、反対側から走りながら渡ってきた人とすれ違う時、「走ろう」と声をかけられたのです。すれ違う瞬間、その人の笑顔が見えたように思いました。「走ろう」の声は、すれ違ったあとで遅れて聞こえてきました。
 「走ろう
「走れ!」ではないのです。私に「走れ!」と言ったのではないのです。
 走ってきたその人は、走っている自分に対しても、走りだした私に対しても「さあ、走ろう もうすぐ信号が変わる。渡りきらなきゃね」私にはそのように聞こえました。
 私は、何という気持ちの良い朝一番の出来事だったことか・・・と、本当にほのぼのとしました

 世知辛い現代社会では、子どもの人懐っこさは表裏一体であることよくわかります。
でもね、人と人とが触れ合って、相手を警戒するのではなく、相手を思い気持ちを持てば、そこに尊い空気が生まれ、そこから「優しさ」が育まれるということを、やっぱり、子育てをしている親だからこそ、知っていてもらいたいな・・・と心底思っています・・・

言葉は大事です・・・

2016-11-14 07:54:11 | つぶやき
 言葉足らずは、心足らず・・・
この言葉は、娘が幼い頃に私が言い続けたフレーズです。今思い返せば、私の「躾(しつけ)」の中でも、かなり上位に来る、人として覚えていて欲しい事、わかっていて欲しい事、だったと思います

 しかし、ティーンエイジャーという多感な時期にあって、学校では友人関係で揺れ、近づいてくる大学受験を不安に思う娘にとっては、頻繁に言われる私のこの言葉は時には残酷な忠告であったかもしれません
 とは言え、まさに「人としての成長期」にある娘を前にした時、私はいつも娘の気持ちを最優先にするよりも、今だからこそ言わなければという気分でした。

 昨日、買い物に立ち寄った先で、ベビーカーを押しているご夫婦と一緒になりました
あまり混んだお店ではありませんでしたが、通路ですれ違う時には毎回、ベビーカーと接触しそうになります。ベビーカーの中でスヤスヤと眠る赤ちゃんのことを思うと、決してぶつかることなく、スムーズにすれ違わなくてはな・・・と思いました。
 ただ、ベビーカーを押すパパも、ママも、私や夫のみならず、他の客とぶつかることにはあまり頓着がなかったのか、あまりそのことを気にされてはいないようでした。

 さすがに私も年を取りましたからね 若い頃のように、何でもかんでも「ムカッイラッ」とはしなくなっています、はっはっは
 でも、もしこの方達とすれ違う時、「すみません」「失礼します」というお声がけがあれば、少なくとも、その場の空気は柔らかくなったのではないかな・・・とも感じました。

 ベビーカー云々という話ではなく、私達は暮らしの中で、否が応にも「狭い所で人とすれ違う」「故意ではないけれど、少しぶつかりそうになる」ということがあります。そんな時、ひと声「すみません」「失礼します」と表情を崩して言葉にして発するだけで、その場の空気は和んだものになります

 同じような言葉はいろいろありますね
「お先に(失礼します)」「(どうぞ)お先に」「前を失礼します」などなど。
 エレベーターから降りる時にも、こういうふうな「言葉があれば空気が和む」というシチュエーションでしょう

 言葉足らずは、心足らず・・・
言葉というものは、なかなか一人歩きはしないものです。「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」というような挨拶でさえ、その言葉の中に「心、気持ち」が伴わなくては、なかなかスムーズに発することができないこともあるでしょう
 もう二度と会わないであろう人達と空間を共にする買い物先、電車、バス、さまざまな場所・・・そんな自分の人生と深く関わることがない人が相手であっても、偶然にも同じ空間に居合わせることになったのです その場では、同じ舞台に立った共演者
 ほんの少しでも、相手を思う気持ちを持てば、自然と言葉も出ているのではないでしょうか?

 特に、子育てをしている最中は、子ども達は親の行動、親の言動を見ています。そして、その姿を見て感じ、学び、そして真似をしながら成長していきます
 本当ですよ・・・
 
 

なんでだろう?って思いましょうよ。

2016-02-05 19:28:05 | つぶやき
 冷たい・・・ あまりの冷たさに目が覚めてしまいました。
よほど疲れていたのか、それとも寝心地がいつもよりも良かったのか、私はベッドに入った時のままの体勢で寝ていたようです。横向きになってウトウトしながら、「ああ、右手がお布団から出ているわ・・・」と思っていたことを覚えていました
 それから数時間。朝の冷え込みで一層室温が下がり、その「お布団から出ていた右手」が氷のようにつめたーーーーくなってしまっていました

