良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

発見と達成感

2008-03-31 15:40:12 | つぶやき
 昨日は、「ハッピーランニング」の日でした
ひょんなことから実現したこの企画。もとはと言えば、卒業生ママ達との食事会の折、私が以前は全く興味のなかったランニングを始めた、という話から、「私達も走ってみたい!」という話題で盛り上がった、というのがきっかけでした
 ダイエットの目的で走りたい、とか、健康維持のためにランニングに興味がある、とか、そういう確たる理由があるのではなく、その食事会でのランニング話は、もっともっと単純な、「私にもできるのならば・・・是非走ってみたい」という希望?興味?からの声だったように思います

 昨日は、みなとみらいに9時半に集合し、お茶を飲みながらの40分間のレクチャー
 有酸素運と無酸素運動との違いや、毛細血管の話、代謝の話や心拍数の話など、最後はウエアや靴の選び方まで、専門的な話をわかりやすく、お話しをしていただき、ママ達はまだまだ話し足りない!というところでしたが、とにかくまずは走ってみましょうということになり、いよいよ外に出て、準備体操とストレッチ
 この準備体操も、単に昔からの見慣れた準備体操、ストレッチをする、というのではなく、一つ一つの動きの意味や正しい方法まで、しっかりと教えていただきやっていきました。身体を動かせるたびに「なるほど・・・なるほど・・・」と頷くことばかり
 そして、ランニング開始
走り始めてからも、ずっとおしゃべりをしながら、花冷えの中を3キロほど走りました
 1キロを8分くらいかけて走る、というスピードでは、決してハーハー、ゼーゼーとはなりません。このスピードは、早足であるくのとあまり速さ的にはかわりはありません しかし、やっぱり「歩く」と「走る」は違うもの このランニングは、まさにコーチのおっしゃる「スマイルランニング(にこにこしながらでも走れる)」です。
 苦しさから眉間に皺が寄り、辛さから笑うこともできない・・・というような修業スタイルのランニングとは違い、いろんな話をしてはみなでバカ笑いをし、すれ違う人に???と見られる・・・とにかく、和やかなランニングです
 そんなふうに、みんなでワイワイと走っているうちに、さっきまで遠くに見えていた赤レンガ倉庫がどんどんと目の前に迫り、そして、後方に去っていく・・・
 こういうランニングを初めて経験されたママ達は、みなさん、「目からウロコが落ちる」状態でした

 特に日本人にとって、「辛いこと」は美徳です。
ある意味、運動はその代表格かもしれませんね。それこそ血のの汗を流すほどにがんばり、苦しみを乗り越えてこそ、幸せが見えるんだあのような・・・
 でも、学生時代のクラブ活動や、本格的な国体を目指すような選手でない限り、実際には「常に苦しい」という運動では長続きしませんし、とにかく楽しくありません
 ご指導いただいた松山アヤトコーチは、話し方こそソフトですが、実際には、ママ達の今までのスポーツ観を根底からくつがえし、地面をウロコだらけにすようなお話しで・・・ひと言ひと言は、ママ達を唸らせました

 約30分間の満開の桜を愛でながらのランニングは、ゴール時点でのコーチとのハイタッチで終了しました
 神様の思いやりのおかげで、ランニング後のストレッチを終えて、「また、一緒に走りましょう」という終了の言葉の後で、空からポツポツと雨が降り出しました

