二日市教会主日礼拝説教 2023年6月4日(日)
三位一体(聖霊降臨後第1)主日
創世記1:1~2:4a、Ⅱコリ13;11~13、マタイ28:16~20
眠り姫的生き方
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日は三位一体という日曜日です。神を、父・子・聖霊と考えるのが三位一体の教理ですが、一言では説明しきれない複雑な内容です。けれども、父・子・聖霊という三つの頂点がある三角形のようなものだという説明はよくされてきました。それからもうひとの説明として、その上に父子聖霊という三つのポイントがある円のようなものだというのもあります。三角形の説明は西欧のカトリック圏で、円での説明は東欧つまりギリシア・ロシア・ウクライナ等の正教と呼ばれているキリスト教圏です。同じキリスト教なのに、三位一体の説明の仕方が違うというのは、とても興味深いことではあります。
さて、私たちは今グリム童話について考えています。そこで本日は『眠り姫』を取り上げます。ただ、この話は、『いばら姫』とか『のばら姫』という題もあります。岩波文庫のグリム童話集では『野ばら姫』で、福音館文庫は『いばら姫』というようにです。
しかし、私たちが本日「眠り姫」という題を選びたいのは、このお話のテーマはどう考えても眠りであると思えるからです。くわしくはまたあとで考えます。ところで、あと『眠れる森の美女』という題もあると思うのですが、それはディズニー映画の題です。とても素敵なアニメなので、影響力も大です。映画も活字もそれぞれ楽しめばよいのですが、ひとつだけ、両者の違いにこだわらざるをえないことがあります。そのことも後で考えたいと思います。
それではまず、話の内容に入ってゆきます。最初は、お城で開かれる大宴会の場面です。王様に女の子が生まれたことをお祝いするためですが、大勢の人に招待状が出されました。そころが、それをもらえなかった占い女が、祝福でなく呪いをその子に投げかけました。その子は15歳になると、糸巻きの棒に指を突かれて死ぬであろう。しかし、もう一人の占い女が、その呪いをやわらげ、その子は死ぬのではない、眠るだけだと預言しました。
さて、その子もやがて15歳になりました。映画も原作も預言どおり、彼女は糸巻き棒に刺されて死にますが、あとの預言の通り、彼女は死なないで眠りました。しかし、ここから映画と原作の食い違いが目立ってきます。なぜなら、眠り姫が眠る時間は、映画ではわずか数日間なのに、原作は百年間だったからです。ところで、映画の眠り姫はすぐ目が覚めて、森の中に隠れて、楽しく暮らすことになります。しかし、原作の姫は百年の眠りですから、映画とかみ合うはずがありません。
なお、メルヘンのヒーローの代表といえば白馬の王子様でしょう。そのように、ディズニー映画にはそういう王子が登場します。彼は、姫を救うために巨大な竜と戦いそれをやっつけます。そしてめでたく結婚しました。けれども、グリムの『眠り姫』の王子様はまったく違っていました。なぜなら彼は、悪や怪物と戦うことは一度もせず、とても簡単にお城に入りこめたからです。こう書かれています。「そこで王子は、もっと奥へ進んでゆきました。そしてとうとう、あの塔のところに来て、あの戸をあけると、いばら姫が眠っていました」。そして王子が姫にキスをしました。すると、姫はばっちり目をあけて、眠りからさめ、とてもなつかしそうに王子をみつめました」。
なお、「なつかしそうに」は余計な言葉です。なぜなら、二人が会うのはこの時が初めてだからです。それよりも重大なことは、眠っていたお城の人間たちも全員いっしょに目を覚ましたことです。なぜなら、この日こそが預言が言っていた眠りの終了日だったからです。ということは、王子のキスがあろうがなかろうが、姫もこの時点で目覚めるさだめになっていたのでした。
