乾坤

Win書道による書と雑感を書いています。書と雑感を併せて一つの作品となればと思います。

タブレットPC

2005-07-29 12:18:20 | 雑感
タブレットPCの届く昨日までは、今までの書風を一新し新たな作品を展開できるものと信じていた。タブレットに多大なる期待を持っていたのだった。が、実際はそうは上手くいかなかった。

マウスではなくペンで書ける。しかも、ディスプレイに表示されながらである。紙に鉛筆で書くように・・・。現実は少し違ってた。感覚的には絶望的に違っていた。ペンを動かしてから、表示されるまでのタイムラグが気になるのだ。マウスで書いているときには、ディスプレイとマウスが離れていたので、この違和感に気がつかなかったのかもしれない。

何度となく書いてみる。30分もすると少し慣れてきたが、まだまだだ。

ツールという物は、使いこなすまでに時間がかかるようだ。マウスで書道を始めたときもそうだったのかもしれない。ただ単にそのことを忘れてしまったのだろう。

2005-07-28 06:52:29 | 
台風の去った昨朝は、青空が抜けるようだった。雲と空の対比、木々の緑のアクセント、雨が上がったと言う爽快さで一杯であった。

しかし、私の目に焼きついたのは、濡れた土の上のアオスジアゲハの死骸だ。輝くような青が落ち着いた青に変化していることが、命の終わったことを告げているようであった。動物の死骸を目にした時に感じる胸の圧迫は無く、単に儚いと感じた。

他の彼女らは舞っていた。安堵感と虚しさが込上げた。

蝉がうるさいほど鳴いていた。

風雨

2005-07-27 07:25:25 | 
昨日の台風は気まぐれのようであった。時折強く降り、時に止んだりもする。私の外出する時に限り強く降っていたような気がしてならない。

雨の中、秋葉原まで。雨ではあるがそれなりの人がいた。街の様相は変わりつつあるが、世界一の電気街であることは間違いないであろう。大阪の日本橋も名古屋の大須も電気街と呼ばれるがそのスケールにおいて秋葉原は桁違いのものがある。対抗できるのは?以前行った中国瀋陽かもしれない。この街は秋葉原をモデルにして作られているそうだ。将来的には秋葉原を越す可能性がある。

雨の中傘を差しながら歩いていると、自然には所詮適わない、と思う。否、自然と共存するべきと言うことだろう。月並みなことを考えざるを得ないということも、自然の力なのだ。

2005-07-26 06:44:16 | 
黴と書いたのには理由がある。三日ばかり締め切っていた名古屋の家の畳が黴たからだ。とは言っても私は現場に居合わせなかったのだが・・・。妻のショックは相当なものであったらしい。畳一面が黒くなっていたそうだ。ハイターで何度も拭いたとの事。

黴と言う字を書きながら、妙に複雑な字であることを知る。読む時には、あまり字型を意識していないのかもしれない。

昨日は定期健診。先日の結果を聞くと芳しくない。次の検査へ、と言うことになる。今は亡き義父と同じ病気なので、妻は因縁の様なものを感じていた。

台風が来るのだろうか。雨の音がカーテン越しに聞こえる。憂鬱なまま、会社へ行く準備を始めた。

均等

2005-07-25 11:40:40 | 
今、名古屋から帰って来た。月曜の朝の新幹線は、いつもの事ながら混んでいる。単身赴任の方が東京に戻る為だろうか。

久しぶりに、万博会場まで足を運んだ。が、人ごみに嫌気がさす。ベロタクシーに乗り、クロアチア館(たぶん)だけ見て、会場近くの温泉へ。会期間券を持っているので、直ぐに出てくる事も可能なのだ。汗を流して、食事。意外に美味しいマクロに当たり、お酒がすすんでしまった。

何か冴えがない。いつもの事か・・・。

かき氷

2005-07-22 06:08:43 | 雑感
かき氷、と言えば、私にはお蕎麦屋さんに掲げられたかき氷の旗が、まず目に浮かぶ。お蕎麦屋さんに掲げられたその旗は、真夏の象徴であった。私の子供の頃は、まだ家庭用のかき氷器もなく、カップのかき氷も無かった。氷さえ、冷蔵庫からではなく、氷屋さんに買いに行っていた。大きな氷の塊を、アイスピックで壊してカルピスと共にグラスに入れていた。

