良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

尊い愛情はお節介?!

2007-04-16 00:13:59 | こまりん子、こまりんパパママ
 あっ、ドアが開いた・・・どうしたのかしら、勉強に集中していないのかも
 むー、遅いわねえ・・・ 何かあった?いやいや、そんなわけはないか

 これは、我が家の二人の子どものうち、「手のかかったほう」の子どもに対しての「私」です
 浪人中、私はパソコンに向かいながらも、いつも廊下の向こうの子ども部屋に神経を集中していましたし、我が子の話す言葉に、何か隠れた深い意味はないか?行動を見ながら、何かマイナスの変化はないか?ずっとそんなことを気にしながら、生活をしていました
 父親である主人もまた、母親の私とは違う反応ではありましたが、やはり我が子のことをずっと気にかけ、見ていないようなふりをしながらも、かなり神経を集中して子どもの変化を見落とすまいとしていたと思います

 まあ、こういう両親の態度、様子を「我が子を見守る」という言葉で表現をすれば、非常に体裁の良い姿ですが、私達の気持ちは、大真面目に「見守って」いたものの、今振り返ってみると、ここまで両親の目と心が我が子に向いていると、当の子どもからすれば、「監視されている」と感じていたかもしれない・・・そう思います
 こういう状況の中で、もう一方のわが子
良くも悪くも、常に手のかかったもう一人の陰となり、こちらは何でも自分でやってのけました 
 卵が先か?ニワトリが先か?ではありますが、親がもう一人に手を焼いている間、こちらは「仕方がないから一人でやった?」それとも「しめしめ、親の注意がそれほどこちらに向いていないうちに、じゃんじゃん自分の思うように事を進めてしまおう!」と思ったのか?
 まあ、どちらかは定かではありませんが(きっと、その両方が相まっていたのでしょうね)、いずれにしても、こちらはとっとと我が道を「上手に」進んでいます

 最近、私はあらためてよく思うのです
幸福な家庭に生まれた子ども達にとっては、目が届く不幸せ??・・・とでも言うのでしょうか。

 我が家の場合、すでにすっかり大きくなっていますので、子どもにとって親のお世話焼きは、それほど大きな問題になりません 彼らが十分に大人だから、親に目や手をかけられても、基本的には彼らには彼らの世界があり、上手に親の「干渉?世話焼き?」をかわしながら生活ができます
 適当に「はい、はい」と返事をして、いっこうに気にしない、というようなこともできますし、家庭に波風を立てないように(これも、自分が気持ちよく暮らすのため、という理由であり、親への気遣いは二の次、でしょう)表だって反抗こそしないまでも、後ろ向いて大きくアッカンベーをしたり、自室でクッションを思いっきり殴ったり・・・

 しかし、まだまだ小さな子どもには、そんな器用な業はありません
真っ向から親の「攻撃」という尊い愛情(そうです、子どもにとって、親の愛情は七変化、なのですから)を喰らい、にっちもさっちもいかなくなる・・・

 現代の親達は、微に入り、細に入り、子ども達に干渉します もちろん、親はそんなことに気づいていません。なぜなら、その干渉は「尊い愛情の一つ」ですからね
 親が愛情の名のもとに行う子どもへのお節介とも言うべき手出し口出しは、子どもの自発性を失わせ、自らの力を用いての表現力を奪い、子どもの挑戦への意欲を減退させています

 何か新しいことに取り組む時にも、親が細かい指示さえしなければ、3歳は3歳なりの、4歳は4歳なりの「知恵」を働かせ、とにかく、行動を起こすでしょう
 たとえ時間がかかっても、そこに親の監視の目がなければ、それなりの行動を起こすはずです。もちろん、「逃げる」という退却の選択もありますが、それさえも、自分の力で考え、自分で決めたこと、ですからね

 本来、親の干渉は、社会的なルールやマナーを教える、ということに使われなければなりません
 公共でのマナーを教える、ということであったり、他人に迷惑をかけないために、子どもの行動上での注意を与え、エチケットを教える・・・など。
 しかし、今は、こういうことに一生懸命になる親は極端に少なく、我が子の「能力的な成長」ばかりに躍起になります

 我が子の自主性を重んじ、個性を尊重して欲しい・・・これが、現代の家庭の、学校への第一の希望です
 しかし、これは、半熟卵しか用意せず、一流のコックさんに「おいしい卵サラダを作ってください!」と言っているようなものです 一流のコックさんを招き、高級な食器を用意し、花や観葉植物で飾った部屋に、すばらしいBGMを流す・・・しかし、肝心の食材は未成熟 見た目は良くても、中はすかすかだったり、味のない形ばかりが良いものだったり。
 確かに、こういう例えはかなり極端ではありますが、意味はご理解いただけるでしょう

 目をかけ、手をかけ・・・それは尊い愛情です 辛辣な比喩で、若いご両親を批判する私も、実際には我が子に「目をかけ、手をかけ」てきた一人です

 けれど、その程度を十分に考え、目をかけすぎず、手をかけすぎずに見守ること
 時には我が子が転んでも、必死にこらえて手を出さず、自ら立ち上がり、歩き出すだけの強さと知恵を育てる「忍耐」も愛情のひとつでしょうね

 きっとあなたも、昔は、自分の親の尊い愛情を、鬱陶しいものとして感じたこと・・・あるでしょう

こんなのおかしいです!

