今日は第2回。1回目の続きです。(↓下の「1回目」からお読みください。)
私自身専門的に詳しいわけではないので、ここを読んでくださった方がちょっとでも考えていただけるような事を、いつものように疑問を投げかける感じで書こうかと思います。
それは障害者の『自立』と言う言葉について。
自立には・・・
経済的自立・身辺自立・精神的自立・社会的自立等いろんな自立がありますが・・・
一般に自立と言うと、
「何でも一人で自分のことは自分でできるようになる事」と思いがちです。
でもそれでは障害を持つ方は自立できないということになります。
つまり「一人でできない=自立できない=施設で暮らせ」という考えです。
私も「バークレイでの自立している車いすの方」の話を見るまでは、何の疑問も抱かずにいました。
日本の「困っている人には親切に」が、本当の自立という考えを覆い隠してしまっているのです。
例えば・・・
①車イスの方が道の段差で困っていたら押してあげる。
②おじいさんが階段でよろよろしていたら手を取って支えてあげる。
これが、今までの私の当然の考えでした。
でも、自立ではないですよね。
(困っている人を助けなくて良い。というのではありません)
本当の自立は、上の例だと・・・
①段差の無い道を車椅子の人が進んでいった。
②おじいさんがよろよろしないように手すりに掴まりながら下りてった。
となります。
そして初めて・・・
①たまたまあった段差で立ち往生している車イスの方を、声をかけ後ろから押した。
②おじいさんが大きな荷物を持ちながら手すりを掴みつつ階段を下りている。危なそうだから荷物をもってあげた。
となるのです。
生活の自立についても同様です。
普通のマンションやアパートに暮らせと言っても、それぞれの障害によって不可能な事があると思います。
だから「自立できない」ではなく、福祉行政や福祉サービスによるその方に合ったそれぞれのサポートを行い、選択肢を狭めるのではなく「自分の事は自分で決める(自己決定)、決められるようにする」のが自立と言えると思います。
どうでしょうか?
もっと言えば、車イスの方もおじいさんも、困ってなければほっときゃいいんです。何も助けなくていいんです。ノーマライゼーションが実現できた社会なら。健常者も障害者も境目無く暮らせる社会なんだから。
でも、今は社会が基本的に困るように作ってしまってあるのでダメなんです。
電車一つ自由に乗り降りできない。ぶらり途中下車の旅もできない。
自立できないんじゃなく、できないような社会を私たちの無関心が放置しているのです。
ああー・・・
なるほどねーって思ってもらえたならば幸いです。
一番の敵は我々の無関心ですので。
追伸。
本当は障害者の就労・雇用から話を膨らませようと思ったのですが、なんかいい感じで終わったので、またいつかに・・・するかもしれません。
リクエストがございましたらコメントくだされば書きますので。
今日もいいことあるといいな。
では。
私自身専門的に詳しいわけではないので、ここを読んでくださった方がちょっとでも考えていただけるような事を、いつものように疑問を投げかける感じで書こうかと思います。
それは障害者の『自立』と言う言葉について。
自立には・・・
経済的自立・身辺自立・精神的自立・社会的自立等いろんな自立がありますが・・・
一般に自立と言うと、
「何でも一人で自分のことは自分でできるようになる事」と思いがちです。
でもそれでは障害を持つ方は自立できないということになります。
つまり「一人でできない=自立できない=施設で暮らせ」という考えです。
私も「バークレイでの自立している車いすの方」の話を見るまでは、何の疑問も抱かずにいました。
日本の「困っている人には親切に」が、本当の自立という考えを覆い隠してしまっているのです。
例えば・・・
①車イスの方が道の段差で困っていたら押してあげる。
②おじいさんが階段でよろよろしていたら手を取って支えてあげる。
これが、今までの私の当然の考えでした。
でも、自立ではないですよね。
(困っている人を助けなくて良い。というのではありません)
本当の自立は、上の例だと・・・
①段差の無い道を車椅子の人が進んでいった。
②おじいさんがよろよろしないように手すりに掴まりながら下りてった。
となります。
そして初めて・・・
①たまたまあった段差で立ち往生している車イスの方を、声をかけ後ろから押した。
②おじいさんが大きな荷物を持ちながら手すりを掴みつつ階段を下りている。危なそうだから荷物をもってあげた。
となるのです。
生活の自立についても同様です。
普通のマンションやアパートに暮らせと言っても、それぞれの障害によって不可能な事があると思います。
だから「自立できない」ではなく、福祉行政や福祉サービスによるその方に合ったそれぞれのサポートを行い、選択肢を狭めるのではなく「自分の事は自分で決める(自己決定)、決められるようにする」のが自立と言えると思います。
どうでしょうか?