外でものを食べることは許されていない私にとって、稀に出前で運ばれてくるお蕎麦屋さんのかき氷が宝のもののように感じられた。カップの上にのっている白い氷を手でつぶして、スプーンでさくさくシロップに混じるようにして食べるのが掟である。クーラーもない時代、その一瞬が至高の時間であった。が、冷たさに頭がキーンとすることもしばしばであった。

かき氷と言えば、私には定番のガラスの器に入った、苺のかき氷なのだ。食べ終わると舌の色が変わるそれがかき氷なのだ。

家のエアコンのスイッチを入れながら、あの涼しさには、及ばない。そんな気がした。

風情

2005-07-21 06:51:09 | 
風情と書きながら粋という言葉を思い出す。

妻は、私を気取り屋だと言う。そうなのかもしれないと思う。でも、気取り屋ではない。単に格好つけたがりなのだ。

粋の反対は野暮。野暮にはなりたくないのだろう。そんな気がする。格好つける訳ではないが、野暮は厭なのだ。野暮天。そんな事を言われたくはない。仕事も遊びも(特に遊びは)野暮では格好がつかない。そんな気がする。

粋てなんだろう。例えば、蕎麦屋で焼き海苔を何気なくつまみに出来る事。寿司屋で小肌をつまんで帰る事。お店も自分も楽しい事。そんな単純なものの様な気がする。

彼女にそんな自分はと確認する。「そんな気持ちが無くなったらお終い。」と直に返事が返ってきた。

野暮は私のようであった。

2005-07-20 08:16:21 | 
何回か書いている「萬」をまた書いてしまった。この字には造形的な面白さを感じている。つまり字の意味に私はそれ程興味を持っているわけではない。そのことが、良い事なのか悪いことなのか、それとも、どうでも良い事なのか、判断がつかない。が、以前の私の書道感からすれば是でとは言えないだろう。

それでも、何でも試してみる。そんな気持ちに少しづつ変わってきた。

名古屋と東京の二重生活。現実のその状況に何時か対応できるのだろうか。今までは頭の中でそうするべきだと考えてきた。今はそのことで、少しだけ心が歪んでいるような気がする。

梅雨は明けた。私は・・・。自然に触れよう、そう思った。

薪能

2005-07-18 08:42:52 | 
「マキノウ」。「マキノウ」って何だろう。妻は、自問自答しているようだった。私も、それとなく考えてみる。暫らくするとあるポスターが浮かんできた。

それって「薪能」じゃないの、と私は声にした。彼女は、そうだと思い出したとたん、大笑いした。

知っているはずなのに、その瞬間だけ違うイメージが浮かび、知っていることとは違うことを思うことが、私にはよくある。思い込みが激しいので、その時は他の事が浮かんでこない。が、暫らくして冷静さを取り戻すと、正解を思い出し、独り赤面したりする。

今日は月曜日。たとえ休日であっても、妻が名古屋に行くと言う事に変わりはないのだった。

一年ぐらい前のこと

2005-07-17 19:35:05 | 雑感
このblogを始めたのは、書道界に対する問題提起だった。しかし、それは失敗だったと思う。何故なら書道界の人々はblogなど読まないからだ。始めから響きもしない所に、ヤッホーと叫んでいたような気がする。

しかし、私が始めた理由はまさにそれであった。しかし、書道界と無縁の方に書道界の理不尽さを唱えても仕方がない。私のするべきことは、書道界の問題を伝えることではなく、書の楽しさを伝えるべきなのだという事に、変わって行った。それが正しかったのかどうかは別として、私の出来ることはそれであるように感じている。

では何か変わったのであろうか?何も変わりやしない。でも・・・。何かしないではいられない。そんな思いが未だにある。

書道とは何であろうか?いつもそのことで思い悩むが、本当は、思いを伝えると言う事は・・・。
つまり、表現とは何かと言うことで悩んでいるのかもしれない。