甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

越王勾践の風貌 中歴-52

2017年02月11日 08時48分01秒 | 中国の歴史とことば
 知らず知らずのうちに、そういう人に出会っているのかもしれない。

 もう少し人というものを学んでいかなければいけないのに、ついつい私たちは、その人の目の雰囲気にごまかされるみたいです。もっと全体を観察しなければ! 目は口ほどにものを言うものらしいけど、それにごまかされてはいけないのです。

 でも、どんなに美人風でも、目がイマイチだと美人には見えないし、目ってムズカシイところです。まあ、どっちにしろ外見にごまかされてはいけないということかなあ。

 King Goujian of Yue(キング・ゴウチアン・オブ・ユイ)、それが越王勾践の英語名だそうです。「こうせん」というのも、「句践」と表記されていたり、「勾践」と表記されていたりします。私が慣れ親しんだのは「勾せん」の方なので、これを書くときに、「勾当台」という1つ覚えで引き出してから、後ろの2文字を消して、「実践」と打ち込んで前を消して、やっと「勾践」にたどりつきます。面倒なことをしていますね。

 「勾当台」は、たぶん仙台を訪ねたときに、どこかで見聞きして、それからおぼえていたようです。私はわりと地名は頭に入る方らしいのです。人の顔と名前はすぐに忘れてしまうのに、どういう構造になっているのやら、よくわかりません。

 地名の由来は、仙台藩藩祖の伊達政宗が寵愛した盲目の狂歌師・花村勾当(はなむらこうとう)の屋敷があったことがあった、ということでそれにちなんで地名となったそうです。

 私はてっきり、南北朝の時代に活躍した新田義貞の奥さん・勾当内侍(こうとうのないし)に関係するのかと思ってましたが、仙台と群馬や福井は関係ないし、地名になるには無理がありますね。そうか、そんな狂歌師さんがいたんですね。

 まわりみちばかりです。越王勾践という人がいました。今から二千五百年前のことです。中国の沿岸部、長江の南側河口あたり、今の福建省あたりになるのでしょうか……。

 (もちろん私は福建省にも行ったことはありません。三十年くらい前なら中国は行きたい国でしたが、今はあまり行きたいと思えなくなりました。現在の中国の人たちは、何を楽しみに日本に来るのかなあ。買い物? 自由? 食べもの? 何か日本に魅力あるんだろうか? 適当な外国ということで来ているんだろうか? まあ、治安はいいし、外国人には寛容だし、お金を出したら何でもできるし、いい国なのかなあ)

 小国の越は、お隣の呉という国の陰に隠れ、いつもそのご機嫌を伺わねばなりませんでした。お父さんが亡くなったとき、呉はそういう時に国を滅ぼそうと攻めてきました。もうズタズタにされてしまいます。

 そうなれば、恥も外聞もなく、小国なのだから、「どうぞ許してくださいませ。二度とワルサはいたしません」とはいつくばったことでしょう。そうしたミジメな姿を見せて、相手を安心させる芝居のできる人でした。

 呉の王様は、大満足をして、「なんという情けないヤツだ。これでも国のトップなのか。アホらしいものだ」と、バカにして、勾践を許したことでしょう。側近で越のワイロをもらっている人も、とりあえず別口の収入が入るのだから、もちろん許すように進言したことでしょう。

 やがて、油断しまくっていた呉は、越が力をためて攻め込んできたら、あっさりと滅んでしまいます。伍子胥(ごしょ)さんの予言の通りになりました。



 さて、言葉です。
 
59【長頚烏喙】……長い首と、とがった口。忍耐強いから苦労はともにできるが、欲が深く疑い深いから安楽をともにできない性質をあらわしている人相。越王勾践を范蠡が評したことば。《史記・越世王勾践世家》

 これは何と読めばいいんでしょう?



 首の細い人っています。たとえば、女優の杏(あん)ちゃんとか、もっともっとたくさんいると思いますけど、他には思い出せません。

 とがった口の人って、どんな人を言うのかなあ。これはムズカシイですね。人相学なんでしょうね。そういう人は、苦しいときには一緒に苦労できる。だが、平和なときには、一緒にいると今度は自分に余計な負担がかかるものだ。

 中国の人は、いろんなことを知っておられたんですね。

★ 答え 59・ちょうけいうかい と読みます。


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