モラルハラスメント・ブログ

モラルハラスメントな夫と壮絶なバトルの末離婚した二児の母のブログ☆モラハラブログリンク集もあります☆

離婚記念日によせて

2007年05月03日 02時02分32秒 | 日記
↓一人でも多くの方にモラハラを知っていただきたくて、リンクを貼りました。




しみじみと、
5月2日を迎えた。

二年前と、何が変わっただろうと自分に問いかける。

ちっぽけな、私が動くことを辞めればすぐに
終わってしまうような命を二つ抱えて、背負って、
私はあの場所に居た。
あの頃はあの頃なりに、私なりに懸命に生きていたのだけれど
あの場所の私を振り返ると、
幼い少女がメソメソとしゃくりあげているように見える。

一人では生きられなかった。
何かにすがらずには居られなかった。
不安でいつも泣き叫びたかった。
だから手当たり次第に、いろんな人にすがりついた。
父だったり、友人だったり、子供達だったり。

ネット上の、ブログで出会った方々にも、随分支えられた。
書き続け吐き続ける事で、自分のバランスを保っていたのだろう。
一生懸命言い切りながらも、
これでいいのか自問自答して、認めて欲しくて、
私はここにいるってことがわかって欲しくて、
どこにもぶつけられない思いを叩きつけ続けてきた。
わかってくれる人が居て、嬉しかった。
一緒に泣いてくれる人が居て、嬉しかった。
一緒に、酷いって怒ってくれる人が居て、嬉しかった。
ネットに費やす時間は一日4時間を超え、完全なネット依存になっていたと思う。
涙をボロボロ流しながら、キーボードを叩いたし、
嗚咽のために書くのを辞めた事も多々あった。
そうして、私は自分自身というものと、自分の過去に向き合い続けた。
このブログは自分にとって、その軌跡になった。

離婚後、心痛のあまり食べられない日々もあったし、
ストレスで胃から血を吐き出したこともあった。
救急車で子供と一緒に運んでもらったこともあった。
広い世界の、広い日本の中で、
ほんの40数平米のところに住んでいる私と子供達が
今突然ぱたりと居なくなっても、
誰にもわからないのではないかという孤独感にいつも苛まれた。
離婚したことで得られるはずだった達成感は得られず、
逆に酷い喪失感に襲われた。
じっとしていると自分がどんどん縮んでいくようで、
縮んで縮んで小さくなって消えていくようで、怖かった。

でも、自分を小さくしているのは、自分だった。
外の世界が怖かったから、小さく縮こまっていたのだろう。
自分がわからなかったから、自分に起きたことがわからなかったから、
恐怖におののいて居たのだろう。
相変わらず、私はそれでも平気ですってフリをしながら、
心の中ではいつも膝を抱えて泣いていた。

私は木の葉のように舞いながら、
あっちこっちに頭をぶつけながらさ迷い、
相変わらず不安定な毎日を消化する中で
多くの善意による言葉を頂いたが、
そのうちのとても大切な、一つの言葉を理解し消化した。
そのアドバイスを心で理解して受け止めたとき、
全てが変わった。

「自分の足で、一人で立って居られる人になりなさい。
そうでなければ、幸せにはなれないよ。
同じことを、繰り返すよ。」

私が依存しようしようと仕掛けた人は、
「幸せになれるのでしょうか」という
メロドラマのヒロインなりきりの私の問いに、
きっぱりと言い切った。

一人で立つとはどういうことなんだろう。
ずっと一人で生きてきたじゃないか。
私は、一人で立って、歩いてきたはずなのに・・・

でもその人は、言われて気付いた私よりもはるか昔に、
きっと出会った頃からずっと、
私は依存的な人間で、だからこそ夫に依存されることに依存していると、
見抜いていた。
また、私がきっぱりと夫を切れないのは、
誰かに徹底的に嫌われるのが怖いからなのだと見抜いていた。