要するに、王子様は、あの白馬の王子ではなかったのでした。この童話ではヒーローは不在なのです。そこで考えたいことは、それでは眠り姫はいわゆるヒロインだったかどうかです。白雪姫やシンデレラのように。しかり、グリムの原作を読む限りでは、姫は、危機や大困難に見舞われてはいません。たしかに、塔の上では糸つむぎの棒に触れて倒れますが、それはあくまで彼女の不注意、好奇心のなせるわざでした。それに話全体を読んでも、ヒロインっぽいかっこいいことは何もしていません。つまり、この話は、ヒーローもヒロインも見当たらない。さて、そういう要素が皆無となると、行動には一度も見せていません。さてそうなると、この話の見せどころはどこにあるのでしょうか。
ところで、話しは変りますが、大塚和子さんという人が書いた『こどものこころ』という本があります。大塚さんは、キリスト教保育の道一筋に歩いてきたその道の大ベテランですが、こう書いていました。「人間の行為の中で、もっとも美しい行為は祈りです」。さらに、こうも書いていました。「人間にとって、いちばん重要な能力は、祈る能力です」。様々なことで心を乱され、思い煩うことの多い世の中であればこそ、子どもたちは未来に向けて、希望をもって祈っているのだと、彼女は言うのでした。
なお、私が通っている松崎保育園の子どもたちは、一日に何度もお祈りをします。祈りながら、その姿勢を整え、その心がまえが、作られてゆくのです。お祈りは沈黙の時。幼い子どもには超特別な時間です。なお、この園の子どもたちは、祈ることを「おねむする」と言います。彼ら、彼女らにとっては、祈りも眠りも同じようなものです。「寝て待つ」という言葉がありますが、こうして子どもたちは、待つということを学んでいるのです。
さて、眠り姫も「待ちの人」でした。彼女は、努力をしない、頑張らない。なんにもしない眠り姫。でも、それでよかったのです。だから、私たちも、彼女にならってそれでよいのです。はた目にはただぼうっとしているように見えるかもしれないけど、それでいて祈っている。そういうのが、信仰の極意なのであります。
三位一体(聖霊降臨後第1)主日
創世記1:1~2:4a、Ⅱコリ13;11~13、マタイ28:16~20
眠り姫的生き方
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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本日は三位一体という日曜日です。神を、父・子・聖霊と考えるのが三位一体の教理ですが、一言では説明しきれない複雑な内容です。けれども、父・子・聖霊という三つの頂点がある三角形のようなものだという説明はよくされてきました。それからもうひとの説明として、その上に父子聖霊という三つのポイントがある円のようなものだというのもあります。三角形の説明は西欧のカトリック圏で、円での説明は東欧つまりギリシア・ロシア・ウクライナ等の正教と呼ばれているキリスト教圏です。同じキリスト教なのに、三位一体の説明の仕方が違うというのは、とても興味深いことではあります。
さて、私たちは今グリム童話について考えています。そこで本日は『眠り姫』を取り上げます。ただ、この話は、『いばら姫』とか『のばら姫』という題もあります。岩波文庫のグリム童話集では『野ばら姫』で、福音館文庫は『いばら姫』というようにです。
しかし、私たちが本日「眠り姫」という題を選びたいのは、このお話のテーマはどう考えても眠りであると思えるからです。くわしくはまたあとで考えます。ところで、あと『眠れる森の美女』という題もあると思うのですが、それはディズニー映画の題です。とても素敵なアニメなので、影響力も大です。映画も活字もそれぞれ楽しめばよいのですが、ひとつだけ、両者の違いにこだわらざるをえないことがあります。そのことも後で考えたいと思います。
