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栗太郎のブログ

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水戸尊攘志士ゆかりの地を訪ねて(その4) 鰊蔵と志士の墓

2010-10-19 01:49:40 | 見聞記 関東編
水戸市内、松本町にある天回神社。

「天回」の名の由来は、藤田東湖の著書「天回詩史」より。東湖はその著作を蟄居中に書いた。
辞書で引くと『時勢を一変させること、衰えた勢いを盛り返すこと』とある。
東湖自身もさることながら、天狗党の面々にとっても、自分たちの力で時勢を変えていこうとする気概にふさわしい名前だと思う。


越前敦賀で幕府軍に投降した天狗党の面々823名は、当初、加賀藩の手配で3つの寺に収容され温情をもって遇された。
それが、幕府から派遣された田沼意尊が来るや否や、その扱いは一変。
彼らが移された先は、16棟の鰊蔵(にしんぐら)。
逃亡・暴動の起きないよう、野犬を収容するかのごとく厳重管理の中に密封したようなもの。
その待遇はひどく、極寒の中、下帯一本の姿で土間に敷いたムシロで寝起きし、一日に二度握り飯ひとつとぬるま湯が与えられるのみ。
しかし、何よりも彼らを悩ませたのは、蔵の染み込んだ肥料用の鰊の強烈な臭いと、排泄物の異臭だった。


その鰊蔵の1棟が、天回神社境内にある。
 鰊蔵はきれいに修復されている
昭和32年。
水戸市は、16棟あった鰊蔵のひとつを敦賀市から譲り受けた。
はじめは常盤神社に、平成元年になって今の場所に再移築した。
鰊蔵の内部は資料館になっていて、いまはその名を「天回館」という。
梁はむき出しで、天井は高い。




上の写真左よりの入り口扉には、隊士の絶筆が残る。
「叶・・・」、なんて書いてあるのだろう? だいいち、何で書いたんだろうか?

何ヶ月も狭く暗い蔵の中に50人も60人もで押し込められて、病になっても満足な手当ても受けられない。この蔵の中で絶命したものもいた。
こんな環境を今体験してみろといわれても、半日ももたないだろう。
どれほどの過酷さなのか、想像を絶する。天狗党の志士たちの怨念が染み込んでいそうである。



すぐ隣には、殉難志士371名を葬った「水戸殉難志士の墓」がある。
整然と並んだ墓標は、あたかも整列した隊士たちのようにも思える。

天回館わきにある、水戸殉難志士の墓1号墓所



水戸殉難志士の墓2号墓所






天回神社の西となりには常盤共有墓地がある。
ここと酒門共有墓地は、菩提寺のない藩士のために建立された。


藤田東湖の墓。
 
ほかより一段高いところにあり、さすがに扱いも別格のよう。


桜田事変の現場指揮者、関鉄之助の墓。
 
映画では大沢たかおが演じる。
桜田門外の変実行の日は、安政7年(1860)3月3日。
襲撃後逃亡、各地を転々とし、その経路は凄まじいほどの大移動。
奥久慈袋田で長く潜伏するも、身の危険を感じ越後に逃げるが、その地で捕縛。
文久2年(1962)5月11日斬首。享年39歳。




桜田事変襲撃隊のひとり、蓮田一五郎の墓。
 
襲撃時に傷を負い、龍野藩脇坂邸に自首。
翌文久元年(1861)7月26日斬首。享年29歳。



おなじく、桜田事変襲撃隊のひとり、山口辰之介の墓。
 
襲撃後、深手の重傷を負い自刃。享年29歳。



おなじく、桜田事変襲撃隊のひとり、広岡子之次郎の墓。

彼もまた襲撃後、深手の重傷を負い自刃。享年21歳。



おなじく、桜田事変襲撃隊のひとり、海後磋磯之介の墓。

もとは米崎村三嶋神社の神官。
襲撃後逃げきり、明治の世を生き延びた。78歳で没。



おなじく、桜田事変襲撃隊のひとり、大関和七郎の墓。

襲撃後、熊本細川藩邸に自首。
翌文久元年(1861)7月26日斬首。享年26歳。



おなじく、桜田事変襲撃隊のひとり、黒澤忠三郎の墓。

大関は実弟、広岡は甥。
蓮田と同じく、龍野脇坂藩邸に自首。7月12日病死。



桜田事変計画者の一人、高橋多一郎とその息子荘三衛門の墓。

映画では多一郎を生瀬勝久が演じる。
襲撃にあわせ薩摩藩と合流しようと上洛するも、薩摩の裏切りにあう。
大坂四天王寺にて追っ手に囲まれ、荘三衛門とともに自刃。
多一郎47歳、荘三衛門19歳。



