しばらくブログを更新していませんでしたが、近況を報告します。
ここ2年近く人生のどん底をさまよっており、霊的に(エホバの証人的に)中途半端、世的にも(社会的にも)中途半端な生活を送っていましたが、この度 4月中旬に無事転職先が決まり、先日から入社研修に参加しております。
仕事は、とある量販店の販売業で、職種ゆえ土日祝日は出勤、残業有り、転勤有りというエホバの証人にとっては最悪な条件です。
でも安定した給料・賞与には変えてられませんし、今の時代そんな仕事があるだけでもありがたいと思っています。
一次面接、二次面接、筆記試験、適性検査などさまざまな過程を経て内定をもらったのですが、筆記試験など大してできなかったのによく合格したなぁと不思議に思っています。
今が終わりの日なので、サタンが僕を真の組織から引き離し、物質主義に陥らせようとやっきになっているのでしょうね。(棒読み)
そんなサタンのおかげで(?)、30代を目前にして人生の軌道修正ができたことを本当に良かったと思っています。
これから店舗に配属、試用期間後に転勤がある予定ですが、転勤したら完全にエホバの証人とは縁が切れるでしょうね。
そんなこんなで、縁があるうちはなまぬるくブログを続けていきますので、よろしくお願いします。
ここ2年近く人生のどん底をさまよっており、霊的に(エホバの証人的に)中途半端、世的にも(社会的にも)中途半端な生活を送っていましたが、この度 4月中旬に無事転職先が決まり、先日から入社研修に参加しております。
仕事は、とある量販店の販売業で、職種ゆえ土日祝日は出勤、残業有り、転勤有りというエホバの証人にとっては最悪な条件です。
でも安定した給料・賞与には変えてられませんし、今の時代そんな仕事があるだけでもありがたいと思っています。
一次面接、二次面接、筆記試験、適性検査などさまざまな過程を経て内定をもらったのですが、筆記試験など大してできなかったのによく合格したなぁと不思議に思っています。
今が終わりの日なので、サタンが僕を真の組織から引き離し、物質主義に陥らせようとやっきになっているのでしょうね。(棒読み)
そんなサタンのおかげで(?)、30代を目前にして人生の軌道修正ができたことを本当に良かったと思っています。
これから店舗に配属、試用期間後に転勤がある予定ですが、転勤したら完全にエホバの証人とは縁が切れるでしょうね。
そんなこんなで、縁があるうちはなまぬるくブログを続けていきますので、よろしくお願いします。
>”霊感は受けていないが、聖霊により導かれてい る”
と言う事が理解出来ないでいました。
オガタさんの説明で何となく判るような気がします。
理解出来なかったのは神が啓示する時には聖霊を用いると思っていたからです。勝手に。
洞察、読んでも分からないし今更霊感と聖霊の違いを人に聞けなくて・・・
昔はみ使いを送られたり幻を見せたり夢を見せたりしましたね。
霊感は神から伝えられた事を体で実感する感覚があると思っていました。
統治体の成員が霊感を受けていないと分かってから
私の信仰はがたがたになりました。
霊的な事柄は聖霊に導かれなければ理解できないのと言われています。
霊的な兄弟姉妹達はよく、霊に導かれたからこれこれの事が出来たなど言っていますが、そんな事なら祈りをしない世の人でも出来てるのにと思う事ばかりです。
祈っても祈っても壁に向かって独り言を言っているような日々しかなく何もかも空しいのです。
と言ってもまだ良く理解していないかもしれませんが少しは分かったような気になりました。
よく「装い」のヒトを見つけますね。
「霊的な人」
って,あまり,一般人は使わないと思います。
これ,明らかに「神権用語」でしょ。
なんか,一般人を装って,
エホバの証人の組織を「よいしょ」してるっていう
においがプンプンしますけど。
(個人の感想です。)
私は、エホバの証人こそが聖書の真理を伝えていると理解しています。
他の宗教組織と同じように、
エホバの証人の組織の中にも、統一教会やCIAなどの工作員が入り込み、組織内組織を、
多分? 形成しているでしょう。
これは彼らの手口で、組織内組織を作り、自分たちの都合のいいように事を運ぶために内部から侵食していくやり方です。
個人としてのエホバの証人は、このブログ主のように様々ですが、
神の言葉に忠実で霊的な人というのは、とても素敵な人だと感じます。
余計なコメントでした..