自分が「一人で立って居られる人間」ではないことに気付くのに
随分と時間が掛かった。
ビジネスウーマンで、男性以上にバリバリ働いて、
自立したイメージを周囲に振りまいて、
強い女性を装って生きてきた自分は、
実はいつも誰かに寄りかかって、ヘルプを出して、生きてきた。
特に大人になってからは、ずっと親友にすがり、
付き合っていれば彼氏にすがり、
結婚してからは、夫に依存したのだろう。
自分一人で立っていればそれで済むことを、
強がりばかり言っていても自分に自信がないからすぐに人に寄りかかって、
寄りかかるから不安定になって、
その人が居なければ立っていられなくて。

だからいつも他人次第の人生を生きるしかなくて、
自分本位に生きることから逃げてきた。
結婚してからは自分を捨て、自分を切り売りすることで
愛を得ようとしたから、その過程は蟻地獄のようなものだった。
夫本意の生き方に集中するあまり、
自分を完全に失ってしまいそうになっていた。
一人で立って居られる人なら決してそんなことはしない。
私は自己犠牲を払うフリをして、
実は夫に寄りかかっていたのだと思う。

考えれば考えるほど、
一人で立って居られる人間とは、
まさに私と真逆の人間だと思った。
困ったことがあっても、自分に相談して、自分で解決する。
つらいことがあっても、自分を頼りにして、自分で乗り越える。
大人であれば自前でするのが当たり前のことを、
私は周囲に外注して、寄りかかり続けたから
足腰がすっかり弱くなっていた。

けれど、人一倍、昔から
「愛」とか「幸せ」とか口に出すタイプの私は、
どうしても、今度こそ、ゼッタイに幸せになりたいと思った。
もう二度と、あんな風に、誰かに振り回されたり、
傷つけられたりするのは嫌だ。
心からそう思ったし、考えれば考えるほど、
「一人で立って居られる人間」にならなければ幸せになれないと認識した。

自己否定の得意な自分にとって、
それは容易なことではなかった。
幼い頃から自分を常に過小評価しているのだから、
この年になっていきなり、自分を頼りになんてできるわけがない。
だけど、自分を頼りにできなければ、他人に頼ることになり、
それでは幸せになれないのだ。
心の安定は永遠に、死ぬまで手に入らないのだ。
人に頼るから裏切られるし、期待するから裏切られるし、
寄りかかるから疲れるのだ。
その簡単といえば簡単な原理に、
それまで気付かずに生きてきた。
ずっと遠回りをして生きてきた。

けどやるしかない。
これしかない。
そんな風に、私は精神的に自立することを自分に課した。

それまで迷えば容易に相談を掛けたことを、ぐっと我慢して、
頼りない、ちっぽけな、幼い自分に相談することにした。
ネット上でもいろんな相談に答えるのが好きで、
あちこちの掲示板に顔を出していたし、
営業をしていた頃もよく顧客や取引先から相談を受けたし、
自分は相談は苦手じゃないと知っていたのに、
多くの人の相談に乗っていながら、自分で自分の相談に乗ったことがなかった。
置き換えてみるととても簡単なことだった。
自分を頼りにして、自分に答えを求める。
間違っていても、それに責任を取る。
そして失敗を経験して、学習する。

その繰り返しの中で、ちっぽけな自分は、
決してちっぽけなわけではなく、
等身大の自分なんだということにも気付いた。
そして、背伸びせず、誰かの期待に応えることなく、
演技することなく、大きく見せることもなく、
私は私らしく、等身大でいいんだと思えるようになった。
自分を小さく小さくしていたのは自分自身だったし、
縮こまって見えたのは、自分が勝手に縮んでいたからだった。

自分を小さくしても、縮んで膝を抱えて丸くなっても、
誰一人として喜んだりしない。
誰も見ていないし、見たって嬉しくも悲しくもない。
自分も幸せな気分じゃない。
ただ、損である。
だったら、大の字になって寝ればいいし、
起きたら堂々と胸を張って歩けばいい。
たった一度の人生なんだから、
振り返って誇れるように、
生きたいように生きればいい。

