信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

墓参り

2007年08月21日 08時58分42秒 | Weblog

あっという間にお盆休みも終わり、ごく普通の日常に戻りつつある月曜日の今日、那覇空港で大きな事故が起こりました。でも人の命に別状がなく、何よりでした。

この18日の土曜日から19日の日曜日にかけて、いつも気になりながらすぐにはできない墓参りや、ご無沙汰している方々にお会いしたいという願いを果たすべく、急きょ大阪に帰っていました。
土曜日には大阪に住む息子夫婦とともに私方の墓参を、翌日は妻と二人で妻方の墓参をしました。
参ってみるとやはり気持ちがいいもので、墓前の花や線香の煙の風情に、子どもの頃には気づかなかった美しさも感じて、車で7時間かけても「来てよかった」との思いがします。
加えて、つい2年前までは二人でのお墓参りだったのに、今は息子夫婦が単に加わってくれるだけでなく、お花も線香も準備してくれていることに、なぜかしら静かですが、確実な時の流れを感じます。

さて今日の本題です。
妻方のお墓は、堺市の鉢ヶ峰(はちがみね)墓地公園にあります。
お参りも済ませて帰ろうとした時に、何気なく振り返って目に入ったお墓を見てびっくりしました。このお墓の背面だったか横面だったか、中学時代の友人の名前が彫られているではありませんか。今回初めて気づきました。
幸い彫られている文字は赤い色に染められており、お参りに行くと墓誌にはお父さんの名前だけでした。
このかたは『満州馬賊』の成れの果てだったそうで(子どものころ聞いた記憶)、『満州』での夢は破れ、戦後はパンを焼いていました。でもこのパンを買って食べたことがなく、今考えると本当に残念なことをしたものです。さらには、戦後わずか10年少ししか経っていなかったのに、少年の頃は随分昔のことのように思えて『満州馬賊』の話を聞く気も見せなかった。
黒澤明の『生きる』(命短かし恋せよ乙女、という挿入歌が有名)という映画で、主人公が息子に何かを話そうとしたが息子は聞く耳を持たない、という場面に、私は息子への怒りとともに一種の絶望感を覚えたものでしたが、それは観客だったからで、こうしたことは私たちも気づかないうちに日常的にしているのでしょう。
一方この友人は三国ヶ丘高校から京都大学理学部(工学部だったかな)へ進学したものの、どうも肌に合わなかったらしく、同じ大学の心理学だったかに転部して(ここまでは付き合いがあって)、その後香川県に就職した、と聞いていました。
連絡が途絶えて40年。そうか、彼は堺に墓を立てたのか。

それぞれがそれぞれの道を歩み、年齢を重ね、今の生活のありようが違っていても、会えば時が戻るものなんでしょうね。20代の友人とは60になっても70になっても会えば20代の時が戻るように。
「○○君、元気ですか。妻の実家の墓参りに来て君の墓に気づきました。今、私は長野でリンゴを育てています。一度会いたいですね。2007.8.19 ○○○」
持ち合わせていた付箋紙にそう書いて、雨に濡れないようにロウソク立ての中にそのメモを収めました。
時の流れをかみしめつつ、お彼岸には気づいてくれるだろうかと思ったものでした。