 「自分に無理しないでランニングができるんだ、と思えることが、うれしい発見でした」
 「なんとも心地よい足のだるさを感じております・・・。参加する前は、なんとも言えない緊張感がありましたが、走ってみた後の爽快感は・・・想像以上でした!!!話しながら、苦しくも無く、景色を楽しみながら走れて、本当に自分でも驚くほど辛くなく、まだまだ走れそう・・・という気持ちでした。」
 「もともと運動能力の高くない私は、大学生になって本格的にスポーツを始めた時、とにかく理論から入りました。ひとつひとつの技術を頭に入れてからカラダで表現していく。技術の成長とともに、自分自身も少しずつ成長していくようで、本当の意味で楽しんでいました。また、競技中のハプニングへの対応は、その後の仕事等さまざまな場面で生かされました。ですから今日の体験は、まさにツボに入りました。コーチに囲まれて、はじめてのランニング。未知の世界のドアがまた開けたようで、これからが楽しみです。帰宅してさっそく家族に報告。みんな「走れた?」「できたの?」・・・走る前の私と同じ意識なのですね・・・マラソンは大変とか、苦しいとか。「ぜんぜん辛くないの。おしゃべりしながら楽しかったよ」と言っても、ピンと来ないようでした。当然ですね。みんな自分自身で体験して、家族で世界をひろげていけたらと思います。」
 「自分が有酸素運動で20分も走れたこともびっくりでした。夫も、「あなたがそんなに走ったということで本当におどろいちゃった」と褒めてくれました。こどもの成長、そして自分の人生の進行。「体を動かしたことがないという人ほど、伸び代があるっていうことです!今から走ることはすばらしいことですよ!」とニコニコ励ましてくださったアヤト先生の言葉が嬉しかったです。自分の場合、「成長」というより「変化」、しかもネガティブな退化や停滞ばかり感じておりましたので、「伸び代」というのは心底有難いお言葉でした。」

 これらは、参加者であるお母様方からの感想の一部です。みなさんが一様に、「発見と達成感」について触れられいます。

 新しいことに気づく、知らなかったことを知る、このこと自体が、胸がワクワクするような「喜び」なんですね。こういう新鮮で勢いのある心の動きには、年齢は関係ありません
 そして、何かをやり遂げた時の感動、それも、こんなことは無理だろうという思いから諦めていたり、トライすらしようと思っていなかったことを成し遂げた時の驚愕と興奮・・・この達成感にも、年齢は関係ないのですねえ・・・

 人は、大人になってしまうと、なかなか新しいことには挑戦しなくなり、平穏な生活を望むようになります。守りに入る、とでも言うのでしょうか・・・
 しかし、本当は心のどこかで冒険や発見のワクワクを望みながらも、年齢や時間的な制約などを錦の御旗にして、決して新しい一歩を踏み出すことをしません
 その「新しいこと」が、とてつもなく大きな、家族を巻き込み、混乱に陥れるようなことであれば、その挑戦は控えなくてはいけないでしょう
 でもそれが、ちょっとした自分の勇気で一歩を踏み出すことができることであれば??
 新しい一歩がなければ、心地よい達成感を味わえる機会は激減するでしょうね

 今回は、たまたま「ランニング」という企画でしたが、実際には、自分の身のまわりにはたくさんの「興味あること、やってみたいこと」はあるはずです
 
 私は、昨日心地よい疲労と達成感で、興奮気味に帰宅されたお母様達が、子ども達にとっても、「とても輝く存在」であったことを知っています
 そして、お母様が輝いている、ということこそが、子どもにとっても大きな喜びなのですね
 子どもが幼稚園や保育園の帰り道、アリの行列を発見した時のワクワクと、お母様が新しい体験をし、次の機会を待ちこがれるワクワク・・・じつは、この2つの思いは、全く同じものなんですよね

 私は、大人になったからワクワクのチャンスが減った、と思われるのは、錯覚だと思っています。どんなに真面目に、重要なお仕事をされているお父様やお母様にも、日々の家事に一生懸命のお母様にも、手を伸ばせばいろいろなところに「ワクワク」はあるものです。
 発見と達成感・・・大人にも、絶対に必要ですね


花より団子?

2008-03-24 12:30:42 | つぶやき
 今日は朝から雨が降っています
東京や横浜では、22日の土曜日に桜の開花宣言がありました 東京の標準木と呼ばれるソメイヨシノは靖国神社に、横浜の標準木は元町公園にあるそうです。
 今朝のこの雨は夕方までには上がる、とのことですが、開花から2日、まさに「催花雨」となりそうですね。
 この「催花雨」という言葉。さいかう、と読むそうです。「花おこしの雨」とも読ませる時もあるとのこと。催促の催の字を、「菜」と置き換え「菜花雨」として、菜の花が咲く頃の雨、という説もあるのだそうです
 こうしていろいろな言葉を見直してみると、あらためて日本語の豊かさを実感すると同時に、いかに日本人は昔から、季節を肌で感じ、その四季の移ろいを言葉として楽しみ、暮らしていたか、が理解できます