 私はまだ夜が明けきらない時間の、薄暗い部屋の中で目を閉じたまま、「何時かなあ・・・やっぱり手をお布団の中に入れて寝れば良かったあ・・・大失敗。まだもうちょっと寝られるかなあ・・・」と思いました。
 お布団の中に入れた右手は、だんだんじわじわと温まってきましたが、私は半分寝ているはずの頭の中で「お布団から出ている手は、あんなに冷たくなるんだなあ・・・」という思いがいつまでも離れず、もうひと寝入りしたいと思っているのに、なぜか脳ミソだけが活動を始めてしまったかのようで・・・
 その次に頭の中に浮かんできたのが、「むー・・・手を出してたらこんなに冷たくなって、目まで覚めてしまったのに・・・じゃあなんで顔は冷たくならないのかな?」「おかしいじゃない・・・顔は毎晩、お布団から出ているのに、どうして冷たさで目が覚めないんだろう?」ということでした
 そっと温まりかけた右手を出して顔をさわってみても、さほど顔は冷たくはありません。
 いやいや・・・考え出すと、どんどん脳は勝手に動きだし、楽しい二度寝はできる様子はなくなってしまいました。

 私達の身の回りには、「どうしてだろう?」「不思議だな?」と思うことがいろいろとあります
そんなにご大層なことではなく、ちょっとしたこと・・・「昨夜に使ったバスタオルは、どうして日なたに干しているわけでもないのに、洗面所のタオル掛けで乾いているんだろう?」そんなことだって、自分できちんと説明ができるか?と問われると、自信はないです ってことは、知っているような気になっているだけで、実際には「不思議だなあ」と思うことでもあります。

 3歳くらいになった子ども達は、よく「ねえ、なんでえ?」「どうしてなのお?」と聞いてきます
最初のうちは、まあうちの子も成長してきたのねなどと、フフフの気持ちだったのに、次から次へと「ねえ、なんで、なんで?」とやられているうちにすっかり面倒になり「もー、なんでなんでばっかり聞かないの とにかく、なんでもなの」などと言いたくもなっています。
 まっ、こんな時の答えるコツは、あまり学術的な説明をしようとするのではなく、3歳は3歳、4歳は4歳の頭で「なるほど」と思えるようなたとえ話などを使って、簡潔に、手短に答えることですよ 完璧に教えよう!などとは思ってはいけません

 それにしても。
私達大人は、いつしか「何事にも驚かなくなり」「おー!というような感動をしなくなる」そうではありませんか?
 そして、それが成長することだ、と思ってしまっている・・・ でも 私はやっぱり何歳になっても、自分の身の回りに起こること、周りの様子にびっくりしたり、感動したり、え?あれ?わー!という感性を持っていなければならない、と思っています
 なんでもかんでも、そりゃあそうでしょう、とか、まあこんなもんじゃない、のような「平坦な感性」では、きっと脳ミソが老化していき、身体の中の細胞たちも、どんどんとどんよりしていくのじゃないかな?と思うのです

 そう言えば。
かわいげのない子っていうのは、大人びた子、だと思いませんか?その大人びたって表現は、いつも平坦な感情で、わー!とかきゃー!とか、すごい!みたいな感情の起伏が乏しく、何でもそんなの当然でしょう?!みたいな顔をする子・・・だと私は思います
 大人も子どもも、「驚いたり、感動したり」する、プルンプルンした感性があったほうが、その人は素適で、豊かな毎日が送れるし、そのほうが生活が楽しいように思います

 ところで、何で顔は冷たくならないのかな?調べてみなくっちゃ


親が教える責任

2015-08-06 13:23:00 | つぶやき
 戦後70年の今年、例年の夏以上に、メディアでは戦争のことが扱われているように思います。
 この状況は決して日本国内だけではなく、世界で「終戦後70年」が大きく取り上げられるのは、太平洋戦争終結、という意味だけではなく、第二次世界大戦として考えれば、確かに今年は多くの国々にとって「終戦後70年」であるからです

 私は、家族とともに「終戦後50年」の節目の8月を、インドネシアのジャカルタで迎えました。
 当時主人は単身赴任中。10歳の息子、7歳の娘は、ジャカルタの熱い熱い空気の中で、「独立50周年」を迎えた大祝賀ムードを、肌で感じました 
 「Hari Merdeka(独立の日)」の8月17日(日本が無条件降伏をした2日後、です)の意味を、夫と二人で、小学生の我が子達に、順を追って話したことを今でもよく覚えています。
 「そうだったんだね・・・だから、あの田舎で会ったおじいちゃんは、僕達に『君が代』を歌ってくれたんだね・・・」
 「だから、旧市街のジャカルタには、オランダみたいな建物があったんだあ・・・」
 夫の駐在3年間の間に、子ども達がインドネシアを訪れ、そこで見たもの、聞いたことの諸々が、この日の話によって、彼らの頭の中でつながっていき・・・そして、いろんなことを感じ、考える機会になったなあ、としみじみと感じました。