失礼しました。
m(_~_)m
一番近いのがJWで、後はすべて「数」で勝負、あるいは司教さんたちが何かやらかして「はい、すみませんでした」で終わらすやり方を繰り返すキリスト教の皆さん達、というのが事実みたい。
わたしとしては、前々回の書き込みで、現時点で言えることはほぼ全て言い切ったつもりです。「現時点で」と言いますのは、ここから先のさらに突っ込んだ話については越えられない壁といいましょうか、分水嶺、分岐点になるのではいかと考えたからです。すなわち、同一の事象、事例について論じたとしても、それぞれの立場によって捉え方が全く異なってしまい、水掛け論的なやり取りに終始してしまうことになると思うのです。
したがって、ここは一旦議論を棚上げにしたいと思っています。また、このブログで議論が繰り広げられることを不快に思われる方もいらっしゃるようですし・・・
ただ、誤解は解いておきたいと思います。
「思想の自由」という言葉が取りざたされていますが、わたし自身はこの言葉に特に深い意味を込めたわけではありませんでした。書いているときにしっくりくる言葉が思い浮かばずに、苦肉の策として使ったまでです。わたしのボキャブラリー不足からいらぬ誤解が生じてしまったことを反省しております。
要は(繰り返しになりますが)タブーを恐れず批判的に考えるということであり、そのことについてはオガタさんが的確にフォローしてくださっています。
くびさんは少し誤解あるいは混同しておられるようですが、”批判する”ということと”批判的に考える”ということとは全く次元の異なる話です。批判的に考えるということは、例えていうなら算数の検算のようなもので、導出された解を一旦疑って、別の視点から再検証してみるということです。ですから批判的に考えてみて「やっぱり正しかった」という結論になることも当然あります。このように、”批判的に考える”というのは『考えるだけ』なのか口に出して『批判する』のかという次元の話ではありません。
JWの大多数はこの”批判的に考える”というプロセスが完全に欠落しており、与えられた公式と解をそのまま鵜呑みにしてしまっています。それもそのはずです。組織(=統治体)がそうさせているのですから。
(ネットの批判的なサイトを見ないようにという指示は、まさにその典型です)
JW組織から自らすすんで離れていった人たちの多くは、このプロセスを踏んだ結果、公式と解に不整合が生じている、あるいは公式そのものが成立していないと気づいたのです。
せん越ながら、おそらくブログ主さんも現在その過程にあるのではないかと思います。
先ほど「これより先は~」と述べましたが、一点だけ付加させてください。
くびさんは組織の話をしているときに『聖書から見て正しい選択なのだと思います』『この組織に入って聖書を道しるべにした場合は~』と説明しています。おそらく、くびさんは何の躊躇もなくこのように述べており、ご自身としては何の違和感もないものと思われます。
これは”組織”と”聖書”を不可分と考えることからくるものであり、JWに共通する思考パターンです。
しかし、わたしのような立場の人から見ればこれは全くの誤解であり、最初のボタンの掛け違いともいうべき重大な考え違いです。
組織の教えと聖書の教えとは全く別個のものです。くびさんは『聖書を学んでますよね、生き方を学んでいるわけですから~』と述べておられますが、それは”聖書についての組織の解釈”を学んでいるに過ぎず、決して聖書を学んでいるのではありません。
もっとも、このあたりの論点は冒頭で述べた分水嶺の”向こう側”に相当すると思いますので、くびさんのお立場でご理解いただくのは難しいかと思います。したがって、これ以上の言及は避けたいと思います。
いずれにしましても、くびさんはくびさんなりにご自身にとって心地よい仕方で組織と交わっておられるようですので、それはそれですばらしいことだと思います。
ただ、身の処し方が分からずに悶々とした気分のまま組織に交わっている人が大勢いることも事実ですから、そのような方々のために少し視点を変えてみるためのサジェスチョンをさせていただきました。どうぞご了承ください。
それでは・・・
>自分の考えを押し通すことが出来なかったり,、
というようなことでは無いと思いますよ。押し通せないからどうのこうのというのでは無く、普通の神経の持ち主であれば疑問に思う事が口にも出きない状況であることや,JW言うところの世の人の方がはるかに常識的で公正でもあるというような場面に繰り返し直面した結果であることの方が遥かに多いと思います。脳天気に、ただ思い込みだけで居るのは耐えられないのだと思います。しかし、人間ですから、当然他者との何らかの交友なり,意見の表明なりしたいわけで、有難いことにこのようなサイトがありますから書き込ませていただいているのです。
>一度頭の中も心の中も真っ白にしてみたらどうでしょうか?