 桜・・・本当に美しい花ですね
私は毎年、教室の在室生のご家庭に、「しっかりと桜を観察すること」という宿題を出しています。
 ぱーっと桜が咲いた時に、家族でお花見に出かけ、美しい満開の桜を愛で、季節を楽しむ、というだけではなく、裸だった桜の木々の蕾が膨らみ始め、あたたかさとともに一気に蕾が膨らみ、開花宣言とともにどんどんと咲いていく様を、時間を追って楽しんでいただきたい・・・という思いからです

 そして、咲いたら終わり・・・ではなく、咲き終わった後、風の日に花吹雪となり地面をピンクに染め、その後、春の陽射しに促されてどんどんと緑の葉っぱを茂らせていく様・・・圧巻です。
 裸の枝々から始まった「桜の木」の観察が、新緑の枝となって風に揺れるまでの約1ヶ月・・・毎日、親子で足を止め、桜の木を眺める時間は、決して「理科的観察」の時間ではなく、「かけがえのない季節を肌で感じる親子の時間」となるはずですからね

 先だって、ホームページの中に、新しい項目として、「卒業生のご家庭からの声」というものを作ろうと思い、原稿を書いていただきました。
 その中に、こういうお母様からの原稿がありました。

  『先生のアドバイスに従い、保育園への登園時に通る公園の桜並木から1本を『Wちゃんの桜』と決めました。
硬かった蕾が少しずつ膨らむ様子。夕方に見つけた少し開いた桜の花。そして徐々に満開へと向かい、ピンクに染める桜の樹。桜吹雪の中での帰宅。新緑の季節を迎える頃、その観察は終了します。
 しばらく変化の見られない桜の樹を、ちょっと困った様子で見上げてい息子の顔。ある朝、満開の桜の幹に嬉しそうに手を添えていた時の表情。そして、今日の桜報告を笑顔で聞いていた主人。
 小学校に入学し、あの『Wちゃんの桜』の公園を通ることもなくなりました。
それでも毎年のように「ママ、公園の桜はもう咲いてるかなあ?」と、ちょっぴり懐かしそうに話す息子の表情を見るたびに、あの頃を鮮明に思い出します。
時間に追われ通過するだけの公園でしたが、私たち家族にとって素敵な想い出の樹となり場所となりました。』

 私はこの原稿を読んだ時、本当にうれしくなりました
小学校受験の考査の中で「季節の理解」は大きなポイントとなります。以前、やはりブログの中で書いたと思いますが・・・
 考査の中でなぜ「季節」を扱うのか?という理由に、「四季のある国、日本に生まれ育ち、その季節の移ろいを暮らしの中で感じられる家族の時間は、その家庭の豊かさのバロメーターになる」と解説をしました
 しかし、実際には、たった5、6歳の子どもの記憶の中に残る「季節感」となると、非常に難しいものがあります
 私は経験上、気づいています。
本当に豊かな心で子育てをなさり、お父様もお母様も季節を愛でる上級者である家庭のお子さんでも、やはり物心付いてから、たった3,4回の季節の巡りでは、それを記憶として残すことは難しいものです。
 ましてや、食卓に季節感もなく、生活の中に季節の花やインテリア小物もない、というような心に潤いのない母親に育てられてしまったら・・・子どもの中に季節感などは芽生えもしません

 しかし、やっぱり小学校受験云々ではなく、親子で立ち止まり、季節の木々や花々を愛で、しばし観察する、という時間は、きっと人の心に平安を与えてくれるはずです
(まあ、中には、桜を観察してくださいね、とお願いすると、図鑑を片手に近所を歩き回り、桜の種類別に花びらのスケッチをさせてしまうような「ちょっと的はずれ」な親もたまにおいでになり、苦笑を禁じ得ませんが・・・

 お花の大好きな私ですが・・・
今年はちょっと「花より団子」の方向にも傾いています 最近、大ファンになった茗荷谷の「一幸庵」という和菓子屋さん。ここの麻布最中、餡入りのワラビ餅は絶品なのですが、桜が咲いている季節だけ、このお店のご主人は「お団子」を作られます。
 横浜から茗荷谷・・・かなり距離はあるのですが、生徒さんに教えていただいた「播磨坂」の夜桜でも夫と一緒に見に行きがてら、何とか、桜が咲いている間に、まだ未経験の「一幸庵のお団子」を食べたいものです

子育ての極意?!

