アニメ『ダイヤA』の第3クール目からのオープニング曲“Perfect HERO”を購入し、歌詞カードを見て聴いていたら涙がこぼれてしまったのは昨日5月31日のこと。アニソン聴いてまさかの展開に、驚いたところでもあり、おのれの単純さに呆れるばかりでもあった。
そんな中、思い出したのは高校の頃のとある教諭が言った、当事通っていた高校の行事が出来る我々が羨ましいと言ったことだった。
私がそんな頃の学校行事が嫌いだった、と言う話は以前したのは、言うまでもないが、何故、その教諭が「羨ましい」と言う話をした意味がこの聴いたアニソン、そしてアニメ『ダイヤA』を観ていたりして見えてきた。
「羨ましい」と言った教諭は、あくまでも「学校行事の傍観者」でしかないから、そんな事が気安く言えたのだ。
学校行事には準備とそれに参画する学生諸氏一人一人の尽力が無ければ成り立たないのは言うまでもない。私が在校していたころ、以前も話したが、正直な所、私も含めて、そんな行事に全員とまではいかないが、やる気なんぞはなかったようにしか見えない上に、そこまでまとまりのあったクラスでもなかったと私は思う。
『ダイヤA』を始めとするスポーツもの系に、感動はつきもの。しかしそう思えるのは、あくまでも、我々が傍観的に彼らの活躍を観ているからであり、実際のフィールドに立って活動する彼らに成りたいとおもえはしても、現実は想像以上に苦しいものがあるのは言うまでもなく、決して、彼らが「羨ましい」と軽々しく言えない。或いは、プレーすることが楽しいとは軽々しく言えない。
スポーツは、傍観するから感動がある、と言うと言い過ぎかもしれないが、先程も言ったように、実際のフィールドでプレーする諸氏らの思いや気持ちは、物語の筋書のように美しくはないと私は思えてならない。傍観、この世の中、私も含めて、主体的ではなく、傍観的に流れ行く時代の様を観ているからこそ、人気がスポーツに集まるのではないか?と思えた。いつか、「興味があるのスポーツだけですか?」と書かれた選挙の投票を促すポスターの話をしたが、傍観的になっているからが故の世相が現れていたのかな、と思えた。
傍観者だから総てが楽しめる、それはそれでもの凄く素晴らしい事であるが、視点を変えると、気安くあるいは軽々しい一言が言いにくくなるのも事実と思うのは私だけだろうか?
そんな中、思い出したのは高校の頃のとある教諭が言った、当事通っていた高校の行事が出来る我々が羨ましいと言ったことだった。
私がそんな頃の学校行事が嫌いだった、と言う話は以前したのは、言うまでもないが、何故、その教諭が「羨ましい」と言う話をした意味がこの聴いたアニソン、そしてアニメ『ダイヤA』を観ていたりして見えてきた。
「羨ましい」と言った教諭は、あくまでも「学校行事の傍観者」でしかないから、そんな事が気安く言えたのだ。
学校行事には準備とそれに参画する学生諸氏一人一人の尽力が無ければ成り立たないのは言うまでもない。私が在校していたころ、以前も話したが、正直な所、私も含めて、そんな行事に全員とまではいかないが、やる気なんぞはなかったようにしか見えない上に、そこまでまとまりのあったクラスでもなかったと私は思う。
『ダイヤA』を始めとするスポーツもの系に、感動はつきもの。しかしそう思えるのは、あくまでも、我々が傍観的に彼らの活躍を観ているからであり、実際のフィールドに立って活動する彼らに成りたいとおもえはしても、現実は想像以上に苦しいものがあるのは言うまでもなく、決して、彼らが「羨ましい」と軽々しく言えない。或いは、プレーすることが楽しいとは軽々しく言えない。
スポーツは、傍観するから感動がある、と言うと言い過ぎかもしれないが、先程も言ったように、実際のフィールドでプレーする諸氏らの思いや気持ちは、物語の筋書のように美しくはないと私は思えてならない。傍観、この世の中、私も含めて、主体的ではなく、傍観的に流れ行く時代の様を観ているからこそ、人気がスポーツに集まるのではないか?と思えた。いつか、「興味があるのスポーツだけですか?」と書かれた選挙の投票を促すポスターの話をしたが、傍観的になっているからが故の世相が現れていたのかな、と思えた。
傍観者だから総てが楽しめる、それはそれでもの凄く素晴らしい事であるが、視点を変えると、気安くあるいは軽々しい一言が言いにくくなるのも事実と思うのは私だけだろうか?