2007-04-05 09:05:38 | こまりん子、こまりんパパママ
 ある休日の電車の中でのこと
2歳にはまだあと少し・・・と見える男の子が、両親と一緒にシートに座っていました 
 男の子の手には絵本 ちらりと覗いてみるとカラフルな絵に、英語の単語が書かれてあります。
 両親の真ん中にちょこんと座った子どもは、何かを指差し、「スタ」「スタ」と言います 若いご両親は歓喜
   「すごい すごいじゃあん 覚えてるよ、この子
   「そうだよねえ そうそう、星はスター、だよねえ 天才
 するとその男の子は、ニコニコしながら・・・
   「おし おし おししゃま」と言います。
 げげげ どうも、おししゃまは、「おほしさま」のことらしい・・・
 意地の悪い私は、心の中で思わず、「天才じゃなーい」と叫びました。
 いえいえ、もちろん、微笑ましい親子の様子、幸せそうな親子の時間です 見ていて、心が和みます。幼児虐待のニュースを見たあとで、この光景を見れば、それはそれは「ハッピーな家族」です

 でもね、やっぱり違うだろう、と思いました
二兎追うもの一兎を得ず、です。1歳児として、彼がまず覚えるべき言葉は「ほし」です お空でキラキラと瞬いているあれは、「おしちゃま」ではありません
 「おししゃま」幼児語だということもわかります。「さ」の音が発音しにくい音であることも充分に承知です
 でも、やっぱり1歳児のわが子に、親がまず、しっかりと教えるべきものは「ほし」ではないでしょうか。

 外国に駐在中の日本人家庭に子どもが生まれ、当分の間、現地で暮らすことがわかっているような場合、きっとその子は、「現地の子どもの世界」の中で暮らしていく上で必要不可欠な言葉は、その国の言葉であり、自分が生きていく上での手段として、たとえ子どもでも、外国語である現地の言葉を覚えなければならないでしょう そんな場合は、母国語は二の次、です。
 しかし、このような特殊な事情がない限り、子どもが生まれれば、親はまずは正確な母国語である日本語を教え、正しく発音できるようにリードすべきです
 どんなに世の中の国際化が進んでも、自国語をまともに話せないようでは、国際語である英語を話せたとしても、実際には話す言葉は内容の乏しい、ぬけがらの「音」でしかありません
 それに・・・実際には、この子の発音した「スタ」は、「star」でも「ほし」でもなく、今のままでは、「スタ」も「おし」も、どちらも言葉として通用するものではなく、単なる「音」以外の何ものでもありません

 その親子の様子を見ていた、私の前に座っていた15,6歳と思しき女の子が二人。中学を卒業した頃に見えました。
 あどけなさを残した顔にばっちりアイメイクを施し、虫さされとすリ傷の跡の残った素足にミュールを履いていました。精一杯の「おとな」の演出です
 一人の女の子が・・・
   「あの前の子さあ、バリかーわいいー スタだってさ。オメーより英語知ってんじゃねーの?ははは、ほんとにかーわいー 私さあ、子ども好きなんだよねえ すっげー子ども欲しいんだ」と言うと、もう一人が、何と
   「産めばいいじゃん
 と応えました。
 えーっ と思って聞いていると、
   「もうウチら16なんだからさあ、結婚だってできるんだよってことはあ、子ども産んだっておかしくないってことだよねえ
   「そうだねえ、かわいいもんねえ 出来ちゃったら、産めばいいねえ」・・・

 英語の絵本といい、この女の子たちの会話といい、私は発狂しそうになりました やめろてー、やめろー、やめてくれー こんなに変な世界はいやだあー

 どこかが少しずつ狂ってきて、だんだん狂ってきている、ということの認識がないまま、微妙に常識や良識が変化しつつあるのです
 日本の国際化の中において、幼い頃からの英語教育は国をあげて奨励され、少子化対策が叫ばれる中、単に「人口、プラス1」が歓迎される???
 それは違いますよね・・・

 最近、テレビのクイズ番組で流行のテスト。
1風景(自然でも、人がいても良い)の映像の一部が、5秒から10秒間それを凝視していた人が、どの部分が変化したのか?を答える、というテストです。ご存知でしょうか?
 そのテスト。確かに風景の一部はは大きく変わっているのに、なぜかじっと目をこらしていても、ちっともどこが変化したのか?がわからないことが多々あります そして、結果的に回答者も「わかりません!ギブアップです!」ということがよくあるのです。
 その後、じつは変化したのはここですよ、と教えられ、確認のために再度映し出される映像を見て、やっと「おおおおお 確かに、変化している」とわかる・・・んです。

 私は、現代の日本社会の微妙な少しずつの変化は、まるでこの映像変化のテストのようだ・・・と思えてならないのです
 少しずつ少しずつ、でも、確かに変化していっているのに、実際にはほとんど気づかない・・・
 人の良識も、人の言語力も、人の子育ての力も、すべてに変化があり・・・それもみな、マイナス方向への変化です

 こういうことを憂いているのは、私だけなのでしょうか・・・