2008-03-17 09:22:57 | すてきパパママにご提案
 私の前回のブログを読まれて、あるお母様からメールを頂戴しました
 「・・・前回のブログの中に、先生はこんなことを書かれていました。「もちろん、私が走っている時も、いつもへらへらと笑っているわけではありません。ダラダラと寝ころんでいるのではない限り、心拍数も上がりますし、ちょっと苦しくなってきたな、とも思います。
 でも、心拍数が上がれば、下がるまでスピードを落とし、苦しくなれば、苦しくないところまで、ゆっくりにペースを落とせばよい。それでも苦しいと思えば、走るのを止めて歩けば良い そうすれば、「辛く」はない、ですね」
私は、この部分を読んで、とても勇気づけられました。時には ペースダウンもして、まずは第一の給水所目指してがんばります!・・・」

 私は、私の書いた真の思いが届いて、とってもうれしかったです
 私書くブログ・・・私が、一生懸命にランニングの話題でブログを書いたからといって、それはランニング雑誌への投稿ではありませんし、食文化の話をしても、グルメ雑誌への投稿ではありません
 そんな私の思いを、きちんと上手くキャッチしていただけたことに、私は感謝しました
 そして、このママが幼い3人のわが子の子育てに孤軍奮闘する毎日に、少しでもお役に立てたということは、私のこの上ない喜びでした

 私は、いまでこそ「感情の勝った人間?!」ですが、22年前、特に新米の母親の頃は、無類の理論派でした
 育児も、「頭」でするものだと思っていましたし、獣の母親ではないのだから、しっかりと「良い子育ての理論」も理解した上で、一生懸命に子育てをするべき・・・そういうアカデミックな子育てをしましょうと思っていたわけです。
 当然、私の夫は理系のりっちゃんで、そのタイプの人間でしたしね
今思い返せば、何と未熟な母であったか、と穴があったら入りたいですねえ
 それに、動物の母親のほうが、ずっとずっと知恵のある人間よりも愛情深く、自然の摂理に沿って、立派な子育てをしているなあ、今は痛感することが多いです

 しかし・・・
実際に2人の子育てが始まってみると、そんな悠長なことは言っていられなくなりました
 特に息子はお猿の猿吉で、どんなに真剣に言い聞かせても・・・
 「わかったよ ボク、ちゃんとできるよ
 と笑顔で応えておきながら、次の瞬間には、もうその場にはいない・・・ そういう、超良く言えば行動派、悪く言えば節操のない単なるやんちゃ者、だったのです
 ですから、私が思い描いたソフィスティケイト?された子育てが出来たのは、彼がベビーベッドでフィッシャープライスのオモチャでうれしそうに遊んでいた2,3ヶ月だけ。
 それ以降は、毎日、アカデミックな子育て、スマートな子育て、私が自分で描く理想の子育てがうまくいくわけなんてありません
 実際、うまくいかないのがやんちゃな息子のせいというわけでもなく、私の思い描く理想の子育てこそが、「絵に描いた餅」だったのですからね
 私は、そんな毎日に腹を立てる、というのではなく、むしろ、自分の無能さを責める?という感じでしたね・・・


 でもね。3年後に娘が生まれ、孤軍奮闘しているうちに・・・ふっと気づいたのです
  良い母って何だろう?って。
  良い母の定義・・・

 良い母とは、子どもにとっての「良い母」であって、自分が数々の育児の知識や理論に基づき、頭の中で思い描く理想の母が、本当に子どもにとっての良い母なのか?それに「良い」の定義は、極めて曖昧・・・

 そんなことに気づいたとたん、何だか急に、ハラハラと泣けてきてしまいました
 母親である私は、もっともっと肩の力を抜いて、この二人のわが子がかわいくてしかたがない!って真実の気持ちだけを持って、もっと「自分に優しく」してあげよう・・・ってね