そういうことが現実的に人間に出来るのですか?真っ白になるということは何も残っていない状態ですから、つまり白痴ということですね。あるいは、記憶喪失とか痴呆症ですか?まあ、”真っ白に”などと言われて”はいそうします”などと言える人間がいたら、その方がおかしいですよ。
JWの組織とまともに付き合うとロクなことが無い。しかし、家族や友人がJWであれば、付き合いを保ちたければいやでもJWに留まらざるを得ない。どうも、この辺りの現実的な必要性がお分かりになっていらっしゃらないのではと思います。
批判・思想・聖書についての考え方が、わたしとオガタさんでは大分違うので、なんと返答したら良いかわかりませんので、こちらについては返答はしませんね。
>>そんな批判している組織に居たいと普通は思うでしょうか?
> 居たいかどうかではなく、様々な理由と利害により居ざるを得ないこともあるのです。
この点はわたしも常々、大変なことだなぁ、と感じております。 様々な理由があり、自分の考えを押し通すことが出来なかったり、また自分の心さえわからなくなっている場合もあると思います。
ただ本当にこの組織がいやでいやで、とても信じられなくて、心からは批判しか出て来ないのであれば、一度頭の中も心の中も真っ白にしてみたらどうでしょうか?
ここで学んだこと・人間関係・辛かったこと・全部を、思い切り忘れてみたらいかがでしょうか?
そして将来に、心の中にこの組織(もちろんエホバ)のことが残っていたとしたら、真っ白い心にもう一度受け入れたらよいと思います。
もちろん受け入れなくても、それは各自の自由だと思います。
ただこの組織を離れるなら、過去のことに縛られていつも心が苦しく感じないように、自分を真っ白にして、思い出すなら過去の良かったことだけを思い出にしてみたらよいのではないかと思います。
どうかみなさんの心が、なにか得たいの知れないものに縛られませんように、心から願います。
wikiからの引用ですが、
批判的思考(ひはんてきしこう、英: Critical thinking)は、特に欧米諸国で主流となっている物事や情報を批判的に解釈する思考パターンのこと。単にクリティカル・シンキングと呼ばれることも多い。対象物を見聞きしたままに受け取るのではなく、客観的なおかつ分析的に理解される必要がある。、、、,
「批判」という言葉は反対する、受け入れない、などのイメージから「否定」という言葉と同義で用いられるケースが少なからず存在するがここでいう批判とは情報を分析、吟味して取り入れることを指しており客観的把握をベースとした正確な理解が必要とされる。「否定」という言葉はその情報自体を拒絶するという意味合いが強くまた主観的要素を含んでおり「批判」という言葉の意味とは隔たりがある。たとえば、「アジアと欧米の違い」の項目ではすべての文に「要出典」のタグが付けられているが、これは、書かれたことを盲目的に信じるわけでもなく、また出典のない記述を頭ごなしに否定するわけでもなく、事実であるなら論拠を示すべきである、という「批判的」思考の表れである。
”批判”は改善や進歩の根拠であり要因です。例えばホンダ技研では社員の名札に役職は書かれていません。社員が自由に批判を口にし改善を生み出す為です。JWが長老だの巡回だのと口にするのは改善する気が無いからです。寧ろ、そうさせないために押さえつける根拠として役職を表に出すのです。進歩というものは否定から始まるのです。例えば、統治体ですら時折,”聖書理解に関する調整”を公表します。これは以前の見解に対して批判点を明らかにし一部ですら否定しているわけです。つまり批判が否定を生み出し、進歩の要因となるわけです。しかし、JWを構成する支配層の多くは、自らの個人的な見解についてさえ批判され調整され、あるいは否定されることを拒み、そうする他者に”不従順もしくは反抗的”との烙印を押します。これは高慢であることを表しています。
