天使の図書館ブログ

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Keep tryin’-4-

2011-10-12 | 日記
(※使用させていただいている写真は、素敵素材サイト「空彩」さまのものです♪^^)

 さて、前回最後のほうで書いたとおり、今回のテーマ(?)は「働かない、ということ」です(^^;)

 というか、「働かない」っていうと、「働こうと思えばそう出来るけど、あえてそうしない」っていうニュアンスにも取れると思うので――ここでは特に何かの事情で「働けなくて家に引きこもってます」っていうことをテーマ(?)にしたいと思いました。

 わたしが、<引きこもり>っていうことを肯定し、賛成か反対かって言われた場合に、賛成のほうへ票を入れるのは、敬愛している詩人、エミリー・ディキンスンの存在が結構大きいかもしれません。

 彼女は人生のある段階から家に引きこもって、誰に読まれることもない(不特定多数の一般大衆、という意味で)詩を生涯に1700篇以上も書き綴ったという人で……彼女と同じく、周囲の人は誰ひとりとして理解していないけれども、引きこもってる方の中にはおそらくそういう種類の「天才」と呼んでいい方がおられるだろうと思うんですよね。

 でも、個人的に最近、あることを通して「ありのまま」ってどういうことだろうな、と考えさせられることがありました。

 ええと、たぶん介護関係とか福祉関係の仕事をしている人なら、引きこもりの方にも少しは理解があるだろう……と思われるかもしれないんですけど、意外に「引きこもりの子は一所懸命汗水流して働くべきだ」とか、「ホームレスの連中は何故働かないのだろう」といった意見を持ってる方もいるんですよね。

 わたしも、「障害を持ってる子でも、一生懸命働いてる子はたくさんいる。引きこもりの子はそういう子を見習うべきだ」的な意見を聞いたことがありますし、そういう時には「特に何か言っても無駄かなあ」という感じで、適当に相槌を打っているというか(苦笑)

 その、「引きこもり」と「障害」って、実際どう違うんでしょうか。。。

 何か体のどこかに国から認定された「障害」があったら、「まあ、そういう人は引きこもっててもしょうがないね」となり、五体満足で健常な人が引きこもっているのはおかしい……贅沢だ、怠けている、となる。 

 でも、この部分を一緒にするのってそもそもどうなんだろうかって、多くの人がたぶん思うと思います。

 何故かというと――今の時代は、引きこもらないでいる、ということのほうが、ある意味おかしいともいえる、見方を変えればそういう時代でもあるからです。

 小さな頃からTVでは、口臭・制汗・ダイエットに関するCMが死ぬほど流れていて、人は無意識のうちにも驚くくらい他者との距離感をとりづらくなっています。

 口臭をチェックしたりなんだり、「自分が他人に不快感を与えないかどうか」を死ぬほどチェックしてから外の世界へ出かけ、そこでマニュアル通りの文句を並べながら¥0スマイルで接客する……それを何年も続けて、ただ自分を「すり減らす☆」っていうのが<働く>っていうことなら、誰もおんもになんかわざわざ出ていきたくないですよね(^^;)

 そこで「自分らしさ」を生かせる職業とか、「本当に自分がしたいこと」を仕事にしたいとか、そういうことが話題になるわけですけど――「なんか自分らしさを追求してたら、いつの間にかプーになってた☆」とか、「自分探しをしてたら、いつの間にか引きこもりに☆」って、結構あるのかもしれません。

 そういった時代背景のことを考えるとしたら、引きこもりってある部分なるのが当たり前みたいなところもあって、それっていいとも悪いともなんとも言えない問題なんじゃないかなって、わたし自身はずっと思ってました。

 でもこの間……某施設で視覚障害者の子を見ていて、「わたしがこの子の親なら、自分の手元に置いて一生手離したくないなあ」って思った時に、ちょっとそのことの答えがわかった気がした、というか。

 たぶん目に障害のある方って、晴眼の人から見て自分がどう見えるのかとか、迷惑かけてないだろうかとか、すごく気にされたりするのかなって思います。

 そしてわたし、その施設にいる何人かの子に対して、本当になんでもしてあげたいと思いました。

 というのも、周囲の人たちだけじゃなくその子たち自身が「本当は自分にどのくらいすごい値打ちがあるか」、よくわかってない気がしたからなんです(^^;) 

