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上海駐在日記 - 続続続カメラを持ってアジアを食べある記

駐在中(2010年10月~2015年3月)とその前後の上海での食べある記と、海外生活あれこれです。

タケさんの気ままな日記帳 No.110 - 「もう」と「まだ」

2013-11-03 10:24:33 | タケさんの気ままな日記帳
 昔、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)で活躍した筋金入りの活動家に織田実(おだ まこと)という人がいた。小田さんは若い時世界一周旅行に出掛け、「何でも見てやろう」という体験記を出版し、それがベストセラーになった。彼が本格的な活動家になる前は、代々木ゼミナールで英語の講師をしていた。

 今から45年以上前になるだろうか?私は一年浪人し、予備校に通いながら早稲田大学目指して頑張っていた。年が明けた1月半ば、大学の下見に出かけた後、かつて下宿していた信濃町の寮に立ち寄ってみた。実は、寮の食事が合わず段々やせ細っていくのを心配した姉が姉夫婦の近くに来るようにと勧め、途中から寮を引き払っていたのだ。1月半ばといえば、受験まで後一か月。この一年、一生懸命頑張ってきたのだから今更シタバタしても仕様がないだろうという気持ちになっていた。寮に行くと、同じ大分県出身の井出君がいた。彼の部屋に入ると、一通の手紙を差し出し、見せてくれた。それはお母さんから届いたばかりの手紙だった。
 「先日、テレビのモーニングショーを見ていたら、大学受験をテーマにした放送をしていました。その日のゲストは、代々木ゼミナールの小田実先生でした。女性アナウンサーが小田先生に『いよいよ大学受験もあと一カ月に迫りましたが、今受験生がやるべきことは何でしょうか?』という質問をしていました。それに対して小田先生は次のように答えました。『一か月をどう捉えるかが勝負だと思います。もう一カ月しかないと捉えるのか、まだ一カ月もあると捉えるのか、それによって自ずと心構えが変わってきました。もうう一カ月しかないと思って勉強するのと、まだ一カ月あると思って勉強するのとでは、この一カ月でものすごい差がつきます』・・・・・」
 私はその手紙を読んで、目からうろこが落ちる思いがした。「そうか、受験まで、まだ一カ月もあるのか!」私はその言葉に元気が湧いてきた。そして帰りに本屋さんに寄り、問題集を10冊買い込んだ。それを3日に一冊のペースでこなしていった。問題を解いているうちに、、段々自分のウィークポイントが分かってきた。そういう時は参考書を広げ、何度も同じ間違いを繰り返す箇所の開設を読み返す。そうこうするうちに、穴が塞がれウィークポイントが少なくなり、それに伴って自信がついてきた。試験日の前日など気分転換に、今まで控えていたパチンコ屋に行き、心行くまで弾いた。そして本番当日、スッキリした気分で試験に臨み、別に答え合わせなどしなくても、なんだか合格しているような予感がした。果たして合格発表の日、自分の受験番号を余裕を持って見つけることが出来た。正に「井出君のお母さん様様」「小田先生様様」だった。あの時、元の寮に寄って井出君に会っていなければ、またその時お母さんからの手紙が届いていなければ・・・と考えると、あの受験一か月前の出来事は私の長い人生の中でも運命的なことだったなあ、と思い返された。そして、あとにも先にもあれほど勉強したことはなかった。ただ、勉強の量はともかくとして、考え方ひとつでものの見方や行動が変わるということを教わったのは大変な収穫だった。奮起の材料として、「もう一カ月しかない」を「まだ一カ月ある」と思うことにより、「諦めずに最後の最後まで頑張ろう」という体験をし、それが成功に結び付いたということは大きな自信となり、それから先の人生で苦難に陥った時、身体の中からムクムクと力が湧き出てくる思いをしたことが再三あった。
 但し、私の成功体験はその時までで、それからの人生は人様に自慢できるようなものではなかった。例えば、ひとつの仕事を何十年もかけて全うしたとか、一芸や専門的な分野を追及してその道の名人・大家になったとか、あるいは人の役に立つ仕事をコツコツやってきたといかいう、いわゆる褒章に値するような人からはかけ離れた、一小市民として生きてきた。ただひとつ、人様にアドバイスできるとすれば、人伝に聞いた小田実先生の「『もう』ではなく『まだ』で、最後まで諦めずに頑張る」という話を実践し、成功に結び付かることが出来たことだろう。私は、自分の子供や後輩に「何でも良いから、一生懸命頑張って目標を達成しろ!そして目標が達成できた時、その成功体験が、それから席の人生に必ず自信となって役立つ」と話すことがある。
 その小田先生も代々木ゼミナールを辞めたあと、作家・活動家として波乱に富んだ人生を送ったが、2007年(平成19年)胃癌のため75歳の生涯を閉じた。今では東進ハイスクールの林修先生の「いつやるか?今でしょ!」という言葉が大ブレイク中だが、私にとっては小田先生のメッセージの方が値千金の言葉だなあ、と思う。