>この組織に入って聖書を道しるべにした場合は、もう一般的に言う「思想の自由」は考えないのではないでしょうか?聖書が思想に当てはまるわけですから。
聖書は思想では無く文書です。思想はそれを読むあなたの中に生まれるものです。或いは、JWの出版物を読む人の頭脳には同じ内容、イメージ、記憶、印象,作用が生じるかと言えば、皆異なるというのが答えでしょう。注解なり講話の内容なりが会衆や人によってかなり異なることからも容易に分かるはずです。くびさんの頭に浮かぶイエスの姿は私のものとは異なるでしょう。更に立ちいれば、今日の私と明日の私では聖書から受ける影響は異なるはずです。思想とは人間の頭脳に生じるものであり、それ故にいかようにでも変動するものです。食べ物の影響でも変わり得るのです。頭脳とは物質によって構成され、その働きは生理作用に過ぎないのですから。
>聖書中の疑問に思うことなら聞けますよ。それは「質問」の形でです。
この質問というものを批判と解釈するのがJWです。しかし、判断が出来ない状態でに陥っているのであれば、善悪の識別も働かず、ただ上の言う事を鵜呑みにする状態、盲従者でしかありませんよ。
ここまではっきり言いたいと私も常に考えているわけではありませんが、JWに存する高圧的で盲従を要求する連中や、それを持ちあげて諾とする輩をみると一言いいたくなるのです。
>そんな批判している組織に居たいと普通は思うでしょうか?
居たいかどうかではなく、様々な理由と利害により居ざるを得ないこともあるのです。
のこぎりさんの書かれている内容がわたしには少し難しいので、またのこぎりさんの思いと違って受け取っていたらすみません。
わたしの考えをお返事しますね。
>わたしの考える自由とは、矛盾や論理的不整合について疑問に思う自由、批判的に考える自由、端的に言うと思想の自由です。
これについてのわたしの考えは、
>矛盾や論理的不整合について疑問に思う自由
疑問に思うのは問題ないことだと思います。
>批判的に考える自由
学校・企業・病院・いろんな施設・スポーツグループ・その他あらゆる組織
これらはどこでもその組織の決まりがあり、規律があります。それに所属する学生・社員・選手などがその組織を批判するとしたら、それが他の生徒や社員などにも影響が出て運営にも支障がきたしたら、どんな処置が行われますか?停学・退学・退職・退所などの処置になりますよね。批判ではなく提案なら分かります。批判するくらい信用できないのなら自分から退けば良いのではないでしょうか?
のこぎりさんが言われるように「批判的に考える」と・・考えるだけで済むのなら、それは個人の心の中で考えれば問題ないと思いますが、そんな批判している組織に居たいと普通は思うでしょうか?
ですから
>危険分子を排除
>これが組織防衛、自己保身です。
組織ならどんな組織でも、当たり前のことだと思います。
でもエホバの証人の組織は、自己保身だけではないと思っています。
>思想の自由
これについては全く理解できません。
聖書を学んでますよね、生き方を学んでいるわけですから、その中には「思想」をも包含しているのではないでしょうか?
