「読書始め」とは仰々しいですが、山折さんは年末に読み終えましたので、
年明けは原民喜を読み始め、その壮絶な生涯に驚き、感動しました。
名前だけは知っていましたが、小説も詩も読んだことはありませんでした。
俳句も遺しています。因みに俳号は「杞憂」。
彼曰く;もし妻が死ぬようなことがあれば
私は生きていられない、1年間だけ生きて妻のことなど
作品を書き残しそして死ぬ・・・と。
夫人は唯一彼の庇護者であり理解者でした。
何と夫人は若くして戦時中に病で亡くなり、
悲しくも彼の恐れた通りになりました。
彼は1年後、17通の遺書を残して鉄道自殺しました。
その遺書は文学仲間から親族、出版社など可能な限りの「完璧さ」でした。
ともすれば文学青年は「自堕落」などの汚名を着せられがちですが・・・
当時の若い文学青年はとても貧しく、彼も例外ではありませんでした。
3着しか洋服を持っていなくて、一番良い背広は藤島(後輩)にと書き遺し
自分は擦り切れた染め直しの国民服を着て轢死しました。
遠藤周作氏はパリ滞在中、原の自死を知らされ
「何ときれいな死だ」と日記に書き記していますが、
私には「きれいな死」の意味が分かりません。
救いは生前、周りの多くの文学者仲間が
世間智に欠ける原の面倒を見ました。
葬儀委員長は佐藤春夫、伊藤整初め滝井孝作等誰もが知る文学者たちが
葬儀に参列しました。
この梯久美子さんの文章の中にでてくる、掌編、詩、エッセーなど
全編に原民喜の「死への憧憬」が感じられました。
辛い作品でしたが、せっかく関心を持ち買った本なので、
読み終えてほっとしました。