 その後、私は早稲田大学に、井出君は青山学院大学に入学した。早稲田の法学部など、専門課程の授業は3百人くらいのマンモス教室で行われるのだが、ざっと見渡しても女性が10人といないだろう。その話を井出君にすると、「青山は、半分は女性だよ!良かったら一度見学に来なよ」と誘われた。好奇心旺盛な私は早速その話しに乗り、もぐりの学生で教室に入り受講した。「なるほど、女性が多いなあ!後ろの席で女性と肩を組んで受講しているのは竹脇無我か?それにしても、同じ大学生活でも環境がこうも違うものか」悲哀を感じた。井出君は適度に学生生活を楽しみ、就職の段になると、是が非でもという目的もなかったが、NHKに一般で採用された。私は高校の頃から、早稲田に入ってNHKに就職することを目標にしてきたが、その夢はついえた。人生とは皮肉なものだなあ!でも、それが人生なんだなあとつくづく思う。・・・・・とここまで書きながら、ふと財布の中を見ると、5千円札が1枚だけ。給料日まではまだ1週間ある。だが待てよ!ものは考えようで、まだ5千円もあるじゃないか。それだけあれば、何も爪に火を点さなくても十分やっていけるだと、と思い直した。

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竹さんは、私の親戚筋のかたで、ときどきこうした文章を送ってくれます。とてもおもしろかったり、考えさせられることもあり、もっと多くの方に読んでいただきたいと思って、ここに転載しています。(ブログ作者)

タケさんの気ままな日記帳 No.109 - 癒しの音楽

2013-11-02 08:54:17 | タケさんの気ままな日記帳
 私は「NO,99 なすびの花」で「なす」が好きなことを書いたが、ほかにも好きなものがある。それは「うり」だ。それも「ゆ」の字の付く「うり」が大好きだ。「ゆ」の字の「うり」は食べられないが、私の心に栄養を注ぎ込んでくれる。もうお解りかと思うが、「ゆうゆうワイド」の大沢悠里さんのことだ。大沢さんは毎日4時間半の生放送でご多忙にも拘わらず、節目・節目で電話を掛けてきて励ましてくれる。5月27日も夕方6時半頃携帯のベルが鳴った。「大竹君、いつも送ってくれてありがとうね!なかなか文章がおもしろいねえ。家で落ち着いたとき、寝っころがって読むのに丁度良いんだ」・・・電話の中で、「ゆうゆうワイド」が今年7千回を迎えたことも話題になった。それも27年かけてだ。7千回といえば、毎回一人のゲストを呼んだとしても、既に7千人が搭乗している。その内訳は、作家・政治(評論)家・文化人・冒険家・スポーツ選手・俳優・歌手・芸人、中には90歳になる浅草の芸者さんなどもいて多種多様だが、その道の一角の人物が多く含まれている。それだけに、大沢さんの人を見る目はかなりハイレベルだ。一流人との付き合いが多い人に私のような人間の文章を送っても返って有難迷惑ではなかろうかと躊躇しながら、最後はいつもエイヤーで投函してしまう。そんな大沢さんから「大竹君は文章が上手いねえ!なかなか面白いよ!」というお褒めの言葉をいただくと、天にも昇る気分になる。電話の結びに「今は何をやっているの?」と聞かれた。「相変わらず、介護の仕事をやっています」「そう!介護か、偉いねえ。頑張ってね!そして、また送ってね!」といわれ電話を切った。そこでふと気付いた。「そういえば最近介護の話をあまり書いていないなあ!」だからという訳ではないが、このところ介護の仕事をしていて、気になる人がいる。そうだ、S子さんのことを書いてみよう。