自分から学んでいるわけですから、今更「思想の自由」って・・・わたしには理解できません。
>自らの利益に合致しない事態が生じたとき組織は豹変します
これはいろんな組織で見られる現象ではありますが、エホバの証人の組織の場合は「豹変」するわけではなく、聖書から見て正しい選択なのだと思います。
思想とは
1 心に思い浮かべること。考えること。考え。「新しい―が浮かぶ」
2 人生や社会についての一つのまとまった考え・意見。特に、政治的、社会的な見解をいうことが多い。「反体制―を弾圧する」「末法(まっぽう)―」「危険―」
3 哲学で、考えることによって得られた、体系的にまとまっている意識の内容をいう。
思想の自由→自由意志の中に含まれていると思いますが、この組織に入って聖書を道しるべにした場合は、もう一般的に言う「思想の自由」は考えないのではないでしょうか?聖書が思想に当てはまるわけですから。
>くびさんはこのような疑問点を長老や巡回監督に言えるでしょうか
このような疑問点・・は、わたしの思いの中にはないので聞きませんが、聖書中の疑問に思うことなら聞けますよ。それは「質問」の形でです。
またわたしの勘違いな返答があったら、申し訳ありません。
内容はちょっと理解がむずかしいですが。
ブログはアクセスしてコメントを残していく人たちによって作られていくと思います。
議論が白熱して、それが発展すれば、それはそれで面白いブログに成長する。
小難しい話はよしておくれ、という雰囲気なら、そういうブログになるということです。
どういうブログに成長していくか、楽しみながら見守るのもいいと思いませんか。
そうしていて、自分の趣味に合わない、と思ったら、自分が他に行けばいいのです。
他人に、よそに行け、と指図するのは筋違いではないでしょうか
どんだけ議論好きなんだよ。ひとんち上がりこんで延々しゃべってんなよ。
ブログ主が戻りづらくなるだろうが。
エホ証教育受けたやつって本当自分のこと議論論破することしか考えらんねーのな。
そんだけ語りたいなら自分らで場所作れよ
当該部分については訂正させていただきます。
特にオガタさんの書き込みの後半では的確な指摘がなされていると思います。つまり、口では誤謬の可能性を示唆しながら『事実上』は無謬として振舞っているということです。
この事実の前では「霊感」や「聖霊」といった用語についての”定義付け”は、さほど大きな意味を持たないと思います。なぜなら、わたしが前回提示したアンサー①,②はそのまま残るからです(アンサー①については「霊感」を「聖霊の導き」置き換える)。
疑問を差し挟むことを決して許さず事実上無謬として振舞っている以上、用語の定義付けは単なる言葉遊びであり、また「誤りを犯すこともある」と言ってみても、それは自己保身のための逃げ道に過ぎないといえるのではないでしょうか。
>理由①統治体は、本当は霊感など受けていない
についてですが、統治体自信が”霊感は受けていない”ことを何度も公にしています。”霊感は受けていないが、聖霊により導かれている”という内容が随分繰り返されてきたと思います。”霊感を受ける”ということは”神からの直接の啓示を受けること”と定義され、それ以外の(間接的な)神からの導きは”聖霊により導かれる”とされています。或いは、霊感を受けたことに対応する部分には誤りは無いが、精霊に導かれていても人間は誤りを冒すと説明されてきた(使い分けられてきた)と思われます。
恐らく問題は、神からの霊感を受けている人間は統治体にも他にも存在しないことを認めていながら、事実上統治体や長老、各支部やその成員の誤謬を指摘することが禁じられているという点にあるのだろうと思います。そうすることで絶対的な存在として振舞っているのだと思います。この目的の為には、のこぎりさんが書いておられるように問題を指摘する分子を”排除”することにやっきになるのだと思います。
そういう意味では、統治体の主張を真に受けて統治体に適用すると排斥の憂き目にあうのです。
くびさんには誤解を与えるような言い回しをしていたことをお詫びします。また、AC後屋さんが私の代わりに誤解を解いてくださったことに感謝します。