 人は、自分に厳しくしすぎるから、自分で自分の首を絞めてしまう・・・その事に気づいたのでした

 二人の子ども達が成人した今。
果たして、私が「二人のわが子」にとって、良い母であったかどうかはわかりません その時、その時で、一生懸命に考え、対処をしてきたことは真実ではありますが、だからと言って、空回りをしていたことだって一度や二度ではありませんしね
 それに、私が二人にあらためて「ねえ、ママって、あなた達にとって、良いお母さんだった?」などとたずねたこともありませんし、きっと、真剣にたずねたところで、彼らだって、返事に窮するでしょうしねえ
 そんな事、考えながら母親と毎日関わっていたわけではないでしょうから・・・

 まあ、とにかく
あなたが、病的にわが子を殴りたくなる・・・というような猟奇的な母親でなければ。毎日、真剣にこの子をどこかに捨ててしまいたい、と捨て場所を探して歩く母親でなければ。折檻をして、すかっとする、というような母親でなければ・・・あんまり自分を責めないことです。
 きっと、あなたはそれほど偉くはないはずです、よ

 子育てなんて、泣き笑い。終わってみて、やっと、すべての時間が愛しくなる、という厄介なものです 
 だから・・・今は、目の前のことに真面目に、でも、自分に優しく、淡々と地道に時間を送る ですね

私のランニング

2008-03-10 14:53:40 | 良い子、良い親!
連日、説教臭い話題が続きました
あまり真面目過ぎるお話しばかりでは嫌われてしまいそうなので・・・今日は、ちょっと息抜きの話題

 ここのところ、ランニング話で盛り上がっています しかしその一方で、ランニング話だからこそ、盛りさがっている、という方もたくさんおいでになるでしょうね
 まさに 半年前までの私が、誰より「ランニング話で盛り下がる」タイプでした

 まず、「走る人」の気持ちが理解できない・・・
 なんで、わざわざ苦しい思いをしているのか?
 なんでハーハーゼーゼーすることが続けられるのか?
 本当に理解不能だったのです
 たとえば、中学や高校の運動部部員が、揃ってクラブの前に走る・・・とか、陸上部員が走る、というのであれば納得します でも、クラブでもなければ、体育の授業でもない・・・本当に理解できませんでした

 そんな私の横で・・・夫は、無類のランニング好きです
私は眺めているだけで、何と言うのでしょうか・・・悲しくなるとでも言いましょうか・・・

 たとえば。
そろそろ陽射しが強くなる晩春の日曜日。私が朝食の後かたづけを終えてリビングに戻ると、そこにはランパン、ランシャツ(マラソンの選手達がレースの時に着ているヒラヒラの短いトランクスのようなものと、タンクトップのようなランニングシャツです)姿の夫がいて、入念に日焼け止めを塗っています(私の夫は、なぜかシミやシワを嫌悪し、回避するための努力を惜しみません)。
 そして、何か武者震いでもするような雰囲気を醸しだし、
  「じゃあ、ちょっと走ってくるわ」と出かけて行きます。
 約2時間後。
私がお洗濯を干し終え、パソコンの前で仕事を始めた頃、ガチャンの玄関のドアが開き・・・汗をしたたらせ、真っ赤な顔をした夫が帰ってきます
  「いやー、気持ちよく走ったわ 20キロくらいやね あー気持ちいいなあ、この陽気に走るのは
 汗と日焼け止めのローションがミックスされた、妙な白い顔・・・

 冬ともなれば、汗ダラダラではありませんが、今度は違う意味でかなりキモイ
 長距離を走るランナー体型になってしまっている夫の足は、まるで小学校の理科室にあった、筋肉標本のようです。
 もともとはダイバーで、水泳を得意にしていた夫は、昔はそれなりに胸板が厚く、肩幅も広かったので、がっちりとした人でした。ところが、マラソンをするようになってからは、ランニングに直接必要のない筋肉は落ちていき、水泳もしなくなったために上半身は華奢になりました
 その夫が、最近流行の筋肉の動きをサポートするというタイツ、CW-Xを履くと・・・私の立派な足の半分の太さです