等身大の自分を認め、愛し、頼りにすること。
失敗を恐れず、ただ前に歩くこと。
改めて書くとこっぱずかしいことだけれど、
なんだかそういう風に割り切って、
誰かに頼ったり甘えたり寄りかかったり、
泣きついたりせずに生きてみると、
とっても生き易いということに気付いた。

きっと周りも、迷惑掛け通しだった私よりも、
今の私のことが好きなはずだ。

たった一人の人の掛けた言葉が、
一人の人間の人生を大きく変えることがある。
私は間違いなく彼女の
「一人で立って居られる人間になりなさい。」
という言葉によって、生まれ変わった。

2年が経過して、私の周りの全てが変わった。
鏡の中の自分は、極めて健康そうで、
いつも口角を上げて静かに笑っている。
心の中の私はまだ一人歩きを始めて2年の赤ちゃんだが、
あっという間に実年齢に近い大人になれるだろう。

モラルハラスメントの被害に遭遇して、
今まさに回復中の人にはこれは手厳しい言葉だろう。
一人で立てる環境づくりが出来るまでは、
周囲に甘える必要もあるのだと思う。
実際、私はメール相談で渦中に居る方には、
「大変なときは、一人で乗り越えようとしないで、
誰にすがりついてもいいから、誰に甘えてもいいからなんとか立ち上がって。」
とアドバイスしている。
けれど、全てが終わって落ち着いて、
いつか将来について考えたときに、過去を振り返り、
夫の暴力に依存してしまっていた自分が見えたなら、
親の暴力に依存してしまっていた自分が見えたなら、
一度「一人で立って居られる人間」ってどんな生き方か考えてみて欲しい。

このブログで出会い、友人となった方の中に、
同じ頃に脱出した、脱出同期組が居る。
苦難を同時に乗り越えた、かけがえの無い友であり、同士である。
皆、過去にモラハラに遭っていたなんてウソのように、
密室で、踏みつけられて、虐げられた過去なんて無かったことのように、
自立し、堂々と歩き、美しく輝いている。

「依存されることに依存する」
という奇妙な心理については、
また推敲して書きたいと思う。

ともかく今日は5月2日で、
あれから2年が経過した。
たった二年でここまで元気に回復できた自分に
おめでとうが言いたいし、良く頑張ったと誉めてやりたい。

それより何より、
今日まで、ここまで私を支えて下さった方々、
応援して下さった方々、
温かい言葉をかけて下さった方々、
ここを読んで下さっている皆さんに、
感謝の気持ちを伝えたい。

心から、ありがとう。




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17 コメント

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まるで自分 (teku)
2007-05-18 17:08:55
私も職場の上司にモラハラにあい
同時に父もモラハラであったこと
実家が機能不全家庭であったこと
自分がACであったことに気付いた当初は
それこそ世界中が崩れ落ちそうな衝撃でした。
そのとき、私は一人で立っていなかったことに気付きました。
依りかかっていた自分、『支配する人』に近づいてしまう自分…。
私も愛する人と幸せな家庭を築いたばかりです。
二度とモラ家庭は繰り返さないために、私も一人で立っていられるように歩んでいきたいです。
返信する
私も1年経ちました! (ハル)
2007-05-09 00:37:31
もうすぐ私も脱出1年の記念日を迎えます。

脱出するとき、このブログに出会って
助けてもらってなかったら今ごろは・・・

まだモラの渦中にいたかもしれません。。。

こうして、いろいろ精神的には悩んだことも
あったけれど、1年がすぎ、時が私を少し
成長させてくれた気がします。

人生も、考え方も、強さも、大先輩の
まっちーさんからたくさん元気をもらいました。
ありがとうございました。

これからも応援しています☆
返信する
初めまして ()
2007-05-08 20:47:34
 初めまして。まさこっちさんやウメさんのところにもお邪魔したYです。ちなみに男です。