それではまず、話の内容に入ってゆきます。最初は、お城で開かれる大宴会の場面です。王様に女の子が生まれたことをお祝いするためですが、大勢の人に招待状が出されました。そころが、それをもらえなかった占い女が、祝福でなく呪いをその子に投げかけました。その子は15歳になると、糸巻きの棒に指を突かれて死ぬであろう。しかし、もう一人の占い女が、その呪いをやわらげ、その子は死ぬのではない、眠るだけだと預言しました。
さて、その子もやがて15歳になりました。映画も原作も預言どおり、彼女は糸巻き棒に刺されて死にますが、あとの預言の通り、彼女は死なないで眠りました。しかし、ここから映画と原作の食い違いが目立ってきます。なぜなら、眠り姫が眠る時間は、映画ではわずか数日間なのに、原作は百年間だったからです。ところで、映画の眠り姫はすぐ目が覚めて、森の中に隠れて、楽しく暮らすことになります。しかし、原作の姫は百年の眠りですから、映画とかみ合うはずがありません。
なお、メルヘンのヒーローの代表といえば白馬の王子様でしょう。そのように、ディズニー映画にはそういう王子が登場します。彼は、姫を救うために巨大な竜と戦いそれをやっつけます。そしてめでたく結婚しました。けれども、グリムの『眠り姫』の王子様はまったく違っていました。なぜなら彼は、悪や怪物と戦うことは一度もせず、とても簡単にお城に入りこめたからです。こう書かれています。「そこで王子は、もっと奥へ進んでゆきました。そしてとうとう、あの塔のところに来て、あの戸をあけると、いばら姫が眠っていました」。そして王子が姫にキスをしました。すると、姫はばっちり目をあけて、眠りからさめ、とてもなつかしそうに王子をみつめました」。
なお、「なつかしそうに」は余計な言葉です。なぜなら、二人が会うのはこの時が初めてだからです。それよりも重大なことは、眠っていたお城の人間たちも全員いっしょに目を覚ましたことです。なぜなら、この日こそが預言が言っていた眠りの終了日だったからです。ということは、王子のキスがあろうがなかろうが、姫もこの時点で目覚めるさだめになっていたのでした。
要するに、王子様は、あの白馬の王子ではなかったのでした。この童話ではヒーローは不在なのです。そこで考えたいことは、それでは眠り姫はいわゆるヒロインだったかどうかです。白雪姫やシンデレラのように。しかり、グリムの原作を読む限りでは、姫は、危機や大困難に見舞われてはいません。たしかに、塔の上では糸つむぎの棒に触れて倒れますが、それはあくまで彼女の不注意、好奇心のなせるわざでした。それに話全体を読んでも、ヒロインっぽいかっこいいことは何もしていません。つまり、この話は、ヒーローもヒロインも見当たらない。さて、そういう要素が皆無となると、行動には一度も見せていません。さてそうなると、この話の見せどころはどこにあるのでしょうか。
ところで、話しは変りますが、大塚和子さんという人が書いた『こどものこころ』という本があります。大塚さんは、キリスト教保育の道一筋に歩いてきたその道の大ベテランですが、こう書いていました。「人間の行為の中で、もっとも美しい行為は祈りです」。さらに、こうも書いていました。「人間にとって、いちばん重要な能力は、祈る能力です」。様々なことで心を乱され、思い煩うことの多い世の中であればこそ、子どもたちは未来に向けて、希望をもって祈っているのだと、彼女は言うのでした。
なお、私が通っている松崎保育園の子どもたちは、一日に何度もお祈りをします。祈りながら、その姿勢を整え、その心がまえが、作られてゆくのです。お祈りは沈黙の時。幼い子どもには超特別な時間です。なお、この園の子どもたちは、祈ることを「おねむする」と言います。彼ら、彼女らにとっては、祈りも眠りも同じようなものです。「寝て待つ」という言葉がありますが、こうして子どもたちは、待つということを学んでいるのです。
さて、眠り姫も「待ちの人」でした。彼女は、努力をしない、頑張らない。なんにもしない眠り姫。でも、それでよかったのです。だから、私たちも、彼女にならってそれでよいのです。はた目にはただぼうっとしているように見えるかもしれないけど、それでいて祈っている。そういうのが、信仰の極意なのであります。