 S子さんは私より4歳年上だが、この歳になるとほぼ同年代といっても差支えないだろう。介護タクシーを利用するようになってかなり経つ。「No.34 ものは言い様」でちょっとだけ紹介したことがあるが、それを書いたのが2009年だからもう4年以上にはなるだろう。その当時は月1回、国立千葉医療センターに行っていたのだが、その後腎臓が悪化し、今では週3回の透析を余儀なくされている。そのほかにも腰が痛いとか、足が痛いとかで、まさに満身創痍の状態だ。私たち介護タクシーのドライバーは、利用者ひとりひとりの立ち入った問題を聞くことはないが、打ち解けてくると自ずと利用者の方から話し始めるようになる。
 世の中には不幸に不幸が重なることを表すのに「泣きっ面に蜂」とか「弱り目に祟り目」などの言葉があるが、その程度では収まらない不幸があるものだと、S子さんを通して知った。S子さん夫婦はお互いに病気持で、二人で支え合い老々介護をしながら公営住宅に住んでいた。S子さんには一人息子がおり、既に結婚して二人の子供に恵まれ、幸せな暮らしをしていた。息子夫婦は学校の同級生同士で、休日など二人でよく出掛けることがあった。バイク好きの息子は、会社の通勤もバイクでしていた。不幸が起きたのは三年ほど前のことだ。朝の通勤時、渋滞していた車の列を縫うようにバイクを走らせ、会社に向かっていた。ところが、前を走っていた車が後方確認せずウィンカーも出さずにいきなり右折したのである。そこにバイクが突っ込み、息子は即死してしまった。家族の悲しみようは大変なものだったが、ことのほか息子の奥さんの落ち込みは酷かった。たまに思い出したように、二人で出掛けた想い出の場所に行ったりしていたが、そのうち不眠症となり、薬に頼るようになった。しかし、立ち直ることが出来ず、とうとう一年半後、あとを追うように無くなった。不憫なのは残された二人の孫だ。中学に通う娘と小学生の息子がいた。S子さん夫婦は公営住宅を引き払い、息子の家に移ってきて孫と同居することにした。ある面、子育てが終わり、老夫婦二人での静かな生活を楽しむところが、再び子育ての始まりとなったのである。それも多感な年ごろを迎え、子育ての中でも一番難しい時期に。幸い孫娘の方は志望した学校に合格し、この4月から高校に通うようになった。孫息子の方は中学二年になり、毎日野球部の練習で疲れて帰ってくる。
 私がS子さんの家庭事情を知ったのは、孫娘が高校を不登校するようになってからだ。浮かない顔をしているS子さんに「どうかしたのですか?」と聞いてみた。そこで堰を切ったように今までの経緯を話してくれ、悩みを打ち明けてくれたのだ。私は昔、学生会館の館長をしていた頃、短期のカウンセラー講習を受けたことがあるが、それは素人に毛が生えた程度のものだった。ただひとつ、こちらから口を挟まず、黙って聞いてあげるだけで悩んでいる人の気持ちがかなり楽になる、と教わったのを覚えている。私は一言、「S子さんがいくら母親代わりになろうとしてもそれはできないことだから無理をせず、おばあちゃんの立場で彼女に接してあげたらどうですか」といった。彼女は憑き物が落ちたような表情になり、「私は孫娘の母親代わりをしようと思って焦っていたのかも知れませんねえ!孫娘にとって母親は一人だけ。これからはおばあちゃんとして接してみます」と答えてくれた。その次に会ったとき、S子さんはすっきりした表情をしていた。ただ、今度は孫息子が反抗期に入ったようだといっていた。
 朝、自宅から透析の病院までは車で20分。その間、私はS子さんが好きそうなCDを掛けている。先日は世界の歌姫「サラ・ブライトマン」の「ジュピター」を掛けた。S子さんは車椅子に乗ったまま後方で、サラの透き通ったきれいな歌声にうっとりし、目を閉じてじっと聞き入っていた。曲が終わるとフッと息を吐き、「朝のこの時間が、私にとって身も心も一番リラックスできる時です。それにしても、素晴らしい音楽を聞くと、本当に心が癒されますね!」これから始まる4時間の透析を前にして、僅かな時間だがS子さんの気持ちを癒すことが出来たと含み笑いをして、私は次の仕事に向かった。

