日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

6月4日説教・眠り姫的生き方

2023-06-17 15:18:27 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年6月4日(日)
三位一体(聖霊降臨後第1)主日
創世記1:1~2:4a、Ⅱコリ13;11~13、マタイ28:16~20

眠り姫的生き方

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日は三位一体という日曜日です。神を、父・子・聖霊と考えるのが三位一体の教理ですが、一言では説明しきれない複雑な内容です。けれども、父・子・聖霊という三つの頂点がある三角形のようなものだという説明はよくされてきました。それからもうひとの説明として、その上に父子聖霊という三つのポイントがある円のようなものだというのもあります。三角形の説明は西欧のカトリック圏で、円での説明は東欧つまりギリシア・ロシア・ウクライナ等の正教と呼ばれているキリスト教圏です。同じキリスト教なのに、三位一体の説明の仕方が違うというのは、とても興味深いことではあります。

さて、私たちは今グリム童話について考えています。そこで本日は『眠り姫』を取り上げます。ただ、この話は、『いばら姫』とか『のばら姫』という題もあります。岩波文庫のグリム童話集では『野ばら姫』で、福音館文庫は『いばら姫』というようにです。
しかし、私たちが本日「眠り姫」という題を選びたいのは、このお話のテーマはどう考えても眠りであると思えるからです。くわしくはまたあとで考えます。ところで、あと『眠れる森の美女』という題もあると思うのですが、それはディズニー映画の題です。とても素敵なアニメなので、影響力も大です。映画も活字もそれぞれ楽しめばよいのですが、ひとつだけ、両者の違いにこだわらざるをえないことがあります。そのことも後で考えたいと思います。
それではまず、話の内容に入ってゆきます。最初は、お城で開かれる大宴会の場面です。王様に女の子が生まれたことをお祝いするためですが、大勢の人に招待状が出されました。そころが、それをもらえなかった占い女が、祝福でなく呪いをその子に投げかけました。その子は15歳になると、糸巻きの棒に指を突かれて死ぬであろう。しかし、もう一人の占い女が、その呪いをやわらげ、その子は死ぬのではない、眠るだけだと預言しました。
さて、その子もやがて15歳になりました。映画も原作も預言どおり、彼女は糸巻き棒に刺されて死にますが、あとの預言の通り、彼女は死なないで眠りました。しかし、ここから映画と原作の食い違いが目立ってきます。なぜなら、眠り姫が眠る時間は、映画ではわずか数日間なのに、原作は百年間だったからです。ところで、映画の眠り姫はすぐ目が覚めて、森の中に隠れて、楽しく暮らすことになります。しかし、原作の姫は百年の眠りですから、映画とかみ合うはずがありません。
なお、メルヘンのヒーローの代表といえば白馬の王子様でしょう。そのように、ディズニー映画にはそういう王子が登場します。彼は、姫を救うために巨大な竜と戦いそれをやっつけます。そしてめでたく結婚しました。けれども、グリムの『眠り姫』の王子様はまったく違っていました。なぜなら彼は、悪や怪物と戦うことは一度もせず、とても簡単にお城に入りこめたからです。こう書かれています。「そこで王子は、もっと奥へ進んでゆきました。そしてとうとう、あの塔のところに来て、あの戸をあけると、いばら姫が眠っていました」。そして王子が姫にキスをしました。すると、姫はばっちり目をあけて、眠りからさめ、とてもなつかしそうに王子をみつめました」。
なお、「なつかしそうに」は余計な言葉です。なぜなら、二人が会うのはこの時が初めてだからです。それよりも重大なことは、眠っていたお城の人間たちも全員いっしょに目を覚ましたことです。なぜなら、この日こそが預言が言っていた眠りの終了日だったからです。ということは、王子のキスがあろうがなかろうが、姫もこの時点で目覚めるさだめになっていたのでした。
要するに、王子様は、あの白馬の王子ではなかったのでした。この童話ではヒーローは不在なのです。そこで考えたいことは、それでは眠り姫はいわゆるヒロインだったかどうかです。白雪姫やシンデレラのように。しかり、グリムの原作を読む限りでは、姫は、危機や大困難に見舞われてはいません。たしかに、塔の上では糸つむぎの棒に触れて倒れますが、それはあくまで彼女の不注意、好奇心のなせるわざでした。それに話全体を読んでも、ヒロインっぽいかっこいいことは何もしていません。つまり、この話は、ヒーローもヒロインも見当たらない。さて、そういう要素が皆無となると、行動には一度も見せていません。さてそうなると、この話の見せどころはどこにあるのでしょうか。
ところで、話しは変りますが、大塚和子さんという人が書いた『こどものこころ』という本があります。大塚さんは、キリスト教保育の道一筋に歩いてきたその道の大ベテランですが、こう書いていました。「人間の行為の中で、もっとも美しい行為は祈りです」。さらに、こうも書いていました。「人間にとって、いちばん重要な能力は、祈る能力です」。様々なことで心を乱され、思い煩うことの多い世の中であればこそ、子どもたちは未来に向けて、希望をもって祈っているのだと、彼女は言うのでした。
なお、私が通っている松崎保育園の子どもたちは、一日に何度もお祈りをします。祈りながら、その姿勢を整え、その心がまえが、作られてゆくのです。お祈りは沈黙の時。幼い子どもには超特別な時間です。なお、この園の子どもたちは、祈ることを「おねむする」と言います。彼ら、彼女らにとっては、祈りも眠りも同じようなものです。「寝て待つ」という言葉がありますが、こうして子どもたちは、待つということを学んでいるのです。
さて、眠り姫も「待ちの人」でした。彼女は、努力をしない、頑張らない。なんにもしない眠り姫。でも、それでよかったのです。だから、私たちも、彼女にならってそれでよいのです。はた目にはただぼうっとしているように見えるかもしれないけど、それでいて祈っている。そういうのが、信仰の極意なのであります。
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6月11日説教