もっと言えば、車イスの方もおじいさんも、困ってなければほっときゃいいんです。何も助けなくていいんです。ノーマライゼーションが実現できた社会なら。健常者も障害者も境目無く暮らせる社会なんだから。
でも、今は社会が基本的に困るように作ってしまってあるのでダメなんです。
電車一つ自由に乗り降りできない。ぶらり途中下車の旅もできない。
自立できないんじゃなく、できないような社会を私たちの無関心が放置しているのです。
ああー・・・
なるほどねーって思ってもらえたならば幸いです。
一番の敵は我々の無関心ですので。
追伸。
本当は障害者の就労・雇用から話を膨らませようと思ったのですが、なんかいい感じで終わったので、またいつかに・・・するかもしれません。
リクエストがございましたらコメントくだされば書きますので。
今日もいいことあるといいな。
では。
最近の日本の福祉の動向の中で、幸福追求権とノーマライゼーションが出てきました。
それでネットで検索したところ、たまたまこちらのブログを拝見しまして、『「ノーマライゼーション」への入り口(その①②)。』たいへん興味深く読ませてもらいました。
「ノーマライゼーション」って言葉は以前から使われていますが、高齢化が加速する現在においても、まだまだ現実的には浸透していないですね。
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でも、今は社会が基本的に困るように作ってしまってあるのでダメなんです。
電車一つ自由に乗り降りできない。ぶらり途中下車の旅もできない。
自立できないんじゃなく、できないような社会を私たちの無関心が放置しているのです。
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ここの文章、本当に響いてきました。
本当に、「無関心」が社会を悪くしてますね。
一市民が声をあげたところで、国や政治家も「今騒いでるのを辛抱強く乗り切れば、言わなくなるだろう…」的な態度の印象も受けられます。
だからといって、諦めて「無関心」になってしまうと悪循環になってしまうし。
もどかしいですね。
「幸福追求権」も国民はもっていることを忘れてしまっていると思うし、どのように活用すればいいのか知らない人が多いのだと思います。
私も、どのように活用すればいいのかわからないうちの一人です^^;
使おうと思っても本来は使えない、目に見えないような「当然の」権利ですからね~。
日本では法学を教えないので、人権について本当に稚拙な国です。
例えば、被災した福島の方々。特に原発による避難をされている方々は生存権の侵害として訴えてやればいいんですよ。
直接的には東京電力ですが、国策として原発政策を取ったのですから。逆に何の法的根拠も無く日本の原発を停止させましたよね?あれは高度な政治判断という理由でした。それを逆手にとって政治判断で止められるものを止めずに放射能汚染を拡大した、訴える理由になるのではないでしょうか。
ただ、日本の法曹界も縦社会。負け戦はしないんです。
障害者の方々を苦しめるような政策は憲法違反だと訴えが出れば、世論が注目し、次の政権でひっくり返る可能性も出てくるのですが・・・
看護学生さん。とのこと。
その思いだけで頭が下がる気持ちです。
病に伏せる方々のためになろうというその志しだけでも、ありがたく思います。
何かありましたら、コメントいただけましたらお答えさせていただこうと思います。(コメントは承認するまで表示されませんのでご安心を)