タケさんの気ままな日記帳 No.108 - 鰹の想い出

2013-06-16 09:37:38 | タケさんの気ままな日記帳
 << 目に青葉 山時鳥 初鰹 >>

 鰹が美味しい季節になった。江戸っ子は女房を質に入れてでも初鰹を買ったという。ところが山国育ちの私は、およそ魚とは縁がなかった。山国でも川魚があるじゃないか、といわれるかも知れないが、川魚は生臭くて泥臭く、私は全く受け付けなかった。高校を出るまでの間は、生臭いイメージを払拭できず、殆ど魚を食べなかった。東京に出て、姉夫婦のところに身を寄せたとき、初めてまぐろの赤みを食べた。それが魚とは知らずに食べたが抵抗なく、逆に美味しい食べ物だなあと思った。徐々に魚のレパートリーが増えて行くのだが、基本的に生臭いのは駄目で、その筆頭は鰹だった。あんな生臭いものは、生姜やニンニクでごまかしてもごまかしきれない。世の中で、いくら鰹の美味しさを称賛してもおよそ私には縁のない話だと思っていた。そのようにして四十過ぎまで来た。

 四十半ば頃、私はガス会社に勤務し、成田から茨城県土浦市にある営業所まで通っていた。つくばの繁華街に多国籍市場「メルカド」という飲食店があり、そこのお店にもガスを供給していた。「メルカド」は、当時走りのエスニック料理とカラオケを売りにした店でけっこう繁盛し、事業としては成功していた。「メルカド」の社長は意欲的で、今度は、あるカニ料理専門店とフランチャイズ契約を結び、つくばのど真ん中にカニ料理店を開く計画があることを密かに打ち明けてくれた。ついては、新しく作る店舗にもガス設備の工事とガスの供給をお願いしたい。その準備として関東エリアにある既存店を見学し、仕様を参考にして欲しいという要望があった。私は身近なところでは八千代台店があるのを調べ、そこに行って研究し、ついでにカニ料理も食べてきた。いろいろな準備を経て、いよいよ工事が着工されることになった。私は予め地鎮祭の日取りを聞き出し、当日は酒2本を結わいて持参し、お祝いの言葉を述べて帰るつもりだった。ところが「参列者も少ないので、是非同席してください」といわれ、地鎮祭に立ち会った。すると「ささやかですが、一席設けておりますので、今しばらくお付き合いください」といわれ、抜けるに抜けられなくなり、「メルカド」に席を移しての宴席に参加した。社長は「本日はご多忙中のところ、ご参加くださいましてありがとうございました。大したものはありませんが、特上の鰹を那珂湊から取り寄せておりますので、心ゆくまで飲んで、おくつろぎください」と挨拶した。私は「鰹」と聞いただけで、その場を離れたくなった。しかし、僅か5~6名の参加者では、1人抜けてもすぐにわかる。そこで覚悟を決めて居残ることにしたが、どうやって食べたふりをしてごまかそうかとばかり考えていた。鰹以外に他の料理が出てくる気配もないのである。社長の薦めでほかの人は鰹をどんどん食べている。私は踏ん切りがつかず、ビールをちびちび飲んでごまかしていた。すると、社長が私の方を向いて「あんまり進んでないようですね!鰹はニンニク醤油で食べると最高ですよ」といってお皿に鰹を小分けしてくれた。社長自らそこまでしてくれて、食べない訳にもいかず、私は意を決して清水の舞台から飛び降りる覚悟で食べることにした。鰹をニンニク醤油にたっぷり漬けて一切れ口に入れ、そのまま流しこむようにビールを煽った。ところが、一切れ食べても違和感がない。もう一切れ、今度はビールでごまかさず、鰹そのもののを味わってみた。全く生臭さがなかった。三切れ、四切れと食べるうちに、世の中にこんな美味しいものがあったのか?なまじ変なつまみを食べるくらいなら、鰹だけで十分だなあと思った。私は大満足して、その場を辞去した。