 「一人で立っていられる人。」であることがモラハラを受け難くすること、モラハラを撥ね付けることに必須の条件だ、という事なのでしょうね。

 「嫌われる事を恐れないこと。」がモラハラから脱出するのに必要な事なのでしょうね。

 でも依存される事に依存するという構造は本当に難しい心理状態ですね。

 ただ相手に依存したからといって、それだけで相手がモラルハラスメントする訳じゃないでしょうから、やはり特殊な人間(25人に1人?)と関わったのが不幸なんだと思います。

 いや一人で立っていられない事がそういう人間、依存してくれる人間を望んでしまうという事なんでしょうか。
返信する
胸にきますね・・ (hanako【ココロ内離婚】)
2007-05-08 11:37:19
まさに、私も「ひとりで立っていられる人」に、ならなくてはいけません。
今まで周りの評価ばかり気にして生きてきました。
そういう自分自身がわかってなかったわけじゃないけど、異性に対してはいつも寄りかかって、同じパターンの繰り返しだったように思います。

モラとの戦いは、まさに自分自身との対峙だとつくづく思います。
返信する
2年になるのですね (もも)
2007-05-07 16:27:34
初めてコメントを書かせていただいたのが、2年前の5/1の記事でした。あれからもう2年もたつのですね。いつも読ませていただいています。

わたしも離婚後、1人で立てる人間にならなくてはと思いました。でも実際はなかなか大変で、実は母のコントロールが大きいと気付くのにも時間がかかりました。
今思うと、昔の私は人に依存する気持ちが強く(それは母からお前はダメな人間だと刷り込まれたためだと思いますが)、つきあった相手にはかなり負担だったのではと思います。

この2年、まっち~さんには悩み苦しむことも多かったことでしょう。でも2年で依存から抜け出し、こんなに回復して、本当に本当によかったと思います。
返信する
Unknown (ゆうこ)
2007-05-06 11:58:05
初めまして。

依存というのは人との関係だけが対象物ではないですよね?
パソコンも、アルコールも。
依存を横滑りさせている人はさまざまなブログを拝見すると、たくさんいるように思いますが。

一人で立つということは、本来どのようなことでしょうか。過去にとらわれないという生き方とは、本来どのような状態になることでしょうか。

依存しやすい体質というものは、自覚があって捉えられるようになりますが、自覚がない場合どうなるでしょうか。自己肯定ばかりを繰り返すことは危険が伴わないでしょうか。自己肯定ができたあとの自己否定、自己批判とはいかなる意味を持っているものでしょうか。

新しいステージで考えなければならないことはあると思います。新しいステージと対峙し合うことは苦しいことだとも思います。多くの人は理由と依存によって立ち止まる。



返信する
おつかれさま (かわまる)
2007-05-06 00:07:31
おめでとう、ありがとう、おつかれさま、そして私もがんばります。
返信する
ありがとうございます (竜崎神楽)
2007-05-05 20:35:02
29年間の疑問にすっきり解決させてくださった記事で、
ホントに感謝感謝の記事でした。
わたしも依存し過ぎる人間であり、
何人良好な人間関係を壊したかわかりません。
ひとりで立てないうちは本当の幸せに出会えるわけがないのですよね。
この記事何度も読み返してしました。
今は謝りたい人でいっぱいです。
ちゃんとひとりで立つから見守っていてねと伝えたい人がたくさんいます。

まっち~さんの記事、本当にためになります。
特にこの記事は読ませたい方がいますので、これから伝えたいと思います。
大切な事を教えてくださいましてありがとうございます。
返信する
Unknown (いぐすけ)
2007-05-05 05:52:19
まっち~さん、大事な事を改めて教えて下さって
ありがとうございました。