2023-06-17 12:26:37 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年6月11(日)
聖霊降臨後第2主日
ホセア5:15~6:6、ロマ4;13~25、マタイ9:9~13,18~26
マリアの子
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日の福音は、マタイによる福音書9章の9節から13節と18節から26節でしたが、18節以下の「指導者の娘とイエスの服に触れる女」がより重要です。この話でイエスは、12年間出血が止まらない女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と彼女を高く評価する言葉を投げかけました。ところがこの福音書は、彼の言葉を一層目立たせる演出をもしています。8章23節以下の「嵐を静める」のことですが、イエスは、嵐におびえる弟子たちに「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」という言葉を投げかけたからです。よく考えると、女はイエスの弟子ではありません。ところがイエスは弟子以上に評価しているのでした。聖書を深く読むということの一例であります。

さてこれまで、グリム童話の話を取り上げてきました。なお、グリムの日本語訳は、岩波文庫の『グリム童話集全5巻』と福音館文庫の『グリムの昔話全3巻』があります。福音館のは、岩波の全267話から101話を選び、素敵な挿絵と全部フリガナ付きの少年少女を読者に想定した造りになっています。
なお岩波の全267話は、ドイツ語原本からの翻訳なので信頼性があると思います。ただ、267ともなれば、全部を読んだという人は限られるかも知れません。それに、白雪姫や赤ずきんや眠り姫だって、原本に全部目を通したという人も多くはないかも知れません。それはともかく本日は、まだ読んでないかも知れないお話の中から、「マリアの子」というのを取り上げてみたいと思います。これは、キリスト教と関りがある人なら、読んでみたいと思うかも知れないからです。なお、これは岩波文庫でも福音館文庫でも読むことが出来ます。
貧しいきこりの子である女の子がいました。その日に食べるパンさえ事欠いていると、聖母マリアが現れ、その子を預かり天国に連れてゆきます。女の子は14歳までは天国で、金色の服で天使たちと遊びます。ある日聖母マリアは旅に出かける際少女に部屋の鍵をことづけます。すると少女は、禁じられていた扉まで開けてしまう。その部屋は三位一体の神が座っていました。あわてて閉めますが、それを聖母に言わなかったので、口をきけなくされ深い森に追放されました。
すると森に狩りにきた王様に発見され、お城に連れて行かれ、口は利けないままでお妃になります。やがて男の子を産むと、その夜聖母マリアが来て、以前犯した罪を認めるよう迫られるが、かたくなに拒否したので、聖母は子どもを連れ去ります。このあと二度子どもを産みますが、二度とも罪を認めず子どもは連れ去られ、お城の人間たちはお妃が子を食べたと確信し、それを認めたくなかった王様も最後は火あぶりの刑に同意しました。しかし、高く積まれた薪の上でお妃は、今まで拒んでいたことを告白したいと心の中で思った。すると、聖母が子どもを連れて現れ、「告白するか」と問いただしたので妃は「はい」と答えた。すると処刑は中止となり、子どもも返してもらえ、口も利けるようになって、あとは幸せに暮らしたのでした。
以上が「マリアの子」というお話でした。でも、聞いて違和感を抱いた人もいたかもと思います。一つは、女の子が異常なくらいに強情だったこと、もう一つは聖母の冷たさです。聖母はむしろ、どんな罪人にも慈愛深く接し、その罪を非難せずむしろ包み込むような存在のはずだからです。
ところで話は変わりますが、グリム兄弟が生まれたのは、兄が1785年で、弟が1786年です。弟誕生の5年後モーツアルトが死んでいます。大人になって兄弟は民衆の間で語り継がれていた昔話を収集し、それを今のグリム童話集にして1857年に出版しました。フランス革命勃発の直前でした。価値観もめまぐるしく変わる激変の時代に生まれたのがグリム童話なのでした。
なお、この話で分かるのは、当時のキリスト教が子どもたちにどんな教えをしていたかです。聖母マリアは悔い改めない人間を火あぶりにするお方であるという物騒な教えは、我が国の閻魔大王を思わせるものがあります。グリム童話は、女の子は厳しくしつけるべきという社会の声を反映して、聖母マリアにその役割を負わせていたのでした。
ところで、童話を読む際大切なことは、それをどう解釈するかです。たとえば「マリアの子」のようなブラックな話でも、それを楽しんでしまえればもう子どもの勝ちなのです。子どもは大人よりも反発力が強烈で、地獄でさえ天国に作り替えかねないからです。
そこでマリアの子ですが、あのしぶとさ、強情さにはちゃんと理由があったと考えるのです。なぜなら、彼女は聖母に代表されるキリスト教に徹底抗戦する女だったと考えてみる。彼女は女の子なのでいつも不当な扱いを受けている。しかし男の子はそうではない。だったら自分はとことん反抗してやる。そう思っていた、しぶとくて強情な女の子だったと解釈するのも自由なのです。
なお、今の子どもたちだって、格差、女性の低い地位、大人の男性の横柄さに敏感なはずです。だから、その分反発力もすごいはずなのです。
ところで、多くの人は、童話やメルヘンはもう卒業していると思っているかも知れません。とはいえ、子どもはいつも不安や恐怖にさらされているという現実、そしてメルヘンの世界に遊んで不安や恐怖を和らげているという事実。それを知るなら、他人事とは思えなくなるかも知れません。
そして、そのような心の世界こそ、キリスト教が真剣に受け止めたいと考えていることを思うなら、私たちもまた他人事ではなくなるのではないか。なお、そういうことを一番理解していたのはイエスではなかったかと、思って見たいのであります。

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