 とにかく
私達夫婦は自他共に認めるオシドリ夫婦ではありましたが、夫の趣味であるランニングにだけは、私は全く理解がありませんでした。
 そんな私が、昨年の夏の、夫の自転車事故を期に、思うところあって、ランニングを始めるわけです
 でもね
私にとってもランニングは、「辛いスポーツで根性を鍛える」とか、「何の道具も必要のない、楽に始められるランニングで健康管理をする」とか、「心地よい達成感を味わうためにスポーツをする」とか、そんなものではありません。
 そうですねえ・・・最も、ぴったりの表現をすれば。
 「今まで、私が知らなかった世界や、経験をしたことのない気分を味わえるビッグチャンス」 であり
 「50歳になって、もっともっと人として豊かになりたい、と願っている私にあたえられたチャンス」 でしょうね。
 そして、オマケのように、夫とその世界や気分を共有できるのであれば、一石二鳥かな・・・

 ところが。
先日、卒業生ママ達とお食事をしていて、とっても「驚くことを発見」しました 
 それはね・・・そのママ達、一様に、私が忌み嫌っていた「ランニング」を始めたことに驚きを隠せないようで、「先生、またどうしてランニングを???」と言われたわけです。
 そこで、私は上記のようなことをお応えすると、ママ達のお返事は、私の予期していないものでした

 その日にご一緒したママ達は、みなさん、中学や高校の頃に運動部に所属されている方達でした。
 そしてみなさん、クラブでの「辛いランニング話」を披露なさり、まるで昨日のことにように、コーチの罵倒、先輩の罵声、ランニングの時の様子を口々に話されました
 「あの時に感覚・・・今でも思い出す・・・走る、ってことにはあの辛いトラウマが付きまとうね・・・」と。

 そうなんですねえ・・・私は、初めて知ったのでした
私には、辛いランニングの記憶はありません。中学時代に所属していたスキーや登山をするクラブでも、日頃のトレーニングはなし。月に一度の山行だけです
 高校では、文化部系に所属していましたからね・・・趣味で、テニスやゴルフのレッスンには通っていましたが、そういうレッスンはあくまでスポコン系ではなく、どちらかと言えば、優雅な、お嬢ちゃんの趣味クラブ
 ですから、私には、「止まるなー・・・もっと走れー・・・何やってんだー・・・」みたいに言われて走った記憶は、たった一つもないのです。

 一人のママに「先生はなんで走られるのですか?」と聞かれ、私は答えに窮しました じつは、そんなことを考えたことがなかったからです。
 一応、ハーフマラソンは走ってみたいなあ、と思っていたり、いつかはフルマラソンも走れるようになりたい、とは思っているので、そのようにお応えすると・・・
 「ああー、それが目標で、走っていらっしゃるのですね」と確認?され、やっと、うんうん、と納得されたようでした
 でも、むー・・・私のランニングには、あまり目標設定は重要ではなかったように思えます、自分の気持ちの中では。
 「どのくらいのスピードで走るのですか?」
 「・・・ハーハー、と辛くはないですか?」
と尋ねられ、私が「いやいや、今のところは1キロを7分ちょっと、というタイムで走っているので、一緒に走る人と、いろんなお話しをしながら走ったりもしますよ」とお応えすると、
 「えーっ 人としゃべりながら走るのですか?」と驚かれました。
 「ハーハー、ゼーゼーと走るのは、苦しいでしょう?辛いとランニングなんて続けられませんものね」と話すと、みなさん、口を揃えて・・・
 「ランニングは・・・辛いものでしょう・・・楽しいランニング・・・なんて、ありますか?」
と、とっても私のお応えが、理解不能のようでしたねえ

 スポーツには、2種類あるのだな、と実感しました
大別すると、「辛い思いをして頑張るスポーツ」と「楽しい思いをするスポーツ」と。そして、私は思いました。
 私が一生懸命に、お母様方に奨励している「人を豊かにする、一つのチャンス」としてのスポーツは、決して「辛い思いをして、必死に頑張ったり、イヤイヤ取り組んだりするスポーツ」ではないのだな・・・と。

 もちろん、私が走っている時も、いつもへらへらと笑っているわけではありません ダラダラと寝ころんでいるのではない限り、心拍数も上がりますし、ちょっと苦しくなってきたな、とも思います。
 でも、心拍数が上がれば、下がるまでスピードを落とし、苦しくなれば、苦しくないところまで、ゆっくりにペースを落とせばよい。それでも苦しいと思えば、走るのを止めて歩けば良い そうすれば、「辛く」はない、ですね