せっかく、くびさんがわたしを名指しでご自分の思いをぶつけてくださいましたので、手短にお返事したいと思います。
ところで、前回わたしが述べたことを要約すると
①国民性等による表面的な違いはあるが、組織の本質は世界中どこでも変わらない。
②組織の本質は、組織の論理、自らの利益を追求するというものである。
③組織の論理とはいわば組織防衛、自己保身であり、そのためにはそれに属する個人はさながら駒のように扱われることがある。
ということです。
さて、くびさんは組織の本質についてのわたしの見解が理解できないとのことでしたが、具体的に何がどう理解できないのか諮りかねますので、今回はくびさんがこのブログに書き込んでおられることと、上記の点を関連付けてわたしなりの考えを述べたいと思います。
>わたしが現役ではありますが、とても自由に生きております。
したい仕事をして、体が無理な時は集会も休むし・・
どうやらわたしの会衆がとても心の広い会衆なのだと思います。
くびさんがJW組織との関わりにおいてそれなりの喜びを見出しておられることは、それはそれですばらしいことだと思います。
ただ、くびさんの言う自由は集会に出席するか、伝道活動に携わるか、神権宣教学校の割り当てを果たすかという類のもので、組織が守りたい枠組みから逸脱するものではありません。逆に言えば、組織にとって脅威となるものではないゆえに容認されているともいえるでしょう。
しかし、わたしの考える自由とはそのようなものではありません。わたしの考える自由とは、矛盾や論理的不整合について疑問に思う自由、批判的に考える自由、端的に言うと思想の自由です。
ひとつ、例を挙げてみましょう。
JWはかつて『1914年に起きたことを見た世代が生きているうちにハルマゲドンは到来する』と教えていました。しかし、1996年ごろだったでしょうか、この教義は変更され、ハルマゲドンは事実上無期延期されていまいました。
では、日頃から霊感を受けていると公言し、そのことで権威を保っている統治体の教えに、なぜこのような誤謬が生じたのでしょうか。
理由①統治体は、本当は霊感など受けていない
理由②統治体は霊感を受けていたのだが、間違って理解していた
理由③エホバ神が誤った情報を統治体に送った
と、考え付くのはこんなところでしょうか。
①について:統治体が霊感を受けていないのなら、無理してこの組織に留まる理由はないと思われます。
③について:エホバ神が全知全能であるという主張にケチがついてしまいます。
②について:JW的には一番受け入れやすいかもしれません。「真理は徐々に明らかにされていく」というJWお得意のタッキング理論で説明がつきそうです。しかし、このような教義の根幹に関わるようなことについてまで統治体が間違って理解してしまうことがあるのなら、統治体から逐一出される指示や教えにどれほどの重みがあるでしょうか。もしかしたら、輸血や子供の教育など取り返しのつかないようなことが明日にも「やっぱ間違ってたわぁ」とあっさり変更されることだってあり得るということになます。
さて、思想の自由があれが上記のようなことを考え、統治体の繰り出す理論に矛盾や論理的不整合があることに気づきます。そこで、たとえば、くびさんはこのような疑問点を長老や巡回監督に言えるでしょうか。また、仮に言えたとして、長老や巡回監督の反応はどうでしょうか。想像するに、くびさんが「集会には無理してまでは来ない」と言うときとはかなり違った反応になりはしないでしょうか。
それはなぜでしょうか。
ある個人が集会に来るか来ないか、神権宣教学校の割り当てを果たすか果たさないかといったことは、組織の存立に全くといってよいほど影響しません。
ところが、上記のような疑問点、もっと言うなら問題提起は組織の土台を揺さぶりかねません。そうすると組織は、その個人を危険分子として認識します。一考の価値のある問題提起であろうと、そんなことはどうでもいいのです。その危険分子を排除しない限り、組織は蝕まれ、倒壊するかもしれません。
お分かりでしょうか。これが組織防衛、自己保身です。
普段は温厚で親切に見えても、自らの利益に合致しない事態が生じたとき組織は豹変します。そして、このような行動原理は世界中のどの支部、会衆でも普遍的に見られます。すなわち、これが組織の普段は見えない『本質』なのです。
