下北半島とのんびりオートバイ

下北半島をのんびりツーリングした記録。また、青森県内やその他の地区の旅の記録です。へたくそライダーの日記です。

戦争の足跡…。

2014年01月17日 | つれづれ
むつ市の中心部にそびえ立つ一本の煙突。


今日、知り合いの床屋さんで、この煙突のお話しを聞かせてもらいました。

この大きな煙突の近くは、朽ち果てた建物があります。



ここは、戦争中の弾薬製造の工場…、だったそうです。

小さい頃は、魚釣りを楽しみながら、この廃墟を見上げていました。
なんだろう、ここは…、と。
今は、立ち入り禁止になっています。
もう、70年も過ぎてしまっているのですね…。

そして、近くには、製造された弾薬を運ぶ桟橋があります。



軍艦で、戦地や基地へ運んだそうです。宇田町の海軍基地にも送られ、現在の水源地公園の弾薬庫に保管されていたらしい?ですね。

むつ市にも、『 軍艦島 』みたいな場所があったんだな~(^_^)。

冬の夕日を浴びて、悲しい歴史の足跡が下北半島にも存在していました。

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4 コメント

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今や廃墟マニア御用達ですね (Cub97Type-R)
2014-01-20 23:08:20
久方ぶりに書き込みさせていただきます。
現在私は職場で昔のむつ下北の写真パネルの整理をしながら台帳作成等をやっていて、ちょうどこの建物のこともつい先日作成していたところだったのである意味タイムリーでした(笑)

正確に言うとこの建物は「日本特殊鋼管大湊工場」跡となります。下北の地では潤沢な砂鉄があり、そこに目をつけた同社が昭和13年にこの場所に製錬工場を開設、現在の下北町から若松町にかけての一帯に敷地18万坪、建物大小30棟を擁する大規模な工場だったそうです。しかし太平洋戦争が真っ只中の昭和18年3月に海軍に供出され軍需工場として使われた後、終戦と共に役目を終えて現在に至るというところです。場所が場所だけに軍需工場として稼動していた頃には弾薬等を作っていたのだろうと推測されます。職場で保管している写真パネルは昭和14年頃の操業時の従業員が写っていますがこの時は純粋に製錬工場だったそうです。

戦後20年近く経ってから豊富な砂鉄資源に着目し、むつ製鉄会社が設立されてこの地で再び製錬を目論んだものの、鉄鋼業界の不況によって採算性が見込めないとの判断で昭和40年頃にはこの計画が頓挫してしまい幻となってしまいました。実はその帳尻合わせ?としてむつ市にもたらした誘致企業が現在でも続くアツギと言われています。

私は子供の頃に友人らと何度かこの廃墟(仲間内では通称「コウモリ屋敷」と呼ばれていました)に入った事があります。今から30年ほど前の事ですが、当時はまだ今よりは内部の状態も良かったと記憶していて、工場の屋上?に上がって市内の景色を眺めたりしたものですが、現在では仮に立ち入り禁止でなくても入るのが憚られるような朽ち果てあんばいらしいです。こういうネット時代なだけに全国に点在しているであろう廃墟マニアには有名なスポットらしいですが、危険なので遠くから眺めるだけにしてもらいたいですね。

長文すみません。
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貴重な情報ありがとうございます! (mabu3278)
2014-01-21 21:01:28
いや~、驚きました。そして、貴重な情報ありがとうございます。
うれしいですね。30年くらい前でも、中に入れたんですか?
もう少し、興味を持って入ればよかった・・・。こそっと、侵入できたかな(笑い)。
しかし、あの状態で、下北の大地震、十勝沖地震と東日本大震災の2つの大地震を切り抜けたのは、驚きです。
昔から、日本の建築技術は、優れていたのですね。あの煙突、すごいな~。もう、そろそろ、危険な時期になっていますよね。
下北の歴史をお仕事にされているのは、めちゃくちゃ、羨ましい!
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ある意味、残るべくして残ったのかもしれませんね (Cub97Type-R)
2014-01-21 22:19:07
太平洋戦争が終結してから既に70年近く、この建物が建設されてからは76年も経過していますが、確かに朽ちてきてはいるものの煙突なんかは当時のまま生き残っています。これまで幾度となく大小様々な地震があっても未だに存在感いっぱいにそびえ立っていますね。それでけ当時の技術が優れていたのか頑丈に作られたのだと思います。

現代までに至る過程ではいろんな事があったのだと思いますが普通に考えれば危険性等からしてとっくに解体されていてもおかしくない建物たちなのですが、幸か不幸か立地的に周辺が住宅地等に適していない場所だったという事が現在までも残り続けている所以なのかなと思っています。権利関係等があって実現は多分不可能でしょうが、産業遺産的なものとして保存されればなと個人的には思いますね。

文化財収蔵庫にて仕事をしているのですが、古いものが好きだという事もありますが、どんどん消えゆくいにしえのものを少しでも後世に残していければと保存収集活動をしております。現在、基本的には飛び込みでの見学は受け付けておりませんが、お電話いただければ対応は可能ですので平日等でもお時間ありましたら是非ご連絡下さればご案内いたします(笑)
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Unknown (mabu3278)
2014-01-22 22:30:38
そうですね。私にたくさんのお金があったら、全部買いとって、記念館にしたいな~!あの古い桟橋も!(笑い)
ほんとに、うらやましいですね。ぜひ、その節はよろしくお願いします!
母校の大平中学校の防空壕があった丘も、造成され、宅地に生まれ変わっていますね。木造の大平小学校も、トンボめがねの大湊小学校もなくなりましたね。
古い学校も、なぜか、廃校というよりこれも、廃墟の部類に仲間入りしているように気がしています。
下北の古き創造物?が失っても、cub97type-r さんにがんばってもらって、「記録」として残して、後代に伝えて欲しいです!
明日の下北のために!

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