 そして、もし私が敢えて目標を設定したら・・・きっと私は、その目標に向かってがんばることになるでしょう
 けれど、その目標は、誰かに決められたり、強要されるものではなく、自分で決め、自分で向かう目標です
 目標を達成するために努力をすることも、途中で止めるのも、自分の判断です

 次に私がランニングをする時・・・きっと、あらためてこのことを思い出し、楽しいランニングをしている自分を、再確認することでしょう
 そして、目的や目標、走る意味は根本的に違っても、「走る」という同じ行為をしているレースに出る選手達に、限りない愛着を感じ、賞賛のエールを送り、やっぱりかっこいいなあ、と憧れますね

世界のみんなが参加すればいいのに!

2008-03-08 16:06:42 | すてきパパママにご提案
 ここのところ、私がご紹介をした「パラカップ」の話で、私のまわりはにぎやかです そんな中・・・

「意気込んで『ママ、走ろう!』と言っていたわが子ですが、その後は色々と心配していたようでした。けれど、この大会の趣旨を説明し、速さ、タイムなどを競うものではなく、チャリティーが目的なのだから、楽しく参加すればいいのよ、と話をしたら、とても安心したようで、張り切っております。そして、『マラソンに参加することで世界中の子供たちが助かるなら、世界のみんなが参加すればいいのに!』と言っておりました

 これは、あるお母様から頂戴したメールです
私は、このメールを読み、まだまだ幼い低学年のお子さんが話された最後の言葉『マラソンに参加することで世界中の子供たちが助かるなら、世界のみんなが参加すればいいのに』に、大変感動しました
 この感性、すてきですねえ。真摯にお母様の説明に耳を傾けたこのお子さんは、きっと心からそのように思ったのでしょう
 この親子の場合はマラソン大会ですが、それがチャリティーのミュージカルであっても、○○大会であっても、△△会であっても、アクションを起こした限りは、それなりの体験とそこから得る「何か」は貴重でしょう。
 けれど、チャリティーのマラソン大会を開催する団体の「真の思い」は、すでにこの母子には十分に伝わり、10歳足らずの子どもにも、しっかりと思いが根付いたような気がします

 同じ時期に、こんなメールも頂戴しました。
そこに書かれてあったことは・・・昨年の秋、まだまだ幼いわが子にせがまれて、このお母様はご自宅の近くの駅前で、赤い羽根の共同募金をなさいます
 小さな手で募金箱にお金を入れるお子様。すると、赤い羽根が手渡される・・・そこ子はうれしそうに、その赤い羽根を付けてもらい、そしてママを見上げて言われたのだそうです。
 「ママ、赤い羽根、買ってくれてありがとう
 お母様は、そのとき、ちょっと違うな、と違和感を感じつつも、上手く説明できないかもしれない、という思いを持ちながら、そのままにされたのだそうです。
 しかし、今回の一連のチャリティーマラソンのことがあり、一つ前のブログに書かれた内容なども読みながら、このお母様は、たとえわが子が幼かったとは言え、何も訂正も説明もせず、そのままにしてしまったことがあらためて思い出され、後ろめたさのようなものを感じている・・・と。
 私は、このお母様の思いにも、とても心動かされました

 人は、さまざまな機会から、多くのことを感じ、学びます
Aさんにとって何の意味もない事柄が、Bさんにとってはとてもインパクトのあることであり、一生に幾度もないほどの意味を持つことかもしれません。
 とにかく、親であればこそ、やはり感性にヒットする多くのアンテナを、五感のあちこちに持っている必要があるでしょう
 
 昨年、渡辺淳一氏の書かれた「鈍感力」という本が話題になりましたが、この鈍感力とは、決して敏感の対極にあるものとしてではなく、「些細なことは気にせず、少々のことは気に病まず、たくましく生きる力を持つ」という意味で使っていらっしゃいます

 私が親に必要だと考えるものは・・・
  五感で感じる力
  頭ではなく、心で感じる豊かな能力
です。そして・・・
  感じ、考え、学び、自分のものとして咀嚼したら、次は何らかのアクションを起こすバイタリティー
 この話には、じつは是非ぜひお伝えしたい「続き」があるのですが、今日はこのくらいにして・・・