 そのことがあってから、私の好みの食べ物がひとつ増えた。私は休日妻とスーパーに買物に行った際、魚売り場を覗き、美味しそうな鰹を買った。家でニンニクをすりおろし、つくばでの味を思い出しながら口に入れてみた。ところが一口食べただけで失望感に変わった。つくばのとは全く違い、生臭いのである。
 私は50歳の歳に腰痛で入院したが、院内でDさんと親しくなった。Dさんもなかなかの健啖家で、それが高じて糖尿病になったくらいだ。毎日カロリーや効用やらで計算しつくされた病院食を食べていると、病室の会話は自ずと食べ物の話ばかりになる。ある時、私が安食の「さかた」で食べたうなぎの話をした。すると、割と程度の軽いKさんは、職員が手薄な日曜日に奥さんを呼んで抜け出して、さかたのうなぎを食べてきたといってお土産を分けてくれたことがある。
 退院後、Dさんに何処か鰹の美味しい店はないかと聞いてみた。すると即座に「鰹だったらうちのすぐ傍にある泉水産のが最高だよ!」と教えてくれた。早速泉水産に行って買い求め、ニンニク醤油で食べた。なるほど、Dさんの見立て通り、美味しかった。それ以来、毎年鰹の時期になると、泉水産に行き、買っていた。一度、スーパーの鰹と何が違うのか聞いてみた。すると「当たり前よ!樽に氷漬けして売っている鰹とうちのじゃ鮮度が違う。うちのは産地直送よ!」と自慢していた。今年も鰹の季節になり、泉水産に行った。ところがシャッターが降りたままで、外に置かれたショーケースも埃を被っていた。不安になった私は、隣の八百屋さんに聞いてみた。すると親父さんのリューマチがひどくなり、今年の2月に店を閉めたということだった。
 一度は絶望感に打ちひしがれたが、今では行きつけの「ひがし食堂」という定食屋で「鰹の刺身定食」を食べている。店の女将さんの私のことを承知していて、仕事のときは生姜しか出してくれない。先日、わざわざ介護の仕事を休んで行き、「今日は休みだ」と断った上でニンニク醤油を出してもらった。そしてたっぷりと鰹を堪能してきた。正に至福の時だった。それにしても、昔メルカドの社長に出会わなければ、一生涯こんな美味しいものを口にすることはなかったと、なんだか儲けものをした気分になった。

