まど

細く開いた窓を覗いてみると、そこにはNikonD70Sを前に困惑している女がひとり・・・

アール・デコの館 ~赤い入り口~

2006-09-30 23:00:54 | Weblog

普通、生活する空間で大きい面積に赤を使うのは勇気が要る。
ハレとケで言えばやっぱりハレのほうでしょうから、精神状態もパアッとしてしまいます。
遊郭なんかで赤い壁があったようですが、なるほど昔の人のセンスはすごいなあと妙に納得したりします。

こちらは香水塔というオブジェがある小室ですが、大広間と大客室に挟まれていて、この建物のシンボルとなっているような公的な場なので、この赤が他の部屋との区別をし、格調を高めているようです。

http://www.teien-art-museum.ne.jp/floor/IPIX/kousui.html

この奥に何があるのがふさわしいでしょうか?

 

そして、こちらの入り口を覗くとなにがあるか?
想像するのはなかなか楽しいです。
(こちらは以前訪れた兵庫県立美術館)



アール・デコの館 ~東京都庭園美術館~

2006-09-26 12:26:39 | Weblog

何かを写生する、模写する。
その地道な積み重ねがきっといつか形となって姿をあらわす。
期待しているよ!若者!

 

東京都庭園美術館 旧朝香宮邸の建物が3年ぶりに公開されています。
いつも写真撮影は出来ないのでここぞとばかりに行って来ました。
といっても、これまた滑り込みセーフでしたが。(10月1日まで)

エントランスホールのガラス扉のレリーフはルネ・ラリックによるものです。
初めて見たときは美しさに思わず息を呑みました。
この学生さん(と勝手に決めている)はどんなことを感じながら写生しているんでしょう。それとも無心かな。

 


聖アンセルモ教会

2006-09-24 21:41:38 | Weblog

レンズ、直りました。

目黒へ来たので駄目モトでアンセルモ教会へと足を運びました。
ここへ初めて来たのはもう10年以上前で、バンタンに行っている知り合いが、「ウチの学校の近くにアンセルモ教会というのがあって、そこでやるバザーは面白いよ。」と誘ってくれたのです。
知り合いは金工をやっている子で、バザーで見つけた服に手を加えて着たりして、とても様子がいいのです。
バザーで実際に何か買ったかは覚えていないのですが、その教会と祈りの家と呼ばれる建物の素敵なことにすっかり感激してしまいました。
その後、教会の設計者がレーモンドだということを知り、やっぱりさすがだなと改めて思ったものです。
写真を撮るようになって4度足を運びましたが、平日で開いていなかったりミサをやっていたりで、祈りのために訪れたわけではない私は遠慮すべきだと思い、カメラを出すことなく帰りました。
ミサのときは後ろのほうでおとなしく座って内部の美しさを楽しんでいましたが。

今回は結婚式があるようで、扉が開いており、パイプオルガンの方が本番前の練習をしていたり、カメラマンの方が機材を運んでいたりして、中に入っても大丈夫な雰囲気でしたので、そっと撮らせていただきました。
レーモンドが日本に来ていてくれて、そしてこんな作品を残してくれて本当に良かった。


翻弄される

2006-09-18 23:15:07 | Weblog

以前、民族舞踊の稽古をしているところに出くわし、撮ったものです。
これは踊子の役らしく、何人も並んで踊っているところに邪神のようなものが現れ、彼女たちを翻弄する、というような内容だろうかと思われました。

今日は再び出光美術館の「雷神風神図屏風」を、今度は家族揃って見てきました。
娘が「なんで写したの」というので「日本画の世界では、優れた作品を模写して勉強するということがあるらしい」と答えておいたのですが、改めて「なんで写すんだろう?」と考えてしまいました。
芸術家たるもの、自分の個性を殺して模写することに何の意義があるのだろう?
自分を無にして優れた絵(造形も)をなぞると、技術も、作者の意図もわかるからだろうか?

