あれは、本当にあったことなのか、それとも私が頭の中でこさえた風景なのか・・・?
子どものころの記憶というのは、なんだか午睡の夢の切り取りのようで、頼りなく、でも美しいものですが・・・・・・。
先日、「雑感ノート」のmakoさんに「昔の地上ホームだったころの小田急新宿駅が好きだった」という話をしたのですが、あとで、「わたしの妄想にすぎないものを人様のブログに書いてしまったのだったらどうしよう?」と大変不安になりました。
誰か写真でも出していてくれないかしら、と探したところ、
http://www.agui.net/imglog/oer/oerimg-index.html
小田急アルバム48
スゴイHPがあったものです。
鉄道ファンって・・・、ほんとに鉄道大好きじゃん!って、そりゃそうだ。
昭和40年代後半に小田急線を10両編成にするためのホーム延長の工事が10年がかりで行われ、地下ホームが閉鎖されていたことがあったので、私の記憶はこの頃のものだと思われます。
ああ、良かった。妄想じゃなくて。
さらに、かねがね確認したかった風景がひとつ。
・・・・私は鎌倉の海を見ている。おそらく稲村の浜だ。
振り返ると海岸ぺりに有料道路の料金所が見える。
そろそろ日が暮れる。料金所に止まる車のテールランプが物悲しく赤く点る。
鎌倉の海岸ぺりの道路って、国道134号線だが?
国道134号線って、昔は有料道路だったのか。
・・・だったのです。
私の見た料金所は七里ガ浜か坂ノ下か。
昭和50年まで料金が徴収されていたようですが、昭和50年っていったら、ついこの間じゃん、・・そうでもないか。
でも、ほんの子どもの頃見たような気がするのですが。
記憶って曖昧なものです。頭の中でいいように脚色、美化されていたりします。
もひとつ、私の記憶の中で美化されている風景。七里ガ浜つながりで。
私は江ノ電の窓から景色を見ている。
外はしのつくような雨。
電車はやがて七里ガ浜へ差しかかろうとしている。
と、一瞬海沿いの古びた洋館の中で少女が踊っているのが見えた。
今のは、夢?
あとは、目の前に鈍色の海がひろがるばかりである。
すみません。今のは、夢?なんて思ってません。
「あ~、エリアナ・パブロワのレッスン場、まだ使ってんだ~、床抜けないのかな?」
が、ほんとのところです。
エリアナ・パブロワさんは日本クラシックバレエの育ての親です。
昔の写真なので、色が変わっていますね。20年ほども前に撮ったかなあ。
その後、この建物を現代風にしたような記念館に建替えられましたが、現在ではそれも閉鎖されました。
踊り疲れて、ふと窓の外を見ると、湘南の海がひろがっているだなんて、素敵ですね。
時代と共に変遷の繰り返しはやむを終えませんが維持にもお金がかかるのでどこに妥協点を見出すのか難しいところだろうと思います、 バレエの世界に限らず。
湘南道路の料金所、覚えていらっしゃいましたか。
私の記憶の中の風景は、たまに料金所に車が止まり、それが郷愁のようなものをそそる感じだったので、多分オフシーズンの光景だったのでしょう。
それにしても、静かな時代でした。
今、あそこに料金所があったらR134どころか市内全域数珠つなぎになってしまいます。
デートで鎌倉の海岸をドライブ!青春ですね~。
梅も満開。今度のお休みあたり、よろしいのでは・・。
古きよきものを後世に残す努力は必要ですし、それを受け継ぐ喜びというのもあるのですが・・・そうですね、何事にもお金がからみますね。
何を残して、何を削除するか、私達の世代に取捨選択の自由があると思うと、責任を感じます。
現実には身すぎ世すぎに囚われて時の流れに任せてしまうことが多いです。
そして、何事によらず、昔はこんなものがあったと思い出して懐かしむだけになるのですが。
殆ど、今の鎌倉の記憶ばかりです。
この記事を拝見する前に、偶然私も、記憶について考えていました。
コメントさせていただこうと思っていたのですが、今になってしまいました。
あの昼食によく通ったと思っていた、あの場所は、現実には存在しなかったのかもしれないと、ふと、考えたのです。
よく夢に出てくる「道に迷ったあの場所は....」何故何度も、何度も繰り返しでてくるのだろう?
あの広々とした屋敷は?
記憶の遺伝子という話は、非科学的な発想のようです。
さて、何故なのでしょうね。不思議。
老人性何とやらでしょうか?
こまったなー。
記憶のメカニズムについて、私は考えることも出来ないし、現在科学的のどこまで解明されているのかも知りません。不思議すぎます。
makoさんは超心理学的なことはお信じにならないでしょうが、私はかなりドップリ派なので、経験以外の記憶は前世の記憶にちがいないと思っております。記憶の遺伝子という説より、もっと非科学的。(笑)
老人性なんとやらではありませんよ~。
大体老人というのにあてはまらないでしょう。
ただ、これから先、老人とよばれる世代に向かうのですが、美しい記憶だけ残るよう、たくさんの記憶が美化されてゆけばいいと思います。
でも。なかなかそううまくゆかず、悪い記憶ばかり反芻してしまいます。
そうやっていることはセンチメンタリズムだと解っているのですが。