佐々木哲学校ブログより
承久3年(1221)の承久の乱では、経高(中務入道経蓮)・高重(太郎判官)父子は京方に参加、経高は院中にあって参謀となり、京方の中心人物となりましたが敗北。戦後6月16日鷲尾に隠れていたところ、北条泰時は使者を派遣して、関東へ助命嘆願するから相構えて命を捨てないよう説得しようとしましたが、経高は自殺の勧める使者と思い自殺。しかしまだ息あったため、使者は輿に乗せて六波羅に搬送。泰時は経高に対面して、経高が自殺することは本意ではないことを述べ、それに対して経高も両眼を見開いて快く笑ったところで、言葉を発することなく息絶えました。
子息高重は戦いに敗れて、猷子渋谷四郎とともに紀州の熊野方面に逃走しましたが、貞応元年(1222)5月6日に,石田(現和歌山県西牟婁郡上富田町岩田)付近で熊野本宮の社僧・岩田法眼行盛(熊野別当家庶流)らによって殺害され,首が六波羅探題に届けられました(「承久三年四年日次記」貞応元年5月10日条)。しかし子孫は北条泰時の言葉とおり赦免され、高重の子高兼(左衛門尉)・孫高清(左衛門尉)と続きました。