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日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

10月8日

2023-10-12 12:26:09 | 日記
23年10月8日:聖霊降臨後第19主日
イザヤ5:1~7,フィリピ3:4b~14,マタイ21:33~46
「主の祈り⑬「アーメン」を考える」

 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがた一堂にありますように。
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 主の祈りの学びを続けてきました。本日はその最終部の「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」について考えます。なお、順は逆になりますが、アーメンから始めたいと思います。

 ところで、日本ではアーメンはキリスト教の代名詞のように見られてきました。それは間違いではないのですが、同時にアーメンは、ユダヤ教にもイスラム教にもあることは押さえておきたいと思います。学者はこの三つの宗教をアブラハムの宗教と呼びます。どれもアブラハムを信仰の大先達として尊敬するからです。なお、アブラハムは旧約聖書の人物ですが、旧約はユダヤ教もイスラム教も聖典としています。

それはともかく、日本のキリスト教にはアーメンに関する特殊な習慣があります。それは、讃美歌の終わりにアーメンを歌うという習慣です。これほどまで「讃美歌即アーメン」なのは世界でも日本だけです。ひとつ例で示すと、三つの外国の讃美歌つまりアメリカとイギリスとドイツの讃美歌にある「きよしこの夜」の曲にはどれもアーメンがありませんが、日本の讃美歌の「きよしこの夜」にはアーメンがあるからです。

言いかえるなら、「きよしこの夜」には本当はアーメンがなかったのに、日本に伝わってきたあとアーメン付きになったのでした。ただしこれにはわけがありました。なぜなら、明治になってキリスト教を伝えに来たアメリカ人宣教師たちが、讃美歌はかならずアーメンで終わるのですと教えていたからです。というのも、彼らの母国アメリカでは当時讃美歌にはどんどんアーメンを付ける、のが流行していたからで、明治時代に誕生した日本語の讃美歌もほとんどがアーメンで終わることになったのです。ところが、その宣教師たちが定年で帰国した時にはその流行はもうすたれていたのでした。しかし、そんなことを知らない日本はアーメン主義を大事に温存してきたのでした。

しかし最近は、そういう傾向は見直そうという機運になってきています。けれども、アーメンがどの讃美歌にはよいのか、よくないのか、しろうとの私たちには、さっぱり見分けがつきません。だから、その問題は音楽の専門家のご努力を待つことになるのですが、その問題に直面する私たちは、「それではアーメンって何だろう?」と初めて考えるようになるのかも知れないのであります。

ところで、日本のクリスチャンの中には、「きよしこの夜でアーメンも歌うのは、それなりに良い習慣かも知れない。今までどおりでもよいのでは」と考える人もいるかもしれません。それも間違った考えとは言えないのですが、ここで考えるべきなのは音楽著作権のことなのです。どういうことかというと、「きよしこの夜」にも作詞者と作曲家がいるということです。この歌が作られた時点でその楽譜にアーメンがなかったとするなら、後世の誰かが勝手にアーメンを付け加えれば、それは著作権に抵触した行為になるからです。もっとも、「きよしこの夜」は三百年も前に出来た曲ですから、もう著作権は消滅しています。しかし、ここ数十年間に生まれた新しい讃美歌(それにも必ず作詞者と作曲者という著作権者がいる)にはアーメンがあったかなかったのか、そういうことに無知のまま慣習的にアーメンをやってしまうと、それはクレームの対象になりかねないのです。

そこで考えられることは、アメリカもイギリスもドイツも、そこの教会はオーストリア生まれの「きよしこの夜」には最初からアーメンがないことを知っていたということです。(知らぬはジャパンばかりなり?)もっと別の言い方をするなら、欧米の讃美歌関係者はアーメンにとても敏感だったということです。

さてここで、主の祈りのアーメンに話を戻します。アメリカの神学者・ウィリアム・ウィリモンという人は、主の祈りの「国と力と栄えとは」を危険で物騒な言葉だと言っています。なぜなら、国にしても力にしても栄えにしても、権力者たちが命がけで手に入れようとしているものだからである。(現代世界の権力者たちも?) それは、主の祈りのイエスの時代、トップの権力者ローマ皇帝も例外ではなかった。また、人民の大多数も国と力と栄えが最もふさわしいのは皇帝陛下だと考えていた。そういう、絶対的とも言える背景がありながらイエスは、国と力と栄えは神のものだ、つまり皇帝のものではないという教えをしていたからなのです。

そういうイエスはそのあと、ローマの官憲によって国家反逆(転覆)罪で逮捕され、裁かれ十字架につけられました。主の祈りどころか、イエス自体が危険で物騒な存在だったのでした。そういうことを知っている人は、「国と力と栄えとは神のもの」すなわちは皇帝のものではないと言い切りアーメンを発した主の祈りは危険かつ物騒なしろものとその目に映るのでした。

ところで、アーメンといえばアーメンコーラスです。それはヘンデルの『メサイア』のいちばん最後にある合唱曲です。ただ、『メサイア』と聞けば、誰でもすぐ思い出す合唱曲はハレルヤコーラスです。このハレルヤは『メサイア』の真ん中で出てくるのですが。そそっかしい人はそれで『メサイア』は終了と勘違いします。ところが曲はまだまだ続き、いよいよラスト、本当の最後の場面がアーメンコーラスなのです。
要するに『メサイア』には二大合唱曲があって、ひとつがハレルヤでもうひとつがアーメンなのです。そして、ヘンデルはまぶしいくらいのスポットライトをハレルヤに当てたにもかかわらず、メサイアの一本締めはアーメンで行ったといえるのです。だからでしょうか、このアーメンは並みのアーメンと違って、力強く印象的なのです。

そして、この力強さは主の祈りの今のアーメンにも通じています。なぜなら、「国と力と栄えとは神のもの(皇帝のものではない)」は、考えようによっては命がけの言葉でしたから、このあとイエスに押し寄せてくる受難と十字架の予感のようなものが彼にあったと考えることが出来そうだからです。

ところで、アーメンというヘブライ語は、「今の自分の言葉は本物である」という意味で、昔の日本人の「武士に二言はござらぬ」に近いものがあります。それがイエスの口から出たのですから、それは私たちにも影響があるはずです。少なくとも、「主の祈りをのんべんだらりと唱えるのはおそれ多い」となるのかも知れないのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)

次回10月15日 聖霊降臨後第20主日
説教題:主の祈り⑭ 阿蘇と主の祈り
説教者:白髭 義

※10月29日(宗教改革主日)の礼拝後にミニコンサートを予定いたしております。お楽しみに。