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網野善彦著作集 第14巻より 小山氏家文書について

2017-10-07 | 熊野氏
「小山家文書」
「右、紀伊国東牟婁郡小山弥八郎所蔵文書十二通、世ニ所謂結城文書の内ニシテ、小山氏ハ即チ結城入道広宗ノ末裔ナリ。… 」

小山家文書の中には「紀伊続風土記」の編纂の際にも文書や系図等が調査されたそうである。
注目すべきは…と網野氏が書かれている部分をご紹介しよう。
【九号文書において、小山実隆が「熊野山上綱」と名のり、…十三号文書の充所も「熊野山小山三郎」となっている点である。「上綱」(じょうこう)は通常の意味では、三綱の中の上位のものをさすが、実隆が俗人であること、同じ九号文書に「朝敵足利一族新宮諸上綱以下、率群勢令上洛候」とある点からみても、普通の意味と異なることは間違いないといってよい。…遅くとも延元以降、慶長年間まで、新宮にはかなりの人数の「上綱」がおり、位階を与えられ、造営を行うなど、活発な活動をしていることが知られる。…
「御由緒調査書」も「上綱」という項を立て、この九号文書を引用しつつ、これを「別当の後裔にて其職には補任せされとも、法橋、法眼、法印等に任せし人にて、衆徒神官等よりは上座也氏鳴るへし」とする一方、「別当の称は絶えて7人の上綱の称起りなるへし、其人人は新殿、芝殿、宮崎殿、滝本殿、矢倉殿、中曾殿、蓑島殿とて新宮の内処処に住せしとある書に見えたり」とも述べている。】

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結城宗広 ゆうき-むねひろ コトバンクより

[生]?
[没]延元3=暦応1(1338).伊勢
南北朝時代の武将。祐広の子。上野介。法名,道忠。元弘の乱には,初め鎌倉幕府軍に加わったが,元弘3=正慶2 (1333) 年護良親王の令旨と綸旨を受けて後醍醐天皇方に転じ,新田義貞とともに鎌倉を攻め,幕府を滅ぼした。建武政府の奥州式評定衆となり,奥州検断職 (警察,刑事裁判の職) を兼帯した。南北朝時代,南朝方に属し,延元2=建武4 (37) 年陸奥の北畠顕家軍の侍大将として,西上の途についた。翌年顕家が戦死し,南朝は義良親王,北畠親房らとともに宗広を陸奥経営に派遣することとし,一行は伊勢大湊から出航したが,暴風雨のため宗広は安濃津 (三重県津市の港の古称) に漂着。まもなく病死した。

[?~1338]鎌倉末・南北朝時代の武将。法号、道忠。新田義貞に応じて鎌倉を攻略。建武の中興後、北畠顕家とともに義良親王を奉じて奥州を鎮定。足利尊氏の挙兵後は畿内を転戦し、のち伊勢で病死。

?-1339* 鎌倉-南北朝時代の武将。
結城朝広(ともひろ)の孫。結城祐広(すけひろ)の子。陸奥(むつ)白河(福島県)結城氏。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年後醍醐(ごだいご)天皇の命をうけ鎌倉を攻める。翌年奥州将軍府の式評定衆(しきひょうじょうしゅう)。建武(けんむ)3年北畠顕家(あきいえ)にしたがい京都に攻めのぼり足利尊氏(たかうじ)を九州に追う。翌年ふたたび尊氏追討のため京都をめざすが敗れ,奥州への帰途,暦応(りゃくおう)元=延元3年11月21日伊勢(いせ)で病没。通称は孫七,上野介(こうずけのすけ)。

https://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e7%b5%90%e5%9f%8e%e6%b0%8f
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