まど

細く開いた窓を覗いてみると、そこにはNikonD70Sを前に困惑している女がひとり・・・

翻弄される

2006-09-18 23:15:07 | Weblog

以前、民族舞踊の稽古をしているところに出くわし、撮ったものです。
これは踊子の役らしく、何人も並んで踊っているところに邪神のようなものが現れ、彼女たちを翻弄する、というような内容だろうかと思われました。

今日は再び出光美術館の「雷神風神図屏風」を、今度は家族揃って見てきました。
娘が「なんで写したの」というので「日本画の世界では、優れた作品を模写して勉強するということがあるらしい」と答えておいたのですが、改めて「なんで写すんだろう?」と考えてしまいました。
芸術家たるもの、自分の個性を殺して模写することに何の意義があるのだろう?
自分を無にして優れた絵(造形も)をなぞると、技術も、作者の意図もわかるからだろうか?

家に帰り、たまたま広げた雑貨の雑誌に陶芸作家の話が載っていました。
彼はある器(デルフト)の美しさに感動し、作意を殺して写すことのみに心を注ぎます。
そして、オリジナルと写しの狭間で、本物の個性とは何か、問いと答えを見つけたような気がした、と語ります。
写すということの意義はこれだろうか?
・・尤も、私がそのような深い創作活動に踏み入ったことがないので、暗闇のなかで匂いをかいで何がそこに置かれているか想像しているようなもので、おぼろげながらも姿がわかるということには程遠いのですが・・・。

さて、自分のやっていることに目を向けてみると、写真の世界では作品の写しをするということは有り得ないことで、同じ手は使えません。
カメラを買ってもう1年経つのに、確固たるテーマも決まらぬ有様、これでは最初に決めた「わたしらしい」写真とは何かに気がつくまでどのくらいかかるのか、また一体どうやってやっていけばいいのか、行く方向も判りません。
写しという手段が使えないのなら、せめて人の作品を見て、その意図をなぞる・・・、そのうちに何か見つかるかもしれない。
ちょっとあせりを感じ始めたところにレンズの破損というトラブルがあり、撮影に出られないジレンマを抱えて、撮れないならいろいろ考えてみようと、今日は「写し」ということから辿ってみました。

考えているばっかりで、ちっとも作品が出来上がってこないのが一番ダメなんですけどね。
ちょっと邪神に翻弄されているような気分です。