少し長くなってしまいました。
誤解していただきたくないのですが、わたしはくびさんを説得したいと思っているわけではありません。もちろん、くびさんもわたしごときの意見で説得されるような方でもないでしょう。前回の書き込みで述べたように『あなたがどう感じるかということにまで、他人が介入すべきことではないとは思いますが・・・』というのがわたしのスタンスです。さらに言うなら、形而上学的なことについて人々の考えを集約しようとすることは、互いにとって不幸の始まりだと考えています。したがって、受け入れられない考えがあったとしても「どこかの誰かの意見」とみなしてくだされば幸いです。
ご理解いただけて嬉しく思います。
ところで、日本のJWは堅苦しいけれども海外のJWはのびのびしていて自由闊達、という話を時々聞くことがあります。個人的に海外の会衆をよく知っているわけではありませんが、たとえば映画「パーフェクト・ワールド」などに描かれているJW像などからは、やはり抑圧されたJWの子どもたちの様子がうかがえるように思われます。
もちろん「この世」の作品ではありますが、少なくとも海外のJWはバラ色というようなことは幻想ではないかと思います。
>あなたがどう感じるかということにまで、他人が介入すべきことではないとは思いますが・・・
ここをAC後屋さんが言われるとおり、勘違いしておりました。
また勘違いしたまま冷静さを失い、さらに失礼な言葉を並べ、申し訳ありませんでした。
ただエホバの証人の組織の内容 組織の本質については、どれほど考慮してもどうしてものこぎりさんの意見をわたしには理解ができません。
言われるようによく読みなおして見ましたら、本当にわたしが間違った意味に取っていました。ご指摘、ありがとうございました。
>あなたがどう感じるかということにまで、他人が介入すべきことではないとは思いますが・・・
ただ島国根性に関しては、この語の意味の捉え方で変わってくるのでなんとも言えませんが、
わたしは島国根性と言う語を、
非常に閉鎖的で視野が狭く、他を寄せいれないような性格・・。
と判断しました。
日本人やエホバの証人をそのように思っているわけではありません。
確かに冷静ではありませんでした。
重ね重ね、ありがとうございました。
くびさんとのこぎりさんのやり取りですが、
>日本人って、仕方ないんですよね。日本人って、本当にヘタなんです。島国で、いつも規律やルールに縛られてきた日本人は、
これを一般に「島国根性」と言うのではないでしょうか。「島国根性」という言葉そのものは使っていらっしゃらなくても、ほとんど同義だと思います。
>>あなたがどう感じるかということにまで、他人が介入すべきことではないとは思いますが・・・
この部分は、のこぎりさんがくびさんに対してコメントをすることで他人の感じ方にまで介入すべきではないだろうけども、と断りながら、それでもあえて意見を述べられたということでしょうね。くびさんがのこぎりさんに介入しているという意味ではないでしょう。
ご自分の意見が否定されたように感じられて冷静でいられないのは理解できますが、誤解があるままでは建設的な意見の交換はできません。まずは落ち着いて文面を読み直してみられてはいかがでしょうか。
とくにこの点
>『日本人は島国根性で~』というステレオタイプな意見はいかがなものでしょうか。
島国根性なんて言ってません。し、
わたしは「どなたでもお気軽にコメントください」とあるので、わたしなりのコメントをしたまでです。
わたしの書き込みはコメントを通りこした内容でしたか?
>あなたがどう感じるかということにまで、他人が介入すべきことではないとは思いますが・・・
介入・・・。この点もさっぱりわかりません。
わたしのコメントは介入と言えるものですか?
第一、あなたに言われる筋合いはありません。
>国民性や会衆ごとの雰囲気といった表面的なことに惑わされず、JW組織の本質について考慮してみてはいかがでしょうか。
大きなお世話です。これこそわたしへの介入とは言えないですか?
よろしく
新たな船出ですね~。
新しい人生を楽しみましょう!