タケさんの気ままな日記帳 No.107 - 昭和レトロ

2013-05-12 16:29:31 | タケさんの気ままな日記帳
 << 降る雪や 明治は遠く なりにけり>>

 これは昭和6年、大学生だった中村草田男が母校の小学校を尋ねた時詠んだ句だが、昭和43年に明治100年を迎えた時、「明治は遠くなりにけり」の部分が好んで使われるようになった。平成も四半世紀となり、昭和元年からすると既に87年が過ぎた。だんだん「昭和も遠くなりにけり」になってきた。
 今年の5月5日のこどもの日には長嶋茂雄さんと松井秀喜さんの国民栄誉賞授与式が東京ドームで行われた。式に先立ちバックスクリーンの大型画面に長嶋さんの華麗なボール裁きや現役引退の時の映像などが流れていた。そして式が始まると、脳梗塞の後遺症で右半身麻痺ながら一生懸命歩き、口半分がしびれ舌がもつれながらも話す長嶋さんの姿に思わず涙が溢れてきた。テレビの画面からも「ウォ~!ウォ~!という」嗚咽が聞こえてきた。よく聞くと、ゲストの徳光和夫さんの声だった。それは、現役時代の華々しい姿と現在の病を押して現れた姿の落差によるものでは決してない。人は歳とともに身体が衰えていくのは致し方ない。私も介護の仕事を通して脳梗塞の人を数多く見ているが、そういう中にあって背筋をピーンと伸ばし歩く長嶋さんの雄姿、不自由な右手をポケットに突っ込んだまま左手で大きく手を振る堂々たる姿に感動して涙が溢れてきたのである。恐らくテレビを観た脳梗塞の人たちも、長嶋さんから大きな勇気を与えられたのではないだろうか。専門の医師だちが「長嶋さんはリハビリなどで相当努力しているなあ」と話したのを聞いたことがある。スターは病気になっても大きく輝いているものだと実感した場面だった。それと共に、長嶋さんが現役で活躍していた頃の昭和の懐かしいシーンの数々が思い出されてきた。

 私自身今まで、連綿と続く65年の人生の中で殊更取り立ててある時代をピックアップして考えたことなどなかったが、それを意識するようになったのは「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画を見てからだろうか。「三丁目の夕日」は元々西岸良平作のコミックだが、それを原案として書き下ろした山本甲士の小説もある。その冒頭部分をご紹介したい。

 この物語の舞台は昭和三十三年(一九五八年)の、東京のとある下町。フィルター付きたばこ、即席チキンラーメンなどが販売されるようになり、力道山が国民の英雄で、月光仮面の放送が始まり、フラフープが大流行し、東京タワーが完工し、メートル法に移行しても庶民の間ではまだ尺貫法の方がわかりやすかったという時代である。
 当時、普通の民家にエアコンなんてなかったし。しかし、旧式の日本民家はなかなか涼しくて、扇風機、うちわ、風鈴、打ち水などで、充分に夏の暑さをしのぐことができた。暑さの中で涼を楽しむ余裕さえあった。冬にしても、火鉢の上で餅が膨らむ様子を眺めたり、寝るときには寒さをしのぐために家族が互いに身を寄せ合ったりして、温度計などでは測りようのない温かさが、そこにはあった。
 お父さんたちも現代ほど過酷な時間外労働を課されてはおらず、家族と共にちゃぶ台を囲んで、それぞれのその日の出来事を話し合うことができた。家電製品が現代ほど普及していなかったが、お母さんたちはてきぱきと家事をこなし、エステやフィットネスクラブに通わなくても体脂肪が少なくて健康的だった。ご飯を釜で炊いたり、魚を七輪で焼いたり、子供のズボンを繕い直したり、古着から手提げ袋を作ったりというのは、面倒ではあっても、創造的で充実した作業だった。
 (後略)
[原分ではさらに引用していたが、インターネット上でブロードキャストしてしまうことがためらわれたので、一部割愛した]

