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伍子胥の壮絶 中歴-51

2017年02月05日 08時35分35秒 | 中国の歴史とことば
 これは負け惜しみなのか、遺言なのか、それとも最後の諫言なのか。どっちにしろ伍子胥(ごしょ)さんの言葉は呉王・夫差(ふさ)さんには届かなかった。それは残念だけれど、言葉って、そんなものなんですね。どんなにありがたい言葉も、効くときがあって、タイミングが悪いと、相手を怒らせるだけになってしまいます。

 私たちは、どれくらいタイミングをはかって言葉を発していることやら、考えると怖くなるけれど、今の流行は言ったモン勝ちで、好きなことを言いまくり、やりまくる、みたいになっています。権力者はそういうことに慎重でなくてはならないのに、アメリカのトランプさんなんて、そればっかりです。何となく情けなくなってしまうけれど、それが今のアメリカ流らしいです。他人のことなんか考えてられないくらい自分のことばかり。

 愚痴になりました。伍子胥さんの言葉に行きます! これで呉が終わったら、あとは越だけです。春秋時代から戦国時代に入れます。少しワクワクします。



58【わが目を抉ってって東門に懸けよ】……国の滅亡を自分の目で見とどけようという執念の言葉。《十八史略》★ 「抉って」「懸けよ」の読みは何ですか?


 伍子胥さんのお父さんの伍奢(ごしゃ)さんは、平王の子・太子建の教育係だったそうです。太子建に秦からお嫁さんをもらうことになり、使いの者が秦まで迎えに行きました。そこで秦の王女さまの美しさを見て平王に取り入るチャンスと考えた使者は、平王の側室にすることにして、自分は側近として出世するチャンスとします。それから、太子建は太子を廃されることになり、その教育係の伍奢とその子どもたちも殺すことが計画されます。

 中国って昔からドライで、すぐに切り捨ててしまうみたいなんですね。そしてすべてが敵になってしまう。そうじゃないんだよという説明・弁明のチャンスはあまりありません。どうして一方的な対応しかできないのかなあ。もっと心を開いて、相手のことを考え、お互いの利益になるようにできたらいいのに、そういうことは何千年も苦手なんですね。

 兄の伍尚(ごしょう)さんは父の元へ、弟の伍子胥さんはその復讐を誓い出奔します。兄と父はやがて殺されて、伍子胥さんは楚の国を離れて、東南の呉の国に流れ着きます。

 呉の国で将軍となった伍子胥さんは楚の国に攻め入り、復讐を果たします。楚の都まで占領したのだから、そのまま楚という国を滅亡させるところまで行きたかったかもしれないのですが、1つの国を完全に滅ぼすことはできなくて、呉の背後から越は攻めてくるし、呉王・闔閭(こうりょ)の弟・夫概(ふがい)が勝手に帰国し呉王を名乗っるような内部分裂もあって、引き返さざるを得なくなります。

 その後、楚はふたたび王を立てて再生し、呉は西には楚、東には越という2つの国と向き合わねばならなくなります。楚は大国なので、負けてはいられない。越はイマイチの二流の国だから、常々バカにはしているのだけれど、放っておくと攻めては来るし、そういうときには懲らしめなくてはならないので、楚から引き返した後は越をたたきのめす戦略がとられます。

 しばらくは国内安定と国力増強、戦争するには食料を確保せねばならず、しばらくは落ち着いていた。



 そして、紀元前四九六年、越王・允常(いんじょう)の訃報を聞いた呉王・闔閭(こうりょ)は、伍子胥さんの進言もあって、自ら兵を率いてこれを衝いて越を討伐します。相手の弱みにつけ込むのは、戦争するときのタイミングとしてはグッドです。でも、逆に相手はピンチのときだからこそ、ものすごい結束力を見せることがあって、今回はそれで、允常の子で後を継いだ勾践(こうせん)の家臣・范蠡(はんれい)との知恵比べに負けて、呉軍は越軍に大敗します。この時、呉王・闔閭(こうりょ)は越の武将が放った矢によって、片足を負傷し破傷風を起こして容態が悪くなり、亡くなってしまいます。

