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日曜終わり時

2014年06月15日 23時56分37秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
終わってほしくはないけれど、終わり行くのが時の流れなんだよなぁ、と無音の部屋のなかでとりあえずそんな事を思う。
今夜もいつも通り長く短い夜になるんだろうな、と思いつつ、さてどうしましょうかね、と書いてみたり。
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青空サイダー

2014年06月15日 20時43分04秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
漫画にありそうなタイトルが思い浮かんでしまった。





空は晴れて良い感じでも私の心模様は曇り空。
青空の下でサイダー飲んでも幸せな気持ちにはなれない。
たいして良いことあるわけじゃない――と昔の歌の歌詞を書いてみたりするが。

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Morning on Sunday【0615】

2014年06月15日 07時07分07秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
博士兎「はよーだ兎ひゃー。モーニングオンだ兎ひゃー」
涼風鈴子「涼風鈴子だうがあ。モーニングオンだうがあ。日曜日は快晴だうがあ」
博士兎「所でりんりんこっこ、りんりんこっこは、いつ――」
涼風鈴子「あー、聞こえない、聞こえない、そんな話は台本には書いてない」
海芝浦偽左衛門「これは、これは、涼風様」
博士兎「どやあ♪」
涼風鈴子「何しに来たんだ侍。13号地でいつもの必ずなんとかじゃねーのか?」
海芝浦偽左衛門「13号地?ああ、あの怨みを晴らしてなんたらですか、世迷い言を。お戯れを」
涼風鈴子「わざとらしい。さあ、その前に腰のものを預かろうか?」
海芝浦偽左衛門「どうぞ、どうぞ」
涼風鈴子「なんだ?やけに軽いじゃねーか。これホントに腰のものをか?」
――スタジオのライトが落ち、有名時代劇キャラのテーマ曲が流れる――
海芝浦偽左衛門「そいつは、偽物で、本物はこっちだぜ」
悲鳴
――スタジオのライトがつく――
博士兎「もふもふもふ」
冥王星猫「にやあ」
博士兎「灯りがついてしまった兎ひゃー」
冥王星猫з-|あらま|
涼風鈴子「またお前らか。猫は冥王星、兎は月に」
博士兎「猫と一緒に冥王星行くからあとは頼んだ兎ひゃー」→消える
涼風鈴子「はい。今日もやまなしおちなしいみなしかちなしろくでなし、のモーニングオンでした」

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風に吹かれ、呼ばれて、望むべく場所へ、望むべく出来事へ

2014年06月15日 05時51分50秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
長いタイトルだなとつけた本人がそう言っては、何の意味もなさなくなるが、最近、部屋の窓を開けて入り込む風でカーテンが膨らむを見ていると、何か望むべくものが私を呼んでいるのかな、とか、何か望むべく良い出来事がやってくるのかな、と不意に思ってしまうのは、それだけ、日常が荒んでいるからなんだろうな、と思う。日常が満たされて、明るくて、生きる目的も人生の希望もはっきりしているなら、そんなことは思いもしないだろう。
風に吹かれ、風に呼ばれ、望むべく場所へ、望むべき良い状態へ導かれたならどんなに良いだろうか。とは言え、“ACE”や“HERO”にもなれなかった私にはそんな事は起きやしないだろうと諦めを悟りたくはないが、諦めさとって、今の荒んでも何とか暮らしていけることに満たされて維持管理出来るならそれで良いやと高望みしない存在になれたなら良いのだが、大抵邪魔立てが入るのは言うまでもなくて。
何事も思い通り、望み通りにいく筈もないが、そんな実態があるからこそそ、この世の他人の成功や他人の夢希望を抱き生きている姿が輝くのだろう。光は影がなくては目立ちはしないし、影もまた光が無ければ目立ちはしない、私は影となり光を目立たせる為の存在だったりするのだろうか?世の中、光はわずかで影は多数。光になるにはし烈な競争を勝ち抜き続けなくてはならないが、そんな勝ち抜き続ける為の知恵や力は私にはない。
影は影らしく光を支え続けなくてはならないのは、嫌な話ではあるし、納得もいかないけれど、もうどうしようもない。
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ACEやHEROになれたなら良いのに

2014年06月15日 04時42分49秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
この歳になってそんな話をするのは、きっと自尊心が高くて劣等感に苛まれているからなんだろうと思う。
ここまでの人生で、“ACE”や“HERO”になれた事はない。ジャンルをたとえ問わずとも私には、他人より秀でた何かをもつものは何もない。勿論、基本的にと言うと言い過ぎだろうが、そんなに簡単に“ACE”や“HERO”に人間なれる筈はないにしても、何回かそんな存在に人生のうち、特に10代、20代前半でなれたのなら、それは大いに生きていく為の自信に繋がると思えるのは、入れ知恵や妄想によるものかもしれないが、たぶんそんななのだろうと思えるのは、しがない不甲斐ないものを感じ続けているが故の結果なのだろうと思う。
人生や世間は思う以上にしのぎの削り合いがあり、言い方が強引だが他人を殺してでも他人より優位に立ちたいと言う醜い人の欲望で成り立っているように思えるのもまた私の自尊心の高さと劣等感に苛まれているが故なのだろう。
不甲斐なくしがないままの人生で妥協していた筈がそうなれなくなってしまったのは、ふとした選択のミスとしか言えないのだが、ある意味でははめられたとも思える。
もしこれまでの人生で“ACE”や“HERO”になっていたなら、こんな劣等感や不甲斐なさを感じる事などなかった筈である。ろくでもない日常を離れる事はできたとしても、現実と人生からは逃げられやしない。この命を自らの手で絶たない限りはきっとこのままに不穏な日常を過ごすことになるのは言うまでもない。安楽死して、2度と人や生き物と言う感情や感覚をもった存在になりたくはない。
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憂鬱年なのか2014―33

2014年06月15日 03時34分41秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
人生に希望や目的が見えないことに劣等感を感じる昨今。それは今の身近に人生に希望と夢をもつ人の姿を見ているからなのと、毎日の何となくさの中に、これまでにない憂鬱さを感じ出しているのは、崖っぷちいていつ転落してもおかしくない立ち位置にいるからなのだと思う。
この話に書いた時よりも今の自分のおかれている状況は悪化していて空しさばかりがつのる。何でこんな事になってしまったのか。
誰かの様には誰ひとりとして生きてはいけない事、教科書通りの筋書きな人生についていける程の力量や精神力を持ち得ていないことは解ってはいても、どうも息苦しさや停滞感に嫌気がさしている。その上、それを打破する力もなくて――。
人生に希望と夢、それに目的があることが羨ましくてならない。そんな人の姿を見たくないのは、不甲斐なく負け墜ちた自分をまざまざと突きつけられるのと同時にいつだって、他人がのぞみ邁進するとき、その他人は成功を修めるのは言うまでもない。
嫉妬心なくなれば良いのだろうがそれだけで止まることはなく、更に何か悪いことが起こるのは言うまでもなく。
このまま息引き取って人生やめられたらとさえ思うほどに、私はなにも出来ない単なる醜い人の塊になってしまったそのわけは、不誠実や不従順さなんだろうと思うが、教科書通りの筋書きな生き方がもとから出来やしなかったので、後悔はないにしても、情けなさが募るばかりである。
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