島国で、いつも規律やルールに縛られてきた日本人は、
そういうルール的なものをみると、当てはめ方が本当にヘタです。
堅苦しい、ギクシャクした、そんな当てはめかたになるんですよ。
あなたがどう感じるかということにまで、他人が介入すべきことではないとは思いますが・・・
『日本人は島国根性で~』というステレオタイプな意見はいかがなものでしょうか。
確かに表面的な部分では国民性が問題となっているように思えることもあるかもしれませんが、JWの本質はどこの国も違いはありません。
そこには『組織』の論理しかなく、組織にとって容認しがたいことはどんな手段を使ってでも排除するという行動原理は、日本も海外も変わりありません。トカゲのしっぽ切りのようなことは海外の会衆でもよくあることです(これは海外のいくつかの国、会衆に交わったことのある者としての見解です)。
経営学などを勉強してみればよく分かりますが、JWの組織はマクドナルドやスターバックスといった典型的なアメリカのグローバル企業組織と同じと言ってもよいでしょう。
たとえば、グローバル企業はその土地土地の風土に合わせたサービスメニューを展開しますが、だからといってその企業の理念(≒本質)などが土地ごとにバラバラということはありません。グローバルであるからこそ逆に管理・統制はしっかりしているともいえます。
加えて、米系大企業においては従業員はあくまで駒として扱われることもしばしばです。
(ちなみに、経営学における組織論は、軍隊を統制するためのメソッドを応用したものと言われています)
米系企業が「利潤の最大化」という組織の論理のために容赦なく従業員を切るのと同じく、JW組織も自分たちに都合よく人を利用するだけ利用して、組織にとってお荷物となると突然牙をむくという体質は世界中どこに行っても変わりはないでしょう。
国民性や会衆ごとの雰囲気といった表面的なことに惑わされず、JW組織の本質について考慮してみてはいかがでしょうか。
わたしが現役ではありますが、とても自由に生きております。したい仕事をして、体が無理な時は集会も休むし・・どうやらわたしの会衆がとても心の広い会衆なのだと思います。
いつでも同じ心でわたしを迎えてくれますから・・。
ですから、ゆらゆらしているわたしではありますが、会衆のみなさまにいつも感謝の気持ちが絶えたことはありません。
なまぬるさんは、エホバの証人をやっていて、本当に息苦しくて疲れてしまったのでしょうか?
わたしも正直、エホバの証人の形式ばったやり方は好きではありません。
が! 日本人って、仕方ないんですよね。日本人って、本当にヘタなんです。島国で、いつも規律やルールに縛られてきた日本人は、そういうルール的なものをみると、当てはめ方が本当にヘタです。堅苦しい、ギクシャクした、そんな当てはめかたになるんですよ。
若い自由な翼のついた心で、そこを飛び越えて欲しいところですが、なかなか難しいですか?
それとも本当にもう心の底から嫌気がさしていますか? でもまたここで会えたらうれぴーです。お仕事頑張ってくださいね。仕事は楽しいですもんね!長々とすみませんでした~♪
なまぬるさんなら、きっとうまくいきますよ
いつも楽しく読ませていただいてます。
自分も元JW2世でしたが、今は夫婦そろって脱JWして、楽しく過ごしています。(笑)
なまぬるさんのこれからも、きっと明るい未来が開けていると思います。
人生これからです。
楽しんでがんばってください。
どんな世界でも、善悪はあります。その世界でいかに自分にとって良い選択をするか、心の強さの問題だと思います。見えないものに惑わされないように。常に、幸せになるように、負けないように。。。あと、恨みは抱えないように!これはこれで貴重な経験をした、くらいに思って前向きに生きてくださいね!
私の相方様も数年前に断絶して今はバリバリ働いております。
やっぱり働いて稼いで生計をたてるのは健全だと思います。
今までできなかった楽しい経験も増えて人間的にも豊かになっています
エホバの証人の教えは間違いだけではないと思いますが、やはり世間一般とは掛け離れた生活になるのはまずいかと思っています。
人間的に豊かな生活を送れることを心から願っています。
ご注意ください!!!!!
協会は、SNSやblog等で網を張り仲良くなり情報(プライベート込み)を聞き出し背教者?を捜し懺悔しないと排斥するそうです。
なまぬるさんblogを見ている現役 兄弟姉妹皆様 ご注意くださいませ!!!
私も、このことが明るみに出ると…
なまぬる生活さんblog頑張ってくださいませ お邪魔しました。
ただ、このまま「エホバの証人と縁が切れる」という表現はいかがなものでしょうか?
とても残念で仕方ありません。
率直にいますが、とてもいいことではありませんよ。
惑わされないように心から願います。
お元気で。
人気番組が最終回、という感じがする