今まで、いつも誰かのようになりたいって思ってた私でしたが
これからは、私は私らしく、家族と共に私のままで歩んでいきたいです。

ありがとうございました。
返信する
素敵な言葉 (ワンコ)
2007-05-05 00:24:43
涙が出ました。「一人で立てる人間」でありたいと心から思いました。

私はモラハラの被害者でもACでもありません。
普通の幸せを手に入れたはずの主婦です。
でも「うつ」になりました。原因もキッカケも分かりません。

まっちーさんの言葉を拝見して「今の私は縮こまって丸まって自分で自分を小さくしているのだ」と感じました。
いつも「自分とはなんだろう?」「消えてしまいそうな自分自身」を抱えて今を過ごしています。
薬も飲んでいますが、きっと最後は自分で自分を認めないといけないんだと思ってます。
「望んでた自分」「想像してた自分」とかけ離れてしまっている「今の自分」を愛する事が出来たら、きっと楽になるんだろうと知りました。
私は「今の幸せ・今後の幸せ」を自分でなく彼に依存してるのかもしれません。
結婚すればもれなくついてくると…勝手に甘く思っていたのかも。

今日まっちーさんのブログを読んでよかったです。
「一人で立てる人間」「自分を頼り愛せる人間」
自分を見つめなおす一つのキッカケをありがとうございました。
少しずつでも今の自分と向き合って、見つめなおして生きます。
返信する
私も・・・ (ねこ)
2007-05-04 11:37:28
まっち~さんとそっくりでした。
しっかりとして、姉御肌で、ジャンヌダルクみたいだとまで言われていたのに、その影では、自信がなくて震えていて、誰かに依存していないとダメでした。
旦那と別居して、1年8ヶ月。
その間、自分の心の歪みをしっかりと見つめ、自分の決断で、これから離婚に挑みます。

旦那との出会いは、私が私のことに気付くための大切な出会いだったのだと思っています。
だからもう、旦那との出会いの役目は終わったのだと、きっぱりと切ることが出来ます。

まだまだ、これから先が大変なのかもしれません。
それでも、今、幸せに暮らしておられるまっち~さんをはじめ多くの人たちの存在を知り、背中を押されています。

たくさんのメッセージを与え続けてくださってありがとうございます。
返信する
依存 (さら)
2007-05-04 08:18:59
「依存されることに依存する」心理、私にもかつてこの傾向が大でした。
機能不全家庭出身の私は、人の愛や頼りにされることに常に飢えていたように思います。
だから凹凸がピタッと合うように、人にあたりたい友人ができては、グチを聞かされ続け、その後は私自身が標的になり、あんたはこういうところが悪いよ、などと言われてもずっと聞き続けていたのだと思います。
夜、家に帰って(8時とか9時頃)電話が掛かってきて、夜中の2時3時まで、しょっちゅうそういう愚痴に付き合っていたのですから、私の心理にも明らかに問題があったと思います。

「あなたはあなたのことをしなさい。私は私のことをしますから」という言葉を知って、ハッとしました。

30代に入ってから、自分はACだということに気がつき、自分のココロの歪みを必死に矯正し、その後、良い夫に出会い結婚し、今に至ります。
モラ毒は私の代で断絶しようと思います。
返信する
私は (にゃりんた)
2007-05-03 22:31:51
別居してから離婚までがわずか1ヶ月で、調停もなく、ほとんど勢いで離婚できたので、考えている時間も余裕もなかったような気がします。
だから当時のまっち~さんのお気持ちとは少し違いますが、それでもそれなりに迷ったり不安があったりしました。
「依存されることに依存する」はまさに私もそうだったように思います。
元・旦那と離れて、それが息子との生活で繰り返さないよう、気をつけなければいけないなという気がしています。
私もまっち~さんにはとてもお世話になっています。
これからも仲良くしていただきたいと思います。
この離婚記念日がいつしか思い出せないくらい、幸せになっていただきたいと願います。
返信する
私も (ウメ)
2007-05-03 21:56:14
まっち~さん、こんばんは

