音楽自身が「ま」の集合体、そしてそれを最大限に上手にアレンジしてこそ聴くものにインパクトを与える事の出来るものだと思う。
『無用の用』と言う言葉があるが、音楽は正にその典型。
音楽そのものが=目には見えない空気の粗密波の伝搬が耳の鼓膜を振動させ、その振動が脳に伝わり、脳が言葉と判断したり音楽として楽しんだり、つまりは一種の錯覚=あってもなくても物質的・実用的には関係ないもの、なのである。
音楽では特に無音の部分に重要な要素があり、それを上手に使えるミュージシャンが私には旨いと思わせる。
これは関西弁や京都弁のイントネーションにも関係するだろう。
音のある所とない所の組合わせを自然と文化の中で理解している、それこそが京都ミュージシャンの心髄だと思う。
それらは京都の”しまつ”の文化にも関係がある様に思う。
始末とは、例えばきものの例がわかりやすいが、親から子へきものを伝え最終的にはきものはぞうきんになり物質として使い切る。
おばんざいの中にも素材を使い切る智恵を見ることが出来る。
この文化は日本人の中に長くから伝わって来た生活の知恵であるが、それが現在の暮らしの中にもそのまま生きている。
その智恵と”ま”の文化が音楽に奥行きとシンプルな魅力を与えている様に思う。
知らず知らずの内に京都に暮らすミュージシャンは、京都の育んで来た伝統と文化を自分達の音に組み込んでいるのである。
無用と思われる中に用がある事をそのまま実行しているのだ。
これが音のない無音(ま)の使い方の旨さに繋がっている。
京都のライブハウスを回ると自然とそんなバンドに出くわす。
=次回に続く= by きしかなん