 ほんのさわりだけご紹介するつもりだったが、どこも割愛することなく、「はじめに」という章を全部書き写してしまった(前述のように割愛した)。映画でも、シネマスコープの大型画面に映し出された昭和三十年代初頭の風景。ボンネットバスや路面電車が行き交い、三輪自動車が駆け回る。コンピュータグラフィックにより再現された画像とはいいながらあまりのリアルさに思わず「ウォーッ!懐かしー!」と声をあげてしまった。しかし、それは画像に映った骨董品を見る懐かしさではなく、心の温かさを伴った懐かしさだった。また小説に書かれた事象を同年代に生きた我が身に置き換え、断片的ながら昔の様々なシーンが蘇ってきた。
 私の父が当主の大竹一家は、終戦を台湾で迎え、その後日本に帰ってきた。いわゆる引揚げ者だ。郷里の大分県に戻り、速見郡山香町立石の日豊線立石駅前にある友岡医院に親子4人が間借りした。そのうち、母が私を宿した。だが、戦後の荒廃期で貧乏のどん底にあり、私は望まれた子ではなかった。両親は私を水子にしようかどうしようかと迷っていた。その時、友岡先生から是非うちの養子にと懇願された。お腹の子が男の子か女の子か判らないうちから、将来医者になることを嘱望されていたのである。ところが私が生まれてみると母は手放せず、たとえ貧しくても私たちの手で育てるといってその養子話を破談にした。その後、間借りを出て小さな一軒屋を借り、父は中学の教師に復職し、母は大竹食料品店を開いた。親子5人が六畳間に川の字に寝て、起きると布団を片し、ちゃぶだいを開いておかずを奪い合いながらせわしない食事をするのである。それにしてもまだまだ食料事情は悪く、犬の肉も貴重なたんぱく源となり、特に赤犬は重宝された。我が家でも「クロ」という赤犬を飼っていたのだが、ある日忽然と姿を消した。あとで判ったことだが左隣の哲也が犬殺しにアンパン一個で買収され、勝手にうちの犬を引き渡してしまったのだ。当時、犬殺しという職業の人がいて、針金でわっかを作り、いとも簡単に捕獲し、10匹位まとまると鉄橋の下の川原に連行し、解体するのである。私たちは、怖いもの見たさで犬殺しに付いていき、その一部始終を見ていた。そして、うちの「クロ」もあのように解体され人の口に入ってしまったのだなあと諦めた。幼稚園はお寺の敷地内にあり、住職が園長を兼ねていた。皆、密かに「園長坊主」と呼んでいた。お寺の中に「お仕置きの部屋」があり、悪いことをしたらその中に入れられることになっていた。私は教室の横に植わっている柿の木に赤く熟した実がなっているのを見つけた。早速石を投げてその実を落とそうとした。ところが石が逸れて教室の窓ガラスを割ってしまった。私は園長先生に叱られ、「お仕置きの部屋」に入れられた。狭くてうす暗い部屋の中には、蛇や爬虫類が一杯いた。よく見ると厚紙に色を塗ってくりぬき、上から糸で吊るしたものだ。それでも子供の恐怖心を煽るには十分だった。つい最近大分に帰省した折り聞いた話だか、その園長先生は現役こそ引退したが、もうじき百歳に手が届こうというのに未だ健在だということだった。うちの右隣は広地という床屋だった。私は広地のおじさんがお客の髭を剃る時、カップに丸い刷毛のようなものでくるくる回して泡立てるのに興味を持ち、一度やってみたくなった。ある日友達を実験台に湯呑にメリケン粉を入れ、父の剃刀を拝借してやってみた。その夜、友達の親が子供の顔が腫れ上がったといって怒鳴りこんできた。・・・・・まだまだ思い出せば、いろいろなエピソードが沢山あるが、当時出来合いのものを買ってそれで遊ぼうなどということは許されなかった。それでも次々と遊びのネタを考え、皆必ず一丁は持っている小刀で木や竹を削って遊び道具を作り、朝から晩まで野山を駆け回って汗をかいていたのである。

 出だしが長嶋さんだったので、長嶋さんについて一言。私は大学浪人中、東京信濃町の下宿に住んでいた。同じ下宿に野球好きの井出君という仲間がいて、よく神宮球場に巨人・サンケイ(現ヤクルト)戦を見に行こうと誘われた。そこで本物の長嶋選手を目の当たりにしたのだが、彼はその当時既にトップスターで別格の存在だった。それでも何か夢を見させてくれる選手だった。今回の国民栄誉賞に当たり、単に一スタープレイヤーの受賞に留まらず、彼が活躍していた昭和という古くてよき時代を思い起こさせてくれた。私は水子にならず、良い時代に生んでくれた両親に感謝したい。