家に帰り、たまたま広げた雑貨の雑誌に陶芸作家の話が載っていました。
彼はある器(デルフト)の美しさに感動し、作意を殺して写すことのみに心を注ぎます。
そして、オリジナルと写しの狭間で、本物の個性とは何か、問いと答えを見つけたような気がした、と語ります。
写すということの意義はこれだろうか?
・・尤も、私がそのような深い創作活動に踏み入ったことがないので、暗闇のなかで匂いをかいで何がそこに置かれているか想像しているようなもので、おぼろげながらも姿がわかるということには程遠いのですが・・・。

さて、自分のやっていることに目を向けてみると、写真の世界では作品の写しをするということは有り得ないことで、同じ手は使えません。
カメラを買ってもう1年経つのに、確固たるテーマも決まらぬ有様、これでは最初に決めた「わたしらしい」写真とは何かに気がつくまでどのくらいかかるのか、また一体どうやってやっていけばいいのか、行く方向も判りません。
写しという手段が使えないのなら、せめて人の作品を見て、その意図をなぞる・・・、そのうちに何か見つかるかもしれない。
ちょっとあせりを感じ始めたところにレンズの破損というトラブルがあり、撮影に出られないジレンマを抱えて、撮れないならいろいろ考えてみようと、今日は「写し」ということから辿ってみました。

考えているばっかりで、ちっとも作品が出来上がってこないのが一番ダメなんですけどね。
ちょっと邪神に翻弄されているような気分です。


風神雷神図屏風 ~出光美術館~

2006-09-13 22:10:45 | Weblog

良い企画があったものです。
宗達・光琳・抱一(さすが、若冲もそうだけど、ちゃんと変換するんだ・・)の風神雷神図屏風を並べて見せていただけるとは。
もう、私の生きている間にはないでしょう。
平日、朝10時だというのに思ったより大勢の方が見に来ていらっしゃる。
さすがに平均年齢が高く、私は下っ端のほうでした。こんなことは近年ありません。(笑)
それぞれの持つ味わいについては、私がどうのと言うより直に比べて楽しむのがよろしいのではないかと思うので触れませんが、ただひとつ、宗達の風神雷神図屏風を見た時に感じたことが・・・・。

 風神の天衣、雷神の太鼓を全部描かずに切ってあるのです。
どうして切ってあるんだろう?もし、私が雷神と風神を写真に撮るとしたら、切るだろうか・・・・・・?

そのあと光琳・抱一のものを見たときに、全部描いてあると、やけにちんまりと纏まってしまうことがわかりました。
一部切ってあることにより、ひろがりを感じる。
写真を撮るとき、あるいはトリミングするときには、どこをどの位切るか考えているつもりでしたが、ひろがりを感じさせるため、ということは考えたことはありませんでした。
まったく、こんなことで良いんでしょうか・・・。(苦笑)

その他、抱一の燕子花図屏風は素晴らしかった。抱一という人は優美な線を出すひとなんだなあ、・・・・・風神雷神図を描くタイプじゃないんじゃ・・・。


折角都心まで来たので、もうひとつ展覧会をハシゴしようと、国立近代美術館へ向かいました。(こちらは企画が面白いと思うけど、もっと絞り込んでくれないと私には受け止め切れませんでした)
その途中、パレスサイドビルを見学。
良いビルです。良い時代にお金を使って建ててあるのだろうなあ。
ディティールまで神経が行き届いている。
レンズが直ったら、またちゃんと見たいです。


神の戒め

2006-09-04 13:19:46 | Weblog

今までにない嫌な音がしたと思った・・・。

立ち上がろうとしたら、ストラップを踏んづけておりまして、ですね、レンズからガチャッ!と落ちました、です。

・・・・トホホ。レンズは無事だけど、何かがゆがんだらしい・・・。

昔から注意力散漫で粗忽な人間でしたので、来るべき日が来たとも言えるかもしれません。

しばらく写真撮れないなあ・・・。
どうする?コンデジで撮るか?ジイサンのフイルム一眼たちはきっとカビだらけだし。
いっそこないだ実家から持ってきたオリンパス・ペンなんてどうだ?
自分のちょちょら(新潟弁です)な写真の撮り方を叩き直すために、少しアナログってみたほうがいいのかもしれない・・・。(オリンパス・ペンはアナログ?)
神の計らい、だろうか?
・・・・いや、ただの破損でしょう。・・・チェッ!戒めのほうか!

うーん、神様のくせに色っぽい・・・・・、と思ったのでバチが当った、のかもしれません。