おなじく、桜田事変計画者の一人、金子孫二郎の墓。

映画では柄本明が演じる。
襲撃成功の報を聞いて上洛するも、伏見にて捕縛。
大関たちと同じく、翌文久元年(1861)7月26日斬首。58歳。



鮎澤伊太夫の墓。

高橋多一郎の実弟で、鉄之介とは同門の友。
尊攘派の激派に属し、弘道館戦争では官軍として門閥派(諸生派)と抗戦し戦死。享年45歳。


天狗党、藤田小四郎の墓。

藤田東湖の息子として、若年ながら天狗党では重職にいた。
小説の中の小四郎も、育ちの良さ、品位の高さを備えた好青年として描かれたいた。
明治の頃、茨城では生まれてきた男児に「小四郎」と名付けることが多かったと聞く。
死してなお、それだけの人気者だった証拠だろう。
敦賀で投降後、斬首。享年24歳。
小四郎の首は、耕雲斎らの首とともに水戸に送られ罪人として晒された。

時世の句
「兼て与梨 思ひ初にし真心を けふ大君に 徒希て嬉しき 」
(かねてより おもいそめにしまごころを きょうたいくんに つげてうれしき)

尊王攘夷という真心を告げることができたという大君とは、誰なのだろう。慶喜...ではないのは確かか。
その最後まで、恨み節のかけらもない。優しげな微笑が似合いそうな人だったのでないだろうか。



田丸稲之衛門の墓。

山国兵部の実弟。
天狗党が筑波山で挙兵した際、藤田小四郎らに総帥として迎えられる。ミイラ捕りがミイラになった。
敦賀で投降後、幹部の一人として斬首。享年61歳。



こちらは、妙雲寺にある武田耕雲斎の墓。


源姓武田の血をひくというのだから、もとを質せば、源義家の弟・新羅三郎義光の末裔ということか。
藤田小四郎たちの挙兵には、自重を説いていた耕雲斎だったが、結局、那珂湊の戦場から合流。
その後、奥久慈大子で立て直した天狗党は西上することに決し、この時より耕雲斎が天狗党の総大将となる。
敦賀で投降後、小四郎たちと同じく斬首。享年63歳。
耕雲斎の首も水戸に送られ、彼の妻はその首を抱きながら幼子とともに処刑されたという。
その光景を思うと、単なる藩内抗争ですまず、そうとう根の深い憎しみの対立があったのだろう。

この寺、妙雲寺というのは、斉昭による大砲鋳造のための梵鐘供出に応じなかったために、一時廃寺になった経緯がある。
その寺に、斉昭側近の墓があるというのもおかしなもの。



この寺には、桜田事変襲撃のひとり、広木松之介の墓もある。

襲撃後、各地を転々とし広木は、金沢を経て鎌倉に辿り着き、いつしか僧形に身を変えた。
仲間が皆死んだ(実は二人生きていたのだけど)ことを聞いた彼は、事変の2年後、井伊大老三回忌の日に切腹。享年25歳。



さて、敦賀で投降した天狗党一党。
352名が無残な斬死を遂げるなか、若年者などは遠島処分となり、引き続き拘留されていた。
その彼らはのちに赦免されるのだが、その中に、耕雲斎の孫・武田金次郎もいた。
金次郎は、水戸に舞い戻り、身内の無念を晴らすべく復讐の鬼となる。
白昼堂々の襲撃・暗殺を繰り返し、藩内を混乱状態に陥れたという。
ただでさえ有能な人材が枯渇していた水戸藩であったのに、このときの金次郎の刃にかかって命を絶たれたものも多く、結局幕末の先鞭をきった水戸藩でありながら、明治の世、国を動かすほどの人材は出ずじまい。
近親者にたいする憎しみほど、醜いものはないというが、憎しみの相手が同じ水戸藩内ということはそれに近い感情なのであろう。
とはいえ金次郎は、すでに決着がすんだあとなのに、感情に任せて余計なことをしたわけだ。
復讐は、他人からは悪行としか見られず、水戸に居づらくなった金次郎はいつしか姿を消した。
その末路は、伊香保温泉の風呂焚きになったとも伝わる。
武家の名門の血を引く者のなれの果てだけに、なんとも寂しい。

ひとつ気になるのは、この時期、たしか慶喜も弘道館内で謹慎中だったんじゃなかったか。
となれば、城下がまたもや殺戮の場となっているときに、なんの行動もしなかったことになる。
なにか、そこにもまた彼の冷たさを感じてしまう。


つづく



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