良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

サンタさんは、いるよ!

2008-12-23 15:47:17 | 良い子、良い親!
 「サンタクロースはいるの?いないの?
毎年、この時期になると、ちょっと大きくなった子どものいる家庭では、こんな話題が持ち上がりますね

 じつは我が家では、サンタクロースの「後ろ姿を見た」と、真剣に言い張るメルヘンチックな息子がおりました。
 当時は、すっかり兄に右に倣え!の妹も、うんうんうん!と横で神妙にうなづく・・・
 ですから、我が家の場合、こんなふうに説明をしていました。

 「サンタさんはね、10歳まではプレゼントを届けてくれるのだけれど、世界中の国々では毎日、どんどん赤ちゃんが生まれてくるでしょう。だから、増え続ける子ども達全員にサンタさんがプレゼントを配って回るのは不可能なの それで、11歳になったら、サンタさんからのプレゼントはもらえなくなるのよ
と説明をしていました。
 そう、サンタさんは「いる」のです ただ、プレゼントをもらえる権利は、より小さな子達に譲っていくものなのよ、というお約束、ですね

 彼らが、いつまで「サンタさんはいる!」と信じていたのか?ということを確かめたことはありません 実際、そんなことを確かめる必要などないでしょう。私は、心からそう思っています
 
 要するに。
サンタがいると信じていようが、サンタなんていないと豪語しようが、その子に、ほのぼのとした夢のある発想や思考があれば、その子にとっての「クリスマス」は、とても豊かで、あたたかいものに違いない!そう思います
 家族との楽しい時間、クリスマスらしい食事、クリスマスツリー、プレゼント・・・そんな愛情に溢れた両親のお膳立ての前に、子ども達のクリスマスは、ほのぼのとした思い出となる・・・

 私は、幼い子どもに、「サンタクロースというのは、4世紀頃のキリスト教の司教「聖ニコラス」が起源で・・・」などと、わざわざ教える価値を見出してはいません
 なぜなら、サンタクロースは、子どもとって、いえ、世界中の人々にとっての「一つの夢」だと思うのですよ

 キリスト教国家でない日本では、一部のキリスト教信者や、キリスト教をベースにしている学校以外では、クリスマスそのものがあまり意味深いものではなく、あくまで一つの「楽しい冬の行事」です。
 パパサンタさん、園長先生サンタさん、ボーイフレンドサンタさん、トナカイのそりでやってくるサンタさん、サーフィンしながらやってくるサンタさん・・・すべてのサンタさんが、待っている人々にとって、心温まる、幸せな気分にさせてくれる存在であることは確かです。

 サンタさんを信じる子ども達・・・少し成長してくれば、「???」と思うようになるのは当然のこと。
 でもね、私は、常々、「子どもらしい」と「幼稚、稚拙」とは異質のもの、だと考えています。
 年齢相応の能力があり、精神的発達は十分にしていながら、思考がユニークだったり、発想が豊かだったり、愛らしさに置き換えられるような子供っぽさがある子は「子どもらしい子」。
 それに対し、理解力が比較的低く、よって思考力も貧弱で、論理的に物事を考えられない子は「幼稚な子」。私は、そういうふうに定義しています。

 すべての子ども達、ご家庭に、それぞれの楽しいクリスマスがやってきますように

 メリー、メリー、クリスマス!

しいたけとレンコン

2008-12-01 10:58:56 | つぶやき
 先日、ひょんなことから、評判の高い天ぷら屋さんの食材を、そのお店でもなく、天ぷらでもなく、いただく機会に恵まれました まさに「ひょんなことから」で、決して今流行の『○○産の△△をいただく会』のような催しでもなかったのです。
 いただいたのは、「しいたけ」と「レンコン」でした。
要するに、車エビでも、江戸前のあなごでもなく、ちょこちょこっと私達がスーパーに行けば食べられる食材です

 ところがです。ひとくちいただくだけで、もう、すべてが違うんですよ 香りも、食感も、もちろんお味も・・・さすがに、かなりの驚きでした

 確かに最近では、生食用のお野菜は、味や香りにかなりの違いがある、ということはわかっていました。野菜ソムリエ・・・などと呼ばれる人がいる時代ですから、銘柄牛のように、お野菜も、かなり味に違いがある
 ただ、それもトマトやキュウリやほうれん草、にんじんのように、生で食べられるもので実感していたことで・・・
 ちょっと目先の変わったところでは、水菜やつるむらさきなど、あまり普通は生食でいただかないものを、バーニャカウダでいただく・・・という場合に、「へえー」と感心させられたくらいです。
 
 けれど、今回のしいたけとレンコン。
さすがに生食ではいただきません。ところが、火を通しても、香りも味も、本当に常々食しているものとは全く違う 似て非なるもの、とはまさにこのこと!と痛感しました。

 その二つが、どこの○○で~~~・・・のような講釈は敢えていたしません 食のブログではありませんからね。まあ、当然のことですが、しいたけもレンコンも、そのお店のご主人の「こだわりの逸品」であることだけは確か、でした

 私は、自宅でそれらを調理し(単にお味噌汁の具材にしたり、炒め物や煮物に使っただけです)、そして本当に形容しがたいほどに「美味」なお野菜をいただきながら、まったくお料理とは関係ないことを思いついたのでした・・

 『考えてみれば、人も同じ・・・』と。

 同じ格好、かたちをしている人間でも、じつは全く違う・・・そう気づいたのでした
 こんなことを書くと、「いやいや、『曲がりキュウリ』でも味は同じ!」と反論なさる方がいるでしょうね。
 確かにそうです 人が手を加えて、まっすぐにしたものは、見場が良いだけで、味に違いはない・・・見場を良くする必要はどこにあるのか?
 しかし、これはあくまで「見場を整えた」ということで、私が感服した「味」とは無関係です。私は、あくまで「味」の話しをしています。

 天ぷら屋さんのご主人にお尋ねすると、やはり、しいたけもレンコンも、確かに「○○産の△△」でした 
 生産者の研究と手間は大変なもので、私たちが普段、スーパーで簡単に手にいれているものとは、本当に「似て非なるもの」。
 
 しかし、それを求める場、求める人がいる限り、普及品と逸品はずっと存在し、同じように見えながら、全く違う機会、違う人に食されていくのでしょう
 普及品が粗悪品であるわけはなく、逸品だけが重用されるということではありません。どちらが良い、悪い、という問題ではないのです
 あくまで、「どちらを求めるか?」ですね。

 そして、逸品を育てるためには、当然、普及品を育てる以上の手間暇、研究、苦労はつきものです より良い逸品を作るためには、それ以上の努力と時間、研究は不可欠でしょう。
 普及品には普及品としての価値はありますが、けっして逸品に昇格することはない・・・そして時には、普及品を作っているつもりが、こっそりしてしまった手抜きで、たちまち普及品どころか、とんでもない粗悪品になってしまう、という危険性もあるでしょう

 手塩にかけた逸品とは、やはり、それだけの価値のあるもの、ですね 然るべき機会に、然るべき人に愛されるもの
 
 きっと人も・・・同じでしょう 
無垢で産まれた子供達。親という生産者の手によって、さて、どちらに育てられるのでしょうか?