乾坤

Win書道による書と雑感を書いています。書と雑感を併せて一つの作品となればと思います。

明月流素光

2005-07-16 08:36:35 | 
携帯を換えた。遠隔地からロックできる物にした。調べるとデータを消去できるものもあったが、それはキャリアーが違っていた。わざわざ失くす事もないが、一安心できる。

指紋認証機能もついているので、折りたたむたびにロックするように設定。これぐらいで、充分であろう。これ以上すると面倒すぎて使えなくなる。

指紋認証が完全に安全かというと、そうではないらしい。指紋をコピーすることができ、それで認証を通過することが可能との事。世の中、完全なる物は存在しないのだろう。

明月流素光。秋の感じだ。どうも季節感が欠如している。

2005-07-15 05:45:05 | 
玄人の玄。玄岳の玄・・・。クロと読む例を考えていったもののこれで終わりであった。

昨日は小雨降る中を歩いて会社まで。イギリス紳士ではないが傘を差すのが嫌いだ。濡れることが気になるほどではなかったので濡れながら歩いた。濡れる方が、傘を持ち歩く事より、まだましなのだ。だから、傘をステッキ代わりに持ちあることなど無い。イギリス紳士の様になれない所以である。偶になら濡れながら歩くのも悪くはない。雨には雨の風情がある。

傍から見ると私は、かなり変わっているらしい。小一時間歩いて通勤すると言うことだけも奇特なのに、雨に濡れながらとなると尚更であろう。癖毛の頭も、無精ヒゲもその一因であろう。が、人目を気にしない気儘な生き方がその最大の原因なのだろう。

玄、玄、玄・・・。何故、玄と書いたのだろう。

そうだ、私は玄人という響きが好きなのだった。

無法

2005-07-14 05:52:45 | 
羹に懲りて膾を吹く。ど忘れしていた言葉を思い出した。先日のチケット払い戻しの後、再予約したのだが、また間違っているような気持ちを拭い切れず、何度も確認した。不思議なもので、確認すればするほど、間違っているような気になる。誰かに再確認して欲しいぐらいなのだが、それをしてもこの気持ちは変わらないであろう。

このことが大きく心に影響しているのは、その少し前の携帯忘れ事件が発端になっている。あの事が無ければ、ここまで、慎重にはならなかったであろう。つくづくと自分の弱さを感じてしまう。

無法と書いてみる。「無法」「無法者」二つの言葉で無法の意味合いが正反対なことが面白い。

ところで、梅雨はいつ明けるのだろう?急にそんな事を思うのであった。

お地蔵様

2005-07-13 06:19:06 | 雑感
昨日の帰り道は寒いぐらいであった。早く帰ってこなければならなかったので、久しぶりにママチャリで通勤。やはり、自転車は速い。

何か書きたいことが幾つかあったのだが、今朝になると何だったのか思い出せない。大した事無かった様でもあるし、結構いい題材だったようにも思う。最近、ど忘れが酷い。いつもは言える人の名前さえ、出てこないことがある。エクササイズで回復するものなら、何とかしたい。真剣にそう考える。

もう一つ困ったことは、老眼である。ど近眼の私は老眼には縁が無いと勘違いしていた。近眼であっても老眼にはなる。近くの文字にピントが合わないのだ。合わないと言うよりは、合うのに時間がかかると言うのが正確な表現であろう。授業の時は、遠くを見て、手元を見ての繰り返しだ。不便なことこの上ない。遠近両用眼鏡がいいよ、と勧められたものの、何となく使いたくない。

東洋的な思想では「老」は悪い意味合いを持たないらしい。「人書倶老」。そんな風になりたいと思うものの、体の老いばかりを最近は感じている。

そうこうしているうちに、忘れていたことを思い出した。

2005-07-12 09:59:07 | 
畑のトウモロコシにあの独特の毛が生えてきた。花で言えば蕾であろうか。

小さな畑で細々と実験的に作物を作る。成功不成功に無関係に楽しい。

土を掘ると虫がいる。そんな当たり前のことを私は忘れていた事に気がつく。

自給自足。それが生活の基本なのだろう。

2005-07-11 09:51:56 | 
あまりに暑い。

何もする気が起こらない。

エアコンを入れても気持ちまでは変えてくれない。

何とかしないと・・・

枝豆

2005-07-10 07:00:57 | 雑感
採れたての枝豆の味は、身の入りが絹さやのようであるが、芳醇であった。が、如何せん実の入りが悪く食べているという実感に貧しい。それでも、枝豆の香りや味を既に持ちあわせていることがうれしかった。もう少し身が入るまで待つことにしよう。

朝起きて今日までの試験の準備。何でいつもギリギリまでやらないのだろう。締め切り間際という緊迫感が決して好きな訳でもない。単に怠け者なのか・・・。

昨日は降ったり止んだりの変な天気であった。そんな天気の中、ずうっと昔に詠んだ恥ずかしい歌を思い出す。
「五月雨は な止みそ止みそ 一傘の 君と我とを しばしとどめむ」
若かったと言う事だろう。ついでにもう一つ。
「君が手の 短き手紙 かなしくて そを読み返し 夜は更けゆく」
きっと秋だ。

歌を詠まなくなって久しい。たまには赤面するような歌を詠ってみるのも一興かもしれない。

2005-07-09 06:08:23 | 
雑草は放って置いても育ってゆく。我が庭の中心は、どう見ても雑草だ。忌々しくも思うが自然の勁さを実感する。風で倒れてしまったトウモロコシも、その傷跡を残しながらも、立ち直っている。

葉ばかりが元気の良い枝豆も身を付けてきた。膨らみは市販のものよりも小さいようだ。が、今晩試しに食してみよう。

窓を開けると、スズメが飛び立っていった。心がスッとした。

正と逆と

2005-07-08 06:13:49 | 
やはりタナボタなど起こらなかった。が、縫った指の抜糸をした。タナボタではないが良い事が起きた事になる。小さな事でも無いよりは良い。

作品というのも不思議なところがある。出来た時は良く出来た様に感じていても、暫くたつとそうでもないもの。反対に出来たときは今ひとつに見えたのに、後から見ると意外に良かったりする事もある。今回の作品は後者の方である。良いとも言えないが、悪くも無いように思う。

筆での書の作品は寡作な私が、マウスでは多作であることが面白い。実験という場であるためであろうか。

筆で書く場合には墨を磨ると言う作業が必要だ。一見面倒なこの作業が私は好きだ。墨の香りをかぎながらゆっくり墨を摩り下ろす。徐々に墨の量が増えてゆく。一晩寝かす。

私は墨を磨りながらイメージを膨らませ定着しているのであろう。

今日もまた朝がやってきた。

七夕

2005-07-07 07:23:25 | 
七夕と書きながらタナボタを連想する。牽牛という漢字を思い出そうとして、浮かんで来たのは牛蒡である。ロマンティックな感覚は持ち合わせていない。夜景にも、綺麗だとは思うが、それ程感動せず、妻を失望させることとなる。

一年に一度だけだとしても確実に会えるのなら、それもまた楽しそうだ、などと不埒なことを考える。妻と私は週末だけ、でも毎週会っているという事になる。何故会いたいのだろう。私の場合は、笑いたいからだ。彼女と話していると自然に大きな声で笑うことが出来る。

一人の部屋で、ニター。ガハハ。どちらも想像したくない絵図の様な気がする。

などと書きながらも、頭の中はタナボタなのであった。何かいいことがありますように!