以前聞いた、とある古本屋での常連客と店主の会話。
「あの、ここの棚にあった○○の本(理系の解説書の名)売れちゃったかな?」
「あー、あれね、売れちゃいました。」
「そうか・・・、理系の人の文章って、簡潔で文として面白いんですよね。」
「そうそう。」と二人の話はさらに迷宮へ・・・。
ふーん、なるほど・・。そんな味わい方もあるのか。・・・・・・。
立原道造という人がいました。
今日は彼が24歳で亡くなった日です。
少女だった頃より何故か惹かれ、常に最上のうつくしいものとして自分の中で向き合う存在。
多分どんなにおばあさんになっても、ずっとそれは変わりません。
彼は、 詩、建築、そして絵画にまで類まれなる才能を発揮して、たった24歳でこの世を去ってしまいました。
やはり一人の人間に抱えきれないほどの才能を持った人というのは夭折するしかないのか。
彼の詩を読むと、彼がなにか夢の中でみた美しい情景を追体験しているような心地がする。
かといって、ふわふわと朧げなのではなく、きちんとした実像を結ぶのは、理系の人らしく、理性的に詩を結晶させてあるからなのか。
彼と全く対岸の人間である私には、わかりようもないのですが。
私が立原道造に惹かれるのは彼との間に絶望的な距離感があるからなのでしょう。
あこがれとは、本来そういったものなのでしょう。
彼と自分との距離を味わいつつ、ため息をつく。
I ひとり林に‥‥
だれも 見てゐないのに
咲いてゐる 花と花
だれも きいてゐないのに
啼いてゐる 鳥と鳥
通りおくれた雲が 梢の
空たかく ながされて行く
青い青いあそこには 風が
さやさや すぎるのだらう
草の葉には 草の葉のかげ
うごかないそれの ふかみには
てんたうむしが ねむつてゐる
しじま
うたふやうな沈黙に ひたり
私の胸は 溢れる泉! かたく
脈打つひびきが時を すすめる