私もいつも、何かにぶつかると他人に相談し
他人に答を求めていた気がします。
元夫と生活していた時も、元夫のいいなりになることで
考えないようにしていた自分があります。
元夫との生活で自分の傾向を、つくづく思い知らされました。

これも、同じモラハラ被害を受けた方々の体験を読み
自分を振り返る機会を与えられたからこそ
気づくことができました。
まっち~さんのブログでのやりとりでも
どんなに支えられたことでしょう。

そしてやっと私も自分で立つ力がついてきたように感じます。
多分相談する人はたくさんいた方がいいと思います。
でも、決めるのは自分ですよね。
答は自分で出し、自分で何を為すべきかを決めること。
それが、自分を幸せにする道だと私も思います。

まっち~さん、これからもよろしくお願いします!


返信する
Unknown (よもぎ)
2007-05-03 09:14:34
まっちさん、読んでいて、泣けて、泣けて仕方ありません。
人間、頑張れば幸せになれるんだなー。
幸せは、自分で掴むんだなーと、しみじみ思います。
私は、夫との共存を選び、生活していますが、心だけは、考えだけは、まっちさんに習っています。
まっちさんに出会った事で、随分、私も変わりました。
いつか、私も、まっちさんの様に、自信に満ちた顔で、まっちさんに、お会いしたいです。
いつも、勇気をくれてありがとう。
返信する
災い転じて・・・? (あやや)
2007-05-03 07:32:10


まっち~さんは、こんな美しい季節に離婚されたのですね。
新緑の美しさは毎年変わらないのに、ただ自分だけが哀しい気持ちでいる・・・とても孤独な心境だったことでしょう。

実は私も、「離婚」「モラハラ」という言葉に出会う前から、ず~っと自信が無くて、他の人が楽しんでいるのを羨ましく思って見ていたり・・・。

「私は、こんなに楽しんでいる!」と思っていても、なぜかいつも「空虚な気持ち」が同居していたり。

常に誰かから「あなたは、正しいね。」といった「お墨付き」がなければ、自分が「普通」に生きているのか不安で不安で。

そんなある日、「モラハラ」という言葉に出会いました。
そこで私は生まれて初めて、自分は本当はどうしたかったのか、何が好きなのか、何が嫌いなのかについて
考えました。

・・・そういう意味(だけ)では、いま起こっている出来事の数々に感謝したいと思っています。
私の、人生の大きな転機になりましたから。

「一人で立って居られる人間になりなさい。」

その通りですね。

もう少し、フラッシュバック(元夫の亡霊)に怯えず、出来事を客観視できるようになってきたら、無理せず少しずつ、私もそのようになっていきたいと思いました。

人間って、どんな環境にいても、自分から「不安な気持ち」を抱きたがる、やっかいな生き物ですね。
だからこそ、自分が自分の心を(意識して)上手にもっていかなくちゃ!です。

「今現在」が混乱している私、とりとめのない文章で申し訳ありませんでした。
返信する
拍手を送りたいです (かみや)
2007-05-03 02:57:51
 まっち~さんは2年前にきっと生まれ直したんですね。ちょっと違うかもしれませんが、「お誕生日、おめでとう!」と祝福したい気持ちです。
 離婚までの軌跡をずっとハラハラしながら読ませていただいてきましたが、苦しみを克服していくという点でとても普遍性を感じる内容で心に響きました。人生は長いですし、これはずっと先の話ですが、最期の瞬間に「あ~私の人生もなかなかだったんじゃない?」と思いながら死んで生きたいものですね。
 自分を頼りに悩みの答えは自分で出していく生き方を私もしていますが、苦しい分、他人を恨まなくてすむので楽ともいえます。「すべては自分次第、自分が行動するか、しないかだ」とは、私が職場のモラハラで悩んでいるときに人生の先達が贈ってくれた言葉ですが、まったくその通りだと思います。
 今苦しんでいる方々が幸せな気持ちを味わえるときがきますよう、心からお祈り申し上げます。
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