 わたしは外の健常者ばっかりうじゃうじゃいる醜くて汚い世界をよく知ってるわけですけど……その子たちは、そういうものとは一切無縁といった感じでした。

 だから、「ただそこにいてくれる」っていうだけでも、わたし自身はめっちゃ癒されるわけです。

 それから、自閉症の子もそうでした。彼には「疑う」とか、「人のことをあれこれ悪く言う」っていう発想自体がすでにもう、思い浮かばない(笑)

 だから、同じことを繰り返すばかりでも、それにつきあうのって全然苦じゃないなあと思ったり。

 つまり――引きこもってる子も、結構似てるんじゃないかなってその時思ったんですよね。

 人の悪口とか中傷とか、そういうのがきっかけで引きこもってしまう方は、大体心の綺麗な人が多いと思うから。

「心が綺麗ったって、そのことにどれだけの価値があるの?それよりお金を稼いできてちょうだい!」っていうのが、周囲や社会の言い分なんだとしても……醜くて汚い世界がもし、今よりもっと生きやすくて美しい世界に変わったら、外へ出てもいい――そう主張することって、間違ったことなんだろうかって、やっぱり少し(いや、かなり)思うんですよね(^^;)

 ええと、個人的には前述した「心の綺麗な子」の「心の綺麗さ」を守るためなら、他の何を犠牲にしてもいいだけの値打ちがあると、わたし自身はそう思いました。彼らのそういう心の綺麗さを、外の醜い人間が汚すようなことがあったとしたら、それはその人間のほうが絶対的に間違っている、というようにさえ。

 まあ、わたしはその子たちに「その綺麗な心をこれからも大切にするのよ。~~君の心には、純金と同じくらいの値打ちがあるんだから!」なんて、そんなくさいセリフはとても言えませんでしたけど(笑)、本当に彼らは自分の純粋さに気づいてない時点で、本当に純粋だなあって、そんなふうに感じました。 

 その子たちに会うまではわたし――汚い世界のほうが少しはマシになったり、ずっと良くなるなんてことはまずないんだから、自分をそこに強制してでも慣らさせるっていうのが結局、大人になるっていうことなのかなあ……なんてぼんやり思ってたんですけど、でも今は、その子たちが傷つかなきゃいけないような世界なら、そっちのほうが絶対間違ってる!!って100%確信を持って言い切ることが出来ます。

 もちろん、そういう障害のある子たちと引きこもりを同列に並べて論じるなよって言われそうですけど、彼らのほうが何故いわゆる健常者の持ってない輝きみたいのを持ってるかって考えたら、「もともと正常ないいもの」をより伸ばすとか、それをそのまま保つっていう当たり前のことがそのまま作用してるからなんじゃないかなって思うところがあって。

 つまり、今の日本の社会だと、教育にしても社会全体にしても、「もともとある正常ないいもの」をより駄目にする、むしろそれを押し潰す方向に働いていて、そこを耐え切った人だけが<普通>とか<まとも>と呼ばれるっていうような、そういう悪循環に嵌まってると思うんですよね。

 そして当然誰もが「こんなのおかしい☆」って薄々気づいていながらも、「人に変わってもらえる前に自分が変われ!」とか、「世界が変わらないのは、自分が変わらないからだ」といったような自己啓発本を読んだりしている、というか(^^;)

 でもこの部分は――やっぱりそう簡単には変わらないし、変えられることでもないとは思います。 

 ただ、わたし自身は「こんなにキラキラした、純粋で美しいものがこの世界にはまだあるんだ!」っていう経験を最近したことで、とても幸せな気持ちでいっぱいになりました。

 そういうものを毎日ちょっとずつでいいから、積み上げていけたらとしたら、本当に他には何もいらないと思います。

<醜くて汚い外の世界>には、まだそうしたものが少しは残ってるので、そこを掬い上げるためには、多少どころでない勇気や犠牲を払う値打ちはある、というか。。。

 引きこもりっていうことについては、わたしも随分長く考えてきたんですけど……まあこれだけでは答えとして不十分だと思うので、次の記事で少し補足したいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!




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