 先日、NHKの調査で、広島と長崎に原爆が投下された日を知らないという日本人が7割にのぼる、ということを知りました。中でも、広島、長崎というその地でも、その日がわからないと答えた人が3割いた、ということは驚きでした。

 私は、比較的幼い頃から、両親の影響で、こういう歴史や社会的な動きに関しては深く興味を持つタイプだったと思います。
 昭和33年生まれの私達は、まだかろうじて、「親や祖父母の戦争体験」を聞くことがありました。思えば、私はまだ、戦後わずか10数年で生まれたのですからねえ・・・

 政治的にはどうであれ、戦争には勝者も敗者もない・・・と私は感じています 我が子を持つことになり、あらためてそれを実感するようになりました。
 18歳で初めてアメリカに短期留学をした時、「戦争の話題は避けるように」とアドバイスを受けました。たぶん、それはつたない語学力では、自分の考えや思いを十分に伝えることは不可能、という理由からのアドバイスだったのでしょう。
 でも、ホストファミリーのお父さんが、海軍の退役軍人であったことで、退役軍人家庭のピクニックにも頻繁に参加し、結果的にいろいろと戦争の話題にもなりました。
 そんな時「命の尊さ」という観点からは、戦勝国も敗戦国も関係はないと思う・・・と、その日に話したこと、話してもらったことを思い出し、いつまでもベッドの中で天井を見つめ、感じていましたねえ・・・若い日の、ピュアな感覚です・・・

 現在は、美しい青い海が観光財源となっている太平洋上の島々には、激戦地が少なくありません。二本軍玉砕と言われる島々でも、実際には、敵軍にも夥しい戦死者がいたのです。

 今のお母様達の多くは、子ども達に「美しいもの」「楽しいもの」「ハッピーなもの」はたくさん教え、経験させますが、「みにくいもの」「怖ろしいもの」「目をそむけたくなるもの」は見せず、教えず、「辛いこと」はなるべく回避させようとする傾向にあると思います人 その理由は、それは自分達も楽しくないから・・・のようです

 この間「今この瞬間も、食べるものがなく、死んでいく子ども達が世界中にはいるのよ」と教室の子ども達に話すと、「なんで食べるものがないの?お店屋さんだって、いっぱいあるじゃん」と、とても不思議な思いを持った表情で言われました。まさに、その通りですね。私は、その子の瞬時の反応をとても新鮮に感じ、「教えないこと、伝えないことの罪」を強く感じたのでした。
 なぜなら、その時の子ども達が、一生懸命に、自分達の知らない話を聞こうと前のめりになっていることが伝わってきたから、です。

 子どもに伝えるべくことはたくさんあります 伝わる言葉を探し、子ども達が理解できるように伝える義務が大人にはあるのです そして、あらためて大人の私達も、真実を学び、感じ、考える必要があるのではないでしょうか

口に合わない、という言葉

2015-04-14 13:25:05 | つぶやき
「おいしくなーい」「イヤだ」「きらい
これは、私の大嫌いな「子どもが発する3つの言葉」です。正直なところ、こんな言葉を日常から我が子が使っていて、どうして許せるのか?どうして捨て置けるのか、理解に苦しみます。
 その子の親は、よほど子どもが発する言葉に興味がないのか、よほど言葉の意味を理解していないのか、そのどれかなのでしょう

 「おいしくないもの」なんて、この世の中に存在しない、と私は思っています。たまたま、その人の口に合わないだけ、ですよね。

 本当にこの言葉、この表現って、おかしくないですか? 
普段私達は、近所のスーパーや市場、もしくは自宅や近所で栽培されたり、飼育されたりした野菜や食材を使って調理をしますね 買ってきたお惣菜でも、やはり同じこと、です。
 だから、それらは、誰かが誰かのために作ったもの。それがコンビニのお惣菜で、かなり機械化されて調理されていたとしても「人の口に入るもの」「食卓に並ぶもの」として存在しています。
 食べる人達に「おいしいね」と言ってもらえるように、作り手は調理しているでしょう。残念ながら「ママのお料理が下手」だったとしても、そこに悪意はない、ですよね。
 にも関わらず、「おいしくなーい」「まずーい」と子どもが言うことは暴言ですし、そんな心ない、間違った表現を許してはいけない、と強く感じています(自分が自分のために調理したものが、残念ながら失敗作で「ああ、おいしくなかったな、失敗だったわー」と自分自身で思うのは、あり、だとは思いますが)

