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日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

2月5日の説教

2023-02-10 13:58:08 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年2月5日(日)
顕現後第5主日
イザヤ58:1~12,Ⅰコリ2:1~8,マタイ5:13~20
「塩になれ」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 本日の福音はマタイによる福音書5章の13節から16節まで、「地の塩、世の光」というイエスの教えでした。なお、今の個所はその前の10節から12節までも読んでおけば、より理解がしやすくなることを予め申し上げておきます。しかし最初は今読んだ「地の塩、世の光」と取り組むことにいたします。
 ところで、「塩」とか「光」というのは非常にわかりやすいと思います。さらにイエスは、光をともし火とも言い換えたのでなおさらです。ともし火の意味も分からない小学生にはローソクと同じだよと説明すればよいと思います。
 なお、「あなた方は光である」という言葉は慎重に読まれる必要があるかも知れません。なぜなら、イエスにとっては誰もが光だからで、闇の子は一人もいないのです。それでは私たちはもう何の問題もないのかというと、イエスは「ともし火を升の下に置く」という言い方をしている。升も小学生には、洗面器とかバケツで説明するといいかも知れません。せっかく火をつけたローソクをそういう物で覆ってしまう。そういう人間は一人もいるはずがないとイエスは言ったのですが、それを聞いた私たちは「もしかしているのかも」と思ってしまいます。そういう言葉でした。
 さて、似たことは塩の教えにもありました。イエスは「あなた方は地の塩だ」と言ったので、塩ではない人間は一人もいないことになりますが、そう言いながら投げ捨てられる塩のことも言っていたからです。ところで、イエスの話によればそれは塩味が付けられなくなった塩なのでした。塩の役割は誰もが知るように、料理の味付けです。しかし、味付けが不可能になったので外に投げ捨てられる塩など日本人は知りません。
 実はイエスが言っていたのは岩塩で、海の水を濃縮して作る日本式の塩ではなかったのでした。岩石として山から切り出され、それを砕いて取り出される塩、岩塩は、湿気に弱くて化学変化を起こしやすく、塩化ナトリウムをダメにします。そうなれば味付けの役に立たず、主婦によって「外に投げ捨てられ、通りがかりの人に踏みつけられる」のでした。ただ、中で化学変化を起こしていても、外見ではそれは分からない。調味料として使った結果、はじめて分かる役立たず。そういう場合の塩もあるとイエスは言うのでした。
 ところで、彼の教えで目についたのは「あなた方」という言葉でした。「あなた方は地の塩である」、「あなた方は世の光である」、「あなた方の光を人の前で輝かしなさい。そうすればあなたがたの立派な行いを見た人たちが、あなたがたの天の父をあがめるようになる」のようにひんぱんだったからです。
 さらに「あなた方」はイエスから、地の塩、世の光であると高い評価を受けていました。ともし火をバケツで覆うとか、塩気を失い料理人をがっかりさせるとかの話もありましたが、そういうことは、あなた方はしないのだとイエスは言ったのでした。
 ところで、この「あなた方」は、直前の11節以下の教えでも出ています。すなわち、「あなた方はののしられ、身に覚えがないことで悪口を言われている」がそうです。しかし、「ののしられ、身に覚えのない悪口を言われる」あなた方は、地の塩である、世の光であるとイエスは言ったのでした。
話しは変わりますが、『氷点』『塩狩峠』を書いた作家の三浦綾子は、1922年、すなわち大正11年に、北海道の旭川で生まれました。彼女は小学校1年、2年だった頃の旭川の思い出をある本に綴っていました。
 それは佐野文子という女性の思い出話でした。文子はその時はもう大人で、プロテスタントの旭川六条教会の教会員で、売春婦解放運動のために身をもって戦っていました。実は綾子も同じ教会に通っており、佐野文子の家も知っていました。文子は志を同じくする友人と一緒に遊郭に出かけき、チラシを配る活動をしていました。チラシには「廃業したい<売春婦をやめたい>人は次の住所に逃げてらっしゃい」と印刷されていました。実は、後日できた売春禁止法より以前でも、遊郭での仕事を辞めることは公に認められていました。たとえ借金があっても、あとで返せばよい。しかし、そういうことを知らない女たちが多かったので文子たちはチラシを配ったのでした。そして、彼女はそのチラシに自宅の住所を堂々と印刷していたのでした。
 ところで彼女は危険な目に何度も遭っていました。ある日など、遊郭の用心棒たちに橋の下に連れ込まれ、チラシをやめなければ殺すと脅迫されました。しかし文子は「殺されてもチラシはまく。あなたたちこそ男のくせに恥ずかしくはないか。牛や馬のように人間の女を売った買ったとは何事か。命よりも大事なものがどこにあるか」と啖呵を切り男たちをたじろがせたのでした。
 ところで、子どもの綾子がいつも見ていたのは文子の自宅でした。そこはいつも鍵をかけている様子がなく、戸は開け放たれているという感じだった。子ども心に何か清らかなものを覚えたと書いていました。
 なお、彼女はこういうことも書いていました。この時代日本では、クリスチャンの女性たちが北海道から九州にわたって広範囲に売春禁止運動を繰り広げていた。綾子は考えるのでした。いったい何が彼女らを社会の不正と戦わせていたのだろうか。もしかすると、江戸時代の武士道と明治のキリスト教が彼女たちにおいて結合し、燃え立たせたのではないだろうか。
 ところで、本日の「地の塩・世の光」の教えは、きわめて家庭内的な話題というか、男はあまり関係がなかった塩やともし火が中心でした。はたして、この話を聞いていたのが全員男だったら、イエスはこんな話をしただろうか…。
 それはともかく、「あなた方」の呼びかけは、今の私たちにもなされています。つまり、私たちも塩であり光である。そのようにイエスがいつも評価してくれることを私たちは、いやいやをせずに受け止めたいと思うのであります。