 さあチャンスが大ピンチになりました。こういう時こそ、活躍する時です。

 後継者を決めるとき、闔閭(こうりょ)さんに相談され、夫差さんから依頼されていたので、彼を推薦し、そのまま夫差さんが後継者に選ばれます。伍子胥さんに感謝しても感謝しきれないくらいお世話になったのです。

 後を継いだ呉王・夫差(ふさ)さんは父の復讐を誓います。伍子胥さんもそれを補佐し、着々と準備を進めました。紀元前四九四年に越軍は呉に攻めこんで来ますが大敗します。呉軍はその勢いのまま越に攻め入り、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰めることができました。父が亡くなってからわりとすぐに復讐は完了しました。あとはツメをしっかりするだけです。

 越王・勾践(こうせん)さんは使者を送り、
「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるますで、どうぞ許してくださいませ。」
と申し出てきます。さあツメを怠りなくすればいいのです! 

伍子胥さんは「勾践は辛苦にも耐えうる性格なので、生かしておいては必ず呉国の災いとなります。ですから、彼を許してはいけません。」と厳しくツメを迫ります。

 さてどうなるか? 結局、夫差さんは越を従属国とするということで許してしまいます。この結論に達するまでにたくさんのお金や贈り物がウラで行き交ったはずです。夫差さんは相手が簡単に倒せたことで満足したのかもしれません。若かったのかなあ。



 これから、中国の内側へ進出をめざす夫差さんと内政充実と背後の安定を考える伍子胥さんとは意見が合わなくなります。2人の間に宰相・伯嚭(はくひ)という第三者が入り込み、伍子胥さんは時代に合わない小言ジジイみたいにされて、どんどん王様から遠ざけられ、うとまれてしまいます。

 また、越からは范蠡(はんれい)さんが密偵を使い、夫差さんの耳に伍子胥の中傷を流し込んだとも言われます。さらに西施(せいし)という美女を送り込んで、夫差さんを骨抜きにさせる作戦も採られます。徹底した呉への内部分裂作戦だったのですね。

 夫差さんは越など眼中になく、中原へ進出し覇者(はしゃ)になろうとします。これが二千五百年前の中国の王様の流行でした。とにかく大陸の真ん中に旗を立てる、それを王様たちはやりたかったそうです。みんなを集めて焼き肉したかったんですかね。

 いつか越に呉は滅ぼされるだろうと見切った伍子胥さんは、斉に使者に行った際に息子を斉に預けたそうです。でも自身は「先王から多大な恩を受けた自らは呉を見捨てられない。」と戻りました。

 すると伯嚭(はくひ)さんに讒言(ざんげん)されてしまいます。世の中には悪口のネタはどこにでも落ちているし、相手を陥れようとしている人には、何でも材料になったことでしょう。

「伍子胥は剛暴で恩愛の情が少なく、王に恨みを持っております。何もしなければ大いなる災いを招くでしょう」
これで、伍子胥さんは夫差さんから剣を渡され自害するようにと命令されてしまいます。一応国の功労者なので、自殺させるという配慮はありますが、あまりな仕打ちです。

伍子胥さんは言います。
「私の墓の上に梓(あずさ)の木を植えよ、それを使って棺桶が作れるようにね。それから、私の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように!」と。そして、死んでしまいます。

 その言葉で夫差さんは刺激されて、伍子胥さんの墓は作ることを許されず、遺体は馬の革袋に入れて川に流されます。人々は彼を憐れんで、ほとりに祠(ほこら)を建てたということです。そして、呉は越に滅ぼされ、夫差さんも自分で命を絶つことになります。あんなに輝いていた呉という国が一瞬にして滅びてしまいます。そういうことって、あるんですね。何だか信じられないし、夢物語のようだけれど、1人の英雄の時代に1つの国が滅びてしまいました。国って、そんなに長くあるものではないらしい。それをかみしめていきたいです。



★ 答え  抉(えぐ・くじ)って 懸(か)けよ


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