1300年代、石寺は地名であったのか、お寺の名称であったのか。




石寺 掃部助 石寺祝 属六角判官氏頼 住蒲生郡石寺
観音寺城御屋形跡の麓にあるので、石寺からもアクセスできる道や階段があったようである。 まだ石垣も残っているようである。少し手前にある日吉神社には舗装した道がある様だ。
つまり、九里助泰は六角氏頼に仕え、すぐ側に居住していたのだと思う。
さらに、【祝】とあるので神職であったと思う。
この日吉神社と関係があったのかもしれないが、記載はない。
九里助恒には「属佐々木六角道誉 元弘建武◇袖切」とある。
佐々木六角と京極道誉が元弘~建武の時代に袖を分かち、六角についたという事だろうか?
この系図の註はどの時代に書かれたものなのだろうか?
系図の最後の人物は江戸時代になりそうである。
佐々木氏信の三男であった満信
満信の息宗氏
宗氏の妻は佐々木宗綱の娘であり、宗綱は六角氏信の息であり満信の弟にあたる。
宗氏の息が道誉である。
更に道誉の妻は二階堂時綱の娘
二階堂時綱とは、室町幕府初代の政所執事であったそうだ。
【九里助恒】の時代を探っていこうと思う。