 先日、とてもとても懐かしい人から、メールがありました 
その人は今から35年前、私と一緒にカリフォルニア州で開催された子ども向けのサマーキャンプに行った方でした 彼は当時、小学校3年生。私は大学を卒業して1年目の夏、仕事の一環として、通訳兼お世話係として同行しました

 参加者の中で一番小さかった彼の事はとても気にかかりで、10日間の滞在の間、お洗濯は上手に干せているか?とか、夜はホームシックで泣いていないか?と、細々と世話を焼きました。
 とても健気にがんばる彼は、積極的にアメリカ人の子ども達と一緒にアクティヴィティーにも参加していました でも、たった一つだけ、彼の困ったところは・・・食べ物の好き嫌いが多かったところ
 朝、昼、夜と食事をするたびに、「ああ、これはおいしくない」「これは、まずい」と何度も言っていました。始めのうちは私もそれを黙って見ていたのですが、だんだんとその言葉が耳触りとなって、3日目あたりだったでしょうか、「頼りになるけど、けっこう怖いおねえさん」は、その子のテーブルに行って注意をしました。

 「いい加減にしなさい 毎日、あなたがおいしくない、とか、まずい、とか文句を言っている食べ物は、おいしくないわけでも、まずいわけでもありません じゃあ、みんなに聞いてみなさい。あなたが言っているように、みんなもおいしくない、まずいって思っているかどうか。」

 (ここで、あちこちから「ぼくは好きだよ」「私はおいしいと思う」という合いの手が入りました)

 「いい これも、これも、あなたの口に合わないだけ あなたは、自分のおうちでもおいしくないとか、まずいとか、お母さんが作ってくれたお料理に文句を言っているのかもしれないけれど、それは大間違いよ お母さんは、あなたのために心を込めて作ってくれてるの それに、あなたが嫌だっていって食べないお肉もお野菜も、一生懸命に苦労をして作ってくれている人がいるの そんなこともわからずに、気ままにおいしくないとか、まずいとか言ってはいけません。たった今から、「口に合わない」と言いなさい。それに、口に合わないってことは、わざわざ口に出す言葉でもないのよ。だって、それをおいしいって思う人がたくさんいるんだもの。口に合わないと思っているのは、あなたの勝手な気持ちなんだから

 添乗員さんや、日本人のコーディネーターさんから拍手が沸き起こりました
いやいや、思えば、22歳の小娘が、偉そうなことを言い放ったものです。この子の親が一緒だったら、憤慨したかもしれませんね。でも、当時の私はどうしてもこの子の言葉が許せなかったし、とても良い子なのに、家庭でそんな暴言が許されている、ということが残念にも思えたのでした。

 すっかりオジサンになった「元3年生」メールの内容は・・・
長年待ち望み、生まれたお子さんは小学校3年生。この春にクラス替えがあり、初めて一緒になるお友達と席を並べて給食を食べた時のこと。お隣のお友達は「今日のおかずはまずい このデザートはおいしくない」と文句ばかり言って食べたのだそうです。
 この子は間違ってる!と思ったご子息は、「僕はおいしいと思うよ、まずくなんてない 〇君の口に合わないだけだよ」と注意をしたんだ、と、夕食の時、お父さんに話したのだそうです。

 「・・・先生。何だか、僕は泣けました。35年も経って、あの山のロッジの食堂でのことを、まるでついこの間のことのように思い出したのです。先生は怖い顔をして僕に注意をしていました。「口に合わないって言いなさい」「でも、わざわざ口に合わないなんて、言わなくていいの」ってね。あの日は、確実に今日につながっているんですね・・・」

 私も泣けました 
「元3年生」は、45歳のきっと立派なお父さんとなり「頼りになるけど、けっこう怖いおねえさん」は、57歳の子育てが終わったオバサンであり、幼児教室の先生になっています。35年前の自分の姿を想像すると、とても偉そうで恥ずかしいですが、それも今の自分につながっているのだなあ、と思うと、とてもとても感慨深いです。
 
 10歳だった彼は、きっと成長の過程で、とても多かった好き嫌いも減ったに違いありません。でも、苦手な食材や料理に出くわすたびに「これは口に合わないな・・・」と心の中で思い、そして父となってからは、我が子に「おいしくない、なんて言葉は間違っているんだよ。ママが君のために心を込めてつくってくれているんだもの」と語り継いでいてくれたのですね・・・