甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

諦観と他人任せからの脱却

2022年09月08日 21時10分33秒 | 空を見上げて

 まさか、総理を経験して、戦後最長の記録も打ち立てた方が暗殺されるなんて、私たちは何を考えていたんでしよう。どうしてこんな国になったのでしょう。

 平和ボケした日本においては、誰も簡単には暗殺・テロ行為はできないし、そんなことで世の中が変わるなんて思っていないのです。今回の犯人もそういう意図はなく、ただ恨みを晴らしたいだけ、苦しさを訴える手段としての暗殺でした。もしかすると、アベさん以外でも,恨みが晴らせるなら、そういう人が目の前にいたら、その人をターゲットにしたでしょう。

 私は、ここにアベさんの無念があったと思います。政敵でもないし、共産主義者でもなく、ロシアや中国や北朝鮮の工作員でもなかった。ただの個人的な恨みをぶつける対象にされてしまった。「もっと他の人を狙ってほしかった」ということなんて考えないだろうけど、何か深い動機でもあれば、「そこまで憎まれていたのか」と納得できたでしょうか。いや、どっちにしても納得はできないな。ひたすら無念でしょう。やりたいことはあったはずだから。



 1930年代の軍部によるテロは、あれこれうるさい政治家を排除し、国民を萎縮させ、国民に
 「政治家も、軍部も当てにはならないから、とりあえず天皇陛下におすがりしよう、天皇陛下バンザイということにしよう。
 細かい理屈やら、個々の事情など言わないで、ひたすら従う、そうしていれば、誰からも責任を問われることはないし、軍からの招待状が来ない限り平和だし、つべこべ言わないで従っていよう、不平不満も隠して、耐えればいい。」みたいな気持ちにさせて行ったんでしょうね。じんわりと、投げやりな気持ちは広がっていった。人々は命令に従うしかないから、余計なことは考えないことにした。それが楽に生きる道だった。気持ちを押し殺しつつ戦争に協力させられていった。

 そんなふうにして人々が自分を押し殺している間に、軍部は独走して、人々をどん底を突き落としました。人々の犠牲は永遠の無意味でした。知らないところに行かされ、どこにいるのかわからない敵と、武器もあまり持たされずにジャングルをさ迷い歩かされたのです。生き残った人もいたでしょうけれど、何百万という人たちが犠牲になりました。

 みんな「死にたくない。自分は無意味に死にたくない。生きていたい。」と思っていても、その思いは踏みにじられていきました。結果としては当初から予想されていたとおりに国家は敗北しました。頭が悪かったのか、判断能力がなかったのか、十数年も戦争をして、やっとどうにか結論が出せた。

 そこで、勝算のない戦争を起こした責任者がいたのか、ちゃんと処罰されたのか、なぜこんなことになったのかという反省はあまりされずに、根幹はそれ以前の体制のまま、ほんの少しだけ模様替えした体制ができて、少しだけ自由といえるシステムが作られました。それが八十年近く続いています。

 何十年もこの国に住んでいますが、どれだけいろんな事件・事柄で責任ある人たちが反省した姿を見せたのか、あまり記憶にはありません。三歳の子の置き去り事件にしても、ハンドルを握った理事長さんが会見に出たということですが、冷静を装い、丁寧に答えようとはするけれど、自分が理事長を辞めればそれでいいでしょう。はい、すみません。それしかありません。というアッケラカンとした会見だったようで、参加した保護者の方たちは、あまりの責任感のなさに卒倒者が続出したということでした。

 関係者はずっと責められるでしょうけど、あの人たちも、今の世の中の流れにそのまま乗っかって、ついつい事件を起こしたのかもしれない。

 私が当事者の運転手なら、責任を感じていたたまれないし、どうお詫びしてもお詫びしきれないし、かといって自らが命を絶ったとしても何にもならないし、どうしようもない、生きるのも死ぬのも地獄で、ひたすらお詫びするしかないでしよう。

 すみません。申し訳ない。私どもの責任です。全員が責任を問われているのを感じています。どうぞ、お許しくださいと、すがるしかない。でも、いくらそんな姿を見せられても、被害者の方たちの悲しみは癒えないだろうけど。責任は感じているようだ、と、心のどこかで納得させようとは思うかもしれない。


 選挙・政治では、暴走はさせない。人々は自分の意見を言い、信頼できる人を政治の場へ送り、自分たちのよりよい暮らしを実現する。そういう理想がかつてはあったと思われますが、いつの間にかいびつな形になってしまいました。
 人々は自分の意見は特に言わない。選挙も、関係なかったら行かない。まあ、大抵の選挙は自分には関係がないので知らんぷりする人たちがいつも四割くらい、時には半分以上という恐ろしいほどの無気力選挙になってしまいました。

 だから、政治家のみなさんも、人々はいくら声掛けをしても踊らないから、組織票を提供できる人たちとつながり、その人たちの力を借りつつ、持ちつ持たれつの関係を作ってきました。

 このやる気のない、いろんなところでガタがきている社会なのに、厳しい世界に無理矢理向かおうとしている。そこのトップがいくら、澄まして何かを述べたとしても、世界の人からはまるで相手にされない。

 それなのに、札幌に再びオリンピックを持ってこようとする。もしオリンピックが来たとしても、利権にたかる人たちの金まみれのドラマがこそこそと繰り広げられるだけです。そのお金は、一部の人たちのふところに入るだろうし、税金は湯水のごとく使われるでしょう。

 そんなのは要らないと、誰も言えないようになっている。

 私は、諦観と他人任せから抜け出して、従わない、文句ばかり言う、わがままな人間になりたいです。そして、いろんなことにノーと言ってやりたいのです。 

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